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2009年5月26日 (火)

「基準違反」とにかく回収?

5月26日の毎日新聞朝刊は、標題の特集記事で、基準値に違反する食物を何でも捨ててしまう風潮に警鐘を鳴らした。この記事は、基準値を超える(とはいえ一生食べ続けても健康にはまず影響のない濃度の)農薬等が検出されたため捨てられたウナギや、禁止されたシジミ漁、製品には何の異常もないのに井戸水から基準値を超えるシアン化合物が検出されたため製品自主回収に追い込まれた伊藤ハムを紹介したうえ、基準値を超えたら何でもダメという思考停止状態を批判している。

記事の主旨自体に異論のある人は少ないだろう。しかし、この記事のような漠然とした書き方では、解決策を見いだせないと思う。大きく3つに場合分けをして考えてみたい。

第一は、食品が、国が定める基準値を単純に超えた場合である。この場合、科学的に健康に対する影響が僅少であっても、客観的に食品衛生法に違反する以上、事業者には廃棄したり、漁を中止したりするほか選択肢はない。日本の基準値だけが極端に高くて不当だというのなら、国の基準値を改訂するほか無い。

第二は、記事にはないが、賞味期限シールの張替偽装や、産地偽装等に見られるケースである。このケースでは、多くの場合、健康に対する悪影響は全くない。しかしこの場合、事業者は、賞味期限切れであればその製品を購入しなかった消費者を騙して購入させたことになるから、消費者は、売買契約を取り消したり、瑕疵のない商品との交換を請求できる。よって事業者が偽装等した商品を回収するのは当然である。もったいないが、悪いのは事業者だ。

第三は、食品自体には上記のような問題が全くないのに、その製造・採取過程に何らかの瑕疵があったと場合である。この場合には、企業が適切な説明責任を果たした上でなら、食品の販売を継続しても問題はないと考える。「適切な説明」とは、例えば、「当社○○工場にて、食品の洗浄に使用している井戸水から法定基準値を超える○○が検出されましたが、当該食品の○%についてサンプル調査を行ったところ、異状はありませんでしたので、販売を継続します」ということになる。

ところで、伊藤ハムの事例はどうだろうか。上記の第三にあたり、必ずしも自主回収の必要はなかった事例だろうか。

まず指摘すべきは、「問題がない」という客観的状態と、「問題がないことが確認された」という企業の認識とは違う、という点だ。食品製造企業には、適切な方法で安全であることが確認された食品を消費者に提供する義務があるというべきだから、安全を脅かす相当な事情が発生した場合には、新たに安全を確認してからでなければ、その商品を提供することは許されない。伊藤ハムの事例では、商品の安全性を脅かす井戸水の汚染という問題が発生した後約一ヶ月間、製品の安全性を確認せずに販売を継続したという問題があった。この問題を前提にする限り、既販売食品の自主回収という伊藤ハムの選択はやむを得ないと考える。

この記事には無いが、ダスキン肉まん事件というものがあった。これは、ダスキンが中国の工場につくらせていた肉まんに、日本では認可されていないTBHQという添加剤が使用されていた事件である。この添加剤は、認可する国も多く、健康に対する懸念は無いといわれている。そこで、添加物の使用を知った二人の取締役は、その安全性を確認した上で、日本国内での販売継続を指示した。その結果、300万個を超える無認可添加物を含む肉まんが販売され、消費された。健康被害は出ていない。

読者はこの事例をどう思われるだろうか。記事の論調に従えば、この取締役の行為は何ら咎めるに値しない、むしろ捨てる方がもったいないということになるのだろうか。(小林)

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2009年5月25日 (月)

オランダ人記者訪問顛末

先日、オランダ大使館から依頼があり、オランダ王国科学技術アカデミーラテナウ研究所のレムケ・クラップワイク女史と通訳を交え、日本語とオランダ語と英語ちゃんぽんで、1時間ばかり面談した。外国ネタが続くが、ICRA2009との関連はなく、時期的には偶然の一致のようだ。

オランダの次世代ロボット産業はどうなっているか、私には知るよしもないが、女史によれば、オランダの産業が次世代ロボットを開発するにあたり、法的問題点を聞きたいとのことであった。

印象に残った質問としては、「安全の問題や、法的責任の問題は、次世代ロボットに限ったことではなく、ほかの工業製品についてもあります。なぜ、次世代ロボットについて安全を論じる意味があるのですか?」というものがあった。これに対して私は、「次世代ロボットには、人間と接触する場所で、自律的に動く、という特徴があります。今までの工業製品は、人間が直接操作していましたから、ロボットが作動して他人に損害を与えた場合、操作した人間や所有者が責任を負っていました。ところが、自律的に動くロボットの場合、直接操作する人間がいないので、法的責任は所有者を飛び越えて、メーカーに問われることになり得ます。このことは、次世代ロボットを開発製造する人たちにとって脅威になっていて、次世代ロボット産業振興の障害になりかねません。そこで、次世代ロボット産業を振興するという観点からすれば、次世代ロボットによる事故が起きたとき、どこまでがメーカーの責任で、どこからがユーザーの責任であるかをなるべく明確に分けてあげること、それでも残ったグレーの部分については、保険でカバーできるようにすることが必要です」と申し上げた。この答えで適切だっただろうか。

ICRA2009のセッションでも、同じような問答があった。このとき、イタリアから来た研究者は、「法的責任はロボットにある」と力説し、私や、スペインの弁護士は、「ロボットは法的責任の主体にならない」と指摘した。このような問答は、数年前は日本でもした記憶がある。理系研究者と文系法律家の認識の違いという観点からも、国際的な問題意識の共通性という観点からも、なかなか興味深い問答だと思う。

女史からは御礼にと、陶磁器のお皿と、灰皿をいただいた。灰皿は、煙草を置く場所が木靴になっていて、とても可愛らしい。(小林)

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2009年5月22日 (金)

ニュースBIZ出演?

テレビ大阪の「ニュースBIZ」から依頼があり、5月22日放送予定の番組のため取材を受けた。事務所にカメラが来て録画されたが、赤面ものであった。普段テレビのコメンテーターのいい加減な発言に文句ばかり付けているが、10秒前後の短い時間に要点を明確に話すというのは、一つの職人技だとつくづく感じた。この技術は、裁判員法廷のために、弁護士としても磨いておくべきかもしれない。

それはさておき、取材の趣旨は、増殖する防犯監視カメラについて法的問題点を聞きたいということだった。私としてはありきたりのことを話したつもりだが、記者氏との問答の中で、しみじみと感じたことがある。

記者氏の感覚もそうだったが、一方で、体感治安の悪化があり、技術の進歩があり、舞鶴の事件のように、防犯カメラの映像が犯罪解決に結びつく場合もある(もっとも舞鶴の事件には疑問符もつくが)。他方で、このまま、防犯カメラが増殖して本当にいいのか?という素朴な疑問もある。問題はあると思いつつも、視点が無いから、自分なりの意見を持てない。防犯カメラについて発言するジャーナリストや弁護士の多くは、監視社会だ戦争だと声高に言う人サヨク系が多く、じゃあ具体的にどうすればよいの?という答えをもらうには敷居が高い、というより、尋ねる実益がない。そして既成事実だけが積み重なっていく。

大事なことは、具体的で適切な制度とルールだと思う。ただ、このスタンスで発言すると、どっちつかずの曖昧なコメントになり、かつ、だらだらと長く話すことになる。ということで、冒頭に書いたとおり、赤面ものの取材となってしまった。まだまだ修行が足りないと実感した次第である。

なお、取材を受ける過程で、この問題に社会学の立場から取り組んでおられた大阪市立大学の中野潔教授の訃報に接した。中野教授には、いくつかのシンポジウムのほか、「社会安全システム」の共著でお世話になった。とても残念である。謹んでご冥福をお祈りしたい。(小林)

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2009年5月19日 (火)

異常行動自動検知監視カメラは警察の救世主になるか

2009年5月18日のCNET JAPANによると、400万台の監視カメラが稼働中と言われる「監視カメラ大国」英国では、監視カメラが多すぎて、警察が膨大な量のデータ処理に手を焼いているという。英国警察庁協会犯罪記録局のディレクターは、「子どもが誘拐された場合、多数の監視カメラがこの車を捕らえたが追跡できないということが起こり得る」と言ったそうである。

この発言は、イギリスの監視カメラの持つナンバープレート自動認識機能を念頭に置いたものだが、他の機能でも同様だろう。監視カメラの数が増えれば増えるほど、人間がどうやってモニターするのか?という問題に直面する。

一つの解決方法として、日本の警察庁が導入を検討しているのが、異常行動自動検知システムだ。これは、通行や談笑といった通常行動と異なるパターン、例えば喧嘩や転倒、一箇所にとどまって動かない、逆にいつもある物がなくなる、などの行動を異常行動と自動認識し、モニターする人間の注意を促すシステムである。4月16日の毎日新聞によると、警察庁は、異常行動自動検知システムを備えた街頭防犯カメラを川崎駅前に設置して実験を開始するとのことである。

