日弁連はなぜ負けたのか? リンク

日弁連はなぜ負けたのか? 法曹一元とは何だったのか 法科大学院編

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総会 平成9年10月15 総会編(4) 平成12年11月1

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2009年7月 9日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (12)

宗教の持つ政治的な意義は、分裂した集団を統合することにある。

中坊公平日弁連会長は、「司法改革」(=裁判所・裁判制度改革)を掲げ、左右に分裂した日弁連を再統合し、一定の成果を挙げた。しかし中坊公平氏が先送りした法曹人口問題は、結局、日弁連の再度の分裂を招く。左派右派二人の日弁連会長候補はともに「司法改革路線の継承」を掲げ、「左」の土屋公献候補が当選し、法曹人口問題に取り組むことになる。当選直後である平成6年(1994年)31日の日弁連新聞で、土屋公献会長は喫緊の課題として司法改革問題と外弁問題を挙げ、「国際化時代の中で、弁護士の使命である社会正義・人権擁護を言って肩を怒らすのはどうか、と疑問を差し挟む人がいます。市民のための弁護士が必要であって、単なる利益追求・サービス産業化に満足し、公益的な任務を忘れては困ります。外弁問題も司法改革もこの姿勢を貫きます」と大見得を切った。

会の約半分からしか支持されなかったにもかかわらず、融和への配慮を欠いたこの発言によって、土屋公献日弁連会長の失敗は約束されたといえよう。「この姿勢を貫く」どころか、土屋公献会長は、執行部内では増員容認派へと舵を切るという「公約違反」を冒し、これに怒った増員反対派が招集した平成6年(1994年)1221日の臨時総会では、執行部案危うし、と見てあっさり増員反対派へと転向し、これが世論の非難を浴びると再度増員容認へ舵を切り直した(この経緯は「日弁連はなぜ負けたのか~総会編1、2~」に詳述した)。こうして、左右の小舟に片足ずつを乗せた愚かな水夫のように、土屋公献日弁連会長は、滑稽な踊りを踊った挙げ句に転落した。

民意の応援を背景に裁判所に改革を促すという中坊公平氏の取った路線も、土屋公献日弁連会長には裏目に出た。中坊公平氏の路線を支持していたマスコミは、頑なに法曹人口増員に抵抗する日弁連を、「司法改革の流れに逆行する」とこぞって非難したのだ。

しかもこの年(1995年)は、これまでにないほど弁護士の不祥事が多発した年だった。バブルに踊り、投機に手を出し、バブルが崩壊した後預かり金を着服する弁護士が続出していた。弁護士に対する懲戒請求はバブル経済が崩壊した平成3年(1991年)、初めて年300件を超え、平成5年(1993年)には439件に達した。そして、平成6年(1994年)には、1ヶ月に3人もの弁護士が東京地検特捜部に逮捕された。一人はゴルフ場経営会社の巨額脱税に荷担した共犯容疑、二人はそれぞれ預かり金を1億円以上横領した容疑である。これを受け、1012日には土屋公献日弁連会長と佐伯弘東京弁護士会長が記者会見して謝罪するという、異例の事態となった。この年の1129日には、衆議院法務委員会に日弁連の稲田寛事務局長が呼ばれて謝罪し、弁護士会の自浄能力が足りないと糾弾された。当時の新聞の見出しを列挙してみよう。「『あしき隣人』は願い下げだ」(毎日新聞社説)、「『金儲けの道具…弁護士業が崩壊』相次ぐ弁護士逮捕で日弁連会長おわび会見」(讀賣)、「相次ぐ弁護士の不祥事、不十分な綱紀粛正-法曹関係者に衝撃。」(日本経済新聞)、「弁護士むしばむカネ社会 不祥事相次ぐ 責任感の希薄化も」(讀賣)。

平成7年(1995年)516日、オウム真理教教祖松本智津夫が逮捕されると、その私選弁護人を買って出た老弁護士が、「やめてぇ~」「ばっかもん!」などのパフォーマンスで世間の嘲笑を浴びる。

