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2007年7月24日 (火)

機動警察パトレイバー2と20世紀的軍事クーデターと報道の自由

押井守監督の「機動警察パトレイバー2the Movie」を久しぶりに鑑賞した。1993年に公開されたこの作品は,柘植行人というひとりの天才的戦略家が2002年の東京に仮想の戦争状態を作り出す有様を描いたものだ。何回見ても傑作だと思う。もっとも,地下鉄サリン事件(1995年)やニューヨーク同時多発テロ(2001年)を予言したともいわれるこの作品の先見性について,筆者には解説する見識も能力もない。その代わりといっては何だが,発想を逆転して,この映画が描いた2002年の東京には無くて,実際の東京にあるものについて,思うところを記しておきたい。

この映画が描いた近未来(2002年)の東京に無くて,実際の2002年の東京にあるものはインターネットである。映画で柘植行人の部隊は,強力な妨害電波を発信する飛行船を周回させ,橋を爆破し,電波塔と電話線を破壊・寸断して東京を情報的な孤島に陥れる。しかしネット社会となった実際の東京においては,映画に描かれただけの破壊工作では,東京を情報的な孤島に陥れることは不可能であろう。ネット社会は,原理的に,「頭を潰せば全身が麻痺する」という構造になっていないからである。

もちろん,この映画を製作した時点において,押井守監督がネット社会の到来を予測していなかった筈がない(同監督はこの映画の2年後にハイパーネット社会を描いた「GOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を製作している)。しかし,日本中・世界中に張り巡らせたネットの網の目から東京を切り離すためには大規模なサイバーテロを仕掛けなければならない。そこまで描くことはある意味リアルかもしれないが,映画としてのまとまりが無くなってしまう。そこで押井監督はあえて「インターネットの存在しない東京」を舞台に設定したのだと思う。

このような次第で,今回この映画を見て筆者が感じたことは,「現代の日本では20世紀的な軍事クーデターは起こせないだろうなあ」ということであった。なぜなら,20世紀的軍事クーデターは,放送局や報道機関の占拠による情報統制が成功の鍵を握る。ところが,現代ネット社会では,軍を含む特定の勢力が確実かつ長時間情報統制を行うことがおそらく不可能だ。たとえば,2006年のタイ軍事クーデターは記憶に新しいが,報道管制が敷かれる一方,「現在,衛星放送全チャンネル,視聴できません。」という書き込みが何のチェックも受けず,インターネットを通じて全世界に発信された。また,アル・カイーダのホームページが堂々と公開されている現状を見れば,エシュロンやキーストロークといった世界的規模の監視システムも,実効を挙げていないというべきだろう。2.26事件を2002年の東京に再現してみせたこの映画は,2007年の現代から振り返る限り,皮肉にも,現実に再現することは不可能であったことを証明したともいいうる。もちろん,それがこの映画の価値をいささかでも減じるものではないが。

ところで,「不正義の平和と正義の戦争」とは平和ボケした日本を痛烈に皮肉る劇中の台詞である。不正義か否かはさておき,現行憲法は平和主義を柱の一つにしている。もっとも,平和主義を規定しているのは前文と9条等だけではない。憲法21条1項は,「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。」と定める。これは一般に表現の自由を保障するものとして理解されているが,「集会,結社および言論,出版」を表現の自由の代表例として列挙した規定ぶりが示すように,これは政治的言論を主として念頭に置いた規定である。逆に言えば,言論統制への反省から,自由な政治言論こそ平和国家の礎であるとの認識が生まれ,これに基づき,憲法21条が規定されたのである。表現の自由の保障もまた,平和主義の一つのあらわれである。

日本国憲法制定当時,政治的言論のメディアとしては,新聞と出版,ラジオとせいぜいニュース映画であった。これらのメディアは,いずれも,編集局や放送局といった「頭」を支配すれば,全体を統率することが可能であり,その意味では非常に脆弱なメディアであった。その後のメディアとしてテレビジョンが登場したが,これも脆弱性という意味では,従前のメディアと同様である。これら報道メディアの脆弱性は,20世紀的軍事クーデターの標的になってきたのであり,機動警察パトレイバー2the Movieにおいても,端的に指摘されたことである。このように,「非常に重要だが非常に脆弱」であるという特質から,「報道の自由」は,表現の自由の中でも,とりわけ強い保護を受けている。これを「報道の自由の優越性」ということがある。