このシステムが持つ技術的問題の一つは、コンピューターが認識する「異常行動」と、人間の考える「異常行動」のズレが解消できるかどうかだろう。恋人同士がハグしている映像と、ヤクザが被害者の胸ぐらをつかむ映像とが自動的に区別できなければ、モニターする警察官は、早晩、このシステムを信用しなくなる。また、カメラに異常行動と見分けられない犯罪行為、例えば熟練したスリなどは、かえって犯罪を行いやすくなるのではないかという疑念も生じうる。違法なキャッチセールスの勧誘行為と、政治的署名活動との区別は、コンピューターには不可能だ。他方、撮影される人間の軌跡を解析することによって不審人物を自動検知する機能は、少なくとも新人警官よりは優れたものになるかもしれない。

もちろん法律上の問題もある。プライバシーの問題もさることながら、最大の問題は、こういったシステムが有する萎縮効果の有無と程度である。この懸念から、こういうシステムに頭から反対する弁護士も多いが、感心しない。技術の進歩が止められないとするならば、大事なことは、技術と社会との折り合いをどうやってつけるか、例えば、適正な運用をどうやって担保するかということだと思う。(小林)

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2009年5月16日 (土)

日本国は破産しない…という主張について

2009415日の日本経済新聞コラム「大機小機」の「日本国は破産しない」には、「国の公債が多いということは…国民の金融資産が増えるということだから、国は破産しない」と書いてある。

これに対して、「国の債務が増えても、その分国民の資産が増えるから、バランスシートの総額は変わらない、という趣旨だろうか。」と書いたところ、匿名氏から、「分かりやすくいえば、家族間で金の貸し借りをしても、家族全体が破産することがないということです。」との解説をいただいた。これは、私の解釈が正しいという意味だろう。そうだとすると、最初から書いているとおり、コラム氏の主張は明らかに間違いだ。

これらの解釈の奇妙なところは、「日本国」あるいは「家族」という集団について「だけ」、バランスシートを想定するところにある。現実には、日本国内の政府、国民、企業その他の団体は、それぞれ日本国とは別のバランスシートを持っていて、ほとんどの国民は、他人のバランスシートより、自分のバランスシートを心配しながら生きている。だから、政府に金を貸したにもかかわらず、政府が約束どおり金を返してくれなければ、国民はとても怒る。国民がとても怒れば、政府が倒れる。これは、政権交代で済まないかもしれない。

「家族間で金の貸し借りをしても、家族全体が破産することがない」とのご指摘だが、私は弁護士として、夫婦間で金の貸し借りをしたために離婚に至ったケースをたくさん見ている。

貸した金を返せという国民に対して、「日本国は破産しないからご心配なく」と弁解することは、「貸したお金を返してちょうだい」と迫る妻に、夫が「わが家庭は破産しないからご心配なく」と弁解するのと同じだ。この夫の発言は、家庭の崩壊を招く。国家が崩壊してもよいというなら別だが,そうでない限り,コラム氏の主張は間違いである。

また別の匿名氏から、「国債は銀行に引き受けさせるんですよ。これは事実上半強制的です。銀行は儲かるから引き受けてるわけじゃありません。」とのご指摘をいただいた。これについては、「事実上半強制的」とはどういう意味か?について解説をいただかなければ、お答えのしようがない。この言葉は、「強制」という明確な単語に、「事実上」「半」「的」という曖昧な単語が3つもつけて、全体の意味を、わざと、とても不明確にしているからだ。

なお、匿名氏らに申し上げておくが、私自身が書いていないことについてお答えするつもりは無い。私は、定額給付金について一言も触れていないし、最初のエントリで明確に断っているとおり,国債増発を嫌ったこともない。よその誰かと議論したいなら、よそでどうぞ。(小林)

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2009年5月14日 (木)

ICRA2009 KOBE

 ICRA2009という、ロボットテクノロジーに関する国際会議が神戸で開催され、そのワークショップに参加する機会があり、30分ほどのスピーチの後、諸外国からの参加者との議論に混ぜてもらえた。

 筆者は人前で英語のスピーチをするなどというのは中学校以来であり、まして外国人の前では生まれて初めてのことで、大いに緊張した。

内外の最先端の研究成果を聞くことができたのは収穫であったが(何しろ英語での発表なので半分程度しか理解できないが)、最も印象的だったのは、石黒浩教授による生体模倣型ロボットの研究発表だった。発表によると、極めて複雑な機構を備える次世代ロボットは、一個一個の部品をプログラムで制御してはじめから完璧に動作させることが不可能なので、ロボット自身に試行錯誤させながら、最適な動きを学習させるという。要するに人間の赤ちゃんと同様、転びながらはいはいを覚え、歩き方を覚えていくのと同じアプローチなのだが、実際に赤ん坊の形をしたロボットが、手足をばたつかせながら寝返りを打とうとする有様は、不気味でさえあった。

はるばるスペインから弁護士が参加し、ロボットを巡る安全の問題や、プライバシーの問題について、研究者との議論を行った。技術者の問題意識も世界共通なら、法的問題に対する弁護士のアプローチも共通しているのは大変興味深かった。(小林)

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2009年5月11日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか? リンク

日弁連はなぜ負けたのか? 法曹一元とは何だったのか 法科大学院編

総会編(1) 平成6年12月21日 総会編(2) 平成7年11月2日

総会編(3) 平成9年10月15日 総会編(4) 平成12年11月1日

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2009年5月10日 (日)

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院編

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2008414日~

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(1)

2000111日の日弁連の臨時総会決議は,司法試験合格者数年3000人を事実上受け入れた。しかし,このとき決議されたのは人口問題だけではない。これ以外に,①法曹一元の実現,と②法科大学院設立・運営に対する主体的かつ積極的な関与,を決議している。そして,①の法曹一元に関する日弁連の決議が,理念倒れの無惨な敗北に終わったことはすでに述べた。

そこで本稿では,②の法科大学院に関する決議について,法曹人口の視点から,検証してみたい。

法科大学院とは,法曹養成を目的とした高等教育機関であり,2004年(平成16年)の法整備に基づき発足した。文科省の資料によると,2006年(平成18年)現在,全国74大学に法科大学院が設置され,定員数の合計は5825人である。

当初,司法試験合格率7~8割と想定して構想された法科大学院であったが,司法試験合格者数3000人としてもなお合格率が2~3割と予想されるほどの「乱立」状態となってしまっている。そのため,法科大学院の中には,さらなる合格者増を求める声が強い。これが,今後の法曹人口を論じる上で,重大な問題となっていることは周知の通りだ。

もともと,司法試験合格者を年1000人に増やすのにも大反対していた日弁連の立場からすれば,このような問題をはらんだ法科大学院構想に協力していくと宣言したこと自体,とても奇妙なことに思える。

日弁連は,なぜ,法科大学院構想に積極的に協力していくという道を選択したのだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(2)

1997年(平成9年)1111日,自由民主党司法制度特別調査会(会長 保岡興治衆議院議員)が策定した「司法制度改革の基本方針」中,「法曹養成のあり方」の中に,「ロースクール方式の導入など,法曹人口の大幅増加に対応する法曹養成のあり方について検討する」と記載され,法科大学院構想の正式な検討が開始された。

1998616日,半年の検討を経た自由民主党司法制度特別調査会は,「21世紀の司法の確かな指針」と題する報告書を公表し,この中で,米国ロースクール方式の導入を検討対象としている。

19981026日,文部科学省の大学審議会は,自由民主党の提言を受け,「今後,法曹養成のための専門教育の課程を修了した者に法曹への道が円滑に開ける仕組み(例えばロースクール構想など)について広く関係者の間で検討していく必要がある。」と述べた。ちなみに,同年6月の中間答申にロースクールという文字はないが,同月6日の熊本日日新聞は,大学審議会大学院部会がロースクールの設置を検討したと報じている。このことから,文科省大学審議会の内部では,自由民主党内部での検討と平行して,19985月ころまでに,ロースクールの設置が検討されはじめたことが分かる。

1999年(平成11年)311日,大学審議会の答申を受け,文科省「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」が発足した。この会議は,2000年(平成12年)317日まで,10回の会議を重ね,法曹養成に関する国内外の情報や議論を集約する作業を行った。

1999年(平成11年)727日,司法制度改革審議会が発足する。この審議会は13人の委員中5人を学者が占め,後に法科大学院協会理事長となる佐藤幸治教授を委員長とするものであり,発足当初から,法科大学院構想の実現を意図するものだった。

1999920日,東京大学が日本型ロースクールの創設を提案したのを皮切りに,116日に一橋大学,2000123日に早稲田大学,311日に中央大学,以下多数の大学が,独自のロースクール構想を発表する。

2000年(平成12年)530日,文科省の「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」は,「法科大学院(仮称)構想に関する会議」へと発展して発足した。そして,200087日,同会議は司法制度改革審議会において,「法科大学院(仮称)構想に関する検討会議における議論の整理」と題したプレゼンテーションを行う。翌8日,司法試験合格者数年3000人が,事実上決定されるのである。

一つの制度が発想されてから実現される過程として,法科大学院構想の誕生から現実化までの道のりは,実に見事というほかはない。199711月の与党内での検討開始から,文科省,各大学での検討を経て,司法制度改革審議会で事実上のGOサインが出るまで,とてもスムースで,全く滞留がない。

