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2007年11月30日 (金)

携帯電話爆発による死亡事故?

韓国の中央日報によると,平成19年11月28日,忠清北道清原(チュンチョンブクド・チョンウォン)で33歳の作業員が携帯電話の爆発と推定される事故で死亡したとのことである。

被害者の遺体を解剖した医師等によると,直接的な死因は外部衝撃による心臓と肺の破裂,脊椎切断の3種類程度と推定され,携帯電話があった遺体の部位にやけどがあったことが分かっているが,他方,携帯電話の爆発によるものと考えるには臓器損傷の範囲があまりにも大きいという問題点も指摘されている。

携帯電話に使用されているリチウムイオン電池に関しては,小型で強力,持続力がある反面,製品不良の場合等に発火爆発する危険があることが指摘されている。次世代サービスロボットについても,現時点では,リチウムイオン電池の使用が必須である。

したがって,この事故が携帯電話のバッテリーの爆発によるものであるとすると,今後,リチウムイオン電池の使用に重大な影響を及ぼす可能性がある。このニュースの続報は注意深く見守っていく必要がある。(小林)

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2007年11月28日 (水)

若手弁護士の身分用語集

最近,「イソ弁」「ノキ弁」など,弁護士の就職問題にからんで,業界用語が報道されるので,ご参考までに整理すると,次のとおりである。

イソ弁; 「居候弁護士」の略。居候とはいえ,給料をもらうので,法的には労働者。雇い主のことを「ボス弁」という。ちなみに,大きな事務所で,複数の「ボス弁」が事務所を経営するときは,アメリカの法律事務所に倣って「パートナー」といい,これら「パートナー」に雇用される弁護士のことを「アソシエイト」と呼ぶ。

兄弁,弟弁; 「ボス弁」が複数の「イソ弁」を雇用するとき,先輩弁護士のことを「兄弁」,後輩弁護士のことを「弟弁」という。もっともこれは,弁護士の大半を男性が占めていた時代の名残であり,現在は「姉弁」「妹弁」という言い方もある。

伯父弁; 弁護士の業界は,師弟関係を家族関係になぞらえて理解するところがある。「イソ弁」が「ボス弁」の事務所から独立して,自分で事務所を構えて「イソ弁」を雇うと,そのイソ弁は,独立前の事務所の後輩弁護士から見ると,「兄の子」ということで,「伯父弁」となる。同様に,「姪弁」とか「イトコ弁」という言い方もある。このように弁護士業会が師弟関係を家族関係になぞらえるのは,一つには大きな事件を共同受任するときなどのネットワークとして意味があるからであり(逆に,利害のからむ事件を頼めないという関係もある),一つには弁護士会内の選挙のときなどに,集票ルートとして意味があるからである。

「ノキ弁」;「軒先弁護士」の略。「ボス弁」が給料を出さず,机と椅子だけを貸すという新種の関係。最近司法修習生の就職難により,「ノキ弁」が大量発生し,弁護士の将来に暗い影を落としている。

「イキ弁」;「いきなり独立弁護士」の略。東京では「即独弁護士」というらしい。しかし「即独弁護士」では,音だけを聞くと本を読む速度が非常に速い弁護士のように聞こえるから,「イキ弁」の方がよいと思う。これも,就職先が見つからず,いきなり独立する弁護士が増えた現状を反映している。「ボス弁」から仕事のやり方を教えてもらえないので,これも,弁護士の将来にとっては重大な問題になりつつある。

「宅弁」;「イキ弁」は,事務所を構える費用を出せないから,勢い,自分の自宅を事務所として登録するので「宅弁」になる確率が高い。ちなみに,高齢で事実上弁護士を引退した弁護士も,自宅を事務所として登録することが多いが,このような弁護士は「宅弁」とはいわない。(小林)

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2007年11月26日 (月)

「見守りロボット実用化へ」のニュースについて(3)

小学生にICタグを所持させ,街角のポイントを通過するたびに通過情報を親や学校に自動通知する「街角見守りロボット」の多くは,ICタグリーダのほかにカメラを備えていて,通行人を撮影している。撮影時間については,常時撮影するタイプと,ICタグを装着した児童が通過したときに撮影するタイプがあるようだ。

カメラというデバイスは,ICタグリーダと異なり,児童だけではなく,たまたまそこを通過していた一般市民を撮影する。そこで,これら一般市民を承諾無く撮影することが違法とはならないのか,が問題となる。

法律論としては,これが最も重要な論点である。例えば,最高裁判所大法廷が昭和44年に出したいわゆる「京都府学連デモ事件」判決は,憲法の講義で必ず紹介される有名な判決であるが,現行犯かこれに準じる場合にしか,公道で警察官が一般市民を撮影することを許していない。警察官がやっていけないのであれば,一般市民もやってはいけないというのが筋である。しかし,詳細はここでは述べないが,私は,結論としては,一定の条件の下で適法と認めて良いと考えている。その条件とは大まかに言って,①登下校時の子どもの安全を守るという目的であるならば,その目的を達成するために必要最低限の範囲でのみ撮影を行うこと,②撮影した画像の取扱を適正に行うこと,③責任の所在と運用方法を適正かつ明確に定め,これを公開すること,の3点である。(小林)

