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2008年7月28日 (月)

公的資格制度論で忘れられたもの

「公的資格,特に業務独占資格という特権は,責任を伴う。だから,責任が果たせなければ,特権を剥奪するべきだし,責任を果たす人数が足りなければ,資格者増加や,業務独占範囲の見直しが不可欠となる」とは,規制改革会議の核となる考え方である。

この考え方は,それ自体間違いではない。しかし,公的資格制度のとても大事な点を忘れている。

公的資格制度や,これに伴う業務独占は,無資格者の参入を抑制・禁止するから,職業選択の自由(憲法22条)に真っ向から対立する。だから,自由主義国に公的資格制度や業務独占資格が存在するのは,一見,とても奇妙なことだ。しかし,どれほど自由主義的な国家であっても,公的資格制度のない国はない。それはなぜか。公的資格制度は,国家レベルの適材適所,すなわち「人材」の適正配置を通じて国家のあり方を左右する,とても重要な制度だからである。

公的資格制度は,必ず「特権」が伴う。なぜなら,資格に「特権」がなければ,「人材」が資格取得を目指さないため,「人材」の適正配置という国家戦略が実現しないからだ。この「特権」には,国家が付与する「特権」もあれば,そうでないものもある。国家が付与する「特権」としては,業務独占権や身分保障などがあり,それ以外の「特権」としては,社会的名声や経済的優位性などがある。

全体主義国家では,理論的には,資格に「特権」を付与する必要がないから,公的資格制度も必要ない。なぜなら,能力者にその職業を強制すればよいからだ。自由主義に反するかに見える公的資格制度だが,実は,自由主義社会においてこそ必要である。

そして,公的資格者は,職務を適正に遂行する「責任」を負う。殊に,業務独占資格者は,職務を適正に遂行するだけでなく,職務を遂行しなければならないという重い「責任」を負う。なぜなら,公的資格者が職務を適正に遂行しなければ,国民はその職種の適正なサービスを受けられなくなり,公的資格制度の意味がなくなってしまうからだ。

まとめると,公益資格制度は,3本柱で支えられている。それは「人材」と「特権」と「責任」である。この3本柱は,相互に関連している。

すなわち,その分野に「人材」を集めたければ,「特権」を厚くする必要がある。しかし,「特権」が厚すぎて,「責任」が軽すぎれば,国民は適切なサービスを享受できない。国家戦略的にも,他の重要な分野に「人材」が行かないという不都合が生じる。だが,「特権」に比べて「責任」を重くしすぎると,「人材」が去ってしまう。

そこで,国家としては,その時々の国家戦略を実現するため,いろいろな資格の「特権」と「責任」をうまく差配して,適切な人材を適切な職種に誘導する必要がある。例えば,明治初期の日本は,富国強兵の国家戦略のもと,高級官僚と職業軍人に特権を付与して人材を集めた。また,貧富を問わず優秀な人材を発掘するため,初等教育の教員を優遇して国費で養成し,全国各地に配置した。夏目漱石ほどの英才が東大卒業後中学教師として「ど田舎」の松山に派遣されたのは,当時の国家戦略に照らせば,特殊でも異例でもない。

大学医学部の偏差値が高いのは,医師という公的資格が,業務独占,社会的名声,経済的優位性,という№1クラスの「特権」を伴うため,学業に秀でた「人材」が競って医学部を目指すからである。

上級国家公務員も,一種の業務独占資格といってよい。若いうちは過酷労働と安月給であるにもかかわらず,特に文系の優秀な学生が競って上級国家公務員試験を目指したのは,国家的意思決定に直接関与するという職業上の充実感はもちろんだが,中堅以上になってからの強大な権限や,天下りに伴う莫大な生涯年収という「特権」と無縁ではあり得ない。近年,行政改革によって天下りに厳しい規制がかけられたことと,上級国家公務員試験を目指す学生が減少傾向にあることとは,決して無関係ではない。いうまでもなく,優秀な人材を官僚ではなく民間に配置することが国家戦略であるならば,この傾向に異論はない。