このとき,日弁連は何をしていたのだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(3)

法科大学院構想は,1997年(平成9年)1111日に産声を上げた。そのきっかけはどこにあったのだろう。

話は1988年(昭和63年)まで遡る。日本最難関といわれた司法試験は,合格者の高齢化と,裁判官・検察官志望者不足という問題点を抱えていた。同年,法務省と最高裁は,いわゆる丙案(3割程度の若年受験者にゲタを履かせて優遇する案)を支持する。これに対して日弁連は,司法修習の理念である公平性と平等性に反するとして強硬に反対し,対案として1990年(平成2年),合格者年700人の単純増員を提案する。この対立は1990年(平成4年)1016日,1992年から5年間,年700人の単純増員を実施し,若年合格者の合格状況などを見た後,一定の条件が満たされなければ丙案を導入するという妥協が成立する。しかしこの条件が満たされる可能性は低く,丙案実施は不可避と予想されていた。

一方,法曹三者間の上記「コップの中の戦争」は,コップ外の政府や財界などから規制改革問題と認識され,先進諸国に比べ圧倒的に少ないとされる法曹人口の大幅増員が主張される。そのため日弁連は,丙案を巡る法務省・最高裁との攻防と,法曹人口大幅増員を主張する政府財界との攻防の二正面作戦を余儀なくされる。

日弁連は1994年(平成6年)1221日,丙案回避とともに,司法試験合格者数を,今後5年間年800人を限度にする,と決議するが,この決議は弁護士会の業界エゴだとする猛烈な批判を浴び,翌1995年(平成7年)112日,前年の決議を撤回して,1999年(平成11年)以降の合格者数1000人容認,修習期間2年間堅持,丙案回避の基本方針を決定する。しかし決定の十日後,司法改革協議会は司法試験合格者数1500人を多数意見として採用し,日弁連の主張は少数意見に留まった。しかも,19951211日,司法試験管理委員会は丙案実施を決定する。(以上 岩井重一「司法試験・法曹養成制度改革の経緯と概要」(自由と正義491号))

その後の法曹三者協議の結果を受け,19971015日,日弁連は1998年から合格者を年1000人,修習期間の16ヶ月への短縮を認めるとともに,将来の司法試験合格者数を年1500人とすることも事実上容認すると,執行部方針を変更し,1028日,法曹三者協議会でも,合格者1000人,修習期間16ヶ月が決定される。

このように,法曹人口論における日弁連は,1990年以降,700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退していった。日弁連は,法務省や最高裁に比べて極端に意思決定が遅く,三者協議の場から日弁連に持ち帰って検討を重ね,会内合意を得るころには後手に回ることを繰り返した(この経緯は,自由と正義19993月号「法曹養成制度改革座談会」に詳しい。)そして,当面年合格者数1000人,数年後の1500人も見通しに入れるという形で,19971028日に一応の決着を見たのである。

ところで,先に述べたとおり,自由民主党の司法制度特別調査会がロースクール構想の検討を含む「司法制度改革の基本方針」を発表した19971111日は,法曹三者協議会が修習期間短縮と司法試験合格者数年1000人(と将来の1500人)を決定した1028日の僅か二週間後である。つまり,「司法制度改革の基本方針」は法曹三者協議会の1028日の決定を受けて策定されたのである。

ロースクール構想が誕生したきっかけは,その2週間前に法曹三者協議会が行った司法試験合格者数年1000人と将来の1500人,という決定にあったのだ。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(4)

19971028日,法曹三者協議会は,翌年からの司法試験合格者年1000人,将来1500人への増加を検討すると決定する。そのわずか2週間後,自由民主党司法制度特別調査会はロースクール制度導入の検討を含む「司法制度改革の基本方針」を発表した。このとき,自由民主党司法制度特別調査会の意図はどこにあったのか。合格者数年1500人までを前提とした検討を意図したのか,それとも,さらなる大幅増員を意図していたのだろうか。

当時の公式資料を見る限り,1500人を超える目標を掲げているものは見られない。政府の規制緩和推進政策も,司法試験合格者年1500人を掲げており,法曹三者協議会の結論は,その上限を打った形だ。公的機関が1500人を超える増員を打ち出すのは,1998年(平成10年)1223日,小渕恵三内閣総理大臣下で発足した経済戦略会議が中間答申として司法試験合格者2000人を提言するまで待たなければならない。つまり,199712月までは,公式見解としては1500名が上限であった。

199711月に公表された自由民主党司法制度特別調査会の「司法制度改革の基本方針」も,法曹人口の大幅増員を掲げるものの,何人にするとは言っていない。しかし,政権与党の国会議員があえて検討課題として掲げる以上,他機関の決定に追随するのではなく,それを超える意図があると考える方が自然であろう。そして,この意図は1998年に胎動を始める。

しかし,1997年末の日弁連執行部は,同年10月の臨時総会で,当面1000人,将来の1500人と決議したことで,気が抜けてしまっていたようである。自由と正義19983月号(脱稿は199711月ころ)でも,鬼追明夫日弁連会長は,「(当面,司法制度改革協議会の中期目標である司法試験合格者)年1500名という方向をにらみながら」と,暢気なことを言っている。

実際には,このとき,3000人に向けた大きなうねりが始まっていた。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(5)

1997年(平成9年)1028日,日弁連は,翌年からの司法試験合格者数年1000人,その後1500人の検討を開始することを認めた。これは,法務省・最高裁の意見をほぼ丸飲みした形であり,当時の政府見解に照らしても,人数としては上限を打った形になっている。そのためか,1997年末の日弁連執行部は,当面の戦場を「1000人と1500人の間」と見定めていた節がある。岩井重一弁護士は,「自由と正義」19981月号「司法試験・法曹養成制度改革の経緯と概要」で,「2003年に三者協が再開されるまで手を拱いていることは決して許されるものではなく」と述べ,1500人を巡る攻防が2003年に開始されると予想している。現実には「20031500人」どころか,「20003000人」なのだから,この予想は大ハズレだが,当時,「三者協議に関する合同会議事務局長」という最前線にあった岩井重一弁護士にしてこの程度であるから,あとは推して知るべしであろう。しかし,その時すでに,政府与党内では,「数千人」を念頭に置いた制度設計が始まろうとしていた。

ここで,当時,日弁連がどのような戦術を用いて法曹人口増員論に抵抗してきたかを見てみよう。

1994年ころ,日弁連が法曹人口大幅増に反対する理由の第1は,「弁護士の経済的独立性の確保」であった。たとえば,日弁連法曹養成問題委員会が作成した「法曹人口問題に関する意見書」(199412月号)は,弁護士増員の可否について,「弁護士の使命を果たすための会務活動はもとより,プロボノと言われる活動など対価の伴わない弁護士の公益的な活動は,客観的には弁護士のその他の職務で生計を維持することによって初めて成り立っている」から,「競争によって淘汰される弁護士が質の悪い弁護士とは限らず,会務や再審事件等の人権擁護活動にエネルギーを注ぐ弁護士が淘汰される危険さえある」とある。要するに,法曹人口が増えて弁護士間の競争が激化すると,弁護士の経済的余裕が無くなり,人権擁護と社会正義の実現(弁護士法1条)という弁護士の使命が実現できなくなる,という主張だ。

しかし,この主張は,マスコミから猛烈な反発をうける。たとえば,若林誠一NHK解説委員がこう言っている。「(日弁連の臨時総会を傍聴して)一番びっくりしましたのは,法曹人口をふやすということになると日本人の人権が守れないといった議論が行われたこと(です)。それは,人口をふやすと競争がふえる。そうすると,弁護士さんが,人権擁護活動といった銭にならない仕事をしなくなって,金もうけばかりに走ってしまうから,したがって日本人の人権が守れなくなるのだ,こういった議論が堂々と行われたりしたわけですね。そのときに私も,あるいは私と同じような立場にいます新聞社の論説委員などが口をそろえて言ったのは,そんな人権だったら守ってほしくない,こういうことだったわけです。そういった思い上がった議論が行われているというようなことが確かに法曹三者の中であるというのが率直な印象であります。」

この発言は1998年(平成10年),衆議院法務委員会における参考人としての供述であって,いつの臨時総会を傍聴した際の出来事なのか不明だが,文脈上,法曹人口が問題となった日弁連臨時総会(19941997年)を指すと思われる。また,自由と正義199412月号の土屋公献日弁連会長(当時)の巻頭言に,「特権意識によってしか護れない人権ならば護って貰わなくとも結構と反発する論説委員も現に存在しています。」との下りがあり,若林氏の供述とも一致することから,若林氏が「びっくりした」という日弁連臨時総会は,1994年のものである可能性が高い。

経済的余裕が無くなれば人権活動ができなくなる,というのは,正直言って,筆者の本音でもあるが,それが,マスコミから「思い上がり」「そんな人権だったら護ってもらわなくて結構」という反応を呼ぶというのは,我々弁護士として,肝に銘じなければならないことだろう。

19941221日の日弁連臨時総会決議の後,日弁連に浴びせられたものすごいバッシングの中には,「弁護士は思い上がるな!」という声が多く含まれていたと思われる。

そこで,日弁連が法曹人口増大に反対する理由として,経済的基盤論に代わって登場するのが,「法曹としての質の維持」論であった。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(6)

