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2007年3月28日 (水)

「格差社会」論争と「治安悪化」論争の共通点

 遅ればせながら,「論争 格差社会」(文春新書)を読んだ。

 この本は,2006年の流行語大賞候補になるほど注目を集めた「格差社会」をテーマにする,いろいろな立場の論文や対談を集めたものである。テーマの性質上,政治的立場を抜きに語れない部分も多いが,それにしても,百家争鳴である。

 こういった論争を読み解く場合には,問題を切り分けて対処することが大事である。

 「格差社会」は格差拡大方向に進行しているのか否か。進行しているとするなら,その程度はどのくらいか。

 「格差社会」論争が,なぜこれほどまでに一般市民の注目を集めるのか。

 「格差社会」が格差拡大方向に進行することのメリットは何か,デメリットは何か。

 等々といった問題の切り分けである。

 コーディネーターの水牛健太郎氏の指摘するとおり,「格差社会を巡る論争が,事実そのもの以上に,人々の将来への不安心理を反映したものだ」という見方は非常に重要だと思う。人々は格差社会が進行しているから不安なのではなく,不安だから,格差社会の進行を疑うのだ。

 このような見方の是非はさておき,このブログに何回か記している「治安悪化」論争については,全く同じ見方ができると私は考えている。人々は,治安が悪化しているから不安なのではなく,不安だから,治安の悪化を疑っている。「格差社会」論争については門外漢だが,「治安悪化」論争については,この見方はおそらく正しい。「格差社会」論争と「治安悪化」論争の共通点は,人々の「不安」であるとの仮説が成立しそうである。

 そうだとすると,問題は,不安の原因は何か,ということになろう。「格差社会の進行」や「治安の悪化」が不安の直接の原因でないとすれば,不安の直接の原因は何であろうか。「失われた15年」が終結の兆しを迎え,日本経済がようやくどん底を脱出しつつあると言われているにもかかわらず,なぜ,10年前ではなく,今,人々は不安なのだろうか。このあたりの問題は,大いに検討する必要があると思う。

それにしても,「論争 格差社会」に収録された対談中,渡部昇一氏の発言はひどすぎやしないか。彼が言っていることは,「昔の金持ちの中にいい人がいた」ということだけである。それはそのとおりだ。金持ちにだっていい人はいる。青く光る星だってあるし,シロツメクサの好きな兎だっている。(小林)

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2007年3月24日 (土)

賃貸集合住宅において家主が防犯カメラを設置する場合の法的問題点

 前回集合住宅に防犯カメラを設置する場合の法的問題点を検討したが,集合住宅は分譲マンションばかりではなく,賃貸マンションやアパートもある。また,分譲マンションでも,区分所有者が居住せず,賃貸する場合もある。このような場合,家主である所有者が集合住宅に防犯カメラを設置し運用することについては,どのような法的問題点があるだろうか。

手がかりとして,一戸建ての賃貸住宅をまず考えてみよう。一戸建ての賃貸住宅の玄関先に,賃借人の承諾がないのに,家主が勝手に防犯カメラを設置することは,いかにも許されないように思われる。

 これに対して,賃貸集合住宅において,オーナーが勝手にエントランスに防犯カメラを設置することは許されるような気がする。そうだとすれば,この違いはどこから来るのだろうか?また,オーナーが勝手にやって良い限界点はあるのだろうか?

 集合住宅には,玄関やエレベーター,階段,共用廊下,ゴミ集積場や自転車置き場といった共同利用部分と,各住戸やそのベランダといった専用使用部分とがある。専用使用部分については,その住戸の住人のプライベートな空間であるから,家主といえども,勝手に防犯カメラを設置することはできない。そもそも,家主が勝手に店子の家に侵入することは,住居侵入罪となる。

 これに対して,共同利用部分については,各住戸のプライベートな空間ということはできないから,家主は施設管理権に基づいて,防犯カメラを設置できるということになる。但し,最も頻繁に撮影される住人側としては,家主に対して,撮影内容や録画保存に関する情報の開示を要求できるというべきだろう。

 微妙な問題としては,「共同利用部分」と「専用使用部分」の境界線はどこか?という点である。各住戸のプライベートな空間は,必ずしも,その住戸の玄関で明確に区切られるものではないからである。最近は集合住宅の構造も複雑になり,ある部分から先は一つの住戸の住人しか利用しないような共用廊下もある。このような場合には,共同使用部分といえども,その住戸の住人の了解無く防犯カメラを設置することはできないと考えるべきであろう。(小林)

