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2007年5月31日 (木)

「個人情報」と「プライバシー情報」は同じか?(2)

「住所氏名などの公知情報は,単独ではプライバシー権の保護を受けない」とする青柳武彦教授の主張は,決して単独少数説ではない。同教授は厳密には法学者といえないのかもしれないが,法学者の中でも,同様の見解をとっている人はいる。たとえば,法政大学社会学部の白田秀彰助教授は,情報法学や著作権法の第一人者であるが,hotwired japanのコラムの中で,青柳教授と近いと思われる主張をしている。主張の全体は直接あたって頂くとして,要点を引用すると,次のとおりである。「私の考え方は、『個人情報保護は、個人情報を取り扱うシステムのセキュリティ維持を保護法益とするもので、究極的には人格の尊厳を保護法益とするプライバシーとは間接的な関係しかない』というものだ。ある主体(管理者)が管理する、ある人物の個人情報が漏れることは、その人のプライバシーに対して何らかの危険を増大させることだろう。このこと自体について管理者の法的責任を問うのはもっともなことだ。しかし、プライバシーの侵害については、まだ潜在的危険に留まる。つづく具体的なプライバシー侵害は、管理者とは別の人物(侵害者)によってなされると思われる。その場合、プライバシー侵害の主たる責任は侵害者が負うべきだろう。」。

つまり,白田助教授のいわんとするところは,具体的には次のようになると思う。例えば,私の氏名と自宅の電話番号が,これを保有する企業のミスにより,ネット上に流出したとする。これを見た誰かが,それ以来頻繁に,自宅に無言電話をかけたとする。白田助教授の主張は,この場合プライバシー権侵害の責任を負うのは,ミスをした企業ではなく,無言電話をかけている誰かだ,ということになる。

もっとも,青柳教授と白田助教授の主張が,その全部において同じか否かは,分からない。それはご本人に聞いてほしい。青柳教授がこのような主張をする目的は,情報を利用する企業の健全な経済活動の育成や,ひいてはユビキタスネットワーク社会の発展という,経済的目的に重心があるように思われる。これに対して,白田助教授の主張の目的は,「過剰なプライバシーの主張は,言論表現の自由によって維持される民主制度の基盤を危うくする」という点に重心があり,経済活動の自由というよりは表現の自由や民主主義の保護に重点をおいているようである。

さて本題に戻ろう。「住所氏名などの公知情報はプライバシー権の保護の対象外」とする主張の是非である。

後述するように,私は,青柳教授や白田教授がその主張の背景として考えておられることについては,大いに共感している。しかし,だからといって,「住所氏名などの公知情報はプライバシー権の保護の対象外」とすることには疑問を禁じ得ない。ここでは,二つだけ,その理由を述べてみたい。

一つ目は,「個人情報の流出者と,プライバシーの侵害者は別」とする理論の是非である。先の例でいうと,「ミスにより私の氏名と自宅電話番号をネット上に流出させた企業と,これを見て頻繁に自宅に無言電話をかけてくる者は別。プライバシーを侵害したのは後者であって前者ではない」という主張の是非である。これは確かに,一つの考え方として筋が通っている。しかし,この考え方によれば,私は無言電話の犯人を自力で突き止める以外(それは可能かもしれないが,不可能な場合も多い),プライバシー権侵害による救済を受けられない。すくなくとも現代の高度情報化社会においては,これではプライバシー権の保護としては不十分であると思う。

二つ目は,「住所氏名などの公知情報の単独漏洩」というカテゴリーを立て,これはプライバシー権の侵害にあたらない,と主張することの是非である。ここであらためて青柳教授の主張をおさらいしてみると,教授は,「(住所氏名などは)公知の事実ゆえ,単独ではプライバシー性なし。但し,不可侵私的領域の事柄とアンカリングされるとプライバシー情報の一部となる」と言って,問題を単独漏洩に限定している。また,白田助教授も,「機微な(個人)情報については、その漏洩が直ちにプライバシー侵害に直結しうることに気をつけなくてはならない。」と言っている。このように,ご両人とも,プライバシー権侵害にあたらないのは,「住所氏名など公知情報の単独での漏洩」に限定していることが分かる。

しかし,このような限定の仕方は適切であろうか。言い方を替えれば,意味があるのだろうか。さきほど,私は,「私の住所と自宅電話番号がネットに流出した」という例をあげたが,現実には,このような流出例は,あまり想定しがたい。多くの場合,住所や氏名,電話番号などは,それ以外の情報と紐づけ(青柳教授の言葉によれば,アンカリング)されているからだ。たとえば,「ヤフーとプロバイダ契約をしたAの住所氏名」「宮城県仙台市役所に勤めるBの住所氏名」「江沢民講演会に参加を申し込んだCの住所氏名」「87歳のDさんの住所氏名」といった具合に,住所氏名などの情報は,必ずといってよいほど,他の情報とつながっている。他の情報とつながっているからこそ,住所氏名などの公知情報には何らかの価値が発生するのであり,何らかの価値があるから,漏洩が生じうるのである。