法曹人口増員の要求に対して,弁護士の過当競争は人権活動を阻害するという日弁連の主張は,「思い上がり」と批判され,代わって正面に出てきたのが,法曹養成の「法曹としての質の維持」論であった。

「法曹としての質」は,法曹養成「機関」及び法曹養成「期間」の問題である。法科大学院が登場する以前,法曹養成「機関」は専ら司法研修所であり,法曹養成「期間」は裁判所法に基づき2年とされていた。この2年間,司法修習生には給与が支給される。筆者の頃(平成2年)は手取りで月額20万円前後であった。

しかし,従来一学年500人であった司法修習生が1000人,1500人へと増加すれば,従前の予算では賄えなくなる。予算の総額が決まっている以上,司法修習生の給費制を維持するなら,2年間の修習は不可能だ。そのため,司法試験合格者増は,必然的に法曹養成「期間」の短縮を要請する。1996年以降の法曹三者協議で,最高裁が司法修習期間の1年短縮を主張したのは,当然の成り行きであった。

これに対して日弁連は,最高裁の主張は法律実務家の粗製濫造につながるとして,修習期間2年間の維持を強硬に主張する。予算に限界があるとの反論に対しては,弁護士会が人的経済的な負担も行うとまで主張した。具体的には,研修弁護士制度の提案である。これには最高裁も理解を示し,法務省の取りなしもあって,間を取った形で,19971028日,1年半の修習期間が合意された。(以上,岩井重一「司法試験・法曹養成制度改革の経緯と概要」(自由と正義491号))

日弁連が修習期間2年を主張した理由は,法律実務家としてふさわしい質の養成であった。しかし,法曹人口増の抑制も目的の一つにあったことは間違いないと思う。修習期間が2年から1年に短縮されれば,同じ予算で修習生の倍増が可能になる理屈である。日弁連は修習期間短縮に反対することを通じて,間接的に,修習生の増加を食い止めようとしたのである。

余談になるが,自由と正義19993月号「法曹養成制度改革」座談会は,その内容の生々しさにおいて,必読の文献である。なにより,表題が「法曹養成制度改革座談会」でありながら,内容の大半は法曹人口問題である点こそ,当時の日弁連にとって,法曹養成問題イコール法曹人口問題と認識されていたことを示している。

修習期間2年堅持という日弁連の主張は,結局1年半の修習として妥協した。批判もあったようだが,この妥協は老獪な交渉の結果と評価できる。なぜなら修習期間1年半なら,4月入所9月修了と10月入所3月修了を交互に繰り返すという極めて変則的な運用を行わない限り,修習生の増員に結びつかないからだ。しかし,このような変則的な運用は,予算編成・執行のあり方としても,教官の異動のあり方としても非現実的である。つまり,修習期間1年半の妥協は,日弁連にとって,法曹人口増を食い止めるという「実」を取ったものといえる。

修習期間の短縮を主張する最高裁に対して,自ら負担を背負ってでも法曹養成を充実させる,という日弁連の主張は,マスコミにも好意的に受け止められた。

19971027日の朝日新聞社説は,このようにいう。「日弁連のなかには,増員すれば競争が激しくなり,弁護士の基盤が脅かされかねないという慎重論が根強くあった。それを抑え,改革に取り組んできた歴代執行部の苦労は想像できる。ここで後ろ向きの姿勢をとっていれば,業界エゴとの批判を浴びるだけでなく,日弁連の自治能力にも疑問符がつくところだった。(修習への弁護士の積極的関与は)これまで,対応が後手後手に回ってきた感のある日弁連が,初めて自分から投げたボールである。内容の詰めはこれからだが,最高裁,法務省は提案を真剣に受け止めて実現をめざすべきではないか。」

いずれにせよ,1997年の法曹三者合意は,次の3つの効果をもたらした。

第一は,法曹人口が大幅に増加しないのは,法曹養成予算が限られているからだ,という認識を広めたことである。司法研修所に法曹養成をさせている限り法曹人口は年1500以上は増えない,ということを政府・自民党・財界がはっきりと認識した,ということである。自民党司法制度改革特別調査会がロースクール構想の検討を提案したのは,法曹養成予算の問題を解決し,1500人を大幅に上回る法曹人口養成の基盤とするためであった。

第二は,日弁連内に,法曹養成は弁護士会が率先して行うべきだという思想を発生させたことである(塚原英治弁護士「法律家の養成と弁護士会の役割」(自由と正義19981月号)など)。そして,この思想は,ロースクール構想になじみやすいものであった。

第三は,「法曹の質を維持する」という日弁連の主張は,その背後に法曹人口増抑制の目的があったにせよ,世論に受け入れられた,ということである。司法試験合格者年3000人を事実上受け入れた日弁連臨時総会決議にもある「国民が必要とする(法曹人口)数を,質を維持しながら確保する」との文言は,このような歴史的背景に基づいている。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(7)

1994年(平成6年)以降,司法試験合格者数年700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退していた日弁連であったが,この後退も,1500人で一応の上限を打った形となった。それは,日弁連の抵抗の成果であるともいえるが,なにより,司法研修所という従前の法曹養成機関では,容量的予算的に年1500人を超える法曹を養成できないことが判明したからであった。そこで,司法試験合格者数数千人時代を見据えて,司法研修所に代わる法曹養成機関が模索され,その一つとして,ロースクール制度の導入が検討課題となっていく。この過程を1人の人間の発言として辿るなら,矢口洪一もと最高裁長官がふさわしい。

若い弁護士には矢口洪一を知らない人もいるだろうが,同氏は,裁判官人生の3分の2以上もの間法廷に出ず,司法行政を司り,最高裁長官にまで上り詰めたエリート中のエリート中のエリート,という「エリートの3乗」を体現し,「ミスター司法行政」と言われた人物である。在任中から諸外国の司法制度を研究し,1990年に定年退官したころ以降,司法改革を提言していたが,その発言は1996年末から具体性を帯びていく。

たとえば,1996年(平成8年)1223日付毎日新聞で,早急に,司法試験合格者数を最低でも年4000人にすべきであり,これに伴い,法曹養成機関の抜本改革が必要と発言した。ただし,ロースクール構想は触れられていない。

1998年(平成10年)28日,日本経済新聞朝刊で,矢口洪一氏は次のように述べる。「規制緩和の時代,司法の容量が小さすぎる。社会のあらゆるところに,法律家が浸透する必要がある。それには,法曹人口は最低でも,今の倍の4万人は必要である。そのためには,判事補制度を廃止し,法曹一元を導入するべきである。法曹一元を導入すれば,優れた弁護士が裁判官になることになるので,裁判所が裁判官を養成する必要が無くなるから,司法研修所は要らない。弁護士としてスタートするのに基礎的な訓練が必要というなら,大学で事前の教育を行うべき。」ここでは,法曹養成機関として,ロースクール構想が登場している。

矢口洪一氏はまた,司法改革を進める方法論として,「政府直轄の委員会を作り,法曹関係者は1人も委員に入れないようにすべきです。法曹三者中心となると,時間ばかりかかりすぎます。司法制度をどうするかは国民が決めることで,法曹三者の仲間内だけの問題ではありません。」と言っている。この制度論が,そのまま,その1年後にスタートする司法制度改革審議会の青写真になっていることは注目される。

このとき矢口洪一氏は78歳。もと最高裁長官で「ミスター司法行政」とはいえ,退官して8年経ち,「過去の人」となっていて不思議でない時期である。しかし,その政策論が全国紙に掲載されたこと,そして,この発言がそのまま,自由民主党司法制度特別調査会の意見書として反映され,後の司法制度改革審議会の青写真になっていることからすると,矢口洪一氏は当時,司法制度改革の分野において,政府与党に対して大きな発言力を持っていたと見て間違いない。つまり,このインタビュー記事は,高度に政治的な意味がある。

「ミスター司法行政」による「高度に政治的な発言」という視点から,再度このインタビュー記事を読んでみると,矢口洪一氏の意図を推量することができる。

まず注目すべき点は,矢口洪一氏は法曹一元の導入を,裁判官は増員しなくて良い,という文脈で提唱していることだ。つまり,法曹人口の大幅増員は,弁護士の増加によって賄われるべきだ,ということである。そして,大幅に増えた弁護士の養成機関として,第1に大学教育を考えるべきだとしている。

次に,「司法改革を推進する政府委員会から法曹三者を排除する」との提案が注目される。これは一見,自らの出身母体である裁判所を含めた法曹三者全部を排除する公平な見解とも見える。しかし,その理由として同氏が掲げる「法曹三者協議は決定が遅すぎる」ことの原因が専ら日弁連にあることは,周知の事実である。他方,政府委員会から裁判所を排除しても,裁判官の大幅増員が回避できるのなら,裁判所としては特に異議はない。すなわち,発言のポイントは,「日弁連を外した政府委員会で弁護士の大幅増員を決定すべし」という点にある。

