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2008年3月 5日 (水)

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(5)~

概ね以上のような内容を持つ「法曹一元」という理想であったが,この理想が,かつて2度「死んだ」ことは,年長の弁護士にとっては,日本がかつて戦争で負けたことくらいの常識に属する。

明治31年,植村俊平弁護士が「将来は判事の数を減らして新任の判事は必ず弁護士より採用すること」を唱えたのが,法曹一元論の始まりとされている。

法曹一元論は弁護士会も唱えるところとなって立法活動が開始され,法曹一元化法案が昭和13年,14年,15年にそれぞれ国会に上程され,衆議院で可決されたが,いずれも貴族院で廃案となった。記録によれば,弁護士に限らず,時の法学者や裁判官も,法曹一元の理念を支持していたという。日本経済聯盟(今の経団連のようなものか?)も法曹一元を望む意見書を出した。日本史的には,当時の法曹一元論は大正デモクラシーの一内容と位置づけられるのだと思う。

太平洋戦争により,法曹一元論は一度中断するが,終戦の年である194511月,司法省に司法制度改正審議会が設置され,法曹一元が検討の俎上にのぼったが見送りとなった(法曹一元論一度目の死)。しかし弁護士会は法曹一元論を諦めず,運動を継続した結果,1962年,臨時司法制度調査会(臨司)が法曹一元を重要な検討課題とする。しかし結局,「法曹一元の制度は,これが円滑に実現されるならば,我が国においても一つの望ましい制度である。しかし,この制度が実現されるための基盤となる諸条件は,未だに整備されていない。」と結論づけ,法曹一元論を再び棚上げした(法曹一元論の二度目の死)。これは,弁護士会内で,「法曹一元葬式論」と評価された。(以上,坪井明典毎日新聞論説委員「法曹一元に関する戦前の取り組みから学ぶもの」(自由と正義513号 2000)の要約)

この棚上げにより,法曹一元論は挫折体験として弁護士会に語り継がれることになる。その後法曹一元論は弁護士会の「悲願」となり,総会決議などで折に触れ言及されつつ,実現の時を待っていた。

そして1997年ころ,突如,法曹一元論は復活の産声を上げる。1998年と2000年に開始された司法シンポジウムは連続して(司法シンポジウムは隔年で開催される)法曹一元を主要テーマに取り上げ,「自由と正義」は2000年の1月号で法曹一元の特集号を発行した。法曹一元は各単位会でも議論の対象となり,京都弁護士会が発行した「法曹一元 市民のための司法を目指して」を始め,各地の弁護士会が法曹一元を論じた冊子を発行した。

以上,戦前戦後を通じて3度目の復活をした法曹一元論が,2000年の臨時総会決議に結実したのである。その結果法曹一元は実現することとなったのであろうか。

前述した坪井明典氏は論考の中でこう述べている。「臨司意見書は,弁護士会がしつこく繰り返す法曹一元論に終止符を打つために,お葬式を出したのだ。『一つの理想』という言葉は,お葬式の供花に過ぎない。これでもう,化けて出てこないというつもりだった。(中略)『二度あることは三度ある』ともいう。今回棚上げされれば,今度こそ法曹一元に本当に葬式を出すことになる。二度と化けてでることもできない状況に陥りかねない。」

法曹一元論に,三度目の葬式は出たのだろうか。(小林)

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