さて,「報道の自由の優越性」の根拠がその重要性と脆弱性にあるとするならば,現代ネット社会において「報道の自由の優越性」は揺らいでいることになる。すなわち,インターネットという比較的強固なメディアの登場は,従前の報道メディアを優先的に保護する必要性を減少させているという見方が可能である。もちろん,このように言い切れるほど,ネット社会が発展し成熟した状態に現在あるか,については大いに疑問であるが,将来,報道の自由の優越性が相対的に低下していく方向性にあることは間違いない。ネット社会が世界を変えるとは良くいわれることであるが,その具体例は,こういうことなのだ。(小林)

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2007年7月20日 (金)

監視社会は,すでに,我々とともにある

平成18年(2006年)11月,ロンドンで第28回国際データ保護・プライバシーコミッショナー会議(International Data Protection and Privacy Commissioners' Conference)が開催された。

「データ保護・プライバシーコミッショナー」という役職は,これに該当するものが日本に存在しないが,プライバシー情報の流通を監督しプライバシーを保護する第三者機関のようなものである。イギリスの情報コミッショナーは政府からも独立した機関であるとされている。

この会議に出席した世界58のデータ保護・プライバシーコミッショナーが開催した非公開会議において,「監視社会」をテーマにした議論がなされ,共同コミュニケが採択された。また,この会議で新たに8つの国と地域のデータ保護・プライバシーコミッショナーが参加を許されたので,計66カ国(地域)になる。くどいようだが,日本には同様の役職がないので,非公開会議に参加できない。

共同コミュニケは要するに,「監視社会は,すでに,我々とともにある」との現状認識を前提に,監視社会にはメリットもあるがデメリットもあるとして,民主主義社会を維持するためにあるべき監視社会の姿と,コミッショナーの責務が宣言されている。

これを読むと,日本の制度と認識の遅れを痛感する。日本の議論は,一方で「このままでは監視社会になる!監視社会になったら戦争になる!」という左翼系原理主義者による単純短絡な主張がなされており,他方で,「イギリス国民は何百万台もの監視カメラを受け入れている」として,これを監督する制度を一顧だにせず,おいしいところだけ導入しようとする勢力がいる。どちらの立場も,イギリスをはじめとする世界66の組織に比べれば,恥ずかしいほど幼稚なレベルにあるというべきであろう。

共同コミュニケの拙訳文を下に記す。英語に全く自信がないので,引用も転載も遠慮されたい。内容に疑問のある方は,必ず原文にあたってほしい。(小林)

第28回データ・プライバシー保護委員国際会議

2006年11月2日,3日

イギリス・ロンドン

閉会声明

 第28回データ・プライバシー保護委員国際会議は2006年11月2日と3日,ロンドンにおいて開催された。この会議には,世界58のデータ・プライバシー保護専門機関を代表する委員が出席した。

行政,司法,市民社会及び民間団体を代表した出席者によって,主として検討された議題は,監視社会に関するものであった。

委員によって強調されたテーマは,次のとおりである。

l        監視社会は,すでに,我々とともにある。監視とは,ある目的に基づき,テクノロジーを利用して,公共空間であると私的空間であるとを問わず,日常的組織的に行われている。現代テクノロジーが個人情報を日常的に記録し,分析する監視社会とは,具体的には次のようなものである。

監視カメラやRFIDなど,日々進歩する新しい技術を利用した,個人の行動や移動に対する組織的追跡・モニタリングと記録,そして,消費・金融やその他の取引の分析,電話や電子メール,インターネット通信の傍受や職場での行動監視

l        監視行為は,善意によるものでありうるし,また,社会的利益をもたらしうる。民主社会において,監視社会化が進んできたのは,政府や企業が,個人生活に対する不当な侵入を意図したからではない。例えば,テロや残虐な犯罪と闘うため,あるいは公的サービスを享受するため,または健康増進のために,監視行為が必要であり,または有益だったからである。

l        しかし,隠密になされる監視行為,規制のない監視行為,または過度の監視行為は,その有益な面を遙かに超えるリスクをプライバシーに対して及ぼす。これらの監視行為は,不信感を醸成し,信用を傷つける。公的または私的な機関による大量の個人情報の収集と利用は,個人の人生に直接の影響を与える。自動的,または恣意的な個人情報の分類と分析は,個人とその活動に対して悪影響を及ぼす。とりわけ,公的活動に対するリスクが増大している。