この推測には異論もあろう。最大の問題点は,法曹一元が,矢口洪一氏の出身母体である裁判所にとっても脅威である,という点だ。しかし,1960年代の臨時司法制度調査会において,日弁連が「法曹一元」を悲願と崇め,こだわり続けてきた有様をつぶさに見てきた矢口洪一氏は,このような判断をしたと思う。「第1に,法曹一元を看板に掲げれば,日弁連は抵抗しない。第2に,一旦日弁連を懐柔すれば,その後は臨司のときと同様,法曹一元を葬り去ること十分可能。第3に,仮に判事補制度が廃止されても,裁判官の大幅増員に比べて,裁判所の痛みは少ない」と。もっとも,矢口洪一氏は裁判所行政官時代,英米の法曹一元制度を研究していた経緯があり,退官直後から,陪審制や法曹一元の導入に積極的な発言を行っている(1990124日朝日新聞)から,個人的には,法曹一元になってよい,と考えていた節もある。いずれにしろ,矢口洪一氏の意図は,早急に政府直轄で日弁連を排除した司法制度改革の委員会を創設することと,その看板に法曹一元を掲げることにより,日弁連を懐柔することにあったと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(8)

法曹人口増に反対する根拠として,「法律実務家の質の維持」を挙げ,修習には最低2年間が必要,弁護士会も自らの負担で修習に協力する,という日弁連の主張は,司法修習予算を増額できない法務省・最高裁の弱みを突き,実質的に,法曹人口増を抑制する効果を果たした。

読者はここで,司法修習予算が法曹人口増の抑制になるなら,予算を増やせばいいじゃないか,という素朴な疑問を持たれるかもしれない。そこで,この点についてすこし触れてみたい。

この答えは,鬼追明夫もと日弁連会長の次の発言に示されていると思う。曰く,「市民から見ますと,なぜ法律家が二年間国費で養成されて当然なのか,それが数が増えても全然ビタ一文まけられない,というような議論が本当に支持されるのだろうかということになると,私は必ずしも自信がないわけです。」(自由と正義19983月号「回顧と展望」)

筆者自身,当たり前と信じて疑わなかったことであるが,筆者の1期500人の時代でさえ,このうち400人以上が弁護士となる。1500人時代になればその9割以上が弁護士となるし,仮に法曹一元が導入されれば,とりあえず全員が弁護士となる。弁護士は言うまでもなく公務員でなく,民間の事業者だ。この民間人を養成するために,修習生,教官や事務局の給与を含む多額の国費が投入され,修習生は学費を払う必要がない。よくよく考えてみると,民間の事業者を,国が丸々二年間費用丸抱えで養成する制度は,我が国では,おそらく極めて特異である。

もちろん,民間人といえども,国民の生命や重大な利益に直結する職能を,国費で養成する制度はほかにもある。独立行政法人化される前の国立大学の医学部がそうであるし,パイロットを養成する航空大学校もそうだ。しかし,これらの職能養成制度においては,学生に学費支払義務がある。かつての司法研修所のように,2年間,学費を取らず,費用を全部国が負担するばかりか給与まで支給する職能養成制度は,ほかに無いのではないか。

なるほど,国民の人権を守るという見地から,法曹は国が養成する,という政策的選択肢は存在する。しかし,「生命を守る医師の養成でさえ学費を取るのに,なぜ弁護士の養成には学費を取ってはならないのか?なぜ弁護士の養成だけ特別扱いなのか?」と問われたら,答えは難しい。そうは言いつつ,我が国は戦後40年間,全額国費による法曹養成を行ってきたわけだが,従来に数倍する法曹養成を念頭に置いた場合,これに対応して数倍となる国費負担増を国民が納得するとは言い難い。しかも,国立大学法人化を含め,「官から民へ」の大合唱の中,弁護士の養成だけは完全に別扱いというためには,よほどの理由が必要である。

例えばこういう反論もあろう。「なるほど医学部学生は学費を払っているが,独立法人化したとはいえ,医学部には莫大な国庫補助がある。医師一人の養成に投入される税金の金額は,弁護士一人の養成に投入される税金に数倍するのではないか。」それはその通りだと思う。しかしこの反論では,弁護士の養成だけを完全に国庫で賄ってもよい,との結論になっても,賄わなくてはならない,との結論にはならない。限りある国の予算を,医師の養成に幾ら投入するべきか,弁護士の養成に幾ら投入するべきかは,国家政策の問題だからである。たとえるなら,産業振興助成金をどの産業にいくら投入するかが国家政策の問題であるのと同じことだ。

「弁護士は平和と人権を守る最後の砦」であるから,法曹養成は国家が行うべきだという主張もあるが,やめた方がよいと思う。弁護士の中に,平和と人権を守る能力と識見を有する人が一部いることは否定しないが,だからといって,弁護士全部がそうではない,というより大部分の弁護士はそうではない,ということは,国民はとっくにお見通しだからである。この手の主張は,「弁護士は職業裁判官より人権感覚が優れている」という,法曹一元論の根拠となった主張と同じくらい,国民に対する訴求力がない,薄っぺらな,思い上がった主張なのだ。

2010年から司法修習生の給与の貸与制が開始される。これも,上記と同じ文脈で理解される。日弁連をはじめ各弁護士会は反対したが,押し切られてしまった。国側からすれば,授業料を取らないだけでもありがたく思え,ということなのだろう。

法科大学院,あるいはその構想に対しては,構想誕生当初から現在に至るまで,弁護士によるさまざまな批判が行われている。的を射た批判も多いが,大きな視点として,「国費丸抱えの法曹養成は国家政策として必然ではない」という認識を忘れるべきではないと思う。この認識を忘れて,「弁護士は税金で養成してもらって当然」と受け取られかねない物言いをすると,「思い上がるな」という怒りにさらされることになる。日弁連は,司法修習生の給与貸与制に反対する理由の一つとして,「弁護士の公共的使命感は給費制によって醸成されたもの」という点を挙げているが,上記の意味で,リスキーな主張だったと思う。

筆者はもちろん,司法修習生の養成を全額国費で行ってきた従前の制度が悪い,というつもりはない。良い点もある。様々な職歴や経歴,様々な階層の人たちが,このような司法修習制度が一因となって弁護士となり大成し,多大な社会的貢献を果たしているのは事実である。しかし,本稿の目的は制度の善し悪しを論じることではないので,これ以上立ち入らない。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(9)

法科大学院構想は,従前の司法研修所のみによる実務法曹教育に代わるものとして,あるいはその欠点を補うものとして構想された。つまり,構想した者から見ると,従前の司法研修所の法曹教育には,根本的な(対症療法では治癒できない)欠陥があったと認識されたことになる。かような欠陥に満ちた従前の司法研修所における実務法曹教育とは,どのようなものだったのだろうか。

司法研修所における法曹教育は,民事裁判,刑事裁判,検察,民事弁護,刑事弁護の5教科に分かれ,それぞれ裁判官,検察官,弁護士がクラスに計5人つき,教官として教育を行う。その内容は,簡単にまとめれば,裁判実務における事実認定の手法と,訴状,起訴状,判決書を含む裁判実務文書の起案が中心である。また,5科目の中では,民事裁判に最もウェートが置かれ,司法修習生は,特に入所後3ヶ月間の前期修習中,要件事実論という民事裁判における精緻な論理構造の習得に多くの時間を割く。それまで受験勉強に明け暮れてきた修習生にとって新鮮な体験であり,筆者を含め多くの修習生は要件事実論に夢中になった。

女性修習生が数人,通勤電車の中で要件事実を論じ,「ヒニンよ,ヒニンしなければだめよ。なんでヒニンしなかったの?」と大声で議論して周囲のひんしゅくを買ったという本当の話もある。ヒニンとは否認のことであり,相手の主張を認めないことを意味する要件事実論上の用語である。

司法研修所における法曹教育の主眼が,裁判実務の習得に置かれていたことは間違いない。前述のとおり,司法研修所卒業生の8割以上が弁護士になるのに,なぜ裁判実務を中心に教育がなされるのか。これを「最高裁による思想統制」と批判する見解もあるが,筆者はそう思わない。これは,裁判実務の習得を通じて,裁判官・検察官・弁護士は同じ言語を話せるようになるためのプロセスと見るべきであると思う。平たく言えば,お互いに話が分かるようになるのである。これは裁判官から見ると,訴訟進行を円滑に行うために大変便宜であるし,弁護士から見ると,裁判官や検察官が何を考えているか分かるようになる。事件の筋が見えるようになるのである。その意味で,裁判実務を統一して修習することに利点があることは間違いない。しかし他方,市民から見れば,「ヒニン」の実話のように,法曹三者が一般市民に分からない言語で話をする有様に「ギルド的」な疎外感を感じる面もあろう。

要件事実論が前期修習の要になる理由はもう一つある。それは,我が国の民法体系がドイツ民法に主として由来する成文法主義を取っている点だ。成文法主義においては,国が制定し,法典に記載された法律(成文法)が良くも悪くもルールであり,法律実務家には法典の精緻な論理解釈や事実への当てはめの技術が高度に要求される。これに対して不文法主義は,法典はもちろん存在するものの,これに優位する高度なルールが存在すると観念され(例えると,人間が作った法律の上に,神様が作った法律がある,ということです。神様が作った法律は紙に書いてありません。だから不文法と呼ばれます),法律実務家には,紙に書かれていないルールを探求する技術を求められる。アメリカの弁護士が,日本の法律実務家から見ると目を剥くような突拍子もない理屈を言い出すことがあるのは,彼の国が不文法国であることと無縁ではない。これに対して,成文法主義をとる日本では,明治以来100年以上にわたり,法文の論理解釈技術が積み上げられ,職人の技として伝承され,これが近年の裁判官によって要件事実論として体系化されたのだ。

