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2008年4月22日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(3)

法科大学院構想は,1997年(平成9年)1111日に産声を上げた。そのきっかけはどこにあったのだろう。

話は1988年(昭和63年)まで遡る。日本最難関といわれた司法試験は,合格者の高齢化と,裁判官・検察官志望者不足という問題点を抱えていた。同年,法務省と最高裁は,いわゆる丙案(3割程度の若年受験者にゲタを履かせて優遇する案)を支持する。これに対して日弁連は,司法修習の理念である公平性と平等性に反するとして強硬に反対し,対案として1990年(平成2年),合格者年700人の単純増員を提案する。この対立は1990年(平成4年)1016日,1992年から5年間,年700人の単純増員を実施し,若年合格者の合格状況などを見た後,一定の条件が満たされなければ丙案を導入するという妥協が成立する。しかしこの条件が満たされる可能性は低く,丙案実施は不可避と予想されていた。

一方,法曹三者間の上記「コップの中の戦争」は,コップ外の政府や財界などから規制改革問題と認識され,先進諸国に比べ圧倒的に少ないとされる法曹人口の大幅増員が主張される。そのため日弁連は,丙案を巡る法務省・最高裁との攻防と,法曹人口大幅増員を主張する政府財界との攻防の二正面作戦を余儀なくされる。

日弁連は1994年(平成6年)1221日,丙案回避とともに,司法試験合格者数を,今後5年間年800人を限度にする,と決議するが,この決議は弁護士会の業界エゴだとする猛烈な批判を浴び,翌1995年(平成7年)112日,前年の決議を撤回して,1999年(平成11年)以降の合格者数1000人容認,修習期間2年間堅持,丙案回避の基本方針を決定する。しかし決定の十日後,司法改革協議会は司法試験合格者数1500人を多数意見として採用し,日弁連の主張は少数意見に留まった。しかも,19951211日,司法試験管理委員会は丙案実施を決定する。(以上 岩井重一「司法試験・法曹養成制度改革の経緯と概要」(自由と正義491号))

その後の法曹三者協議の結果を受け,19971015日,日弁連は1998年から合格者を年1000人,修習期間の16ヶ月への短縮を認めるとともに,将来の司法試験合格者数を年1500人とすることも事実上容認すると,執行部方針を変更し,1028日,法曹三者協議会でも,合格者1000人,修習期間16ヶ月が決定される。

このように,法曹人口論における日弁連は,1990年以降,700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退していった。日弁連は,法務省や最高裁に比べて極端に意思決定が遅く,三者協議の場から日弁連に持ち帰って検討を重ね,会内合意を得るころには後手に回ることを繰り返した(この経緯は,自由と正義19993月号「法曹養成制度改革座談会」に詳しい。)そして,当面年合格者数1000人,数年後の1500人も見通しに入れるという形で,19971028日に一応の決着を見たのである。

ところで,先に述べたとおり,自由民主党の司法制度特別調査会がロースクール構想の検討を含む「司法制度改革の基本方針」を発表した19971111日は,法曹三者協議会が修習期間短縮と司法試験合格者数年1000人(と将来の1500人)を決定した1028日の僅か二週間後である。つまり,「司法制度改革の基本方針」は法曹三者協議会の1028日の決定を受けて策定されたのである。

ロースクール構想が誕生したきっかけは,その2週間前に法曹三者協議会が行った司法試験合格者数年1000人と将来の1500人,という決定にあったのだ。(小林)

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