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2008年5月29日 (木)

船場吉兆廃業

大阪地方裁判所から南へ,つまり大阪中之島から北浜へ,北浜から船場へ下ると,視覚的に,大阪の伝統的な産業構造を知ることができる。

大阪地方裁判所の敷地は,佐賀藩の領地だった。このあたり一帯は,江戸時代,各藩の蔵屋敷が集結していた。

大阪地方裁判所を出て橋を渡ると中之島である。中之島は商都大阪における物流の中心地であった。いまも,日本銀行大阪支店は中之島にあるし,中央公会堂は北浜の風雲児と呼ばれた相場師,岩本栄之助が建てた。

中之島から再び川を南に渡ると北浜である。北浜はもともと金融街だ。日本生命や住友グループ,大阪証券取引所をはじめ,銀行,証券,先物業者が北浜に集結している。

そこから一筋南に下ると,商社・流通業者の街となる。大中小の商社が軒を並べている。その中心にはかつて日商岩井があったが,いつのまにかオフィスビルになってしまった。

そしてその南は問屋街。いわゆる「船場の問屋街」である。「船場」の名が示すとおり,船場には船着き場があり,北浜とは運河で結ばれていた。

船場を発つ小舟に積み込まれた商品は,流通を司る商社と金融を司る銀行・証券街を抜けて運河を北上し,北浜から中之島に出て大型船に積み込まれ,全国に運搬された。これに逆流するように,金と注文は中之島を出て北浜を経て船場に向かう。途中の金融街と商社街がこれを仲介した。

そしてもちろん,大阪商人は商品と金の流れに寄り添うように北浜と船場の間を北上・南下し,料亭で商談を交わしたことだろう。

さて,船場吉兆は,船場の問屋街と商社街の間にある。運河が大阪の物流を支えたように,船場吉兆は,大阪の人脈を支えた。その船場吉兆が,昨日廃業した。

思い起こせば,かつて筆者が再生弁護団の一員を努めた流通準大手のマイカル本社も,商社街の一角にあった。筆者の法律事務所は北浜にあり,マイカルに向かう道すがら,毎日のように船場吉兆の前を通ったものである。そのマイカル本社も今はなく,コインパーキングになった。

船場吉兆が廃業したことについて,同情の余地はみじんもない。社長自ら偽装を指示していた点において,船場吉兆事件は企業コンプライアンス以前の問題であり,分類としては不二家の例よりミートホープ社に近い。

しかし,それでもなお,船場吉兆の廃業は,大阪にとって,象徴的な意味で,とても大きな打撃であると思う。(小林)

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