ところで法科大学院構想の基礎となったロースクールは,英米のものが典型であるが,いずれも不文法国である。したがって,我が国にロースクール制度を導入することは,成文法国に不文法国の制度を導入することであり,この点で「木に竹を接ぐようなもの」(園部逸雄もと最高裁判事)という批判は的を射ていると言えよう。

明治時代,日本はフランスに倣った民法典を作ろうとしたが,日本伝統の儒教的価値観にそぐわないと批判され(「民法出デテ忠孝亡ブ」と言われた。),ドイツ民法典に乗り換えたことがある。このように,法体系をどうするかという問題は,国の在り方の根本に関わる問題である。その意味で,ロースクール制度の導入が,日本の法体系や国の在り方にどのような影響を与えるかという問題は,深く検討されるべきである。

いずれにせよ,制度の善し悪しを論じることは本稿の目的ではない。木に竹を接ぐにせよ,その是非が十分に検討され,相応の理由に基づいて導入されるのであれば,結構なことであり,結果として失敗しても,チャレンジとしては意味がある。しかし,我が国における法科大学院構想は,その是非が十分に検討され,相応の理由に基づいて導入されたのであろうか。まして,本稿の主題である日弁連は,特に法曹人口問題との関係において,どの程度真剣に法科大学院構想を検討したのだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(10)

日本において法科大学院構想の検討が公式に開始されたのは,1997年(平成9年)1111日,自由民主党の司法制度改革特別調査会がロースクール制度導入の是非を検討すると発表したのが最初である。

一方日弁連においては,1998年(平成10年)10月に開催された第17回司法シンポジウムの第三分科会において,ロースクール制度導入の是非が検討対象になった。当日配布された冊子中,第2東京弁護士会作成の冊子には,同年2月脱稿の論文が掲載されている。この冊子編集の会議が開始され,論文掲載依頼があったのが脱稿の約2,3ヶ月前であるとすると,ロースクール構想が弁護士会内で検討対象とされ始めたのは,1997年末か1998年初とみてよいだろう。このように,検討が開始された時期としては,国政レベルと弁護士会とで,大差はない。

日弁連第17回司法シンポジウムが開催されたのと同じころである1998年(平成10年)1026日,自由民主党の提言を受けた文部科学省の大学審議会は,「今後,法曹養成のための専門教育の課程を修了した者に法曹への道が円滑に開ける仕組み(例えばロースクール構想など)について広く関係者の間で検討していく必要がある。」と提言した。

1998年秋,日弁連内部でロースクール制度導入に最も積極的だったのは第二東京弁護士会法曹養成二弁センター(委員長飯田隆,副委員長遠藤直哉,野島正,小林哲也各弁護士)であり,国内外の資料と論考を収集したうえ,我が国にロースクール制度を導入するメリットと必要性を論じている。

この議論の是非善悪を論じることは本稿の目的ではないから立ち入らないが,資料に接するとき,とても不思議なことは,法曹人口との関係に全く触れられていない点である。これはどういうことなのだろう。

すでに指摘したとおり,1994年(平成6年)以降1997年(平成9年)まで,日弁連は,法曹人口問題で必死に抵抗しつつ,司法試験合格者年700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退を重ねてきた。この数年間,法曹増員論は,日弁連執行部にとって繰り返す悪夢のようなものであったはずだ。日弁連執行部は,まるで狼に追われる手負いの野ウサギのように,法曹増員のニオイにとても敏感だったはずである。しかも,ロースクール構想が発生した背景には,年1500人では全然足りない,数千人規模の司法試験合格者数が必要と考える勢力があった。ところが,当時の日弁連内部には,法科大学院構想の中に,法曹人口大増員のニオイをかぎ取った形跡が見られない。

1998年始めころから弁護士会内部で検討が始まった法科大学院構想は,法曹人口問題と完全に別なものと認識されていたのだろうか。言い換えれば,法科大学院構想は,あくまで1000人~1500人時代を前提に検討されたのであって,法科大学院構想自体が,さらなる人口増員を招来するものとは認知されなかったのだろうか。

3000人を容認してしまった現在から振り返る限り,1998年秋当時の日弁連執行部が,法科大学院構想にさらなる法曹増員の危惧を感じなかったというのは,とても不思議なことに見える。それは,「あと知恵」だけの問題ではない。1500人を念頭おいていた1998年の時点においても,当然,さらなる法曹増員への危惧が発生して然るべきだったからだ。なぜなら,少し計算すれば分かることであるが,1500人を前提にする限り,法科大学院構想は成立し得ないからだ。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(11)

日弁連が1998年(平成10年)からの司法試験合格者1000人と,その後1500人へ向けての検討を受け入れた199711月,自由民主党司法制度改革特別調査会において,ロースクール制度導入の検討が開始された。これは一見,1000人~1500人時代を前提にした法曹養成の問題のように見える。しかし,少し計算すれば分かることであるが,1500人を前提にする限り,ロースクール制度を日本に導入することは不可能である。

ロースクール構想は,合格者の高齢化や司法試験予備校の跋扈を弊害と考え,ロースクールで真面目に勉強すれば司法試験に合格する合格率,具体的には7~8割を想定していた。そこで,試験1回あたりの合格率7割,受験回数制限3回で,司法試験合格者数を年1500人と想定すると,ロースクール生の総定員数は1学年約1550人となる。これを各ロースクールに割り振るわけだが,平均100人とすれば16校,平均80人とすれば20校のロースクールが誕生する計算である。

しかし,各校平等80人~100人定員制は,現実問題としては成り立ち得ない。その理由は簡単で,東大,早稲田,中央,京大,慶應といった司法試験有力校が,そんな少数の定員には応じないからだ。これを証明するために,これら5校の1990年から1995年までの司法試験合格者数実績を,合格者数1500人に引き直してみると,次のとおりとなる。

東大   324人 (304人) 【300人】

早稲田  217人 (223人) 【300人】

京大   180人 (211人) 【200人】

慶應   145人 (271人) 【260人】

中央   139人 (292人) 【290人】

上記のうち,()内は平成19年度(合格者数合計1851人)の各大学法科大学院生(既習・未習合計)の出願者数であり,【】内は平成18年度の各大学法科大学院の定員数である。

東大の立場で言えば,「1997年(総合格者数746人)の東大の合格者が188人だから,総合格者数が倍になるなら,東大の合格者数も倍になる理屈である。だから,東大法科大学院の定員は最低でも300人は欲しい。」ということになる。司法試験合格者数は,法学部の格付の問題だから,東大の立場としては当然の要求だ。現に,総合格者数1851人の平成19年度における法科大学院生受験者数は304人,平成18年度の定員数は300人となっており,筆者の推論を裏付けている。

もちろん,これはとても単純な計算であり,少なくとも,次の2点を増減要素として考慮しなければならない。増加要素としては,総合格者数を750人から1500人に倍増した場合,東大出身の合格者数は倍増以上になるはずだ,という点がある。なぜなら,東大生の偏差値が高いからである。他方,減少要素としては,いかに東大が格付にこだわったとしても,法学部の定員数が415人であり,その全員が司法試験を受けるわけでは無かろうから(東大である以上国家公務員上級試験や外交官試験もある),余りに大人数の定員は欲しないだろう,という点が指摘できる。但しこの点は,法学部生の多い私立大学では,増加要素として作用する。いずれにしろ,東大としては法科大学院定員数300人を要求するであろうことは,容易に計算できることである。

同じ計算を上記の司法試験合格者数上位5校に当てはめてみると,この5校だけで,法科大学院生数の定員は1100名に達する。従って,下位校に配分できる法科大学院生数は合計450名しかない。しかも,一橋,大阪,東北,九州,名古屋,大阪市立,明治,関西,上智といった,「上位十校の常連」レベルの大学は,合格者総数1500人に引き直した場合,国立に50人,私立に100人を割り付けると,ロースクール生総定員数は2200人を超えるのだ。まして,これに北海道,金沢,横浜,首都大学東京,学習院,青山,日本,東海,立教,同志社,関西学院,などといった比較的有力な大学に30人ずつ定員を認めると,総定員数は2500人に達する。もちろんこれはとても控えめな試算である。これらのうち,500名以上の法学部学生を抱える私立大学が,定員30名で納得する筈はないのだが。

このように,ごく簡単で,しかも,とても控えめな計算をしただけで,東大,早稲田,中央,京都,慶應といった有力校が各200300人の定員を要求すること,その結果,合格者総数1500人を維持できなくなることは明白になる。逆に言うと,合格者総数1500人を前提にする限り,ロースクールは10校程度しか開校できない。