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2007年3月20日 (火)

マンションなど集合住宅に防犯カメラを設置する場合の法的問題点

マンションなど集合住宅は,私邸が物理的に集合しているものであるから,基本的には,私邸に準じる強度の施設管理権が存在する。よって,外部の一般人との関係では,「監視カメラ設置中」などの告知文の掲示は不要であり,目的の正当性や撮影手段の正当性も緩やかに解されて良い。

しかし他方,集合住宅に特有の問題もある。居住者が部外者を監視するほか,居住者が居住者を監視するという側面があるからだ。

すなわち,集合住宅において防犯カメラが設置される例として,純粋な防犯目的ばかりでない場合が増えてきている。具体的には,ゴミ出しルールの違反やタバコのポイ捨て,ペットの飼育や粗相の不始末など,端的に違法とはいえないが住民の管理規約違反もしくはマナー違反を防止する目的で,防犯カメラが設置される場合が少なくないのである。

ところで,集合住宅には,区分所有者全員が共有している「共用部分」と,区分所有者本人だけに所有権がある「専有部分」とが存在する。専有部分には,所有者の意思に反して防犯カメラを設置したり,専有部分が画角に入る場所に防犯カメラを設置したりできない。共用部分であっても,専用使用権のある共用部分,例えばバルコニーやベランダについては専有部分と同様である。これら共用部分に専用使用権のある住人が防犯カメラを設置することも,「共用部分の変更」(区分所有法17条)にあたるから,管理組合の承諾なくしてはできない。以上の部分を除いた共用部分,具体的にはエレベーターや外廊下,エントランス,駐車場や自転車置き場,ゴミ集積場などが問題となる。

手続面については,共用部分に防犯カメラを設置することは,区分所有法17条1項の「共用部分の変更(その形状又は効用の著しい変更を伴わないもの)」にあたるから,管理規約に別段の定めがない限り,区分所有者および議決権の各過半数で議決することができる(区分所有法38条1項)。

しかし,これはあくまで手続規定であるから,議決の内容ないし運用において居住者のプライバシー権を不当に侵害することは許されない。

例えば,特定の住人や特定住戸への訪問者を監視する目的で防犯カメラを設置することは,よほどの事情がない限り,違法である。また,録画の有無,閲覧権者と閲覧手続,保存期間や第三者提供についての運用規則を定め,居住者の閲覧に供することが必要である。

「共同住宅の防犯上の留意事項」及び「防犯に配慮した共同住宅の設計指針」の策定(警察庁と連携した防犯に配慮した共同住宅の普及施策)についてはこちらhttp://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/press/h12/130323-1.htm

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2007年3月16日 (金)

私邸に防犯カメラを設置する場合の法的問題点

 「個人の居宅に防犯カメラを設置する場合,設置していけない場所や撮影してはいけない範囲はありますか?」という質問をよく受ける。法律的に言えば次のとおりであるが,要は,常識の範囲で対応すれば足りるから,あまり神経質にならなくてよい。

 私邸に防犯カメラを設置し運用することは,居住する者の施設管理権に属することであるから,原則として,自由である。「防犯カメラ設置中」などの告知文の貼付も不要であり,隠しカメラの設置も問題ない。しかしもちろん,トイレや寝室にカメラを設置して家族のプライベートな様子を隠し撮りしたり,玄関先の防犯カメラで撮影した来客の画像をインターネットに公開したりすることは違法である。これも常識ですね。

 最も問題にされるのは,防犯カメラの画角に道路や隣家が入り,通行人や隣人を撮影することになってもよいのか,という点である。この点を論じた裁判例や書籍などは一切存在しないが,道路などの公共空間であれば,周囲の合理的な範囲に限定される限り,防犯カメラによって一般の通行人が撮影されることになっても差し支えない。