l        プライバシーとデータ保護規制は,重要な自衛手段であるが,十分ではない。監視行為は市民個人のプライバシーを侵害するだけでなく,人生設計に影響を及ぼす。しかも,過度の監視行為は社会の本質的部分に対しても影響する。プライバシーとデータ保護規制は,監視行為を合法的な限度に留めたり,安全性を向上させたりするであろう。しかし,より洗練された政策が必要になってきている。

l        そのために,監視行為の影響に対する組織的査定(アセスメント)が導入されるべきである。このアセスメントは,個人や社会にとって受け入れがたい状態を最小限度に留めるために,個人に関する影響の査定のみならず,社会に関する影響の査定も行われるべきである。

l        問題点は幅広く,データ保護とプライバシーの問題に留まるものではない。監視社会の問題に取り組むことは,情報コミッショナーに限らず,この問題に関係するもの全ての責務である。情報コミッショナーは,不当な監視社会化に対抗しようとする全ての市民組織,行政組織,私的団体,議員そして個人とともに行動するべきである。

l      公的な信頼・信任を得ることが,最も重要である。多くの監視機構が善意に基づいて組織されたものであるとしても,だからといって,継続的な公的信頼が認められる訳ではない。個々人は,彼らの生活に対する侵入が,必要であり,かつ均整の取れたものである場合に限り,これを信用するのである。公的信頼は,個人的なプライバシーと似ている。一度失われれば,二度と元には戻らない。

監視社会の問題は,データ保護当局が管轄するデータ保護やプライバシーの問題より幅広い問題である。しかし,その中で,データ保護当局の役割は,絶対不可欠なほど重要である。なぜなら,個人情報は,一般市民がそれと気づかない方法で収集されるため,個人は個人情報を自ら守る手段を持たないからである。

 データ保護規制が開始されたのち,世界は立ち止まったことがない。国や,私的団体や市民の要求は変化し,情報処理技術は,早いペースで発展している。従来のやり方が適切で,かつ効果的であるか否かを検証することは,データ保護当局の権利である。クレーム処理や検査・審査は,今までどおり重要であるが,市民と政策立案者に対する効果的影響の分野における継続した改良は,今やとりわけ重要である。

 非公開会議の間,コミッショナーらは,フランス国立情報自由委員会のアレックス・ターク議長から,歓迎された。議長からは,めまぐるしく変化する世界情勢におけるデータ保護とプライバシーの基本的重要性を再認識すること,そして,新たな挑戦のために早急な行動が必要であることが促された。「データ保護を理解し,より効果的にするために」と題されたステートメントがこのコミュニケに添付された。

 コミッショナーらは,これらの変化が彼らに突きつけていることが彼ら独自の役割であり挑戦であると考える。コミッショナーらは,次に述べる事柄が挑戦のために必要であると認識した。

l        全ての民主主義社会において,市民のプライバシーと個人情報を保護することは,報道の自由や政治的表現の自由と同様に,極めて重要である。プライバシーとデータ保護は,実際のところ,我々が呼吸する空気のように貴重である。これらは目に見えないものではあるが,毀損されたときは,悲劇的な結末をもたらす。

l        コミッショナーは,国民や利害関係人がこれらの権利をより理解し,その重要性を認識するために,新たな広報戦略を強化するべきである。コミッショナーは,力強くかつ長期にわたる広報活動を行い,かつ,これらの効果を検証しなければならない。

l        コミッショナーは,彼ら固有の活動について,もっと積極的に発言し,データ保護をより強固にしなければならない。これらの活動が国民にとって,より意義深いものになり,受け入れやすくなり,関係があると認識させることによってはじめて,公共の意見形成に力を与え,かつ,為政者が耳を傾けるようになるであろう。

l        コミッショナーは,彼らの効率性と効果,そして,いかなる場面で実践することが必要であるかについて,査定を行うべきである。コミッショナーは,十分な権力と権限を付与されるべきであるが,これらは,重要またはありがちな損害や個人の直面する最大のリスクに集中して,選択的にかつ実践的に行使されるべきである。