筆者にとってとても不思議なのは,なぜ日弁連が,当時,このような計算を試みなかったのか,ということだ。東大出身の弁護士だったら,母校がロースクールの定員80名で納得するはずがなく,最低300人を要求することは,容易に想像できたはずである。そうなれば,下位校にしわ寄せが行き,20校に1550人を配分するという制度設計が行き詰まることは簡単に分かったはずなのだ。

それでは,1500人では全然足りないとして,何人ならば,ロースクール制度の導入が可能になるのか。一つの参考として,早稲田大学のロースクール構想を見てみると,「短期的に見て10002000名の司法試験合格者を想定した議論と長期的に見て20003000名の合格者を想定した議論が必要であろう。」としている。この構想は2000年(平成12年)123日に公表されたものであるが,ロースクールの経営と国庫補助を第一に考える大学側からみれば,総定員数と自分の大学の定員数が最大関心事であったことは想像に難くない。法科大学院を運営する大学側から見れば,司法試験合格者数年3000人というのが,当面の目標であったことが窺える。

このように,大学にとっては,ロースクール構想と法曹人口問題は,当然のように結びつけて考えられていた。

しかし,翻って弁護士を見てみると,筆者の知る限り,1998年当時,ロースクール制度導入の是非を検討するに当たって,これが合格者数年1500人をはるかに超える法曹人口大幅増をもたらすかもしれない,という事実を指摘した弁護士は,主流派,反主流派を問わず,誰一人いない。とても不思議である。

1998年中に,そのような指摘をした弁護士がいたら教えてください。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(12)

1997年(平成9年)末から検討が開始された法科大学院構想は,司法試験合格者数年数千人時代を念頭に置いていた。すなわち,司法試験合格者数年1500人を前提にする限り,法科大学院構想が成立し得ないことは,少し考えれば分かるはずだった。しかし,1998年(平成10年)中,法科大学院構想は法曹人口の大幅増員をもたらすと指摘した弁護士は,筆者の知る限り,誰一人いない。1997年末から1998年にかけて,日弁連執行部は,「2003年ころ,1500人を巡る攻防が始まる」という,暢気な予想していた。

もっとも,1998年秋になると,「司法試験合格者数千人の時代が近い」という認識が生まれ始めてきた節がある。

199839日,大阪弁護士会で行われた講演会で,矢口洪一もと最高裁長官は,毎年4000人くらいの有資格者(但し,全員が弁護士にはならず,有資格者として企業法務に携わる者もいるとする)を輩出させる必要があると述べた。

19981119日,「自由と正義」掲載のため行われた座談会で,佐藤幸治教授は,ロースクール制度の導入とともに,「私は少なくとも毎年数千人の合格者を考えています」と明言した。同教授は,翌年7月,司法制度改革審議会委員長に就任する,司法制度改革のキーマンとなる人物である。「司法試験合格者数千人」という発言について,このときが最初であったのかは不明だが,このころ,「ロースクール制度を導入するなら,司法試験合格者は数千人規模になる」という認識が,日弁連内に生まれ始めたと思われる。

19981120日,日弁連理事会で承認された「司法改革ビジョン」は,同年6月に公表された自由民主党司法制度特別調査会の報告書の対案として策定されたものであるが,その中で,「司法試験合格者数の確保については,不断に検討を加えていくことが必要です。」と述べている。一見,「検討する」こと以外何も言っていないように見えるが,前年の決議は1000人あるいは1500人という「人数」を明記していた。その数字を撤廃したということは,当時の日弁連執行部において,それ以上の増員があり得ると想定していたことを窺わせる。

一方,この「司法改革ビジョン」には,ロースクール制度の検討を明言した自由民主党司法制度特別調査会に対する対案であるにもかかわらず,ロースクール制度導入への言及はない。これは,ロースクール制度導入に対する日弁連としての意思決定が,まだ白紙であったことを示している。

199811月ころの,法曹人口問題及びロースクール問題に関する日弁連執行部の認識は,この程度のものだった。

一方,日弁連外においては,19981223日,「経済戦略会議中間とりまとめ」が,「司法試験合格者を毎年2000人以上に速やかに引き上げる」ことを提言した。

政府が司法制度改革審議会設置法案を決定するのは翌1999年(平成9年)24日であり,同審議会のメンバー13人中5人を学者が占めることが内定するのは同年610日である。3000人への外堀は着実に埋まって行く。歴史にIFはないが,仮に,日弁連が「20103000人」に有効な異議を述べるチャンスがあったとすれば,それは1998年冬までのことだったと思う。それを知ってか知らずか,日弁連は何ら異議を述べないまま,1998年が暮れた。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(13)

1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて,ロースクール(法科大学院)構想に関する多くの論考が発表された。法科大学院設立を希望する大学としての発言も多いが,弁護士の論考も多い。公刊物の中で,いわゆる日本型ロースクールの導入について本格的に検討した最初のものは,筆者の知る限り,柳田幸男弁護士の「日本の新しい法曹養成システム(上)(下)」(ジュリスト199821日号,215日号)である。弁護士会の中では,第二東京弁護士会法曹養成二弁センター(委員長飯田隆,副委員長遠藤直哉,野島正,小林哲也各弁護士)が最も導入に積極的だった。これら積極論者の主張は大同小異である。従前の司法修習制度や司法試験制度の欠点を鋭く指摘する一方,ロースクール制度を導入すれば,従前の欠点が克服され,新しい司法制度や国家のあり方に適合した法曹が養成されるというものである。

日弁連内部における,ロースクール制度導入に対する反応はどうだったのだろうか。参考になるものとして,1999年(平成11年)920日,ロースクールをテーマに東京大学で開催された「法曹養成と法学教育のシンポジウム」における,宮川光治弁護士の発言をご紹介したい。同弁護士によると,日弁連内部の立場は大きく三分される。「最多数は,現行の司法修習を批判し,法曹一元をめざす立場から,日弁連はロースクール構想を積極的にリードすべきであるとする積極意見であり,半数近くを占めている。第二位は,統一修習の利点が失われ,法曹人口増に歯止めがかからなくなるとしてロースクール制度の導入に反対する消極意見であり,全体の三分の一を占める。現行司法修習における統一・公正・平等の理念が維持されるのであればロースクール制度導入に賛成するという条件付き賛成意見もあるが,少数である。」(ジュリスト1999121日号)

この発言が事実であるとすると,1999年秋までには,ロースクール構想は,法曹人口増員論との関係においても,日弁連内で議論されていたことが分かる。そして,日弁連内の多数派の弁護士は,司法試験合格者数が数千人となり,さらに,それ以上の人口増に歯止めがかからなくなるとのリスクを承知しつつ,ロースクール制度の導入に賛成していたことになる。その僅か2年前まで,法曹人口増に必死で抵抗してきた経緯からすれば,人格が分裂したと思うほどの変化である。そして,このような変化が日弁連内部にもたらされた理由は,主として,次の3点にあると思う。

第1点は,ロースクール構想が,「法曹一元」という衣をまとっていたことである。論理的には,ロースクール制度の導入と法曹一元とは無関係であり,宮澤節生神戸大学教授(当時)はこのことを明言している(自由と正義199912月号など)が,弁護士による多くの論考は,むしろ,ロースクール制度は法曹一元制度への足がかりであると主張する(遠藤直哉弁護士,斎藤浩弁護士など)。多くの弁護士にとって,ロースクール構想は,「法曹一元」という弁護士会の悲願を成就する導きの星として受け取られたと思われる。

第2点は,ロースクール制度導入が,法曹養成問題として検討されたことである。司法試験合格者数1000人時代を迎え,弁護士会も積極的に「法曹の質」を維持向上するべく取り組もうとしていた矢先,「法曹人口増員に歯止めがかからない」という理由でロースクール制度導入に反対したのでは,「業界エゴ」との大批判を浴びることは必至だった。

第3点は,当時の日弁連は,政府与党から,起訴前弁護や陪審制など,懸案だったいくつかの司法改革を実現するとのメッセージを受けていたため,これらの制度を遂行するに足る法曹大増員を本気で考え始めたことである。ただ,司法改革の問題は,別の機会に論じることにする。

すでに繰り返し述べているとおり,本稿の目的はロースクール構想の是非を論じることではない。新しい制度を導入するについて,賛成意見と反対意見があるのは当然のことだし,弁護士がロースクール構想に賛成し,法曹人口増員を容認する発言をしたからといって,そのことだけで「この裏切り者」と非難するつもりは全くない。

しかし,筆者の感覚としては,現行司法研修所の問題点を批判するのはまだ理解できるとしても,未だ実現してもいない日本型ロースクールの方が現行制度に勝ると主張し,司法研修所を廃止してしまえとする議論に対しては,議論の公平さに疑問を持つし,なにより話が乱暴だし,胡散臭さを感じずにはいられない。大学関係者の主張なら,当事者のセールストークと思って聞けば腹も立たないが,なぜ弁護士まで,大学のお先棒を担ぐような主張を当時行っていたのか,理解できない。大阪弁護士会の斎藤浩弁護士は,従前の司法修習制度は「官僚統制」の道具であり,教育内容もお粗末な「欠陥品」であって,これを支持するのはただの「ノスタルジー」であると断じ,日本型ロースクールこそ,「法曹一元への道を確実にする橋頭堡である」と主張する(自由と正義20007月号)。当時,未完成の設計図しか存在しない制度が,なぜ,現在施行されている制度より間違いなく優れており,しかも,法曹一元を確実にする,となぜ言えるのか。ホントにそうなったらその慧眼を讃えよう。しかし,法曹一元が完璧な敗北に終わったことはすでに述べたとおりである。