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2007年11月24日 (土)

安全規格を守れば次世代ロボットメーカーは法的責任を免れるか

現在,次世代ロボット研究開発にかかわる研究者は,政府機関と協同して,日本が次世代ロボットの国際安全規格策定の主導権を握るべく,日々奮闘されている。筆者も関連する政府系の会議の末席を汚しているが,素人目から見て「ここまで安全を確保しなくても大丈夫じゃないの?」という,やや不謹慎な感想を持つほど,安全性確保への希求度は高い。

このような研究者が筆者のような法律家に最初にお尋ねになる質問は,異口同音に,「ISOやJIS等の安全規格を遵守したロボットを製作すれば,万が一事故が起きても,メーカーは法的に免責されませんか?」というものだ。

残念ながら,回答はNOである。ISOやJIS等で高度の安全規格を策定し,これを遵守した次世代ロボットを製作したとしても,万一事故が起きた場合,「規格を遵守した」という一点のみをもって,メーカーが免責されることはありえない。

その理由の説明の仕方はいろいろあるが,一言で言えば,「(国際)安全規格は私的なルールに過ぎず,法律ではないから」という説明の仕方が一番妥当ではないかと,今は思っている。

次世代ロボットの使用中に万一事故が起こり,ユーザーが傷害などの損害を負った場合,メーカーの法的責任の有無を最終的に判断するのは,民事責任にせよ刑事責任にせよ,裁判所である。そして,裁判所の判断は,法律のみによって拘束され,安全規格という私的なルールには拘束されない。従って,安全規格を遵守したという事実が,裁判所を拘束することはない。単純な三段論法であるが,次世代ロボットの研究者は,一応,この説明で納得して頂けるようである。

ちなみに,裁判所が法律のみによって拘束されることの根拠は,日本国憲法76条3項に,「すべて裁判官は,…この憲法及び法律にのみ拘束される」の規定にある。この規定は,民主主義と三権分立(立憲主義)という,憲法の基本思想にかかわるものであり,今話題になっている9条よりもある意味重要な規定であって,仮に9条が改正されることがあっても,76条3項が改正されることはない,といえるほど重要な規定である。

ではなぜ裁判所は法律のみによって拘束され,私的な安全規格には(例えそれが国際会議で策定されたものであっても)拘束されないのか,というと,法律は国民全体の代表者である国会議員によって構成される国会が作ったものであり,その過程にはメーカーやユーザー,言い換えれば潜在的な加害者や被害者,さまざまな利害関係者の意見が手続上反映されているからだ。逆に,安全規格は,いかに策定者がユーザーの利益を考慮して策定したと主張したとしても,ユーザーの意見が手続上反映したとはみなされない。これは社会契約なり,民主主義の基本原理とかかわることなので,興味のある方は法哲学など,その方面の書物を読んでみてください。

それでは,安全規格の遵守が裁判に全く影響を及ぼさないかというと,そうでもない。第一に,メーカーが安全規格を遵守していなければ,法的責任が認められない可能性は飛躍的に高まる。その意味で,安全規格を遵守することは,メーカーにとって,法的責任を免れるための必要条件である。第2に,安全規格を遵守していれば,法的責任は認められても,その程度が軽くなる可能性が高くなる。この意味で,安全規格を遵守することは,メーカーにとって,法的責任を免れるための「十分」条件ではないが,「7分か8分」くらいの条件になりうる。だから,メーカーは,安全規格を遵守する必要があるし,また,遵守するメリットもある,ということになる。(小林)

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2007年11月22日 (木)

「見守りロボット実用化へ」のニュースについて(2)

子どもにICタグを持たせて登下校の位置情報を把握し親に通知する「街角見守りシステム」に対して,エンパワメント・センター主宰の森田ゆり氏は大反対の立場である。この問題は,法律的には,登下校時の行動・位置情報という子どものプライバシー権の問題として検討することができる。

「子どものプライバシー権だって?親が承諾しているのだから問題ないだろう。そもそも子どもにプライバシー権などあるのか?」と思われるかもしれない。確かに,親には子どもの権利や利益を処分する権限がある。しかし,親だからといって処分できない権利もある。例えば生命がそうだ。

それでは本件の場合問題になる子どものプライバシー権とは具体的に何か。語弊をおそれずに言えば,それは「道草の権利」とでも言うべきものである。「道草は権利なのか?」と思われるかもしれない。道草は子ども権利である。それは子どもにとって,とても重要なものだ。

道草をするのは,子どもの本能といってよい。子どもは,道草をする中で,いろいろなことを学ぶ。親の言いつけを破ったり,親の目を盗んで行動したりすることも,子どもの成長過程に不可欠の経験である。

