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2008年11月 3日 (月)

東浩紀は若者の怒りの代弁者になるのか?

大塚英志+東浩紀の対談「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか」(講談社現代新書)を読んだ。2001年から2008年まで4回の対談が収録されているが,つかみ合いの一歩手前とさえ言える2007年の対談が面白い。

東浩紀は,批評家・言論人として,自らの信じるところを発信したいが,それが読者を啓蒙・感化することはあっても,社会全体を動かすことなどあり得ないし,動かす気もない,という。大塚英志は,それなら批評家・言論人をやる意味がないとシツコク噛みつく。無数の小集団が好き勝手なベクトルを持ち,社会全体として均衡が取れているときは,東浩紀的社会観でもよいが,たまたま全ベクトルが同じ方を向くと,破滅である,そうでないとしても,東浩紀の主張は,結局現状肯定主義として支配者に便利に使われてしまうと反論する。

東浩紀も偽悪家ぶっているところがあって,使命を認識しつつ,同世代ほぼ唯一の批評家・言論人であるからといって,そんな重い役割を押しつけないでよと言っている感もある。ところが,20086月に秋葉原で起きた無差別殺人事件は,東浩紀に否応なく公的な使命感を持たせたとして,それがこの対談集の一応のオチになっている。

東浩紀は言う,若いやつらはとにかく怒っている。それはおそらく日本という国全体が滅びかかっていることと深い関係がある。年金にしろ財政破綻にしろ,俺たちが年取ったときに国が滅びてるぞ,という感覚がけっこう広がっていて,若い世代ほど無力感が蔓延している。しかしこの国では,若い世代にしか分からないリアリティがあるのに,それが社会や政治の言葉に翻訳されず,いつまでたっても「おまえら大人になれ」ということばかりが言われ続けている,この状況に対する不満がとても大きい。

この怒りは,筆者の怒りと共通するから,東浩紀個人が同じ怒りをいだいていることはよく分かる。ただ,若者全体が同じ怒りを持っているのか,まして,その怒りを極端な形で体現したのが,秋葉原に突っ込んだ件の男性なのか,という点については疑問に思う。以前書いたが,筆者が見る限り,今の若者には怒りの文化がほとんど無いと思う。また,犯人が若い世代が大人世代に対して持つ怒りの具現者として凶行に及んだのなら,秋葉原ではなく,銀座や巣鴨に突っ込んでも良さそうなものなのに,彼の怒りと言うより嫉妬は,同世代の「勝ち組」(勝ち組といっても,秋葉原に遊びに来られる程度の勝ち組)に向けられた。例えば宮崎勤事件は確かに一つの時代の一つの何かを体現していたが,秋葉原事件はそこまでのものか。宮崎勤の名前は10年以上経っても忘れられることはなかったが,秋葉原に突っ込んだ件の男のフルネームを今思い出せる人はどれだけいるだろう。

もちろん,この認識のズレが,東浩紀の言う「若者の怒りが社会や政治の怒りに翻訳されていない」ということなのかもしれない。麻生総理大臣がかつて秋葉原で演説したのは,それなりの政治的直感なのかもしれない。それならば,好むと好まざるとに関わらず,東浩紀には通訳の使命が課せられたことになる。通訳としての東浩紀の言動に,今後注目してみたい。(小林)

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