l        コミッショナーは,先進的な研究や,専門家の意見や仲裁,先端技術産業や調査への考察を通じて,これらの研究等をともに行うことにより,技術分野における彼らの受容力を高める努力をするべきである。データ保護が過度に合法的であるというイメージは訂正されるべきである。

l        コミッショナーは,国際会議を再組織することにより,国際的問題に対して強い発言力を有するように,また,データ保護に関する論点に関する国際的主導権を得るために不可欠な話し相手になるようにしなければならない。

l        コミッショナーは,国際会議その他のグローバルな催しの進展に対する必要性を支持しなければならない。課題は,それが一般的なものであれ特定の分野に関するものであれ,国際的なレベルにおいてのみ効果的に取り扱われることが可能であり,適切なやり方で処理されるであろう。

l        コミッショナーは,データ保護とプライバシーに関し,国家的及び国際的レベルにおいて,市民社会やNGOを通じ,他の利害関係人との関係を進展させ,彼らの仕事がより効果的になるようにするにはどうしたらよいかという視点から,彼らとの強固なパートナーシップを構築するべきである。

 コミッショナーは,上記行動指針を踏まえ,次回の国際会議において,これらを考察し,価値を高めるであろう。

 コミッショナーは,その果たすべき役割を考慮することに加え,次の重要な結果を付け加えた。

l      データ保護専門家として,次の8名をメンバーに加えた

アンドラ公国

リヒテンシュタイン公国

エストニア共和国

ルーマニア

カナダ ニューブルンズウィック

カナダ 北西地域

カナダ ヌナバルト

ジブラルタル

l      会議の組織的整理に関する決議

l      プライバシー保護とサーチエンジンに関する決議

 最後に,社会そしてデータ保護とプライバシー委員会に対する挑戦は実質的なものである。それは,監視という文脈のみならず,情報処理技術の早い進展,グローバリゼーションの発展,公共の知識と教育に関する後戻りのできないある種の進展と欠落に原因している。データ保護の自衛と,これらの設置と強化を行う独立した権威は,今日の情報時代において,必要不可欠のものである。コミッショナーは,これらの取り組みを開始し,そして,今日,データ保護規制を確実にするための努力を倍増し,そして将来,今日のさまざまな発展が揺籃期であったと知ることになるであろう。

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2007年7月16日 (月)

不正改造と製造物責任

ユーザーが誤使用しても,メーカーは原則として製造物責任を免れない。と以前のコラムに書いた。では,メーカー以外の第三者による不正改造があった場合,メーカーは製造物責任を負うか。

基本的な考え方としては,不正改造があったからといって,直ちに,メーカーが全責任を免れると考えることはできない。メーカーに不正改造防止措置を施す義務が認められる一定の範囲においては,このような措置をとらなかったことによる責任が発生する。

もちろん,メーカーに全ての不正改造を予見し防止する義務があると考えるのは酷である。そこで,どの範囲で不正改造を予見し防止する義務があるかが問題となる。

この問題に関しては現在,パロマ工業製のガス瞬間湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故で,遺族らによるパロマ工業を相手に製造物責任を問う訴訟が進行中である。新聞報道によれば,パロマ工業は,第三者による不正改造であるからパロマ工業に責任はないと主張しているようである。他方,原告側は,「簡単に改造を許す設計自体が欠陥である」とか,「不正改造があることを知りながら,取扱説明書などで注意喚起をしなかった欠陥がある」とか主張しているようである。

一般論としては,メーカーに不正改造を予見し防止する義務があるか否かは,その製品の性質,予測される危険の重大性,不正改造の容易さと改造防止策の容易さが規準となると考えられる。つまり,ガス瞬間湯沸かし器のように,予測される危険が火災や一酸化炭素中毒という重大なものであることはメーカーの義務を重くする要素であり,不正改造が容易で,かつ改造防止策が容易であれば,メーカーの義務は重くなる。また,不正改造が容易であるか否かの規準としては,例えば,破壊を伴う改造であるか否か,すなわち切断や溶解しなければ改造できないか,それともネジの取外しと取付けだけで改造が可能か,などが問題となろう。いずれにせよ,誤使用と不正改造を比べた場合,メーカーが予見すべき範囲は,誤使用の方が不正改造より広い,と見てよいのではないかと思う。