もちろん,親は子どもに道草を禁じることができるし,道草を発見したら叱ることができる。これは親の権利でもあるし,義務でもある。しかし,親が子どもに道草を禁じることと,情報デバイスを通じて子どもの位置を把握し,道草の有無を常時チェックすることとは話が別だ。森田ゆり氏は,街角見守りシステムが子どもの成長過程に重大な悪影響を及ぼすとして,これに反対しているのである。

法律的にはどのように考えるべきだろうか。確かに,子どもには道草の権利と呼ぶべき重要な利益があることは認められよう。しかし,この権利も他の利益や必要性との調整が必要なときもある。街角見守りロボットの場合,問題となるのは子どもの安全という重要な利益であり,しかも,小学生には身の安全を守る能力が乏しいことや,塾や核家族・共働き夫婦の増加により,子どもが単独で行動したり夜間外出したりすることが増えているのも事実である。また,かつて存在した地域の力が,現代の多くの街で弱くなっていることも事実であろう。そうであるとすれば,小学生レベルの子どもについて,街角見守りシステムを導入することもやむを得ないと考える。

もちろんこれは法律論であり,「適法か,違法か」レベルの問題だ。「妥当か,妥当でないか」というレベルの問題は,教育のあり方を含め,別の議論が必要である。(小林)


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2007年11月20日 (火)

「ザ・インタープリター」を見て(DVD鑑賞)

国連総会の通訳をしているシルヴィアは,偶然,アフリカのマトバ共和国大統領暗殺計画を聞く。しかし,捜査を開始したシークレットサービスのケラーは,シルヴィアには家族を大統領に爆殺された過去があることを知る。シルヴィアには大統領を殺害する動機さえあるのだ。問いつめられたシルヴィアは,「溺れる男の裁き(Drowning Man Trial)」とよばれるマトバの風習を説く。それは,殺人犯の手足を縛って川に放り込み,溺れさせるか救助するかを遺族の選択に委ねるというものだ。「溺れさせれば,遺族は正義を手にするが,悲しみは一生癒されない。しかし,正義ばかりではないという人生の現実を受け入れて犯人を救助すれば,悲しみが癒される(if the family lets the killer drown, they’ll have justice but spend the rest of their lives in mourning. But if they save him, if they admit that life isn’t always just, that very act can take away their sorrow.)」。シルヴィアは,「復讐心は悲しみの最も愚かな産物だ」と言い,大統領への殺意を否認する。これに対して,その2週間前に妻が間男とともに交通事故死したため,憤りの矛先を無くしていたシークレットサービスのケラーは,「俺なら犯人の頭を押さえつけて溺れさせるよ。」と気弱く言い返す。

私が愛読する「映画瓦版」氏は,「この映画はアメリカという現代の覇権国家がその中心に抱え込んだ,国連という厄介な異物こそが大きなテーマになっている」というが,これは的はずれだろう。映画の主旨は,国連と並んでニューヨークを代表していたWTCビルディングが9.11テロによって崩壊した後のアメリカに,「敵に復讐するのでも,敵を赦すのでもない,敵を救済するという選択肢もある」という提案をしたことにある。「敵を赦す」ことを説く思想は珍しくないだろうが,積極的に「敵を救済する」ことまで説く思想や宗教はあるのだろうか。この映画がアフリカの架空の国を持ってきた理由は,このあたりにあるかもしれない。

もちろん,敵を救済すれば魂の安楽が得られる,という甘々の結論を,映画は慎重に排除している。映画の後半でシルヴィアは復讐心を再燃させ,逆にケラーは救済を説く。二人の感情は螺旋を描くようにもつれ合い,最後にはお互いを理解するが,結局救済は訪れない。しかし,河畔に佇むケラーの背後に広がるマンハッタン島は夕日を浴びて暖かく輝いている。これは,同じくラストシーンの背景にマンハッタン島を据えながら,悲劇的な未来を暗示した「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ監督)に対する,同じユダヤ人監督であるシドニー・ポラック監督なりの対案なのだろう。

テレビの2時間ドラマばりの安直な解決や,脚本の弱さ,なにより,ニコールキッドマンが美しすぎてテーマから浮いてしまうことなど,欠点の多い映画であるが,それでも,9.11後のアメリカに対して,「敵に復讐するのでも,敵を赦すのでもなく,敵を救済するという選択肢もある」ことを説いたという意味において,この映画は記憶されるべきだと思う。(小林)

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2007年11月18日 (日)

「見守りロボット実用化へ」のニュースについて(1)

平成19年11月9日の毎日新聞朝刊「くらしナビ」に,大阪市立中央小学校で実用化が始まった「街角見守りロボット」が紹介されていた。記事はおおむね「見守りロボット」に好意的であり,今後の課題として,維持費や地域との連携の重要性を指摘している。

もちろん,このシステムに対する意見は好意的なものばかりではない。私の知る限り,エンパワメント・センター主宰の森田ゆり氏は大反対の立場である。同氏は小さな子どもの母親であり,しかも池田小学校事件の起きた大阪府池田市のご近所にお住まいとのことであるから,それでもなおこのシステムに反対することについては,それなりの覚悟をお持ちであろう。また,大阪大学の日比野愛子氏らは,「IC タグによる「子ども見守り」システム―監視社会の情報技術―」と題した論文を発表し,主として監視社会という切り口から,子どもの見守りシステムを検証している。