ここでもう少し住所氏名などの公知情報の情報としての機能を考えてみよう。私は今,「住所氏名などの情報は,他の情報とつながって,初めて何らかの価値を生じる」と書いた。このことは,もう一歩考えを進めると,「住所氏名などの情報は,複数の他の情報を結びつける機能を持つ」ことにつながる。具体例で言うと,「A女子校の教諭」と「○月○日に百貨店でセーラー服を購入した客」と「子どもがいない人」という3つの情報があったとする。これらはそれだけでは何の価値もない。これらのそれぞれに,「A女子校の教諭であるB氏」「○月○日に百貨店でセーラー服を購入したB氏」「子どもがいないB氏」という「氏名」情報が結びついても,それらの情報がばらばらに存在するだけでは,あまり価値はない。しかし,これらの情報が「B氏」という共通項でくくられることにより,「女子校教諭のB氏は,子どもがいないのに,セーラー服を購入した」となれば,この情報は俄然,高い価値を持つ。B氏は,実際には姪の入学祝いにセーラー服を購入したかもしれないのに,ロリコン教諭の烙印を押され,職を失う可能性がある。

ここまで書いて,「うーむ,この例はあまり適切でないかも」と正直思うが,それはともかく,住所氏名などの公知情報は,他のプライバシー情報と結びつき,また,他のプライバシー情報同士を結びつける機能があり,それ故にこそ価値があることはご理解頂けると思う。

以上をまとめると,公知情報が単独で漏泄してもプライバシー権の侵害にならない,という主張は,プライバシー権の保護に不十分である上に,プライバシー情報同士を結びつけるという公知情報の機能を軽視しているから妥当でない,というのが,現時点での私の意見である。

もっとも,昨今個人情報の流出が報道されるたびに,プライバシー,プライバシーと過剰に反応するマスコミなどの態度を憂うる点では,私も,青柳教授や白田助教授と同じ立場である。情報が漏れたといっても,その中身によって実害の程度が異なることは間違いない。重大なミスには厳しいお咎めが必要だが,些細なミスには,別な対応があってよい。ただ,「公知情報はプライバシー情報ではないから」ということには無理があるのではないか,と思う。(小林)

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2007年5月29日 (火)

住基ネットは原発か?

平成19年5月26日,大阪弁護士会で開催されたシンポジウム「これでいいのか住基ネット」を聴講した。

報告者の上原公子氏は参院選出馬の噂がある前国立市長。「市長には住民基本台帳の管理責任があるのに,総務省は台帳のデータを国が管理すると言う。それなら漏洩の責任を取ってくれるのかと聞くと,取らないと言う。危険じゃないかというと,絶対に安全ですと答える。でも住基ネットは穴だらけで,市長として責任を取れないから国との接続を切った。」さすがに政治家は,話が明快である。

獨協大学の右崎正博教授は,プライバシー権の本質を自己情報コントロール権と理解する立場から,住基ネットはプライバシー権に対して重大なリスクがあると主張する。但し,自己情報コントロール権を根拠とすることの帰結として,「リスクを承知で住基ネットを使いたいという人は,使用する権利がある」と言う。従って国との接続を切った前国立市長の行動は,住民の「住基ネット利用権」を侵害したという結論になるのだが,出席者に理解できたかどうか。

他に自治体情報政策研究所代表の黒田充氏,水永誠二弁護士が報告者として出席していた。弁護士会が土曜日の午後に開催するシンポジウムであったが,100人を超える一般市民が聴講し,関心の高さを窺わせた。もっとも,住基ネット反対派が大多数と見受けられたが。

私自身は,報告を聞きながら,強い既視感にとらわれていた。住基ネット反対派は,「住基ネットにはリスクがあるから止めてしまえ」と言う。国側は,「住基ネットは安全だから止める必要はない」と言っている(とのことである)。この議論の立て方は,原子力発電所の是非をめぐる議論と同じだ。

原発反対派は危ないから止めろと言い,推進派は絶対安全だという。歴史的には,推進派が嘘をついていたことは明白である。推進派は多くの事故を(ほぼ)隠し通し,全国発電量の半分近くを原発でまかなうに至り,盤石の地位を確保してから事故を公開した。一方反対派の主張は,代替エネルギー政策等の問題で国民多数の賛同を得るに至らず,昨今の温暖化防止キャンペーンの影響もあってか,廃棄施設の問題を除き,下火になってしまっている。この問題,どちらに軍配が揚がったかといえば,推進派であろう。しかし,隠された事故の教訓が生かされていないことをはじめ,多くのものが失われたと思う。その責任は,「安全か,危険か」という二項対立的な議論を立てた推進派,反対派両者にある。住基ネット反対派は,この間違いと負け戦を繰り返すつもりなのか。

上原公子前国立市長が指摘するとおり,どのようなシステムにも絶対安全は無い。だから,住基ネット推進派が「絶対安全」を主張しているなら,これは改めてもらわないといけない。しかし他方,「リスクがあるから止めてしまえ」という反対派の主張は短絡的である。重要なことは,リスクが存在することを前提に,これを査定(アセスメント)し,受容可能か否か検討することであろう。

住基ネットや,その他のユビキタス・非ユビキタスネットワーク導入の是非について,リスクアセスメントの重要性を説く見解は,技術者や,ネットワークに詳しい法律家の間では,数年前から主張されている。推進派も,反対派も,そろそろ「白か黒か」的議論を止めるべきときではないのか。(小林)