こうして、平成7年(1995年)の日弁連は、「内に融和を欠き、外から侮蔑を受ける」(自由と正義473号 児玉公男弁護士(一弁))状態となった。このとき日弁連は、組織として存在すること自体が、危ぶまれていたと言えよう。

こうして、日弁連という組織と「司法改革」の理念は、発足・発生後最大の危機を迎えた。(小林)

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2009年7月 7日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (11)

中坊公平日弁連会長が掲げた「司法改革」という理念は、民意を背景に、裁判所と裁判制度を改革することが第一義であり、この理念をもって、分裂した日弁連の再統合を図るものだった。そして、法曹人口問題や外弁問題などを「各論」として「司法改革」の理念の中に体系づけることによって、日弁連の分裂を避けようとしたのである。

そうは言っても、中坊公平執行部自身が、これら諸問題の体系化を果たしたわけではない。そんな悠長な作業を許さないほど事態は切迫していた。平成3年(1991年)年初、井田惠子日弁連事務総長(故人)が「自由と正義」に記した「当面する重要問題」の筆頭は外弁問題、2番目は法曹人口問題であるが、いずれの問題についても、各論に「司法改革」という言葉は一切出てこない。

法曹人口問題、すなわち司法試験の合格者数問題に関しては、バブル経済の影響等により、若くて優秀な人材が多く弁護士になってしまうことに危機感を強めていた最高裁判所と法務省が、日弁連に対して、「丙案」すなわち若手受験者にゲタを履かせて優遇する案の受諾を強硬に要求していた。日弁連は中坊公平執行部以前に、合格者数年700名への引き上げを提案していたが、最高裁と法務省は、単純増では効果がないと拒否する。中坊執行部1年目の7月には、丙案を受諾するか否かで、日弁連内部が再び分裂する危機が訪れた。ここで中坊公平氏は、「当面5年間、700名への単純増員で様子を見る。それでも企図したとおり若手合格者が増加しなければ、丙案に匹敵する抜本的改革案がない限り、丙案を受諾する」という「解除条件付の妥協案」をひねり出し、会内合意と法曹三者合意に漕ぎ着ける(このあたりの生々しい経緯は「自由と正義」423号に詳しい)。これは中坊公平氏の政治的才覚ともいえるが、問題の先送りに過ぎないともいえた。

しかし、5年経っても期待どおりには若手合格者は増えず、このままでは丙案に匹敵する「抜本的改革案」を日弁連が提示できない限り、丙案実施は必至という情勢になった。

そして平成6年、平成7年度の日弁連会長選挙は、川上義隆弁護士と土屋公献弁護士の一騎打ちとなる。どちらも「司法改革路線の継承」を掲げたから、この選挙はさながら宗派対立である。そして川上義隆候補が「抜本的改革案」として司法試験合格者数年1000人への増員も選択肢に入れるべしと主張したのに対して、これに反対した土屋公献候補が当選した。それぞれの得票数は川上義隆候補4817票に対し土屋公献候補6669。但し東京3会ではほぼ拮抗ないし川上義隆候補が制したのに対し、地方単位会では軒並み土屋公献候補が制した。

つまりこの選挙結果は、中坊公平日弁連会長が当選する以前の分裂した会長選挙の再現である。企業渉外系弁護士側(+都市部)が推したのが川上義隆候補であり、左翼系人権派弁護士側(+地方単位会)が土屋公献候補だ。そして土屋公献日弁連会長は、分裂した一方勢力のみの支持を基盤に、追い詰められた法曹人口問題解決に取り組むことになる。(小林)

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2009年7月 6日 (月)

「司法改革の時代」 但木敬一 中公新書

バブル経済崩壊からグローバル化を迎え、日本の司法のあり方は大きく変わった。刑事司法の分野でも、国民参加の時代を迎え、裁判員制度が実施されることになったが、司馬遼太郎が言うとおり、日本人の知的水準はとても高いので大丈夫。いままでの刑事司法の良いところを残しつつ、国民から支持される検察になれる。信じて頑張れ若手検事諸君。

