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2008年6月18日 (水)

日弁連はなぜ負けたのか? 中間まとめ(1)

半年にわたり掲載してきた「日弁連はなぜ負けたのか?」ですが,一旦中断することにしました。そこで,以下3回にわたり,今までのまとめを行います。

Ⅰ 法曹人口問題の歴史まとめ(2000年まで)

1.         現在の法曹人口問題は,直接的には,1989年(平成元年)に端を発する。当時,司法試験合格者の高齢化と,バブル経済による任官・任検者の減少を憂慮した最高裁と法務省は,司法試験合格者数問題に関し,いわゆる丙案(若年受験者にゲタを履かせて優遇する案)を支持する。これに対して日弁連は,丙案は司法試験の統一性,独立性,平等性の理念に反し,任官・任検者と弁護士との分離修習への途を開くものであって,戦前の司法試験制度に逆戻りするとして,強く反対した。

対案として日弁連は,司法試験合格者を年700人に単純増員する提案を行うとともに,法曹三者協議に外部委員を加えた「法曹養成制度等改革協議会」に議論の場を移すことにより,丙案廃止への国民の支持を得ようとする。

なお,司法試験合格者の高齢化と任官・任検者減少の問題が法曹三者間で論じられたのは,1989年(平成元年)が最初ではない。1960年代初頭に設けられた臨時司法制度調査会(臨司)は,判事・検事志望者不足を緊急の課題とするものであったが,同時に,東西冷戦構造に基づくイデオロギー対立を背景にしていたと,少なくとも日弁連には理解されていた。当時日弁連は,臨司路線はアメリカ(西側)寄りの日本政府による司法統制であるとして,裁判官の供給源は若年司法試験合格者ではなく,弁護士であるべきとして法曹一元を主張する。臨司の詳細は割愛するが,1960年代の臨司を巡る法務省対日弁連の対立の構図は,本稿の直接の検討対象である1989年(平成元年)以降の法曹人口問題にも受け継がれており,臨司当時に日弁連の思想的バックボーンとなった東西対立のイデオロギーは,主流派・反主流派を問わず(もちろん反主流派において直截的・典型的であるが)受け継がれている。

2.         法曹三者協議会での硬直した対立状況を,外部委員を入れることにより打破しようとした日弁連の目論見は完全に外れる。法曹養成制度等改革協議会が発足した1991年(平成3年)は第三次行革審発足の年でもあり,政府・財界から,法曹人口問題は規制改革問題と認識されたため,法曹養成制度等改革協議会では,「フランス並み(但し,人口補正なし)」である法曹人口3万人を指向し,司法試験合格者数年1500人との見解が大勢を占める。

3.         この中で日弁連は,700人を超える司法試験合格者数の増加に反対し続けた。その主たる論拠は,700人を超えると過当競争になる,過当競争は弁護士の経済的独立性を害し,ひいては公益・人権擁護活動を阻害するという「経済的独立論」であった。しかし,経済的独立論は,「弁護士の思い上がり」「そんな人権なら守ってもらわなくて結構」という世論の猛反発を招く。しかし日弁連は,1994年(平成6年)1221日の臨時総会における「司法基盤整備・法曹人口問題に関する関連決議」において,司法試験合格者数を「今後5年間800人程度を限度とする」案を圧倒的多数で議決した。

4.         この議決は,「既得権益擁護」「ギルドのカルテル組織」「改革つぶし」「だだっ子」と,世論の大批判を浴びる。その結果,業務独占や弁護士自治の撤廃も現実化の兆しを見せた。このときマスコミがこぞって示した,激情的とさえ言える日弁連に対する反感は,現代の法曹人口問題に関するマスコミの対応にも受け継がれている。危機感をいだいた日弁連は,前年の決議を事実上撤回し,1995年(平成7年)112日,「1999年(平成11年)から司法試験合格者1000人程度に増員すること」を容認する。しかし,すでに合格者数年1500人を目指すべしとした法曹養成制度等改革協議会多数意見との乖離は埋められず,1995年(平成7年)1113日に発表された同協議会の意見書は,1500人と1000人の両論併記に終わる。マスコミの弁護士会批判も相変わらず続いた。また,1995年(平成7年)1211日,司法試験管理委員会は丙案実施を決定した。この間法曹三者協議会や法曹養成制度等改革協議会における日弁連執行部は,会内の分裂を反映して意思決定が極端に遅く,案を日弁連に持ち帰って検討し,妥協を重ねて会内合意が成立する頃には後手に回ることを繰り返した。これは,強制加入団体の宿命とも言えるが,外部から「日弁連に政策決定能力なし」と判断され,後の司法制度改革審議会から日弁連の代表が外される(中坊公平氏は正式な代表ではなく,個人の有識者としての資格で参加している)原因となる。

