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2009年2月23日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか(総会編 9)

7年11月2日日弁連臨時総会(1)

平成7年(1995年)112日,完成間もない日弁連会館講堂「クレオ」で,法曹人口問題に関する臨時総会が開催された。前年1221日の臨時総会から1年も経たないのに,土屋公献日弁連会長以下の執行部は,前年支持した関連決議案を自らの手で覆した。それだけで,これはとてもみっともない総会であることが分かる。

この臨時総会に至る経緯は,次の通りである。

司法試験合格者数は,昭和38年(1963年)から平成2年(1990年)まで,年500人前後であった。しかし合格者平均年齢の高齢化とバブル経済は裁判官と検察官志望者の減少を生み,最高裁判所と法務省は「丙案」すなわち若手受験生にゲタを履かせて優遇する案を提案する。そして,強硬に反対する日弁連と協議した結果,平成3年(1991年)から4年間,合格者数を年600~700名として様子を見,若手合格者数の増加が一定条件を満たした場合には丙案を実施しないという妥協が成立する。また,協議の場を法曹三者の協議会から,法曹以外の委員を交えた「法曹養成制度等改革協議会」に移し,意見書をまとめることになった。しかし若手合格者は日弁連の期待ほど増加せず,このままでは丙案実施は不可避となった。そこで日弁連は,丙案に代わる「抜本的改革案」を法曹養成制度等改革協議会に提出する必要に迫られる。

その期限となる年の日弁連会長を決める選挙では,抜本的改革案として「司法試験合格者年1000人」も検討すべしとした川上義隆弁護士と対決した土屋公献弁護士が大差で当選した。

そして迎えた平成6年(1994年)1221日の臨時総会は,上記の経緯からして,法曹養成制度等改革協議会に提案する「抜本的改革案」を策定するためのものだった。平成6年(1994年)1221日の臨時総会では,執行部案・反執行部案で日弁連が二分されたが,同時に,「関連決議」が圧倒的多数で可決されるという奇妙な顛末となった。この関連決議は,互いに否決と分裂を怖れる執行部派・反執行部派の政治的妥協の産物である。しかし,執行部にフリーハンドを許す(1000人や1500人もありうる)執行部案に対して,「今後5年間800人。その後も執行部にフリーハンドを許さない」ことを内容とする関連決議は,実質的には反執行部案に近いものだった。これが,日弁連が法曹養成制度等改革協議会に提案する「抜本的改革案」の土台となる。

平成7年(1995年)721日,日弁連理事会は,この関連決議に添った内容の「司法試験・法曹養成制度改革に関する日弁連提案―抜本的改革案の策定に向けて―」を満場一致で採択し,法曹養成制度等改革協議会に提示した。

しかし,この提案は,法曹養成制度等改革協議会で袋だたきにあう。当時,法曹三者以外の委員は,司法試験合格者数年1500人ないし3000人が妥当という見解であり,法曹三者のうち法務省と最高裁判所は当面1000人(その後1500人含みで検討)という案だった。そこに日弁連は,800人(しかも5年間据え置き)という見解を持って行ったのである。法曹三者以外の委員の立場からは,法務省・最高裁さえ腹立たしいのに,日弁連の見解は論外であり,日弁連には約束の「抜本的改革案」を提示する気が全くないと受け取られて当然である。

81日の日弁連新聞には,「比較的日弁連に理解のある委員」でさえ「日弁連の姿勢は改革否定」と痛烈に批判していると掲載された。

もっとも,ここまでは,当時の日弁連執行部も予測していたはずだ。しかし,日弁連にとって思わぬところから矢が飛んできた。(小林)

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