だいたいこんな内容の本である。司法改革に対する検察トップの考えを知る上で大変興味深い。当然のことだが、弁護士会が考える刑事司法改革のあり方とは全く違う。もちろん、弁護士会が正しいと言うつもりはない。

たとえば取り調べの録画は、自白の任意性を証明するための手段だから、自白場面の録画で十分、ということになる。違法な取り調べは、録画をしなくても、高潔で厳格な捜査官の職業倫理で防げるというわけだ。

司法改革に関する著者の歴史認識は私と大きく変わらないし、著者のたつ穏健改革派とでも言うべきスタンスも支持できる。ただ、著者が故意に事実と異なることを言っている点を1つだけ指摘しておきたい。日本の治安が悪化している根拠として強盗認知件数の急上昇を指摘している点だ。これは、それまで窃盗として処理されてきたひったくりのうち悪質なものを強盗として処理した結果であるから、事実としての犯罪そのものの増加を示すデータではない。著者は検事だから、当然それを知っているし、同じ本の別の場所で、強盗と同じく暗数の少ない殺人は減少していると言って矛盾を顧みようともしない。問題は、なぜこんないい加減なデータを引用してまで、治安の悪化を強調するのか、という点にあるから、考えてみてほしい。

裁判員制度になっても、日本が誇る精密司法は維持しなければならない、というお立場は理解できるが、裁判員制度と精密司法の両立は無理じゃないかと思う。裁判員制度は原理的に、実体的真実主義から手続的正義方向に重心を移動するものと考えるからだ。そもそも、99%を超える日本の有罪判決率は国際的に異常だし、そんな有罪判決率を維持できなくなったって恥ずかしくない、という視点を検察自体が持ってもよいと思う。そんなに肩肘を張ったら続かないよ、きっと。続けたくないのかもしれないけど。(小林)

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2009年7月 2日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (10)

宗教には教義が必要である。ただし、教祖の掲げた教義が、そのまま弟子達に受け継がれるとは限らない。

矢口洪一最高裁判所長官が実行した「司法改革」は、民意を受けた自己改革を宣言することによって、政治による介入を阻止することが目的だった。そして、中坊公平日弁連会長は、矢口洪一の取り組みを念頭に置きつつ、分裂した日弁連を再統合する理念として「司法改革」を掲げた。そのため、中坊公平氏が掲げ、平成2年(1990年)の日弁連総会で決議された「司法改革」の主たる目的は、裁判所改革ないし裁判制度改革になる。後に司法改革の主題となる弁護士・弁護士会の自己改革は、副次的な目的でしかない。まして、後の「司法改革」では必ず言及される法曹人口論も、中坊公平執行部の掲げる「司法改革」には全く出てこない。つまり、中坊公平氏が掲げた「司法改革」と、現在の日弁連執行部が主張している「司法改革」は、似て非なる理念である。

中坊公平氏が掲げる「司法改革」が第一に裁判所ないし裁判制度改革を意味するものであるとすれば、これに反対する弁護士はいない。右だろうが左だろうが、都市だろうが地方だろうが、弁護士として仕事をする中で、裁判所という組織や制度に対して不満を持たない弁護士はいないからだ。これが、平成元年(1990年)の日弁連総会で司法改革宣言が全会一致で採択されたカラクリである。つまり、裁判制度改革は、分裂した日弁連を再統合するに最適の目標だった。これに加え、当時の最高裁判所にとって、日弁連の批判を受け、日弁連と協議を重ねて自己改革に取り組むことは、独善的な司法改革という批判をかわすため歓迎すべきことだった。翻ってこれは、日弁連にとって、裁判所改革の要求が、単なる批判に終わらず、具体的成果をもたらすことを意味した。

中坊公平氏は、優れた政治的バランス感覚を発揮して、ためにする批判に陥ることなく、協力すべきところは協力し、譲るべきところは譲るという態度をとったため、最高裁判所から一定の信頼を受けた。その結果、中坊公平会長下の日弁連は、弁護士任官や当番弁護士制度の推進等、それまで批判ばかりだった頃に比べ、めざましい成果を挙げるし、法廷傍聴の国民運動を通じて、裁判所改革の必要性と日弁連の主張の正当性をマスコミにアピールできた。

