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2009年3月 8日 (日)

日弁連はなぜ負けたのか?(総会編 2 ~総集編~)

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平成7112日日弁連臨時総会編 ~日弁連がひた隠しにするもの~

弁護士 小林正啓

I.           臨時総会開会に至る経緯

平成7年(1995年)112日,完成間もない日弁連会館講堂「クレオ」で,法曹人口問題に関する臨時総会が開催された。前年1221日の臨時総会から1年も経たないのに,土屋公献日弁連会長以下の執行部は,前年支持した関連決議案を自らの手で覆した。それだけで,これはとてもみっともない総会であることが分かる。

この臨時総会に至る経緯は,次の通りである。

司法試験合格者数は,昭和38年(1963年)から平成2年(1990年)まで,年500人前後であった。しかし合格者平均年齢の高齢化とバブル経済は裁判官と検察官志望者の減少を生み,最高裁判所と法務省は「丙案」すなわち若手受験生にゲタを履かせて優遇する案を提案する。そして,強硬に反対する日弁連と協議した結果,平成3年(1991年)から4年間,合格者数を年600700名として様子を見,若手合格者数の増加が一定条件を満たした場合には丙案を実施しないという妥協が成立する。また,協議の場を法曹三者の協議会から,法曹以外の委員を交えた「法曹養成制度等改革協議会」に移し,意見書をまとめることになった。しかし若手合格者は日弁連の期待ほど増加せず,このままでは丙案実施は不可避となった。そこで日弁連は,丙案に代わる「抜本的改革案」を法曹養成制度等改革協議会に提出する必要に迫られる。

その期限となる年の日弁連会長を決める選挙では,抜本的改革案として「司法試験合格者年1000人」も検討すべしとした川上義隆弁護士と対決した土屋公献弁護士が大差で当選した。

そして迎えた平成6年(1994年)1221日の臨時総会は,上記の経緯からして,法曹養成制度等改革協議会に提案する「抜本的改革案」を策定するためのものだった。平成6年(1994年)1221日の臨時総会では,執行部案・反執行部案で日弁連が二分されたが,同時に,「関連決議」が圧倒的多数で可決されるという奇妙な顛末となった。この関連決議は,互いに否決と分裂を怖れる執行部派・反執行部派の政治的妥協の産物である。しかし,執行部にフリーハンドを許す(1000人や1500人もありうる)執行部案に対して,「今後5年間800人。その後も執行部にフリーハンドを許さない」ことを内容とする関連決議は,実質的には反執行部案に近いものだった。これが,日弁連が法曹養成制度等改革協議会に提案する「抜本的改革案」の土台となる。

平成7年(1995年)721日,日弁連理事会は,この関連決議に添った内容の「司法試験・法曹養成制度改革に関する日弁連提案―抜本的改革案の策定に向けて―」を満場一致で採択し,法曹養成制度等改革協議会に提示した。

しかし,この提案は,法曹養成制度等改革協議会で袋だたきにあう。当時,法曹三者以外の委員は,司法試験合格者数年1500人ないし3000人が妥当という見解であり,法曹三者のうち法務省と最高裁判所は当面1000人(その後1500人含みで検討)という案だった。そこに日弁連は,800人(しかも5年間据え置き)という見解を持って行ったのである。法曹三者以外の委員の立場からは,法務省・最高裁さえ腹立たしいのに,日弁連の見解は論外であり,日弁連には約束の「抜本的改革案」を提示する気が全くないと受け取られて当然である。

81日の日弁連新聞には,「比較的日弁連に理解のある委員」でさえ「日弁連の姿勢は改革否定」と痛烈に批判していると掲載された。

もっとも,ここまでは,当時の日弁連執行部も予測していたはずだ。しかし,日弁連にとって思わぬところから矢が飛んできた。

II.         「強制加入団体性と法律事務独占廃止」という「脅迫」

平成7年(1995年)721日,日弁連理事会は,前年の関連決議である「5年間800人据え置き」に添った内容の「司法試験・法曹養成制度改革に関する日弁連提案―抜本的改革案の策定に向けて―」を満場一致で採択し,法曹養成制度等改革協議会に提示した。

その6日後である平成7年(1995年)727日,政府の行政改革委員会規制緩和検討小委員会は,重点的に規制緩和の検討を進めるテーマの中に,「法曹人口の大幅増員」「外国人弁護士の受入れに関する規制緩和」「弁護士の法律事務独占の見直し」を掲げ,日弁連執行部に衝撃を与えた。このタイミングからして,規制緩和検討小委員会の発議は,日弁連の上記理事会決議に対抗する主旨であることは明白である。この発議のうち,特に法律事務独占の見直しは,弁護士業務の制度的特権を奪う根本的変革であり,これに危機感を抱いた日弁連執行部は,緊急対策本部を設置する。