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2007年5月27日 (日)

リスクアセスメントと裁判(2)

リスクアセスメントとは,「リスクを分析し,評価し,低減することを繰り返す手順」である。

この考え方の重要な第2点は,「リスク分析→評価→低減の繰り返し」という手順の中身を明示している点だ。

安全工学の権威である明治大学の向殿政男教授も指摘しているとおり,機械や設備の安全を実現する手法として,従来も,各企業では,リスクアセスメントは実施されていた。ただ,その手順の中身が,各企業の伝統と特殊性に培われた多種多様なものとなっており,一般性が無かったのである。

リスクアセスメントが安全性実現の手順と中身を示し,しかも,リスクアセスメントの国際規格が成立しつつあるということは,安全を実現する手法について,各企業が共通の言語を持ったということを意味する。これは,企業間,あるいは国家間でリスクアセスメントを共通の話題にすること,その中で,互いの情報を交換できることを意味する。これらが全体として,機械や設備の安全性向上に大いに貢献するであろうことは言うまでもない。

さて,リスクアセスメントが標準化するということは,裁判の世界との関係では,何を意味するであろうか。

間違いなくいえることは,リスクアセスメントを十分に実行したことが立証できなければ,企業は裁判で必ず負ける,ということである。企業は,実際にリスクアセスメントを十分に実行するだけではなく,十分に実行したということを,法廷で証明できなければならない。

では,企業がリスクアセスメントを十分に実行したことを立証すれば,裁判では必ず勝つであろうか。残念ながら,直ちにそうは言えないと思う。この点については,私自身勉強不足なので,別の機会に詳細に論じてみたい。いずれにせよ,「安全工学」の進歩に応じて,法律の世界でも,「安全法学」という分野が登場してもよいと思ったりする。(小林)

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2007年5月23日 (水)

「個人情報」と「プライバシー情報」は同じか?(1)

 

RSA Conference Japan 2007では,国際大学の青柳武彦客員教授が個人情報保護における問題点と今後のあり方について講演を行ったそうである。同カンファレンスのレポートで講演内容が紹介されているが,伝聞ゆえ不正確かもしれないので,同カンファレンスのホームページから講演内容を引用すると,次のとおりである。

「刀剣愛好家が刀を盗まれてしまった場合,保管に問題があれば銃刀法違反に問われるかもしれませんが,殺人罪に問われることはありません。ところが,個人データが盗難にあうとプライバシー侵害罪(殺人罪に相当)に問われてしまうことがあります。これは自己情報コントロール権説という間違ったプライバシーの定義の悪影響で,個人データ保護とプライバシー保護が混同されているためです。こうした事態は個人情報保護法という不必要に厳しい規制を不必要に広い範囲に適用している法律で,更に加速されています。企業は,正当な経済活動と同法の調和を図ることによって,活力を維持しなければなりません。」

ここで教授は刑法上の犯罪と民法上の不法行為を混同するという極めて初歩的な誤りを犯しているが,この点はご愛敬と目をつぶるとして,問題は,「自己情報コントロール権説という間違ったプライバシーの定義の悪影響で,個人データ保護とプライバシー保護が混同されている」という主張の是非である。

ここで,青柳教授が個人データとして具体的に指摘しているのは,「住所,氏名,性別,電話帳記載の電話番号,年齢,容姿,場合によっては職業も」である。そして,これらの情報のプライバシー性について,教授は,「公知の事実ゆえ,単独ではプライバシー性なし。但し,不可侵私的領域の事柄とアンカリングされるとプライバシー情報の一部となる」と主張している。

そもそも,なぜこのようなややこしい議論が発生するか,ご存じだろうか?それは,個人情報保護法の適用範囲と,民法上のプライバシー権の保護範囲との関係が不明確だからだ。

ここまで「民法上のプライバシー権」と書いてきたが,民法にも,その他の法律にも,「プライバシー権」という語句を含む法令はない(「権」を抜いたプライバシーという語句を含む法令はいくつかあるが,今回のお題とは直接には関係ないので,別の機会に論じることにする)。プライバシー権の範囲は,専ら,裁判例によって画されてきた。その代表となるのが三島由紀夫の小説「宴のあと」が問題となった訴訟であり,その判決は,プライバシー権侵害の要件として,非公知性を要求してきた。逆に言えば,公知の情報は,プライバシー権の保護範囲外とされたのである。その結果,住所氏名などは,公知情報であるからプライバシー権の保護範囲外とされてきた。

ところが,最近の裁判例は,住所氏名などをプライバシー権の保護対象に含めるようになってきている。たとえば,平成15年9月12日の最高裁判所判決は,早稲田大学が江沢民の講演会参加者名簿を警視庁に提出した事件に関し,「(参加申込学生の)学籍番号,氏名,住所及び電話番号は,早稲田大学が個人識別等を行うための単純な情報であって,その限りにおいては,秘匿されるべき必要性が必ずしも高いものではない。また,本件講演会に参加を申し込んだ学生であることも同断である。しかし,このような個人情報についても,本人が,自己が欲しない他者にはみだりにこれを開示されたくないと考えることは自然なことであり,そのことへの期待は保護されるべきものであるから,本件個人情報は,上告人らのプライバシーに係る情報として法的保護の対象となるというべきである」と判断した。この判決は,「江沢民講演会への出席申込情報との紐づけられた情報ではあるが,住所氏名学籍番号などの公知情報もプライバシー権の保護範囲内であるとしたものである。この最高裁判決後の下級審判決も,全体の傾向としては,住所氏名などもプライバシー権の保護範囲に属すると判断する傾向にあるとされている。