豊田商事の破産管財人などの経験を経た中坊公平氏は、世論を味方につけることの強さを体得していたのだと思う。

もちろん、中坊公平日弁連会長が、将来の法曹人口増を見据えていなかったはずはない。しかし、同会長下二度行われた司法改革宣言には、法曹人口を増員させると一言も書かれていないことも事実である。中坊公平氏は、法曹人口増の地固め・基盤整備として、あるいは、将来の法曹人口問題を巡る折衝において日弁連の交渉能力を上げる手段として、司法改革を位置づけていたのだと思う。

ともあれ、中坊公平日弁連会長が提唱した「司法改革」という理念は、分裂した日弁連を再統合する機能を果たしたかに見えた。しかし、これは長くは続かなかった。日弁連は再び分裂することになる。(小林)

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2009年6月30日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (9)

左右に分裂した日弁連の拮抗の上に支持された中坊公平日弁連会長が唱えた「司法改革」は、実は矢口洪一最高裁長官がその4年前から着手していた。矢口洪一は、「保守反動の司法行政官」と「民意を受けた柔軟な改革者」という、一見矛盾する二つの顔を持つ。

先に述べた青法協系判事補再任拒否事件によって職を追われた宮本康昭弁護士は、「日弁連五十年史」の中で、大要こう述べる。「我が国の司法政策は1960年代後半に始まる司法の危機、官僚統制、密室性、不透明性、つまりは国民からの孤立化を深めた結果、様々な病理現象を呈することとなった。この二十年にわたる司法政策を自ら演出してきた矢口洪一氏は、最高裁長官就任のとき眼前に拡がる空漠とした司法の世界を見て、慄然としたに違いない」と。つまり、矢口洪一は、最高裁長官に就任したとき、自分の過ちに気付き、悔い改めて司法改革に着手したというのである。

これは間違った見方だと思う。36年間、裁判所のトップエリートとして出世競争と政治闘争に勝ち抜いて来た矢口洪一が、最高裁長官に上り詰めた途端に悔い改めることなどありえないと、私は考える。そうだとすれば、一見矛盾する矢口洪一の二つの顔には、一貫する柱があるはずだ。

私は、矢口洪一に一貫していたのは「司法の独立を守る」ことだったと考える。

矢口洪一から見れば、お仕着せの民主主義が導入されてたった数十年しかたたず、権力分立の思想など根付いたはずもない冷戦構造下の日本で、予算的にも法的権限も人的基盤も脆弱な日本の裁判所は、常に政治介入の危険に晒されていた。日米安保条約や自衛隊を憲法違反と言い出しかねない判事を内部に置くことは、政府与党に政治介入の口実を与える。宮本康昭判事補再任拒否事件の背景には、冷戦構造と55年体制下における脆弱な司法の地位があった。

その冷戦が終結し、55年体制が崩壊した80年代後半の日本は、継続的な政権交代時代の到来を予感していた(多少のひいき目を許していただけるなら、後に「大衆民主主義」あるいは「日本型ポピュリズム」と呼ばれることになる時代の到来を、矢口洪一は予感していたのかもしれない、とさえ思う)。これは、裁判所から見れば、時の政権がその都度裁判官人事や予算に口出しする危険を意味する。選挙という民主的基盤に支えられた国会に対し、制度的民主的基盤を持たない裁判所が組織防衛を遂行するためには、司法制度のありさまを国民に支持してもらわなければならない。矢口洪一が司法改革を推進し、かつ、後任に定年までの期間が最も長い裁判官出身者を指名したのは、組織防衛の観点から素直に理解できる。

裁判所のトップエリートである矢口洪一が終生取り組んだのは、組織としての裁判所の独立と自律性の保持であり、その意味で一貫していた。変わったのは時代背景であって、矢口洪一ではないというのが、私の考えである。(小林)

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