5.         その後,「弁護士の経済的独立」論に代わって法曹人口増抑制の理論として登場したのが,「法曹の質の維持」論であった。修習生の増加による修習期間1年への短縮を主張する最高裁に対し,日弁連は法曹の粗製濫造を招くと抵抗し,19971028日,協議は修習期間1年半で妥結する。これは,法務省・最高裁に妥協したように見えるが,1年超の修習期間を確保することによって,司法試験合格者数の倍増を阻止する「実」を取ったものであった。また,この協議において,日弁連自身が法曹養成に人的経済的負担を申し出たこと(研修弁護士制度)は,世論から好意的に受け止められた。ここで発生した「弁護士会が主体となって法曹を養成しなければならない」という思想は,その後のロースクール構想に承継されていく。

他方,この協議で明らかになった司法研修所の物理的予算的限界論は,同時に,現状の司法研修所の物理的予算的規模を前提とする限り,年1500人を超える司法試験合格者を出すことが不可能であることを,明らかにするものであった。

6.         1997年(平成9年)1028日の法曹三者協議決定の僅か二週間後である1111日,自由民主党司法制度特別調査会は,ロースクールの導入を検討課題として提言する。これは,明言こそしていないものの,司法試験合格者数年1500人を大幅に超過した場合における,司法研修所に代わる法曹養成機関の設立を意図するものであり,この意図は,1998年(平成10年)後半には表面化する。そして,偏差値により序列化した日本の大学制度を前提とする限り,司法試験合格者をコンスタントに輩出する国公立・私立大学にロースクールを設けた場合,司法試験合格者数を年3000人とすることが最低条件であった。しかし,当時の日弁連執行部の念頭に3000人という数字はなく,「2003年(平成15年)に1500人を巡る攻防が始まる」と暢気な予測をしていた。

7.         1998年(平成10年)1026日,文部科学省の大学審議会は,ロースクール構想の検討を答申し,これを受け,1999年(平成11年)311日,文部科学省内に「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」が発足する。これに先立つ1999年(平成11年)24日,司法制度改革審議会設置法案が閣議決定され,法曹三者の代表を排除した政府審議会が司法制度改革の主導権を握る。1999年(平成11年)610日,同審議会メンバー13人のうち5人を大学の代表者である学者が占めることが内定する。このとき,法科大学院制度の実施と,司法試験合格者数を年3000人以上とすることとが,内定したといってよい。つまり,司法制度改革審議会の審議が始まった時点において,法曹人口問題の勝敗は決していたのだ。これほどの短期間に,ロースクール構想が具現化した背景には,少子化と国立大学独立法人化の激流の中にあった大学の危機感があった。

ところで,法曹人口問題を含む司法改革は,1970年(昭和45年)の衆議院附帯決議により,法曹三者の意見一致の責務が課せられたことから,法曹三者協議会が司法改革・法曹人口問題解決の権限を事実上独占していた。法曹養成制度等改革協議会の設置は,日弁連自らその枠組みを踏み出すものであったが,1999年(平成11年)に設置された司法制度改革審議会は,法曹三者以外(文部科学省と大学,財界,労働組合と消費者団体の代表,作家)を委員に加える一方,法曹三者の代表を排除する(法曹関係委員3名は現役の法曹ではない)ものであり,上記衆議院附帯決議の枠組みを事実上骨抜きにするものであった。平たく言い換えると,日弁連はそれまでの法曹三者協議会という「コップの中の戦争」に明け暮れていたところ,政府にそのコップをひっくり返されてしまったのである。しかし日弁連は,後述する事情により,かかる枠組みには特に異論を唱えず,当時「ミスター司法改革」「平成の鬼平」と言われ国民的人気を博していた中坊公平氏を事実上の代表者として審議会に送り込み,同氏に対する万全のサポート体勢を敷いた。