平成7年(1995年)811日,土屋公献日弁連会長は,日弁連新聞号外「会員の皆様へ」の中で,緊迫した情勢を告げた。

この間,土屋公献執行部と政府与野党との間で,水面下の情報交換がなされたことは間違いない。噂だが,とても「高い筋」から,弁護士法を改正して強制加入団体性を廃止するとの通告がなされたそうである。あくまで噂であり,検証のしようがないが,表面に現れた土屋公献執行部のうろたえぶりから推測する限り,ありうる話と思う。

828日に緊急理事会が,914日に定例理事会が開催され,土屋公献日弁連会長は,「平成11年(1999年)から司法試験合格者数年1000人」を提案する。これは僅か2ヶ月前に理事会全員一致で決定した方針はもちろん,平成6年(1994年)121日臨時総会関連決議を覆す内容だから,正式決定するためには,総会に諮らなければならない。しかし理事会は紛糾し,9 14日,27日,109日と3回開いた理事会の結果,執行部案が4313,棄権10でようやく可決され,112日の日弁連臨時総会に諮られることとなった。

臨時総会予定日の前日である平成7年(1995年)111日付の日弁連新聞には,土屋公献会長が「再び会員の皆様へ」と題する文章を寄せている。ここには,諸般の情勢の中で,「当面5年間800名に固執する日弁連の主張が『孤立』することが決定的となり,このままでは怒濤に押し流されて全てを失う恐れがあるため,良心的世論を味方につけ,修習期間2年を堅持し,丙案実施を阻止するためには1000名の容認が必要」と書かれている。

これは土屋公献執行部がいままでやってきたことの完全否定に等しい。そこで,それまで反増員政策を支持してきた勢力は,この臨時総会に, 721日の理事会で執行部が提案し,満場一致により議決された方針を,そのまま,反執行部案として提案した。

本稿では余談となるが,この経緯を聞いて既視感を持つ弁護士も多いだろう。特に,大阪の弁護士には既視感があるはずだ。この経緯は,平成20年(2008年)86日の大阪弁護士会臨時総会の経緯とそっくりである。大阪弁護士会臨時総会でも,上野勝執行部は,常議員会で総スカンを食った第一案を撤回して第二案を策定して臨時総会を招集し,これに怒った反執行部派が第一案を反執行部案として総会に諮った。つまり第一案も第二案も,執行部が作成した案であることに相違ない。歴史は繰り返す。そして,このような迷走ぶりを普通,「末期症状」という。(小林)

III.        執行部案を弱腰と罵る弁護士,現実妥協路線を説く弁護士

司法試験合格者数年1000人を容認しようとする執行部案に対する反対意見の概要は,大別して整理すると,次の通りである。

1 弁護士の収入を減らし,業務基盤を害するというもの

1000名になったら就職できない修習生がたくさん出てくる」(板根富規弁護士 広島),「すでに司法修習生の就職難が発生しているのに,さらに増やしてどうする。執行部案は若手弁護士に人権活動を止めろというに等しい」(野間啓弁護士 東弁),「我々若手弁護士は司法改革で汗を流して,そして大量増員で若手弁護士だけが血を流すのか」(前川清成弁護士 大阪),「執行部案は将来の歯止め無き増員に繋がり,弁護士の適正人口を害して職業の自立性を失わせ,民主的な弁護士制度を崩壊させる」(野間美喜子弁護士 名古屋),「本当にニーズがあるなら就職の問題にしろ,それぞれの収入の問題にしても,皆弁護士としての品位を保てるだけの収入があってしかるべき」(宮﨑乾朗弁護士 大阪)

2 執行部案はさらなる法曹養成制度「改悪」につながるというもの

「執行部案は,修習期間の短縮,分離修習の始まり,ひいては法曹一元の崩壊につながる」(鈴木和憲弁護士 一弁),

3 日弁連を攻撃する勢力に対して,妥協ではなく,対決すべしというもの

「執行部案は,戦後赫々たる成果を上げてきたこの弁護士会を解体,崩壊するための走狗として,今日の歴史的役割を果たしたことになるでしょう。これは中坊執行部のときから仕組まれた陰謀である」(中根二郎弁護士 長野),「執行部の情勢分析は曖昧だ。日弁連を内部から変質させ独立性と批判性の牙を抜こうとする敵の攻撃に対し,我々は徹底的に闘い抜かなければならない」(荘司昊弁護士 秋田),「行政改革委員会の規制緩和小委員会,この権限がこわいんだなどと言わず,正しいことであれば,堂々と旗を掲げて戦うべき」(松浦武弁護士 大阪),「対権力,反権力,その市民,人民に対して我々が自分たちの職業を巡る利益を率直に語ったときに,何で市民が分かってくれないことがあるだろうか。」(鈴木達夫弁護士 二弁),「もう一回国民の場に堂々と出して,我々正論ぶつけて,国民から孤立したらいいですよ,孤立はしませんよ。堂々と国民とやりましょうよ」(友光健七弁護士 一弁)。

