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2008年5月16日 (金)

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(10)

日本において法科大学院構想の検討が公式に開始されたのは,1997年(平成9年)1111日,自由民主党の司法制度改革特別調査会がロースクール制度導入の是非を検討すると発表したのが最初である。

一方日弁連においては,1998年(平成10年)10月に開催された第17回司法シンポジウムの第三分科会において,ロースクール制度導入の是非が検討対象になった。当日配布された冊子中,第2東京弁護士会作成の冊子には,同年2月脱稿の論文が掲載されている。この冊子編集の会議が開始され,論文掲載依頼があったのが脱稿の約2,3ヶ月前であるとすると,ロースクール構想が弁護士会内で検討対象とされ始めたのは,1997年末か1998年初とみてよいだろう。このように,検討が開始された時期としては,国政レベルと弁護士会とで,大差はない。

日弁連第17回司法シンポジウムが開催されたのと同じころである1998年(平成10年)1026日,自由民主党の提言を受けた文部科学省の大学審議会は,「今後,法曹養成のための専門教育の課程を修了した者に法曹への道が円滑に開ける仕組み(例えばロースクール構想など)について広く関係者の間で検討していく必要がある。」と提言した。

1998年秋,日弁連内部でロースクール制度導入に最も積極的だったのは第二東京弁護士会法曹養成二弁センター(委員長飯田隆,副委員長遠藤直哉,野島正,小林哲也各弁護士)であり,国内外の資料と論考を収集したうえ,我が国にロースクール制度を導入するメリットと必要性を論じている。

この議論の是非善悪を論じることは本稿の目的ではないから立ち入らないが,資料に接するとき,とても不思議なことは,法曹人口との関係に全く触れられていない点である。これはどういうことなのだろう。

すでに指摘したとおり,1994年(平成6年)以降1997年(平成9年)まで,日弁連は,法曹人口問題で必死に抵抗しつつ,司法試験合格者年700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退を重ねてきた。この数年間,法曹増員論は,日弁連執行部にとって繰り返す悪夢のようなものであったはずだ。日弁連執行部は,まるで狼に追われる手負いの野ウサギのように,法曹増員のニオイにとても敏感だったはずである。しかも,ロースクール構想が発生した背景には,年1500人では全然足りない,数千人規模の司法試験合格者数が必要と考える勢力があった。ところが,当時の日弁連内部には,法科大学院構想の中に,法曹人口大増員のニオイをかぎ取った形跡が見られない。

1998年始めころから弁護士会内部で検討が始まった法科大学院構想は,法曹人口問題と完全に別なものと認識されていたのだろうか。言い換えれば,法科大学院構想は,あくまで1000人~1500人時代を前提に検討されたのであって,法科大学院構想自体が,さらなる人口増員を招来するものとは認知されなかったのだろうか。

3000人を容認してしまった現在から振り返る限り,1998年秋当時の日弁連執行部が,法科大学院構想にさらなる法曹増員の危惧を感じなかったというのは,とても不思議なことに見える。それは,「あと知恵」だけの問題ではない。1500人を念頭おいていた1998年の時点においても,当然,さらなる法曹増員への危惧が発生して然るべきだったからだ。なぜなら,少し計算すれば分かることであるが,1500人を前提にする限り,法科大学院構想は成立し得ないからだ。(小林)

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