 ここに合理的な範囲とは,私邸に防犯カメラを設置することにより,通常画角に入ってしまう範囲をいう。公共の空間であるにもかかわらず,何故撮影が許されるのかという疑問については,次のように考えて頂くと分かりやすいと思う。すなわち,まず人間の肉体を例にとってみると,その人間の私的領域は,その肉体の外縁部(皮膚や衣服)を超えて,肉体の周辺に存在する一定の物理的範囲に及ぶと考えられる。分かりやすく言い直せば,あなたが平日の昼間,がらがらに空いた電車に乗っているときに,乗車してきた赤の他人が,いきなりあなたにぴったりより添って座ったら,ごく稀な例外を除き,あなたは大いに不愉快であろう。電車の中で赤の他人同士がぴったりより添って座ることが許されるのは,その電車が満員である場合に限定される。人間は無意識のうちに肉体の私的領域を設定し,時と場合に応じて,その範囲を使い分けているのだ。その有名な例としては,京都鴨川河畔で命名されたと伝えられる「アベック等間隔の法則」がある。

 脱線したが,このような個人の私的領域は,私邸にも当てはまると考えられる。物理的には家の外でも,家の前の道であれば,防犯カメラで撮影する程度のことは許される。

 やや難しいのは,他人の家が写り込んでしまう場合はどうか,という問題である。この点も結局常識の問題として考えるほかないが,塀や壁,屋根など,建物そのものが撮影対象になっても問題はない。他方,門や玄関,窓や庭など,人間が撮影の対象となる場合には,隣家の承諾を要すると考えるべきであろう。

 また,防犯カメラの設置運用権者になるのは,その住居に居住している者であって,所有している者ではない。大家が店子を監視する目的でカメラを設置することは,よほどの事情がない限り許されない。これも常識の問題であろう。

 なお,私邸が一戸建てではなくマンションなど集合住宅の場合には,もう少し複雑になるので,次の機会に。(小林)  

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2007年3月12日 (月)

「サイバー監視社会」(青栁武彦 財団法人電気通信振興会 2006年)

 全500ページに及ぶ本書は,「「プライバシーのあり方」について、アカデミックな立場からその概念の再検証を慎重に行うとともに、ユビキタス化の不可避的な帰結である「可視化する社会」、すなわちサイバー監視社会の様相について考察する」(はしがきより)のだそうである。こう書くと仰々しいが,内容は平易だ。

 著者の青栁武彦氏は東京大学経済学部を卒業後,伊藤忠商事株式会社,日本テレマティーク株式会社代表取締役などを経て,国際大学グローバル・コミュニケーション客員教授をなされている御年73歳(昭和9年生)。最近活発にユビキタス社会や個人情報保護法の「欠陥」について論じておられる。

近年爆発的に普及する街頭監視カメラ・防犯カメラや,プロファイリングビジネスの普及といった社会現象を「監視社会化」と呼ぶことができるが,その原因については諸説ある。本書は,監視社会化は高度情報社会化の当然の帰結であり,情報通信技術産業が進歩する以上不可避であるという。ユビキタス社会は人類に多大な利益をもたらすものであるから,これと対立しうる権利としてのプライバシー権については,できるだけ遠慮していただきたいというのが,本書の主旨である。

本書を読んで最も感心するのが,表題を始め,「監視」という言葉の使用をためらわない点である。今日ユビキタス社会を推進する立場の多くは,「監視」のマイナスイメージを考慮してこの言葉を使わないことが多い。「監視カメラ」より「防犯カメラ」,「見守りカメラ」あるいは「コミュニティセキュリティーカメラ」云々。最後の例に至ってはわざと意味不明にしているとしか思われない。その本質は変わらないのに,呼称を変えて反発を回避しようという,姑息な作戦である。これに対して本書は堂々と「サイバー監視社会」という表題を用いている。表題だけを見ると,現代の監視社会化に警鐘を鳴らすのが目的のようである。著者もそれが狙いなのだろう。本書を監視社会化に反発する人々に読んでもらい,あるいは論争を挑み,彼らを説得しようと考えているのだ。堂々としたその態度には,清々しささえ感じる。

しかし,問題と思われる箇所もある。ここでは2点指摘したい。

1点目は,プライバシー権の内容に関する著者なりの整理がなされていない点である。現代社会において,プライバシー権と呼ばれるものは多種多様な内容を含み,もはや一つの権利として理解することさえ困難な状況であることは,大学で憲法の講義を受けた者にとって常識である。ところが本書は,プライバシー概念の学問的状況にはほとんど触れず,いろいろな内容のプライバシー権を一緒くたに扱っているため,法律論としてみるかぎり,かなり基礎的かつ深刻な混乱を見せている。プライバシー権概念を整理しようとする先人の努力をふまえずに,「プライバシーは物でいえば奢侈品や芸術品に相当するから,生活必需品とは言い難い。それだけ脆弱かつ基本性が比較的低い権利」と主張したところで,なぜプライバシー権が贅沢品なのか,脆弱で基本性が低いのか,さっぱり分からない。