しかし,これらの議論をプライバシー権という法律的な視点から見るときは,問題点が適切に切り分けられていないため,論点が混乱しているように思われる。適切な切り分けのためには,まず,ICタグリーダとカメラというデバイスの違いに着目することが必要だ。

ICタグリーダは,対応するICタグを装着する子どもの行動を把握するから,このデバイスに関しては,登下校時の位置情報という,子どものプライバシー権が問題となる。

カメラに関しては,対象となる子ども以外の第三者(一般の通行人)が撮影されてしまうため,この第三者のプライバシー権との関係で問題が発生する。

そして第三の問題として,カメラに撮影される子どもの画像を,その子の親以外の第三者が見ることの可否がある。意外に思われるかもしれないが,「街角見守りシステム」を導入する際,全面的に賛成する親御さんも,自分の子どもの画像がほかの親御さんに見られることには,抵抗を示す場合があるのだ。

これら3つの問題は,それぞれ異なる論点であるから,法律上の問題を検討するにあたっては,これらを区別することが必要だ。(小林)

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2007年11月16日 (金)

「弁護士大幅増員反対」は「弁護士のエゴ」か?

日本経済新聞平成19年11月15日朝刊「試される司法」は,同紙としては久しぶりに,弁護士増員反対に対してやや批判的な記事を掲載した。すでに指摘したとおり,司法修習生の就職難が社会問題になったのち,日本経済新聞の論調はやや日和見的になっていたが,11月4日の社説で鳩山法務大臣の発言を批判したことに続き,弁護士増員賛成の方向に再び舵を切ったのかもしれない。

確かに,筆者の小さなアンテナにも,「国会議員の中で弁護士増員に表だって反対しているのは鳩山法務大臣だけで,従来司法改革に携わっている議員の大多数は3000人反対などとんでもない立場だ」というような情報が入ってきている。鳩山法務大臣も,「友人の友人がアルカイダ」とか,「死刑の自動執行」とか,その内容の是非はともかく,言い方に品のない発言が続いたため,回りの賛同を得られなくなっている可能性がある。

ところで,上記「試される司法」の記事で増員に反対する弁護士(会)に対する批判は,島根大法科大学院の三宅孝之教授の「法曹人口の拡大や地方進出を阻む『弁護士のエゴ』に厳しい視線を向ける。」という発言を借りて行われている。筆者として,弁護士増員の是非について本稿で論じるつもりはないが,この発言に対しては,次の2点で不愉快に思う。

第一点は,発言者である島根大学法科大学院三宅孝之教授の立場である。平成18年度の新司法試験合格者を見ると,島根大学は合格者が一人しかいない。受験したのも一人なので,合格率は100パーセントで全国堂々1位だが,これは受かりそうもない学生に受験させなかったのではないか。まさか1学年で学生が一人ということもあるまい。いずれにせよ確かなことは,このままの合格者数では,島根大学法科大学院は消滅する運命にあり(だって教授の給料だけでも,絶対ペイしないからね),三宅教授の立場からすれば,合格ラインを下げて合格者を増やしてもらう必要がある。つまり,合格者増反対が「弁護士のエゴ」なら,三宅教授の発言は「法科大学院のエゴ」であり,公平な目で見て,「お互い様」でしかない。そもそも,受験資格のある学生がほかにいたとするなら,法科大学院のメンツを保つために受験させないことは法科大学院のエゴ以外の何者でもない。

第二点は,三宅教授の発言が「法科大学院のエゴ」である点はさておいても,合格者増に反対する弁護士の動機が「エゴ」にあるのかどうか,という点だ。「エゴ」という言葉の辞書的な意味はともかく,この発言には「弁護士が弁護士増に反対するのは既得権益を守りたいからだろう」というニュアンスがある。筆者はこの認識は間違いであると思う。正確に言い直せば,弁護士になって20年目程度の若手・中堅と呼ばれる弁護士の立場からすれば,この認識は間違いだと思う。これらの弁護士の多くにとって増員問題は既得権益の問題ではなく,生活の問題なのだ。既得権益の問題であるならば,司法改革という「理念」によって克服することも可能であろうが,生活の問題は,理念で克服することはできない。「武士は喰わねど高楊枝」という諺もあるが,「衣食足りて礼節を知る」という諺もある。生活の危機を感じている弁護士に理念を説いても,受け入れられることはない。

大阪では,弁護士になって2,3年目(年齢にして30歳前後)の弁護士の給料は,月額手取りで30万円前後である。これ以外に国選弁護事件がまるまる自分の収入になれば(そうならない事務所も多い),1件当たり7万円前後だ(時間給に引き直せば数千円だが)。10年目以上の弁護士の生活だって,そんなに豊かではない。もちろん,死ぬか生きるかというレベルではないが,事務所を維持するのがやっと,という弁護士が大多数だと思う。これが既得権益だろうか。少なくとも可処分所得と将来の安定度を比較すれば,日本経済新聞の担当記者諸氏の方が,よほど既得権益に漬かっているはずだ。