復習すると,①伝統的には,住所氏名は裁判例上,プライバシー権の保護範囲外とされてきた。②この伝統的理解に従えば,住所氏名などの公知情報は,個人情報保護法の保護は受けるが,プライバシー権の保護は受けない。③しかし,近年の裁判例はプライバシー権の保護範囲を拡張し,住所氏名などの公知情報もプライバシー権の保護範囲に含めつつある。④そこで,あらためて,住所氏名などの公知情報は,個人情報保護法のほか,プライバシー権の保護を受けるかが問題になる,というわけである。

「プライバシー権で保護されようがされまいが,個人情報保護法で保護されるのなら,要するに法律で保護されるのだから一緒じゃん」と思われるかもしれないが,それは間違いである。個人情報保護法に違反しただけでは,行政処分の対象になる(行政命令に違反すると刑罰の対象になることがある)だけだが,損害賠償義務は発生しない。しかし,プライバシー権の保護対象になるならば,損害賠償義務が発生する。昨今話題になる個人情報流出の場合,1件当たりの賠償金額は安くても,数万人規模の流出となれば,総額は馬鹿にならない。青柳教授は,「住所氏名などの公知情報が流出した場合,個人情報保護法違反に問われて行政処分を受けるのはやむを得ないとしても,プライバシー権侵害として損害賠償請求の対象になるのは間違いだ」と主張しているわけである。(続)(小林)

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2007年5月19日 (土)

リスクアセスメントと裁判(1)

安全工学という学問分野がある。安全工学とは,「現代社会において発生する危険状態(災害)の原因及び過程の究明とその防止に必要な科学及び技術に関する系統的な知識体系をいう」とされている。そして,安全工学の研究は,リスクアセスメントを第一の目的にしている(安全工学会山本一元会長の挨拶文より)。

リスクアセスメントの権威である明治大学の向殿政男教授によれば,「リスクアセスメントとは,リスクを分析し,評価し,低減することを繰り返す手順」である。

重要と思えるのは,第1に,リスクアセスメントが「安全に至る手順(プロセス)」を重視している点だ。このことは,製品・部品の材質や寸法,構造について,結果として一定の基準を充たせば「安全」とみなす伝統的な考え方ではなく,一定の手順を十分なほどに実行すれば「安全」とみなす考え方を意味する。この二つの考え方は,似ているようで全く違う。リスクアセスメントに従えば,極端な話,客観的結果的に一定の危険が残存していても,「安全」とみなされるのである。

このように書くと,リスクアセスメントは安全追求を放棄したのかと思われそうだが,それは誤りである。リスクアセスメントは,前提として,「絶対安全は達成できない」という認識を出発点としている。絶対安全が達成できないという前提の中で,どのようにすれば最大限の安全が実現できるか,というのが,リスクアセスメントの考え方である。そして,「絶対安全は達成できない」という認識は,おそらく正しい。そうである以上,安全実現のプロセスを重視する方が,一定の規格を守ることより,結果としての安全を実現できるのである。

原子力発電所が好例だが,我が国の安全政策は,「絶対安全」を金科玉条としてきた。しかし,その結果発生したのは,構造的継続的な事故隠しである。事故隠しは,伝統的な安全思想の破綻であると同時に,その事故の教訓を次の事故防止に生かせなかったという意味において,原子力発電所を危険に晒してきた。科学技術が高度化した現代社会においては,リスクアセスメントの考え方を取らなければ,より高度の安全を達成できないのである。(続)(小林)

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2007年5月15日 (火)

番台ロボットとプライバシー

そもそも「番台」を知らない読者のために一応解説しておくと,銭湯(銭湯を知らない?フォークグループ「かぐや姫」の「神田川」に出てくるような伝統的な公衆浴場のことです。スーパー銭湯などではないですよ。「かぐや姫」も知らない?そうですか…)には男湯と女湯があり,それぞれの脱衣所が板一枚で仕切られている。その板の端にあり,両方の脱衣所と浴場を見渡すやや高い位置に設けられているのが「番台」である。番台には銭湯の主人が座って,入浴料の徴収を行うほか,脱衣所内での窃盗や,浴場での迷惑行為が無いように,目を光らせている。当然,客は番台に座る銭湯の主人には裸体を見られることになる。私も若いころは,これが結構恥ずかしくて,脱衣所の隅っこで着替えをしたものである。

さて,この番台の機能をロボットに代替させることはできるか。料金の徴収については問題ない。問題は,脱衣所や浴場での不正行為・迷惑行為防止のために,人間に代わって,ロボットを設置することができるか,である。

もう少し突き詰めて考えると,脱衣所で他人(特に異性)に裸体を見られることは,形式的にはプライバシーの侵害にあたるが,客はもちろん番台に見られることは承知で銭湯に入っているので,結論としては違法性の問題は発生しない。この番台が,人間からロボットに代わった場合,プライバシー侵害の程度は大きくなるのだろうか,それとも,小さくなるのだろうか。