2点目は,著者の描くユビキタス社会の未来像に具体性がないことである。筆者は要するに,「ユビキタス化によってすばらしい未来になるから,その障害となるプライバシー権には少し遠慮してほしい」と言っているのだが,どのようにすばらしい未来になるのか,今ひとつ具体性に乏しいと言わざるを得ない。もしその未来が,本書で100ページ以上が割かれた「防犯カメラが広く普及した未来」程度のものであるとしたら,いかにも寂しい。(小林)

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2007年3月 8日 (木)

ゆりかご型ブランコ事件とロボットの安全

そういえば最近全く見なくなったゆりかご型ブランコであるが,この事件が起きたのは昔ではない。平成9年10月のことである。

藤沢市が設置した公園で遊んでいた9歳の女児が,ゆりかご型ブランコで右大腿骨骨折の怪我をした。そこで女児が藤沢市とブランコ製造メーカーを相手に約410万円の損害賠償を請求した。

この裁判の争点は,①事故に至った使用形態はどのようなものか,②本件ブランコの製造に過失があったか,③藤沢市に本件ブランコの設置管理の瑕疵があったか,④損害額,である。

一審の横浜地裁(平成13年12月5日判決)は,①について,女児がブランコの外側から背もたれを持って押していたところ,揺れが大きくなったので危険を感じて退避しようとした際に転び,ブランコの底部と地面に挟まれて怪我をした,と認定した上で,②について,ブランコの底部と地面との空間が22センチメートルしかないブランコを製造したメーカーの過失を認め,③藤沢市の瑕疵も認めて,④約124万円の損害賠償を命じた。

これに対して藤沢市とメーカーが控訴したところ,二審の東京高裁(平成14年8月7日判決)は,①について,一審が認定したような使用形態があったとの証明がない,そうである以上,②のメーカーの過失も③の藤沢市の過失も認められないとして,原告の逆転敗訴の判決を言い渡した。

これだけなら,高裁判決は,本事件を「本件ブランコの安全性」という問題点から証明責任の問題にすり替えて判断したとも言いうる。子どもが事故で怪我をして,大人の目撃証言がないとき,被害者は泣き寝入りせざるを得ないとも取れる論法である。高裁もさすがにこれだけでは言葉足らずと考えたのであろう,次のような理由を追加している。

すなわち,事故が客観的に見て予測可能な範囲で発生した場合,メーカー側に予測が可能であるが児童側に予測が不可能な原因(例えば支柱が突然折れるなど)については,メーカー側にこれを防止し回避する責任がある。他方,児童側が把握できる危険については,児童側に防止・回避の責任がある。本件事故の直接の原因は分からないが,仮に児童が主張するとおりであったとしても,9歳の児童において防止・回避が可能であった。従って,本件ブランコ下の空間が22センチメートルしかなかったとしても,通常有するべき安全性が欠けていたとはいえない。

要するに,本件事故がメーカー側に予測可能なものであったとしても,この事故を避けることができたのにしなかった女児の側が悪い,というのが東京高裁の論理である。

一般の方は,このような裁判所の論理をどう捉えるであろうか。法律実務家としてみた場合には,地裁の論理も,高裁の論理も,両方あり得るなあ,というのが正直な感想である。

メーカー側から見れば,予測の不可能な事故についてまで法的責任を問われないのは当然として,予測が可能な事故について全部責任を問われる,というのもかなわない。このように言われたのでは,抽象論としては,いかなる遊具も製造不可能である。具体的な使用形態がどうであれ,女児がブランコに「轢かれて」怪我をしたのに違いはないのだから,底面の空間を空けてさえおけば本件事故は回避できた,という論理で女児を勝たせることも可能であろうが,他方,底面を上げると,その下に潜り込んで遊ぶ子どもが出てくるだろう,落ちて怪我をする確率も上がるだろう,という問題が発生する。