弁護士の業界にも自由競争原理をとは,今どき,耳になじみやすい言葉だ。しかし,事務所の生き残りに汲々として,事務員のボーナスが支払えるかどうか心配しなければいけないような弁護士が,困っている人やお金のない人のために働くだろうか。今年の大阪弁護士会の新入会員は200名くらいいたはずだが,先日聞いた話では,弁護士会の人権委員会に加入した新入会員はゼロだった。人権委員会は,社会の最底辺の人たちのために,ほとんどボランティアで,地味で厳しい仕事に日々取り組んでいる。このような委員会に全く人気がないということは,新人弁護士に,「人権活動などやっている余裕はない」という考えが浸透してきたことを意味する。新聞記者が空虚な「理念」を説いているうちに,もっと大きな「理念」が失われつつある。

弁護士増を主張することは結構だ。しかし,これに反対する弁護士に「エゴ」というレッテルを貼ることはやめて欲しい。少なくともそれは,議論をすれ違いにしてしまう。(小林)

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2007年11月15日 (木)

山田洋行元専務,宮崎元伸氏の「横領罪」逮捕と検察庁の狙いは?

先日テレビのニュースを見ていたら,日本ミライズ社に捜索に入る東京地検特捜部ご一行様の先頭に,司法研修所同クラスの男がいてびっくりした。そういえば,村上ファンド代表者,村上世彰氏の公判立会検事も同期の友人であった。どちらの検事の結婚披露宴にも私は友人として出席させて頂いた…って,自慢にもならないか。特捜検事は検事になって15年になる今頃が働き盛りなのかもしれない。友人の検事らの奮闘と活躍を期待します。

とはいえ,弁護士の立場から見ると,宮崎元伸氏の横領罪云々については,報道されている範囲のその一部しか知らないが,やや疑問に思う点もある。

報道によれば,宮崎元伸氏は山田洋行の重役として,20年前から守屋氏をはじめ複数の防衛庁幹部を接待漬けにしたそうである。そして山田洋行は,後発の中小商社でありながら,防衛庁出入り業者としてめざましい躍進を遂げた。山田洋行の躍進と接待が無関係と考える人は誰もいないだろうし,公訴時効の問題など,立証上の困難を別にすれば,賄賂に当たると疑われて当然だろう。

問題は,山田洋行が20年前から防衛庁幹部を接待漬けにした資金は,どのように捻出されたかということである。これは想像だが,今回宮崎氏について報道されているのと同様の工作によって「裏金」が捻出され,これが接待に使用されたと思われる。そうだとすれば,宮崎氏の「悪事」として報道されている事実のうち,「裏金」の捻出それ自体は山田洋行も了承済のことであったことになる。ただ,捻出した「裏金」を,宮崎氏が山田洋行のためではなく,日本ミライズの利益のために使用した,という1点が,山田洋行からすれば「裏切り」にあたることになり,東京地検はこれを「業務上横領」ととらえて強制捜査に踏み切ったことになる。言い換えれば,宮崎氏は裏金を山田洋行の利益のために守屋氏の接待に使えば今回逮捕されなかったのに,日本ミライズの利益のために使ったから逮捕された,ということだ。

法理論的には,たしかにこれは業務上横領だろう。しかし,たとえは悪いがマフィアの会計係がヤミの資金を横領したようなものであり(映画でいうと,「リーサルウェポン2」や「ミッドナイトラン」に,マフィアのマネロン用の裏金を横領して命を狙われる会計係が出てきますね),このような場合の会計係にどの程度の実質的な可罰性があるかは疑問である。日本国民にとって重要なのは,一企業の元専務が会社の裏金を横領したか否かではなく,その企業と防衛庁との間に「黒い癒着」があったか否かであろう。

このように考えてくると,今回宮崎専務が逮捕されたことにより,検察庁の狙いが透けて見えてくるような気がする。

今回宮崎元専務が「業務上横領」罪で逮捕されたことにより,山田洋行は,純粋の「被害者」として,一連の刑事手続に登場することになる。このことは,裏を返せば,山田洋行は,それ以前の裏金作りとその使途についてはお咎めを受けないことを条件に,「被害者」として検察庁に協力するとの約束がなされたことを意味する。これを検察庁の側から言い換えれば,検察庁は,山田洋行が従来行ってきた防衛庁幹部への「賄賂」疑惑を不問に付すかわりに,宮崎・守屋ルートの解明に協力するとの約束を,山田洋行から取り付けたことになる。