直感的には,人間に裸を見られるより,ロボットに見られる方が,プライバシー侵害の程度が少ないような気がする。しかし,よくよく考えてみると,そうでもない。

脱衣所や浴場での不正行為・迷惑行為の防止という目的である以上,番台ロボットはカメラを備えることになるし,その背後には,これをモニターする人間がいる。また,実際に不正・迷惑行為が発生したときに証拠を残す必要上,カメラで撮影された映像は録画されることになるだろう。

番台から人間に自分の裸体を見られても,「裸体」という画像情報は,所詮,その人限りである。多くの場合,自分の裸体が番台の主人の記憶に残ることは無いし,「ものすごい肉体美」か何かの理由で客の裸体が番台の主人の記憶に残ったとしても,その人の脳髄限りのことでしかない。万一,番台の主人が客の裸体を他人に吹聴(「このまえ,すごいグラマーがうちの銭湯に来てさ…」とか)しようとしても,せいぜい,言葉か絵で不正確に描写することしかできない。人間が画像情報を記録したり,これを他人に伝達したりすることには,このように,極めて多くの限界がある。逆に言うと,このような限界があるからこそ,生身の人間である番台の主人に裸体を見られることを,客は許容しているともいえよう。

これに対して,番台ロボットの撮影した裸体の画像情報は,正確無比であり,かつ,全く劣化しない状態で第三者に提供することが可能である。しかも,客の立場から見れば,番台ロボットの撮影する画像を,誰が,どのような意図で見ているか,全く分からない。このように考えてくると,番台ロボットの方が,人間に比べて,プライバシー侵害の程度が高いということになろう。

以上,ただの与太話ではあるが,なかなか難しい問題である。(小林)

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2007年5月13日 (日)

次世代ロボット安全性確保ガイドラインはロボット法か?

経済産業省がパブリックコメントを募集している「次世代ロボット安全性確保ガイドライン(案)」に関して,小椋一宏氏(株式会社ホライズン・デジタル・エンタープライズ代表取締役)が「本物のロボット三原則?」と題して,「SF好きの私としては、やはりアシモフのロボット三原則や、鉄腕アトムに出てくるロボット法のように、「ロボットは人間を傷つけたり殺したりしてはいけない」というようなものをどこかで期待していたのだが、残念ながら、現代のロボットはまだ自律的な知能を持っているとはいえないので(無理か)」という趣旨のブログを書いておられる。この文章から推測すると,小椋氏は,ロボットが自律的な知能を持てば,ロボット法が制定されうると理解しているようだが,残念ながらこの理解は正確でない。ロボットが自律的な知能を持っただけでは,ロボット法が制定されることはない。

法は,法規範とも呼ばれるとおり,規範の一種である。規範とは,要するに社会生活上のルールのことで,法規範以外にも,宗教規範や倫理規範,社会規範などがあり,それぞれに,守ることが期待されている。

規範の特質の一つは,守ることも,破ることもできる点にある。あなたが白昼,北海道の草原をドライブしているとき,赤信号に出会ったとしよう。5キロ四方に自動車はおろか,人っ子一人いないことが分かっているあなたは,信号を無視することもできる。しかし信号に従って停車させるのは,道路交通法という規範に従う選択をしたからだ。このように,守ることも破ることもできることが規範の特質であり,守ることができないルールや,破ることができないルールは規範ではない。

ところで,ロボット3原則の第1条には,「ロボットは人間に危害を加えてはならない」と規定されている。この規定はプログラムという形でロボットに与えられることになるのだろうが,少なくとも現在のところ,ロボットがプログラムに違反する選択をすることは不可能である。このことは,近い将来,自律的な知能を備えた次世代ロボットが登場しても同様であろう。そうである限り,プログラムは,これを破ることができないのだから,規範ではなく,法でもない,ということになる。

それでは,ロボット法が制定されるのは,ロボットがどの程度「進化」した段階になるのだろうか。ロボット3原則の第1条についていえば,人間に危害を加えるという選択も,加えないという選択も,ロボット自身の判断で可能になったときには,ロボット3原則の第1条が制定されることになる。制定されなければ,ロボットと人間の共生は不可能になるであろう。(小林)

小椋一宏氏のブログはこちら http://blogs.itmedia.co.jp/ogura/2007/04/post_7a73.html

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2007年5月11日 (金)

小中学校に防犯カメラ

2007年5月10日号の東京都町田市版タウンニュースページ

http://www.townnews.co.jp/020area_page/03_fri/01_mach/2007_2/05_10/mach_top1.html)

によると,町田市内の小中学校の前項(小学校40校,中学校20校)に防犯カメラが設置され6ヶ月が経ったとのことである。記事によると,「通常,防犯カメラ4台とモニター3台,記録装置1台が設置されていて,死角が多い学校には防犯カメラを1~2台増やしている。モニターは職員室や校長室,事務室などに置かれ,24時間作動し,記録内容は1週間で更新される仕組み。モニターは4分割され常時確認することができる。記録内容は各校長が管理し,パスワードがなければ再生することができない。また警察などから画像の提出を求められた場合は手続きに従って行い,児童らのプライバシーは保護されるという。」