参考になりうる裁判例としては,平成4年に札幌市のマンションにおいて,パロマ製ガス瞬間湯沸かし器の不完全燃焼による死亡事故においてパロマの責任が問われた損害賠償請求事件において,平成10年7月28日の札幌地裁判決は,本件事故の原因は追加配線により安全装置が作動することなく点火燃焼する様になっていたことは,販売当時に追加配線が施されたものではないし,販売当時に右のような追加配線が施行されることが予測できた,とも認められないから,追加配線がされたことをもって,本件湯沸かし器の販売当時の瑕疵である,と認めることはできない,と判断し,パロマの責任を否定したものがある。この裁判例については,後日改めて触れてみたい。(小林)

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2007年7月12日 (木)

携帯電話の低温やけど訴訟

携帯電話電池の異常発熱で低温やけどをしたとして,製造物責任法に基づきメーカーに対して約545万円の損害賠償を請求した訴訟の判決が平成19年7月10日,仙台地方裁判所でなされた。このような訴訟が提起されたことを聞いて,マクドナルドのコーヒーをこぼしてやけどをしたとしてPL訴訟が提起されたアメリカの事例を想起した人も多いと思う。もっとも,このアメリカの事例については,「訴訟社会アメリカ」を裏付ける都市伝説として一人歩きしている部分もあるので,詳細は平野晋中央大学教授によるこちらのホームページを参照されたい。

製造物責任法は,製造物の「欠陥」によって生じた損害について,メーカーの賠償責任を規定している。実務上,被害者は,製造物のどの部分にどのような欠陥があったか,ということを具体的に証明する必要はなく,通常の使用方法で損害が発生したことを証明すれば,「欠陥」が推定されるとされている(もっとも,この点は地裁レベルの裁判例があるだけだし,例外もある)。これに対してメーカーとしては,「欠陥がなかった」ことを証明したり,あるいは,「仮に欠陥があったとしても,損害との間に因果関係がない」と主張したり,「被害者にも落ち度があった」と主張して賠償額の減額を主張したりして対抗することになる。

問題となった携帯電話は,おそらくリチウムイオン電池が使用されていたものと思われる。リチウムイオン電池は,電圧の高さや繰り返し充電に適している点から広く用いられているが,製造上の不良や加熱,変形などによって異常発熱,爆発,発火の危険があることが知られている。報道によると携帯電話に関するPL訴訟は本件が全国初とのことであるが,リチウムイオン電池の安全性は,携帯電話に限らず,モバイル機器やウェアラブルコンピューター,家庭用小型ロボットなど関連する問題であり,判決が注目されていた。

報道によれば,裁判所は「携帯電話自体が発熱したとは認められない」として,請求を棄却したとのことである。たしかに,被害者の男性はズボンのポケットに携帯電話を入れたまま,こたつで2~3時間寝ている間にやけどした,ということなので,これだけの事実では,携帯電話が異常発熱をしたか否かは分からない。しかし,この争点については,被害者側に,再現実験など,もう少し立証のやりかたがあったのではないか,と思う(再現実験を実際にしたのか否かは報道からは分からないが)。

別に被害者の肩を持つわけではないが,この事件は,仮に携帯電話自体の発熱が認められていれば,使用方法が異常か否か,異常とは言えなくても過失相殺の対象になるか,使用方法の指示警告は適切であったか,損害額は幾らが適当か,などの興味深い論点についての判断を聞けたのに,肩すかしに終わったという意味で,やや残念な判決であった。(小林)

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2007年7月10日 (火)

ユーザーの誤使用と製造物責任

ユーザーが機械を誤って使用しても,メーカーなどは法的責任を負うのか,という問題がある。この答えは,「原則として負う」である。

明文で規定されているわけではないが,製造物責任は,「人間はミスをする」ことを前提にしている。したがって,メーカーは,ユーザーの誤使用を前提として機械を設計しなければならない。言い換えれば,機械は,ユーザーが誤使用をしても怪我をしないほどの安全性を備えなければ,「欠陥」ありと認定されてしまうのである。

もちろん,多くの機械では,設計段階で全ての危険を取り除くことはできない。そこで,取扱説明書などで,危険な使用方法を禁止することになる。しかし,この禁止規定が適切でない場合には,やはり「欠陥」ありとみなされ,メーカーは法的責任を問われる。