確かに,公的資格者に「特権」を付与することには,弊害がつきまとう。公的資格者は「特権」を既得権益化してその擁護に汲々とし,時に「責任」を忘れる。また,「特権」を持つ公的資格者と,「特権」を守る監督官庁との間に癒着が生じがちである。だから,「人材」と「特権」と「責任」とのバランスを常に見直すことはとても大事である。すなわち,その時々の国家戦略に照らし,「特権」と「責任」の関係を調整して適正な「人材」を配置することが,国家の責務となる。公的資格制度の運用に当たっては,「国家戦略」に相応した「人材」と「特権」と「責任」のバランスが,とても重要なのだ。

ここまで論じれば,規制改革会議の誤りは,明らかであろう。規制改革会議は,「特権」と「責任」しか見ておらず,「人材」を失念している。また,3者のバランスを取るという発想がない。その結果,「特権を剥奪したら,人材が集まらない」という視点が完全に欠落している。

「人材」を失念したとき,「特権」は「責任」の対価という誤解が発生する。しかし,「特権」は「責任」の対価ではなく,「人材」の対価である。平たく言えば,公的資格者は,その資格にふさわしい「人材」であるから,「特権」を持ち,「責任」を負うのだ。

10年前,日本は,「法化社会の実現」という国家戦略を立てた。そのために,優秀な人材を司法界に多量に投入すると企図した。それには,優秀な若者が,競って法律家を目指す国家的社会的環境を整える必要があった。少子高齢化社会において,優秀な若者も絶対数が減っている。だから,法化社会を実現するにふさわしい「人材」を集めたいなら,「特権」に重心を移してバランスを取らなければいけなかった。

ところが,政府や規制改革会議や日弁連が実行したことは,法曹の特権を縮小・剥奪することだけだった。なぜこれで人材が集まるといえるのか。いま,法曹界を巡る報道は,新人弁護士の就職難と,特権の縮小・剥奪だけである。これらのニュースに接する二十歳前後の若者は,よほどの物好きでない限り,司法試験を目指さないだろう。特権を失った司法界からは,怒濤のごとき人材離れが発生する。その結果,35年後の法曹界に登場する新人は,空前の材質低下を来す(絶後になることを祈るばかりであるが)ことになる。法科大学院で鍛えれば何とかなるって?どんなに磨いても,石は玉にならないのだ。(小林)

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コメント

先生は一部の法科大学院生を石に例え、「どんなに磨いても石は玉にならない」と書いてらっしゃるが、先生の立場上このような発言はまずいのではないでしょうか?
たとえ「全員ではなく一部にそういう法科大学院生もいる」という意味だったとしても、高い授業料払って毎日頑張ってる彼らに対して「どんなに磨いても,石は玉にならない」は失礼ではないでしょうか?
いくら先生の目からご覧になって「石」でも、合格を信じて必死に頑張ってる学生にこのような発言・・
是非この発言の真意をブログで説明していただきたいものです

三権の一翼を担う立場にある方の公のブログでのこのような発言、場合によっては弁護士会にクレームをつけることも考えてます

投稿: | 2008年7月31日 (木) 13時07分

法科大学院の学生は大半は「磨けば玉になりうる原石」と考えます
それが玉になれないのは磨き方が足りない(努力が足りない)、あるいは磨き方(勉強の仕方)が悪いからなのです
少なくともおっしゃるようなどんなに磨いても玉になれない「石」ではないと考えます

投稿: | 2008年7月31日 (木) 15時34分

同意見です。
このままでは益々、法科大学院は余程の物好きか状況判断の出来ない者、あるいは就職にあぶれた者の巣窟となっていくことでしょう。
『運転免許』を取得するために(しかも運転免許を取得できても運転できるかどうかは不透明な状況で)高い金と多くの時間と労力を割いてわざわざ法科大学院に入学する奇特な(笑)優秀な人材がどれだけいるのでしょうか。

投稿: | 2008年8月20日 (水) 10時23分

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