私の法律実務家としての感想は上記のとおりだが,本件について非常に割り切れない思いが残るのは,この問題にはご存じのとおり後日談があるからだ。

この事件のほか,当時はゆりかご型ブランコで遊んでいた子どもが死亡したり怪我をしたりする事故が相次いただため,世論の高まりを受け,公園を管理する国土交通省が「都市公園の遊戯施設の安全性に関する調査検討委員会」を設置し,全国の公演の遊戯施設について調査を行ったほか,厚生労働省も児童福祉施設などが設置する箱形ブランコの事故状況を調査した。これらを踏まえ,「都市公園における遊具の安全確保に関する指針について」が国土交通省から発表された。この指針には,ゆりかご型ブランコは設置してはならないという具体的な指摘はないが,その後,全国ではゆりかご型ブランコの撤去が推進されていることはご存じのとおりであるし,現在,公園用のゆりかご型ブランコは製造されていないそうである。

前衆議院議員瀬古由起子氏のホームページによれば,ゆりかご型ブランコの事故で25人の子どもが死亡したということである。重傷者も含めればその数は数百人にのぼるであろう。被害者の中には,メーカーや地方公共団体を相手に訴訟を起こした人もいるであろうし,その中には勝訴した人も敗訴した人もいるであろう。しかし結局,司法手続はゆりかご型ブランコの撤去という結果をもたらさなかった。

それは司法の仕事ではない,政治の仕事だ,と言われればそのとおりである。でも本当にそう割り切って良いのか,というところに,法律実務家としては,何とも割り切れない思いが残る。次世代ロボットについてはせめて,何十人も死者が出る前に,法律実務家としてなすべきことをしておきたい。(小林)

国土交通省 「都市公園における遊技施設の安全管理に関する調査について」集計概要はこちら http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha01/04/041023_.html

国土交通省 「都市公園における遊具の安全確保に関する指針について」はこちら http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha02/04/040311_.html

厚生労働省の調査結果はこちら

http://www.mhlw.go.jp/houdou/0110/h1029-3.html

前衆議院議員瀬古由起子氏のホームページはこちら

http://www.seko-yukiko.gr.jp/himawari/data1/040408-221736.html

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2007年3月 6日 (火)

当座貸越契約の消滅時効

「平成4年に大阪のSS信用金庫のカードローンで5万円借りたのですが,その後この借金は返したものと思って放っていたのです。ところが平成19年の2月になって,利息込みで32万円返せと請求してきたんですよ。これって時効じゃないんですか?」という相談があった。

私はもちろん時効になっていると回答した。ちなみに銀行借入金の消滅時効期間は5年である。そこで,時効です,という内容の通知書を出したらSS信用金庫の弁護士から回答が来た。この回答によると,「本件カードローン契約は,当座貸越契約です。当座貸越契約に基づく債務の消滅時効の起算点は,当該当座貸越契約の終了時というのが判例です。ところで,本件カードローン契約は,3年ごとの自動更新になっているので,平成18年12月にSS信用金庫が更新を打ち切るまで,終了していません。従って,お客様のカードローンの消滅時効期間は,平成18年12月が起算点ですから,まだ時効消滅していません。」ということである。

おわかりだろうか。弁護士というのは何とめんどくさい言い回しをするなあ,と思われるかもしれないが,要は三段論法である。つまり,

       本件カードローン契約は自動更新で,平成18年12月まで続いていた。

       判例上,カードローンの時効は,契約が終了したときから数え始めることになっている。

       だから,本件カードローンの時効は,平成18年12月から5年たたないと,時効にならない。

と言っているのである。

 時効か,時効でないか。相手の弁護士の論理は,一見,理路整然としているように見えるが,この理論が正しいのであれば,カードローン契約を自動更新にさえしておけば,時効は永久に成立しない。永久に成立しない時効なんて概念矛盾である。SS信用金庫としては,数年間一円の出し入れもなかったのであれば,顧客に当座貸越契約を継続する意思はないものと見なして,貸越金を請求することができたのであるから,それを10年以上も放っておいて,自動更新も何もないもんだ,と思う。

 自慢にも何もならないが,私は弱いものの味方ばかりしている弁護士ではない。しかし,ごくたまにこのような事件に接すると,ホコリをかぶっていた弁護士の魂がむくむくと頭をもたげてくる。さてどうなりますやら。(小林)

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2007年3月 4日 (日)

STATE OF THE ARTとは

 次世代ロボットの安全性を議論すると,よく,「ステイト・オブ・ジ・アート(state of the art)」という言葉を耳にするが,どういう意味だろうか。

 ランダムハウス英和大辞典によれば,これは,(テクノロジー・芸術・価額などの)最新段階,最新技術,到達水準を意味するとされる。国際版ウィキペディアによると,H.H.Supleeという人が西暦1910年に著した「Gus Turbine(ガスタービン)」という本ある,”In the present state of the art this is all that can be done.”という記述が初出だそうである。直訳すると,「現在の技術水準でやれることは全てやった」となる。