私は,小中学校に防犯カメラを設置すること自体に反対するものではない。児童のプライバシーを侵害するとか,管理教育につながるとかの反対論はあるのだろうが,各校4~6台のカメラでは,校門や後者の出入り口付近に設置するのが精一杯であるから,現実問題として,これで管理教育につながるとは考えられない。

しかし,疑問点もある。記事には「警察などから画像の提出を求められた場合は手続きに従って行い、児童らのプライバシーは保護されるという。」とあるが,想定される状況は,第三者が学校へ不法侵入するという場合だけではない。不法侵入がない状況で,「なんだか怪しげな人」が校門付近をうろうろしている状況が撮影された場合,その録画テープを警察に提出することは許されるのか。あるいは,児童の犯罪行為を理由とする提出要請があったらどうするのか。犯罪行為そのものが撮影されているという場合だけではない。「ある事件について,被疑児童が何時何分に下校したか確認したいのでビデオテープを提出してほしい」と言われたらどうするのか。「被疑児童の交友関係を知りたいからビデオテープを提出してほしい」と言われたらどうするのか。また,児童の校則違反行為が撮影されていた場合はどうか。

私がここで問題にしたいのは,上記の事例それぞれについて,どのように対応するべきかではない。問題にしたいのは,さまざまな事態を想定した防犯カメラ設置運用のガイドラインが適正に制定されているのか,という点と,そのガイドラインが小中学校の関係者(特に児童の保護者)に適切に公開されているのか,という点である。防犯カメラシステムが広く社会に認知され,適正に運用されるためには,正しい制度的保障が不可欠であると考えている。(小林)

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2007年5月 7日 (月)

ユビキタスネットワーク社会と「2001年宇宙の旅」

 ユビキタスネットワーク社会には,光と影があると言われる。光とは,いままで考えられなかったような利益を享受できる社会の到来であり,陰とは,今度こそ,人間がコンピューターに支配されてしまうという危惧である。この光と影の双方に,センサーが重要な役割を果たす。

ユビキタスネットワークは,ユビキタス「センサー」ネットワークとも言われる。ユビキタスネットワークは,大小多数のコンピューターが遍在する環境だから,人間が,一つ一つのコンピューターに,いちいち入力していたのでは手間がかかって仕方がない。そこで,ユビキタスネットワークは,高感度かつ多数のセンサーを備え,環境にあるヒトやモノの情報を,自動的にコンピューターに入力していくことが必要となる。センサーがあってはじめて,人はユビキタスネットワークから多大な恩恵を被ることが可能となる。

ところで,センサーのないコンピューターネットワークにおいては,人は,入力デバイスを排除することによって,ネットワークから離脱することが可能であるのに対して,ユビキタス社会においては,人はネットワークから離脱することができない。人は意識しないうちに,センサーを通じてプライバシー情報を取得されてしまう。この点が,コンピューターに人間が支配されてしまう,という危機感の源泉である。

ところで,話は飛ぶが,「2001年宇宙の旅」(1967年公開)というSF映画の古典的名画がある。その前半,と言っても原始人が出てくるところは飛ばしての前半に,主人公がコンピューターと会話して宇宙ステーションにチェックインする場面がある。画面ににこやかな女性の映像が映し出され,その指示に従って音声入力を行う場面である。宇宙ステーションも一つのコンピューターネットワークであるが,人が音声でコンピューターに入力しているから,このコンピューターネットワークは,ユビキタスではない。

一方,この映画の後半は,最新型コンピューター「HAL9000」を搭載した宇宙船「ディスカバリー」が舞台である。この宇宙船においては,カメラがあらゆる場所に設置されており,乗組員はどこにいてもHAL9000と会話できる。それどころか,HAL9000は読唇術を駆使して乗組員間の秘密の会話を盗み聞きし,反乱を起こす。

宇宙船「ディスカバリー」にはもはや入力デバイスは不要である。人が積極的に入力しなくても,コンピューターはセンサーを使って情報を取得するのであり,そのセンサーは,船内の至る場所に存在する。しかも,人間は宇宙船から外に出ては生きていけない。つまり,宇宙船「ディスカバリー」は究極のユビキタスネットワーク空間であり,ユビキタスネットワークが人間を支配する恐怖を描いたのが,この映画の後半部分であるという見方が可能である。

もちろん,ユビキタスネットワーク社会になれば,本当にこうなる,というわけではない。ただ,ユビキタス社会の影の部分を,非常に明瞭なイメージとして呈示したのが,この映画であるといえる。いまから40年前に,ここまで予測したキューブリック監督の想像力には,今更ながら舌を巻く。(小林)

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2007年5月 6日 (日)

「異常行動」を自動通報する街頭防犯カメラシステムの違法性

200751日付東京新聞WEBサイト「TOKYO Web」によると,「街頭防犯カメラの映像から,人の異常行動を検出するシステムが開発され,JR柏駅東口に今春,初めて導入された。このシステムは,人が普通に歩いたり,会話をしたりする「正常な行動」を学習して数値化,これらの正常行動の分布からはずれた行為を「異常行動」として検出するというものであり,将来的には,異常行動を警察などに通報することにしているとのことである。