ただし,どのような誤使用があっても,メーカーは100パーセントの責任を負う,というわけではない。常識的に考えても,とんでもなく間違った使い方をして損害を被ったユーザーに対してまで,メーカーが賠償責任を負うはずがない。よく引き合いに出されるのは,「電子レンジで飼猫を乾かそうと思ってチンしたら死んでしまった」飼主が電子レンジメーカーを訴えた,という話であるが,このような誤使用についてまで,メーカーが責任を負うことはない。もっともこの話は良くできた都市伝説のようであるが。

そこで問題は,「メーカーが責任を負う誤使用」と「責任を負わない誤使用」の境目はどこにあるか,ということになる。この点について法律家は,「予見可能な誤使用」という言葉を使って線引きしているが,何をもって予見可能とするかがやはり問題である。一般的には,客観的に,社会通念・製造物の特性・想定されるユーザーや使用形態などを総合判断することになる。

大事なのは,予見可能性の範囲は「客観的」に区切られる,ということである。設計者が「主観的」に予見しなかった,あるいは予見しようにもできなかった,というだけでは駄目である。もう一点,誤解が蔓延しているので注意しなければならないことは,取扱説明書に禁止事項を記載すればよい,とはならない点である。メーカーは第1に,基本設計によって危険を回避する義務があり,回避しきれなかった危険のみ,取扱説明書に記載することによって責任を回避することができる。

ところで誤使用には,ミスによる誤使用と,確信犯的な誤使用がある。ミスによる誤使用は,ボタンを押し間違うという類のものであり,確信犯的な誤使用とは,わざと安全装置を解除して使用する場合などである。メーカーは,ミスによる誤使用を無くす設計をしなければならないし,確信犯的な誤使用ができない設計をしなければならない。工業用機械の中には,取扱説明書に安全装置を解除して使用する方法が記載されているものもあると聞くが,このようなことは論外である。

ユーザーの誤使用によってメーカーが責任を負う場合,メーカーは100パーセント責任を負うかと言えば,そうではない。製造物責任法上の責任にも過失相殺の考え方が適用されるので,ユーザーにも誤使用という過失がある場合には,損害はユーザーとメーカーの双方に分配されることになり,その割合で,メーカーの支払うべき賠償金額は減額されることになる。(小林)

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2007年7月 6日 (金)

ロボティクスと二つの「安全」

平成19年6月23日,関西学院大学で開催された情報通信学会大会のシンポジウムで10分ほどのプレゼンを担当しました。そのときの原稿です。

1.         本日は,「ロボティクスと二つの安全」というテーマで,法律学の見地からお話しをいたします。問題提起が主になってしまいますが,時間の許す限り,具体的な事例についてもお話ししたいと思います。

2.         アイザック・アシモフというSF作家の著名な小説「I, Robot」などに登場する「ロボット(工学)3原則」(Three Laws of Robotics)第1条の冒頭に,「ロボットは,人間に危害を加えてはならない」とあります。

3.         このロボット3原則は,次の二つの点で重要です。一つめは,ロボットがSF小説の題材でしかなかった時代から,人間に対する「安全」が最重要課題とされていた点であり,もう一つは,Lawsという原文が示すように,安全確保のためには,法律が必要とされた点です。

4.         では,ロボットの人間に対する安全を確保するための法制度は,現在,どのような状態にあるでしょうか。このことをお話しする前に,ロボットの人間に対する「安全」には二つの意味があることに注意して頂く必要があります。

5.         ひとつは,人間の身体や財産という「形あるもの」に対する安全です。もう一つは,人間の持つ情報やプライバシーという「形なきもの」に対する安全です。本日は,情報通信学会ですから,後者の安全を中心にお話ししますが,その前提として,人間の身体や財産という「形あるもの」に対する安全に関して整備されつつある法制度についてお話しします。

6.         平成19年4月,経済産業省から,「次世代ロボット安全性確保ガイドライン案」が公表されました。このガイドライン案は,次世代ロボットが社会や人間に対して多大な便益(benefit)を提供する一方,一定のリスクを有することを前提に,次世代ロボット製造者に対するリスクアセスメントの実施を定めています。このガイドライン案は,ISO12100の国際規格に依拠するものであり,いわゆるA規格に該当する抽象的な内容に留まっていますが,それでも,ロボットの安全に関するグローバルな法制度作りの第一歩と評価されます。