この想像が的を射ているとすれば,今回の「守屋事件」は,宮崎元専務と守屋元次官という個人間の贈収賄事件に矮小化されて「それ以上」には行かず,「山田洋行」と「防衛庁」という組織間の贈収賄事件や,「山田洋行」と「防衛族の政治家」という疑獄事件には発展しない可能性が高い。一時,久馬前防衛大臣を始め,歴代防衛庁長官となった政治家の名前が取りざたされたが,現在この手の報道が終息していることも,私の悲観的な予想を裏付けている気がする。本件が「山田洋行」と「防衛庁」という組織間の贈収賄事件や,政治家を巻き込んだ大事件に発展するためには,宮崎元専務は「山田洋行の専務として」「守屋氏に贈賄した」容疑で逮捕立件されることが必要であるし,その場合,山田洋行の社長も逮捕を免れないであろう。逆に言えば,「山田洋行の専務としての贈賄罪」(「日本ミライズの社長としての贈賄罪」ではダメ)で宮崎元専務が再逮捕されるか否かが,本件が「第2のロッキード事件」に化けるか否かのポイントになると思う。(小林)

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2007年11月14日 (水)

装着型全方位ステレオ監視システムについて

大阪大学の八木康史教授が,「装着型全方位ステレオ監視システム」の研究をしておられる。これは要するに,路上に監視カメラを多数設置しても,死角は完全になくならないし,郊外など,監視カメラが設置されていない地域も残る。そこで,全方位監視カメラを個人個人が装着したらどうか,というアイデアに基づく研究であり,具体的イメージが動画で紹介されている。面白いので,是非ご覧下さい。

私の感想は,正直言って,「なんだかなあ」である。素人めいた感想にはなるが,できる限り法律家としての視点を保ちつつ,述べてみたい。

監視カメラ(防犯カメラ)の機能は大きく分けて二つある。一つは,犯罪を抑止する機能であり,二つ目は,犯罪を記録する機能である。この二つの機能は密接に関連している。つまり,防犯カメラは,犯罪を記録するからこそ,犯罪を抑止することができる。

そして,犯罪を抑止する機能は,そこに防犯カメラがあるということが表明されていなければならない。したがって,防犯カメラに犯罪抑止機能を発揮させるためには,「防犯カメラ撮影中」と目立つように表示させるか,または,カメラそれ自体を目立たせる必要がある。いずれにしても,「目立つ」ことが必要だ。そしてこの必要性は,ファッション性と真正面から対立する。ファッション性という観点からすれば,正直言って,このような監視カメラを頭のてっぺんに装着して市民が街を歩く時代が来るとは思えない。八木教授は,「研究者は携帯監視(技術)の確立に専念し,あとは,工業デザイナのセンスに期待するところである」(セキュリティ産業新聞546号)と述べておられるが,それは期待が過ぎるというものではないか。

次に,防犯カメラの犯罪記録機能についてである。この装置がどうやって影像を記録するかは不明だが,装着する個人が記録するか,無線LAN等の電波技術を使って影像をネットワークに飛ばして記録するかのいずれかであろう。しかし,前者(装着者本人が記録する場合)であるなら,犯罪者は犯罪遂行の前後に記録媒体を破壊すればよいのだから,防犯カメラの犯罪記録効果は無に帰する。これは同時に,犯罪抑止効果も無に帰するということである。また,後者(ネットワーク経由で影像を記録する場合)であるなら,電波が届かない場所では犯罪記録機能も,抑止機能も失われる,ということになる。つまり,郊外やトンネル・地下通路内では意味がない,ということだ。これでは,八木教授の当初の提案における問題解決にならない。

いうまでもなく,私が研究課題にしているプライバシー権との関係も大いに問題である。この「携帯する監視カメラ」は,公共の場所だけでなく,あらゆるプライベートな場所に携行することが可能であるから,盗撮カメラとして悪用する人間が必ず出てくるであろう。

というわけで,装着型全方位ステレオ監視システムについては,「なんだかなあ」と思う次第である。

もっとも,この記事を読みながら,私なりのアイデアが浮かんだので,技術者の方に研究して頂ければと思う。

私のアイデアは,「ライフレコーダー」というものだ。これは,最近のタクシーなどに装着されている「ドライブレコーダー」の「ドライブ」を「ライフ」に置き換えたものであり,その機能も「ドライブレコーダー」に似ている。その実体は数㎝×数㎜のチップであり,個人の頭蓋骨に埋め込んで,視神経と聴覚神経に接続しておく。このライフレコーダーは常時データを記録しつつ,上書き消去していくが,埋め込まれた個人の生命反応が消失した場合や,一定以上の重力加速度が記録された場合には,直近30秒間の視覚・聴覚記録を保存する,というものだ。つまり,死体の頭蓋骨からライフレコーダーを取り出して専用の機器で再生すると,その人が死亡する30秒前の画像と音声が再生される仕組みである。

馬鹿馬鹿しいですか?技術的・医学的には現時点では無理かもしれないが,実用性という点からすれば,八木教授の研究に比肩すると思うし,プライバシー権との関係でも問題はないのだが。少なくとも,SFミステリー小説や映画の題材にはなると思うので,どなたかこのアイデアを使ってください。私の名前をクレジットして頂ければ,アイデア料はいただきません。(小林)

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2007年11月10日 (土)