司法試験合格者数年1000人を容認しようとする執行部案に対する賛成意見の概要は,次の通りである。

「法曹人口の増加は,司法改革を実現していく上で最も必要な条件の一つであり,増員反対論は司法改革の流れに反する。成算のない玉砕論であってはならない」(田辺宜克弁護士福岡弁護士会現会長),「若手会員,マスコミ,法務省と最高裁,この三者との連係しつつ司法改革を推進するためには執行部案しかない」(児玉憲夫 もと大阪弁護士会会長),「弁護士はニーズに応えられる数を充足しているとの主張は,国民に受け入れられない」(奈良道博もと一弁会長),「関連決議が,弁護士のギルド的職域保護主義として受けとめられ,それまで比較的好意的であったマスコミの論調も冷ややかなものになった」(久保利英明もと二弁会長),「世論,マスコミ,法曹三者の合意を基本に据える必要がある」(平山正剛もと東弁,日弁連会長),「800という数字では,日弁連がもう法曹養成制度改革協議を決裂させる意思表示をしたというふうにまた市民から誤解されて孤立化を招く」(本敬一郎弁護士 二弁),「地方では弁護士が不足していることは明らか。国民との結びつきを深め,国民的基盤を強化していくことが重要」(佐藤真理弁護士 奈良)

発言者には,この後各地方弁護士会の会長になる人が多い。

執行部案賛成派,反対派は,歯止め無き増員,丙案,分離修習と修習期間短縮の阻止,という目的では共通していることが分かる。違いはその方法論である。執行部派側から言えば,反対派の主張は玉砕論であり,現実的妥協が必要ということになる。

採決の結果,執行部案約5700,反執行部案約3600で,執行部案が可決される。5時間半かかったが,平成6年(1994年)1221日の総会ほどは荒れなかったし,前回のような密約もなかった。両者の差は2100と,前年より開いた。つまり,委任状争奪戦で勝負はついていたのである。このことは,当時の日弁連の重心が,前年の闘争路線から現実妥協路線へと移動したことを示している。

IV.       平成7112日日弁連臨時総会のまとめ

日弁連全体が一致団結しているところを示せば,世論を味方に付けることができると考えた,愚かな画策によって,平成6年(1994年)1221日臨時総会の関連決議のシナリオが書かれ,圧倒的多数で可決された。

しかし,関連決議は会外の誰からも支持されなかった。それどころか,弁護士のギルド的エゴ論は高まる一方だった。それにもかかわらず,土屋公献執行部は関連決議の具体化を喜々として進め,平成7年(1995年)6月ころから,外部に発信し,総スカンを食う。そのうえ,「高い筋」から,「日弁連がこれ以上駄々をこねるなら,弁護士法72条を改正して,弁護士による法律事務の独占を止めさせる。強制加入団体性も廃止する」という,かなり明確なメッセージが発せられた。これにびっくり仰天した土屋公献執行部は,平成7年秋に,現実妥協路線へと180度の方針変更を行う。これを弱腰と取るか,やむを得ぬ選択と取るかが問われ,会員の多数は,路線変更を支持した。これが,平成7112日の臨時総会である。

土屋公献執行部にしてみれば,苦渋の選択だったかもしれないが,そこまで苦労して支持を得た決議案はどう評価されたか。

実は,臨時総会の冒頭質問で,執行部案の将来は的確に予言されていた。「執行部は,執行部案が法曹養成制度等改革協議会で少数説として無視されることを承知の上で提案しているのか」(坂井尚美弁護士 大阪),「改革協では抜本的改革案はまとまらない」(岩井重一弁護士 東京)。そして,そのとおりになった。平成71113日の法曹養成制度等改革協議会の意見はまとまらず,1500人の多数意見と,日弁連の提言した1000人の少数意見の両論併記に終わる。この意見書には,「今後、法曹三者は、本意見書の趣旨を尊重して、真に国民的見地にたった司法試験制度及び法曹養成制度の抜本的改革を実現させるため、直ちに協議を行い、速やかに具体的な方策を採らなければならない。」という附帯条項がついた。つまり,法曹三者がコップの中で角突き合わせるのはいい加減に止めなさい,ということである。14日の東京読売新聞は,「司法試験改革 具体的増員策示せず 説得力欠く意見書」と批判した。土屋公献日弁連会長が全力で阻止すると宣言した丙案も,平成8年(1996年)からの実施が決定される。