8.         時期をやや遡るが,日弁連執行部は,遅くとも1998年(平成10年)秋には,1500人を大幅に超える法曹増員が現実化しつつあることを知った。しかし,1000人になるのにさえ必死で抵抗していた日弁連の大勢は,1500人を超える法曹増員論に抵抗するどころか,これを支持する。その理由は,明治31年以来100年にわたる日弁連の悲願であった「法曹一元」と,陪審制や被疑者国選弁護制度,扶助制度の公的制度化など,日弁連が提言してきたいくつかの司法制度改革の採用を前向きに検討するという明確なメッセージが,1997年(平成9年)11月ころ,政府与党から示されたためである。日弁連は,司法改革と法曹一元を実現する好機ととらえ,自由民主党司法制度特別調査会に出席して積極的に政策提言を行うほか,1998年(平成10年)と2000年(平成12年)の2回にわたり,法曹一元をテーマに司法シンポジウムを開催し,法曹一元への気運を大いに盛り上げた。

9.         ロースクール構想に関しても,日弁連は,法曹一元と各種司法制度改革を実現する以上,司法試験合格者数の大幅増を受け入れる必要があること,その場合,従前の司法研修所における法曹教育に代わるもの,又は補完するものとしてロースクール構想の導入を支持する。また,法曹一元を採用する以上,地方大学においても法曹養成を行う必要があるとして,ロースクールの数的限定を主張しなかった。第二東京弁護士会は,自前でロースクールを設立する。また,第二東京弁護士会を中心とする一部の弁護士は,司法研修所の廃止を提言したが,多くの弁護士会は,司法研修所とロースクールの二段階養成を支持した。

10.     1999年(平成11年)1124日,司法制度改革審議会第7回審議において,東京大学の青山義充副学長(当時)が,将来の日本の法曹人口は,少なくともフランス並み(但し,フランスの人口は日本の約半分だからこれを補正して)の75600人を目指すべきであり,これを達成するために年3000人の司法試験合格者が必要と発言した。

2000年(平成12年)2月に行われた日弁連会長選挙では,高山俊吉候補が,法曹人口増問題については「弁護士が幅広く人権活動を行うことができるのも,経済基盤があってこそ」と主張し,ロースクールは「統一・公正・平等という司法試験の理念を失わせる」と反対し,司法制度改革審議会の司法改革路線に真っ向から異を唱えたのに対し,久保井一匡候補は,従前の執行部路線の承継を公約して当選した。

2000年(平成12年)28日と22日,日弁連の事実上の代表である中坊公平氏が,司法試験合格者数年3000人を事実上容認するプレゼンを行う。そして,2000年(平成12年)88日,司法試験合格者数年3000人が,司法制度改革審議会内で事実上決定する。既に指摘したとおり,3000人という数字は,司法改革・法曹一元実現に必要な人数として算定されたものではなく,法科大学院を全国の主要大学に設置するため必要な最低限の数字として算定されたものであった。

11.     日弁連が悲願とした法曹一元は,その多義性・曖昧さ,理論的脆弱性,東西冷戦のイデオロギー色,判事補制度の欠陥論が説得力を持たなかったこと,弁護士任官希望者がほとんどいない現実,等の理由から,司法制度改革審議会内での支持を全く得られず,形式的にも実質的にも,2000年(平成12年)1031日までに,完全に葬り去られる。ところが,日弁連は「法曹一元への足がかりは残った」として,翌111日に開催された日弁連臨時総会では,全文中に42回も「法曹一元」と繰り返し記した決議文が賛成多数で採択された。この42個という「法曹一元」の文言数は,「司法改革」の12個,「法曹人口」の33個より遙かに多い。決議文上明白であるが,法曹増員も法科大学院制度支持も,全て「法曹一元を期して」のことであった。

12.     他方,裁判員制度をはじめとするいくつかの司法改革は,司法制度改革委員会意見書の採用するところとなり,閣議決定を経て,現在,順次実行され,また,実行されようとしている。(小林)

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