修習期は個人情報か

法曹界と芸能界には共通点が一つある。それは,年齢が上ではなく,業界経験年数が長い方が「エライ」という点だ。その業界経験年数を測る物差しを,法曹界では「修習期」という。この修習期とは,昭和22年,つまり戦後新たに発足した最高裁判所司法研修所の修習を終了した順につけられている。つまり戦後初の司法修習生が「1期」であり,私は平成4年修習終了の「44期」だ。現在は司法改革の端境期であり,一年に二つの司法修習が平行して行われているため,司法改革前の制度で修習した方を「旧60期」,新司法試験に合格した方を「新60期」という。「新」「旧」つけて区別してもややこしいと思わないほど,修習期の概念は法曹界に定着している。

修習期の便利な点はいくつかある。その一つはもちろん,修習期を聞いただけで,その人の法曹界での経験年数が簡単に分かる点だ。また,修習期の割に年齢が極端に若ければ相当優秀であるとか,その逆であれば司法試験でかなり苦労したか,あるいは他の職業経験があるな,ということが想像できる。そして,大変重宝することには,見ず知らずの相手でも,修習期を聞けば,共通の知り合いを容易に捜し出すことができる。「先生は何期ですか?」「○期です。」「それなら○○君をご存じではないですか。彼とはよく飲みに行くのですが」「○○君ならよく知っていますよ,研修所で同じクラスでした。よろしく伝えてください」という塩梅である。弁護士同士,共通の知り合いがいれば,一定の信頼関係ができるから,たとえ訴訟上敵同士でも,あまり下品な手は使わなくなるし,事件の妥当な解決点を捜すという作業もやりやすくなる。このように,修習期は,法曹界では大いに重宝される情報である。一般市民の方も,修習期を知ることにより,最低限,その弁護士の経験年数を知ることができる。

ところが最近,弁護士会内部では,修習期の情報は個人情報保護法上の個人情報に該当するから,本人の承諾なくして公開するべきではない,という意見が通説となっている。実際,日弁連のホームページでは,修習期の表示がなされていない。本来,既に述べたとおり修習期は市民に対して,弁護士の経験年数という重要な情報を示すものであり,また,弁護士同士においても,一定の信頼関係を構築するために重要な情報であって,当然,公開されるべきものである。しかし,「個人情報とは,…当該情報に含まれる氏名,生年月日その他の記述などにより特定の個人を識別することができるもの」という個人情報保護法上の定義からすれば,修習期も文言上,個人情報に該当すると解釈するのが素直ではある。だからといって,修習期情報を非公開とすることを,弁護士会は漫然と受け入れてよいのだろうか。個人情報保護法が悪いのか,弁護士会が硬直しすぎているのか,いずれにせよ,馬鹿げた話であると思う。(小林)

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2007年11月 6日 (火)

ニューヨークのタクシー運転手のプライバシー感覚について

U. S. Front Lineのウェブニュースによると,ニューヨーク・タクシー労働者同盟が,全車両にGPS端末の搭載を義務づける市の計画に反対してストライキを行ったという。反対の理由として,運転手らは,居場所が特定される「プライバシーの侵害」や,導入に伴う経費の負担増に反発している,とのことである。

個人タクシーならともかく,タクシー会社の従業員であるタクシー運転手が,何故経費負担増に反対するのか,よく分からないが,それは取りあえず措いておく。ここで問題としたいのは,「プライバシーの侵害」という反対理由だ。

日本人の感覚としては,おそらく,タクシーにGPS端末を搭載することが,なぜ運転手の「プライバシーの侵害」になるのか,理解できないと思う。私も理解できない。効率的な配車のためには各タクシーの位置を会社が把握することは重要であるし,その手段としてタクシーにGPSを搭載するというのも有効な方法であろう。タクシーの運転手には,会社との雇用契約上,就業中の自分の位置情報を会社に通知する義務があると考えて良いと思う。もっとも,ニューヨークのタクシーには日本のような配車のシステムがなく,100%「流し」で営業しているのかもしれないが。

しかし,本稿で指摘したいのは,GPSの搭載が運転手の「プライバシーの侵害」になるという主張が正しいか否か,ではない。このような主張が堂々となされるという,運転手(というよりアメリカ人)のプライバシー感覚である。「GPS搭載はタクシー運転手のプライバシーを侵害する」という主張が,「ハァ?何言ってんだお前。ねぼけとるんちゃうか?」という箸にも棒にもかからないレベルではなく,(結果的に少数かもしれないが)それなりに支持されるレベルで成立する,というアメリカ人の感覚を,指摘しておきたいのだ。

一般的には,アメリカ人のプライバシー情報に関する権利意識は,日本人のそれより低いと言われている。街頭防犯カメラに対する人権意識も日本人より低いと言われるし,社会保障番号をたよりにネットで検索すると,その人の職歴や資産等のプライベートの事項が分かると言われているし,このような情報を売買する産業も成立している。しかし,そのような一般論が必ずしも常に妥当するわけではない,つまり,プライバシー情報に関する権利意識について,アメリカ人が常に日本人より低いわけではない,ということをこのニュースは教えてくれる。(小林)

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2007年11月 4日 (日)