 安全工学の分野で,state of the artと言う場合,それは,「現在の技術水準に照らし十分な措置を講じたら,それでも発生した事故については不可抗力として免責される」という考え方を指すことになる。製造物責任法上も,開発危険の抗弁(製品を流通に置いた時点における科学技術の水準によって,製品に内在する欠陥を発見することが不可能な危険については,製造業者等は免責される抗弁)として,この考え方の一部が規定されている。

 この考え方は,機械を開発する技術者や製造者にとっては,都合の良いものであろう。他方,消費者側からは,異論があり得る。

 技術者や製造業者の立場から見れば,いくら消費者の期待と言っても,技術的に不可能な安全基準を要求されても困る,ということになろう。他方,消費者から見れば,「十分な措置」などという曖昧な規準で免責されることは許されない,との反論があろう。

 私のささやかなリーガルマインドに照らすと,適切な規準はstate of the artと「消費者期待規準」の中間点,あるいはそのどちらでもないところに求められるのであろう。(小林)

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2007年3月 2日 (金)

「安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学」

 ネットワーク防犯カメラ・監視カメラが広範に普及しつつあることの背景と,安全神話,すなわち日本は世界まれに見る安全な社会であるという信頼の崩壊との関係をどう考えるかについて,今回は岩波書店から2004年に出版された桐蔭横浜大学法学部の河合幹雄教授の著した本を紹介したい。非常に刺激的な本である。

 著者は,日本全体の治安は悪化していない,犯罪数はせいぜい微増,検察の検挙能力もそれほど落ちておらず,凶悪化は全くの誤りであるとする。それにもかかわらず,いわゆる「体感治安」が悪化したのは,日本の伝統的社会構造の崩壊が原因であるとして,次のように説明する。すなわち,日本の伝統的社会構造は,地域的・職業的その他の所属集団を構成単位とする小規模社会の集合体であり,その内部では構成員はおおむね同質であって互いにプライベートな部分まで知り合っているとされ,逆に他の小規模社会とは分離されていた。一般の「犯罪に関わらない人々」の社会と,犯罪者・社会内実力者・為政者など「犯罪に関わる人々」の社会も,日常世界においては明確に分離されており,ただ,祭り,政治の裏面,特殊な紛争など,限定された非日常世界においては交流が持たれていた。この「犯罪に関わらない人々」の社会と「犯罪に関わる人々」の社会との「日常における非交流」と「非日常における交流」との絶妙なバランスが日本社会の秩序を全体として維持しており,このことは,「犯罪に関わらない人々」から見ると,「日常世界にいる限り,犯罪者に遭遇することはない」という明確な境界として実感されてきた(河合幹雄教授は,この実感を「安全神話」という)。ところが,現代の日本では上記の境界が消滅した結果,全体としての犯罪総数は増加しなくても,薄く広く危険が分散することになり,従来犯罪と無縁であった一般市民から見れば犯罪に遭遇する確率が上昇した。その認識が「安全神話の崩壊」即ち「体感治安の悪化」と実感されている。

 筆者は,体感治安が悪化した原因について,日本文化論(ユニークな,しかしいわれてみれば納得の)という切口から鮮やかに理論を構築している。また,筆者は統計の示す治安の悪化には非常に懐疑的である点で龍谷大学法科大学院教授の浜井浩一氏や芹沢一也氏らと立場を同じくするが,他方,体感治安の悪化という現象がいわば幻想であるとする浜井浩一氏に対して,ある種の実体が存在すると主張している点で,異なる立場に立っている。この立場の違いは,街頭防犯カメラの是非にもあらわれており,浜井浩一氏らは全面禁止に軸足があるのに対して,河合幹雄氏は,性犯罪など一定の犯罪については肯定的である。私としては,この立場の違いを是非論争してほしいし,もし実体が存在するのであれば,それは今後どうなるのか,という主張を是非聞かせてほしいと思う。

河合幹雄教授のホームページはこちら http://www.cc.toin.ac.jp/juri/fj03/

芹沢一也氏のホームページはこちら http://ameblo.jp/kazuyaserizawa/entry-10009913936.html

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