日弁連が800人への固執を捨てた点を評価する新聞の論調は多少あった。しかし総じて言えば,平成7112日の臨時総会決議は,無駄に終わったのである。

V.        右往左往した土屋公献執行部と,失敗を隠蔽した日弁連

以上で、土屋公献執行部時代に行われた2回の臨時総会のご紹介を終わる。

簡単に要約すると、土屋公献弁護士は、司法試験合格者年1000人への増加反対を公約して、日弁連会長に当選する。

しかし当選後、1000人への増員を容認する方向に舵を切り、平成6年(1994年)1221日の臨時総会を迎える。

ここで土屋公献弁護士は、執行部案否決を回避するため、反執行部派との「密約」により、ふたたび増員反対に舵を切る。

しかし対外的には、日弁連の増員反対論は全く世論の支持を得られなかったばかりか、反日弁連の世論を背景に、強制加入団体制や自治権を剥奪するとの脅迫を受けることになる。

これに慌てふためいた土屋公献弁護士は、みたび、増員容認に舵を切り直し、平成7年(1995年)112日の臨時総会で承認を得る。

この右往左往ぶりが、土屋公献弁護士の資質に由来するのか否かについて、言及はしないが、これが、日弁連の信頼喪失と、法曹人口問題における当事者たる地位の喪失に結びついたことは間違いない。

実に、この2回の臨時総会で、その後の日弁連の運命は決せられた。この後の2回の臨時総会(1997年と2000年)は、歴史的には「付け足し」程度の意義しかない。

ところで、現時点で最新の日弁連「正史」である「日弁連五十年史」では、土屋公献執行部による2回の臨時総会は、どのように要約されているか。

「(法曹人口増員問題につき)会内では様々な討議が繰り返されたが、1994(平成6)年12月、及び翌年11月の二度にわたり臨時総会が開催され、司法試験合格者を1000名程度まで増員させる一方、これを丙案廃止のための抜本的改革案として位置づける決議を行った。」(執筆担当 谷眞人弁護士 東弁)。

読者はこの記述をどう思われるだろうか。もちろん、執筆担当者にも事情はあろう(何しろ、五十周年記念行事実行委員長が、「関連決議」の張本人、辻誠弁護士なのだ)。歴史の恥部は為政者によって常に隠蔽される、というのも経験則であろう。しかし、この記述によって日弁連は、事実を後輩に語り継ぐという責務を放棄したと私は考える。自分のやったことさえ、後輩に語り継げない日弁連に、教科書問題や歴史問題で偉そうな口を叩く資格も無ければ、若手弁護士の「造反」に対して,したり顔で説教する資格もないと思う。私が最も腹立たしく思うのは、過去の執行部の無能ぶりではなく、先達としての責任の放棄である。

                                                                                                   以上

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コメント

小職は最初から先生の論考を拝読しておりますが、もし、土屋執行部が毅然として最初の案を押し通していたら、本当に弁護士会は世論のバッシングを浴び、弁護士会の強制加入撤廃などが行われていたのではないかと思うと、土屋執行部の迷走もやむを得なかったのではないか、逆に、土屋執行部が弁護士会を救ってくれたのではないかと思う次第です。
このような考え方をされる弁護士が、コメントなどを拝見しているといらっしゃらないようですが、それはなぜなのか、歴史にIFはありませんので、本当に危険だったといえるかどうかもわかりませんが、何か根拠がありましたら、お知らせいただければ幸いです。

投稿: 若手弁護士の一人 | 2009年3月17日 (火) 23時56分

コメントありがとうございます。私なりのご回答をする前に確認したいのですが、ご指摘の「毅然として最初の案」というのは、どの案のことでしょうか?94年12月21日臨時総会の土屋執行部案なのか、それとも、95年7月21日の日弁連理事会で土屋執行部が提案し、満場一致で採択された執行部案のことでしょうか?私の理解では、前者は司法試験合格者を執行部のフリーハンドに収め、1000人~1500人を容認しうる案であり、後者は、94年臨時総会関連決議に基づき、「5年間800人」に限定する案なのですが。

投稿: 小林正啓 | 2009年3月18日 (水) 00時11分

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