第50回日弁連人権擁護大会シンポジウム

平成19年11月1日,日弁連が浜松市「アクトシティ浜松」で開催した人権擁護大会シンポジウムの第1分科会「市民の自由と安全を考える」を聴講した。人権派とは言い難い私であるが,監視カメラやネットワークカメラの問題を専攻する以上,現時点における日弁連の到達点を知る必要があると思い,はるばる浜松まで出張した次第である。シンポジウムには弁護士のほか報道記者や一般市民,学生など,800人を超える出席者があり,盛況であった。

シンポジウムの前半は600ページ近くに及ぶ基調報告書の紹介と寸劇,後半は監視社会の問題に取り組む国内外の著名人によるパネルディスカッションだった。パネラーは大谷美紀子弁護士木下智史関西大学教授,フリージャーナリストの斎藤貴男氏,田島泰彦上智大学教授,浜井浩一龍谷大学教授,エンパワメント・センター主宰の森田ゆり氏,そして米自由人権協会共同代表を務めたバリー・スタインハード氏であった。バリー氏は「1992年から2002年まで、米自由人権協会(American Civil Liberties Union: ACLU)の共同代表を務め、2002年からテクノロジーと自由に関するプログラム部長を務めている。1990年代後半から2000年頃、米国におけるインターネット盗聴捜査の拡大に反対して活動してきた。現在の関心は、反テロ愛国法の成立にともなう、個人情報の国家による一元管理と監視システム問題など。NSA(国家安全保障局)が主導する、全世界の大量の通信を傍受するスパイ・システム「エシュロン」の存在を明らかにした人物としても有名」だそうである。もっとも,出席者が多すぎて掘り下げが足りず,後半全体としてはやや欲求不満の内容となった。

さてシンポジウムの前半に戻るが,まずは長大かつ詳細にわたる基調報告書をまとめ上げたスタッフに敬意を表したい。しかし,内容が多岐にわたりすぎたせいか,全体として散漫になったという印象をぬぐえない。

まず,シンポジウムの副題を「9.11以降の時代と監視社会」とする以上,9.11同時多発テロが国家や社会にもたらした変化に主題を絞るべきであった。9.11以降に発生した人権侵害事例や監視社会化の兆候といえども,全てが9.11の影響を受けて発生したものではないだろう。そうである以上,今回取り上げる事例は,9.11の影響を強く受けたものに限定するべきである。ところが,シンポジウムでは,公安警察が青年法律家協会の総会に参加するため宿泊したホテルに宿泊者名簿の提出を求めた事件が紹介された。けしからん話であることは分かるが,このような事例は数十年前から繰り返されてきたはずであって,9.11と直接の関係があるとは思えない。どうせ紹介するなら,例えば自衛隊情報保全隊が自衛隊イラク派遣に反対する集会をスパイしていた事件などが,9.11による監視社会化を象徴する事件として紹介に値しよう。

また,9.11以降の監視社会化を,国家権力対市民という,いかにも左翼の伝統的思考様式にあてはめてしまったことも感心しない。パネラーの中では唯一斎藤貴男氏が「現代の監視社会化は国家権力のみならず,商業的圧力によって推進されている」と指摘したが,他の出席者の反応はほぼゼロであった。さらに,現代監視社会化の基盤にある情報テクノロジーの高度化に全く触れられなかったことも残念である。私の理解によれば,現代の監視社会化は,いうまでもなく9.11以前から進行していたが,主としてこれを支えたのは高度に発達しつつある情報テクノロジーであって,9.11はかかる意味での情報テクノロジーの商業的価値を瞬時に開花させたものである。つまり,9.11以降の時代と監視社会の問題は,市民が高度に発達しつつある情報テクノロジーとどのように向き合うかという問題であり,この問題はユビキタス社会との関係性とも通底する,近未来社会の最重要課題である。この点に全く触れないでは,9.11以降の監視社会化を論じる意味はないと言って過言でない。その理由は長くなるので省略するが,一言で言うならば,テクノロジーこそ,人類にとって「エデンの園のリンゴ」だからである。

最後に,私が専門とする監視カメラの問題について触れておくと,その内容が2004年に九州弁護士会連合会が開催したシンポジウムから一歩も進化していなかった点も残念であった。監視社会化を支える情報テクノロジーの驚異的な進行速度に照らせば,この3年間の研究が全く進化も深化もしなかったことは致命傷に近い。商店街や公共施設に設置されている監視カメラは原則として違法というのが主宰する弁護士の立場であるならば,弁護士である以上,自分で裁判を起こして違法な監視カメラの撤去を求めるくらいの気概を持つべきであろうし,裁判の中でこそ,研究が進化するという面もあろう。このシンポジウムは政治集会ではなく,法律実務家の主催する集会なのだから。

以上,監視社会問題に対する日弁連の到達点を知るという趣旨で出席した日弁連人権擁護大会であったが,その内容は必ずしも満足できるレベルではなかったと言わざるを得ない。私と立場は違うが,彼らにも彼らの信念に基づく一層の努力を期待したい。(小林)

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