7.         次に,人間のもつ情報やプライバシーという「形なきもの」に対する安全に関する法律はどうなっているのでしょうか。そもそも,次世代ロボットは,プライバシー権と,どのような関係にあるのでしょうか。

8.         このスライドは,ATR(株式会社国際電気通信基礎技術研究所)知能ロボティクス研究所のホームページから引用したものであり,ネットワークロボットが人間にサービスを提供する未来予想図が描かれています。ネットワークロボットとは,文字通りネットワークにつながった次世代ロボットのことであり,その多くは,カメラや,電子タグリーダーなどのユビキタスセンサーネットワークと結合しています。そして,アンコンシャスロボットとして示された黒い箱が,監視カメラや防犯カメラと呼ばれるものと全く同じであることが示すとおり,次世代ロボットは,ユビキタスセンサーネットワークによるプライバシー権侵害のリスクを有しているのです。

9.         ユビキタスセンサーネットワークシステムがプライバシー権に対してリスクを有することは,広く国民にも認識されています。たとえば,先ほどの講演で紹介された「ひょうご情報交流戦略」の報告書には,情報通信技術の進展に伴う影の部分として国民が懸念する事項の筆頭として,「個人情報・プライバシーの保護」が指摘されています。また,総務省も,平成16年以降,プライバシー問題の重要性を度々指摘してきました。

10.     このように重要性が認識されているにもかかわらず,次世代ロボットが有するプライバシー権侵害に関するルール作りは,未だ着手されてさえいません。その原因はいくつかありますが,弁護士として指摘しておかなければならないのが,裁判例の動向です。

11.     この問題に関する裁判例は,非常に少ないのが実情であり,事案としては,公道において警察がフィルムカメラで市民を撮影したり,ビデオカメラでモニタリングしたり,ビデオ録画した事例に関する裁判例です。日本の裁判例は,公道において撮影することができるのは,「現に犯罪が起きているか,その直前または直後である」ことが必要であるとしています。この要件を現状の監視カメラ・防犯カメラに対して単純に適用すると,犯罪がおきそうもない場所にカメラを設置したり,そもそも,防犯目的でない目的でカメラを設置したりすることが許されないことになります。このような裁判例の現状というものも,ユビキタスセンサーネットワークシステムとプライバシーとの関係を規律するルール作りが進まないことの,一つの原因であると考えます。

12.     今日,ユビキタスセンサーネットワークとプライバシーや個人情報とのルール作りに関しては,日本は世界主要国の中では後進国に属すると言って過言でありません。平成19年3月に行われた国民生活審議会の会議でも,日本の制度の特異性や後進性について,厳しい発言がなされています。ユビキタスネットワークは,諸外国と情報のやりとりを行うユビキタスグローバルネットワークに直結するものであり,諸外国との法制度の違いから,ネットワークの接続を断られるということが,現実の懸念として浮上しているといえます。

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2007年7月 2日 (月)

情報通信学会シンポジウム

 平成19年6月23日,関西学院大学で第24回情報通信学会大会が開催され,そのシンポジウムにパネラーとしてお招き頂いた。シンポジウムのテーマは,「ロボティクスにおけるICTの役割」というものである。

シンポジウムの出席者は大阪大学大学院教授の浅田稔氏,ニルバーナテクノロジー代表取締役・関西学院大学理工学部教授の中津良平氏,国際レスキューシステム研究機構理事・神戸大学名誉教授の高森年氏,関西大学総合情報学部准教授の喜多千草氏と私,コメンテーターとして学習院大学法学部教授の遠藤薫氏,そして司会の大阪市立大学大学院教授の中野潔氏であった。

理工学部系3人,人文社会系3人という組み合わせで,全員,ロボティクスの進展を応援する立場で話をしたが,理系と文系のディスコミュニケーションというべきか,同じ話題であるのに話が合わない,ということを痛感する。双方同じ問題点を考えているのに,日本語で話しているにもかかわらず通訳が必要なほど違う言葉が飛び交うのだ。

シンポジウム終了後の懇親会で浅田教授,高森教授とお話しさせて頂いたが,ご両名とも欲求不満だったようで,次の機会にもっと突っ込んで議論をしたい,と言って頂いた。私も,このような機会を沢山いただいて,理系の議論と文系の議論との架け橋のような役割を果たせたらいいな,と思っている。(小林)

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