このシステムに対して,「海難記」の管理人仲俣暁生氏が,「これはかなり危険な発想じゃないか」という意見を述べている。氏の言わんとするところは,「正常でないものを異常とみなす考え方は,被撮影者を自ら正常の側に置こうとする動機付けを行うとともに,異常と見なされた者を排除する考え方につながる」ということと思われる。

これに対しては,「Discommunicative」の管理人todesking氏が,「『これだからサヨクは』『これだから文系は』的差別的言説をぐいと押さえ込み」つつ,上記システムは,正常動作を数値化=データベース化することによって,その分布範囲に該当しない者を全て異常とみなすというアルゴリズムの問題であって,「異常」に分類されたからといって「違法」でも「悪事」でもなんでもないとして,「危険な発想」とする仲俣氏の主張を批判している。

法律的に考えた場合,いずれの見解が正しいであろうか。

防犯カメラシステムを運用する場合には,撮影そのものが正当になされる必要があるだけでなく,取得した情報を第三者に提供する際にも,正当性が要求されることに注意が必要である。個人情報保護法の23条にも,個人情報の正当な理由無き第三者提供を禁止する条項がある(ただし,防犯カメラの運用者が直ちに個人情報保護法の適用を受けるわけではない)。このように,被撮影者の承諾無く,第三者に情報を提供した者は,正当な理由がない限り,法的責任を問われる。警察への通報も,第三者への情報提供に変わりないから,通報する者には,相応の責任と覚悟が必要である。

ところでtodesking氏の主張の要点は,「正常」「異常」という分類は統計的分別にすぎず,善悪の意味づけは全くなされていないという点にある。「異常」と分類された行為が警察に通報されても,それが違法な行為でないならば,何の問題もない,という。

通報を受けた警察は,職務上,「異常行動」をした被撮影者に職務質問をするであろうが,この職務質問は,「何の問題もない」と言えるほど生やさしいものではない。最近の具体例としては,「ちょっとむさい格好で渋谷に」いただけで警察官4人に取り囲まれ,渋谷署に事実上強制連行された元国会議員白川勝彦氏のブログに生々しく記載されている。そもそも職務質問は,「何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者」(警察官職務執行法2条1項)に対してしか行うことができない。市民が不審者を警察に通報するについても,不審者であると疑うに足りる相当な理由が必要である。明らかに正当な行為をしていた者を警察に通報することは違法であるし,システム運用上便利だからといって,明らかに正当な行為も違法と疑われる行為もまぜこぜにしたまま自動的に警察に通報することも違法である。

このように見てくると,todesking氏の主張が誤りであることは明白であろう。同氏は,「防犯カメラの前で『ハレ晴れユカイ』を踊っても,車いすで通行しても,ストリートミュージシャンも,たぶん警察に通報されます!一体そのどこが問題なのか???」と述べているが,明白に適法な行為をしている者を,システム上「異常」に分類されたという理由だけで,警察に通報することは違法であり,大いに問題なのである。そして,仲俣氏が「危険」だと危惧するのは,「統計上普通でない」とういうだけの理由で,警察に通報することに何の疑問も躊躇も感じない発想そのものだと思う。

まあしかし,現実問題として,このシステムが「異常」と分類して警察に通報する行為のほとんどが「適法」な行為と予想されることからすると,通報を受けた警察も早晩,このシステムからの通報を相手にしなくなるであろう。警察から無視されたのでは,街頭防犯カメラシステムとしての存在意義が無くなってしまう。そこで,このシステムの実際の運用としては,「異常」を感知すると警報が発令し,その後「異常」が感知される10秒ほど前からの映像が自動的に再生され,これを係員が確認して,必要と認めた場合にのみ,警察に通報することになろう。このような運用がなされてはじめて,このシステムは「まともな」システムとして機能しうることになるし,仲俣氏が指摘するような「危険」も,ある程度回避されることになるだろう。(小林)

海難記 http://d.hatena.ne.jp/solar/

Discommunicative  http://d.hatena.ne.jp/todesking/20070502

白川勝彦氏のブログ http://www.liberal-shirakawa.net/idea/policestate.html

Mellow Moon http://mellowmoon.blog93.fc2.com/blog-entry-48.html

個人情報保護法第23条 個人情報取扱事業者は、次に掲げる場合を除くほか、あらかじめ本人の同意を得ないで、個人データを第三者に提供してはならない。

一 法令に基づく場合

二 人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき。

三 公衆衛生の向上又は児童の健全な育成の推進のために特に必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき。

四 国の機関若しくは地方公共団体又はその委託を受けた者が法令の定める事務を遂行することに対して協力する必要がある場合であって、本人の同意を得ることにより当該事務の遂行に支障を及ぼすおそれがあるとき。

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2007年5月 3日 (木)

ロボットの事故とメーカー・設計者の責任(1)

次世代ロボットが事故を起こして人を傷つけたり,財産を壊すなどの損害を発生させた場合,製造者などは,どのような法的責任を負うか。「製造物責任法」との声がすぐ上がりそうだが,製造物責任法は,不法行為法の特別類型と理解されている。そこでまず,おさらいの意味を込めて,不法行為法上の過失について,整理してみよう。

民法709条は,「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と規定している。「過失」について,学説上一般的な説明は次のとおりである。

「過失」とは,一言で言うと,「損害発生という結果回避義務の違反」であるとされる。「結果回避義務の違反」には2種類あり,一つは,「損害発生という結果を予見していたのに,適切な回避を行わなかった」場合であり,もう一つは,「損害発生という結果を予見しなかったため,回避を行わなかった」場合である。自動車の運転手が,前方に人がいることが分かっていたのに,ブレーキの踏み方が甘くてはねてしまった場合が前者であり,居眠り運転をしてブレーキを踏み忘れた場合が後者にあたる。

もちろん,「予見義務」は,予見することが不可能だった場合には,発生しない。法律は,不可能なことを強制することはできないから,予見可能性が無かった場合には,結果回避義務も発生しないので,過失にはならないと考えられている。

同じことは,回避可能性についてもいえる。回避可能性がない場合には,回避義務がなく,従って過失にならないと一般に言われている。しかし,製造者の立場から見れば,回避可能性がないという場面は想定できない。なぜなら,「その製品を製造しない」という選択肢が常に存在する以上,回避可能性がない場面はないからだ。それでは,事故の発生を予見しつつ製品を作った製造者が責任を免れないかというと,当然,そんなことはない。たとえば,自動車の製造業者は,自動車によって,我が国だけでも毎年数十万件の人身交通事故が発生し,1万人近くの人が交通事故で死亡していることを知っている。自動車を製造すれば,人の生命身体が失われる危険性があることを予見しているわけである。だからといって,自動車メーカーが,自動車を製造した(=製造するのをやめなかった)ことのみをもって,法的責任を問われることはない。

これはどのような論理に基づくかというと,裁判例や学説は,「回避可能性がある場合でも,回避義務を尽くした場合には,過失はない」と言っている。そこで問題となるのは,「どのような場合に回避義務を尽くしたと言えるのか」という点だ。回避義務を尽くしたか否かを決める要素には,様々なものがあると考えられているが,その一つに,「製品の有用性」というものがある。つまり,「その製品に一定の危険性が存在する場合であっても,これを上回る社会的有用性が存在する場合には,製造したことのみをもって,過失があるとは言えない」という考え方である。

もちろん,有用性があるか無いかは微妙な問題であるし,時代によっても判断基準が異なる。自動車については,その社会的有用性から,製造したことのみをもって法的責任を問われないことは常識だが,煙草については,近い将来,日本でも,製造したことのみをもってメーカーが法的責任を問われることがありえよう。これは,有用性の規準が,科学技術の進歩と社会通念の変遷によって,変化していることを示している。(小林)

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2007年5月 1日 (火)

監視カメラの犯罪抑止効果について

街頭監視カメラに犯罪抑止効果があるのかについては,「ある」とする説,「無い」とする説,「一部の犯罪についてはあるが,他の犯罪については無い」とする説がある。

ところで香川新聞の平成19年4月のニュースに,こういうものがあった。

「香川県高松市の鬼無地区では、五色台を走る市道沿いを中心に不法投棄が後を絶たず、これまで住民参加型の清掃活動を度々実施。市も看板や監視カメラを設置しているが、効果がなかなか持続しないことから、定期的にパトロールを行い、監視の目を強化することにした。」

監視カメラの効果が持続しないというニュースは,監視カメラの犯罪抑止効果が「無い」とする説を勢いづかせるものであろう。しかし,このニュースから直ちに監視カメラには犯罪抑止効果がないと結論づけるのはやや飛躍がある。

監視カメラが設置されているにもかかわらず,なぜ堂々とゴミを捨てるのか。私は現場を見たわけではないが,「すでにゴミが捨ててあったから」捨てたと見て間違いないであろう。つまり,「ゴミを捨てても,おとがめがない」と分かれば,規範意識の低い不心得者は,ゴミを捨てるのである。これを「割れ窓理論」にならって,「案山子理論」と名付けることにしよう。

案山子は,案山子とばれた時点で,雀に対する抑止力を失う。監視カメラも,張り子とばれれば,同じことである。つまり,「監視カメラに撮影された不法行為は,必ず罰せられる」という実体が伴って,はじめて,監視カメラは犯罪抑止力を持ちうるのである。以前ご紹介した,イギリスにおいて実施される「しゃべる監視カメラ」も,同じ発想であり,カメラを案山子に見せないための工夫と見ることができる。

以上からいえることは,「監視カメラは,撮影された不法行為は必ず罰せられるという運用上の実体が伴って,初めて犯罪抑止力を持ちうる」ということである。もっとも,この言い方は正確ではない。正確には,「運用上の実体」が現実に存在することが必要なのではなく,「運用上の実体が現実に存在すると信じる心情が撮影される側に存在すること」が必要である。このような心情を,「畏れ(おそれ)」という。品が悪くて恐縮だが,立ち小便を抑止するために鳥居を描くのは,人の畏怖心を利用したものである。ちなみに,主として国民のおそれを利用して統治する政治手法を「恐怖政治」というが,監視カメラの犯罪抑止力を維持しようとすることは,恐怖政治につながる一面を持つことには注意しなければならない。(小林)

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