当時も,筆者と同様の感覚を持つ人がいたと見えて,ジュリスト19991215日号には,前澤達朗東京地裁判事補が「米国のロー・スクールにおける法曹養成の現状と問題点」と題した論考を寄せている。この論考で前澤判事補は,米国ロースクールの長所を認めつつ,あえて問題点を指摘したと断った上で,アメリカの法曹には,日本の司法研修所教育をうらやむ声も多いと述べ,「(いま日本に)必要なのは,隣の芝が青いと見ることでなく,…米国の法学教育をめぐる環境全体を客観的に観察し,具体的に検証することではないだろうか。」と結んでいる。筆者は,このようなバランス感覚こそ,当時の日弁連が持つべきものではなかったかと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(13の2)

ここで,日弁連内部において,法科大学院構想についてどのような意見表明がなされたのか,概観してみよう。

1999年(平成11年)1021日(12日の間違いとの指摘もある),第二東京弁護士会は,「法科大学院(ロースクール)問題に関する提言」を行った。詳細はジュリスト1172号をご参照頂きたいが,法科大学院制度の導入と司法研修所の廃止,及び,法科大学院の総定員数約2000名,司法試験合格率80%,等を特徴としている。この意見書は会長名で発表されているが,その内容から推して,法曹養成二弁センター(委員長飯田隆,副委員長遠藤直哉,野島正,小林哲也各弁護士)が中心になって作成したものと思われる。

この意見書に対しては,その直後,当時の司法研修所民事弁護教官,刑事弁護教官全員が連名で意見書ないし申入書を発表した。特に民事弁護教官による意見書は,「『二弁提言』における司法研修所廃止論とその論拠は,…余りに独善的で偏狭な議論である」という激烈な批判となっている。これに対しては山岸良太第二東京弁護士会副会長(当時)から,「法曹一元を真に目指す方向性…からも,弁護士側からの決意表明として,司法研修所廃止を提言せざるを得ない」とする再反論がなされた。

すでに指摘したとおり,偏差値により序列化された日本の大学制度を前提に法科大学院制度を導入した場合,総定員数2000名,合格率80%という第二東京弁護士会の構想は,現実問題として少数に過ぎ,ほとんど実施不可能である。そのくせ,同弁護士会は自分では大宮法科大学院大学(平成19年度司法試験出願者数62名,最終合格者数6名)の経営に提携している。弁護士会がこんなレベルの低い大学にまで法科大学院を設置しようとするから,法科大学院の「乱立」が発生し,法曹人口増に歯止めがかからなくなるのだ。

また,司法研修所を廃止するというのも,余りに乱暴な議論というほかはない。この点は,他の弁護士会(東京,第一東京,大阪など)も司法研修所の存続を前提とした法科大学院構想を発表しており,思慮深さにおいては二弁構想に勝る。司法研修所と二回試験の存在が,法曹の最低限の質を維持し,法曹人口激増の事実上の歯止めになりつつある現状を思うとき,これを廃止すると提言した二弁構想の無思慮さと見通しの無さは,大いに批判されるべきである。もしこれに反論したいなら,再度,今更どうやって「法曹一元を真に目指す」のか,説明して欲しいところである。

また,1998年から2000年にかけて行われた上記「二弁提言」は,上記のとおり余りに無思慮・拙速・乱暴なものでありながら,これを巡る日弁連内の議論を分裂させ,意思統一を行う機会を失わせた,という意味でも,大いに非難に値する。既に指摘したとおり,もし日弁連が法科大学院構想や司法試験合格者年3000人に反対することができたとすれば,それは1998年(平成10年)がタイムリミットであった。

大阪弁護士会の森下弘弁護士は,「市民弁護士から見た司法改革」(自由と正義19999月号で,文部科学省や大学を法曹養成制度に参画させることの危険性を指摘した。これは慧眼と言うべきであろう。もっとも,同弁護士が提唱した「大学とは別に,法曹三者の経営する法曹養成機関を設立する」という案が,この時点(1999年)において,どれほどの現実味を有していたかは疑問である。この時点では法科大学院制度の導入は事実上内定していたからである。

名古屋弁護士会の森山文昭弁護士は,「法科大学院(ロースクール)構想の隘路」(自由と正義20007月号)で,様々な観点から,法科大学院構想の問題点を指摘している。法科大学院構想は司法試験予備校の隆盛によって空洞化した大学法学教育を復興し,かつ,法曹養成予算不足に対応しようとするものであるが,そもそも,大学法学教育が空洞化したか,空洞化したとしてそれが司法試験予備校のせいなのか,未検証であるし,また,法科大学院によって従前通りの法曹の質が確保される保証もないばかりか,法曹養成の統一性・開放性・平等性を害する危険があると述べる。そして,一旦法科大学院制度を導入したら法曹人口大幅増に歯止めがかからなくなるのであるから,拙速を慎み,まず,適正な法曹人口について検証を行うべきであると主張する。

これらの主張は,法科大学院制度の問題点を的確に指摘したものと考える。惜しむらくは,20007月の指摘では(仮に脱稿を4月としても),約2年,遅きに失したといわざるを得ない。

ところで,森山文昭弁護士が現在,愛知大学法科大学院の専任教員を務めていることが,法科大学院の問題点を指摘した上記主張と矛盾しないのか,矛盾しないとすればどのような関係に立つのか,やや気になるところではある。もとより,森山文昭弁護士は法科大学院構想に正面から反対していたわけではないから,与えられた環境の中で,優秀な法曹を養成するため全力を尽くそうとなされたのかもしれない。しかし,それならば,その愛知大学法科大学院が,司法試験受験科目を過度に偏重している(平たく言えば受験予備校化している)として,財団法人日弁連法務研究財団から不適合の評価を受けたことは,皮肉なことというほかはない。このことについて,森山文昭弁護士はどのようなお考えをお持ちなのだろうか。同弁護士の今後の発言と去就が注目される。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(14)

法曹人口増問題は,1997年(平成9年)10月,将来の1500人を視野に入れたところで,一旦上限を打つ。これは,当時の司法修習制度と予算の物理的限界であった。翌11月に登場したロースクール構想は,1500人では全然足りないとする自由民主党司法制度特別調査会の意思に基づいて発想されたものであり,かつ,ロースクール構想は,本質的に,司法試験合格者年1500人では成立し得ないものだった。従って,従来法曹人口増に抵抗を続けていた日弁連の立場からすれば,ロースクール構想に反対して然るべきところだが,現実には,日弁連はロースクール構想に異議を唱えることはなかった。それは,ロースクール構想が,日弁連の悲願である「法曹一元」と「司法改革」の衣をまとって登場したからであった。

1999年(平成11年)62日,司法制度改革審議会設置法が成立する。同日,日弁連の小堀樹会長(当時)は,「司法制度改革実現のため長年にわたり着実な取り組みを進めてきた当連合会の活動の成果ともいうことができ、国民主権の下における司法の改革が広く国民各層の間における議論を踏まえて実現されようとすることに格別の意義を認める」との談話を発表し,これを歓迎した。

司法制度改革審議会設置法成立の9日後である1999611日,司法制度改革審議会委員13人が内定する。うち5人は学者であり,このうち北村敬子中央大学商学部長と鳥居泰彦日本私立大学連盟会長の2名を除く佐藤幸治座長(京都大学教授),井上正仁東京大学教授,竹下守夫駿河大学長の3名は,現在も法科大学院協会の役員を務めている(筆者注;佐藤幸治氏は平成203月をもって退任した)。このときをもって,法科大学院制度の発足は内定したとみてよい。

もっとも,この時点では,日弁連が法科大学院構想に対して公式にどのような態度を取るかは未定であった。すでに指摘したとおり,日本に法科大学院制度を設けるためには,司法試験合格者数は最低でも年3000人は必要と計算されたため,日弁連が反対する可能性があったからである。

しかし,19991119日,日弁連は法曹人口に関して,「市民が要望する良質な法的サービスの提供と法曹一元制度を実施するためには、弁護士の人口が相当数必要であり…法の支配を社会のすみずみまで貫徹させる観点から…日弁連は国民が必要とする弁護士の増加と質の確保を実現する」との基本的提言を行い,将来の司法試験合格者に1500人という「上限」を付した1997年の基本方針を事実上撤回した。

19991124日,司法制度改革審議会第7回審議において,東京大学の青山義充副学長(当時)が,将来の日本の法曹人口は,少なくともフランス並みの75600人を目指すべきであり,これを達成するために年3000人の司法試験合格者が必要と述べたが,日弁連の事実上の代表であった中坊公平委員はこのとき,全く発言していない。なお,同年出版された文藝春秋12月号において,中坊公平委員は,日本が必要とする法曹人口として6万人とする試算を行っていた。

このようにして,司法試験合格者数年3000人に向けたレールが着々と敷かれていく。

1999年末から2000年にかけて,日弁連会長選挙が行われた。

このとき初めて(後に5回連続して立候補する第1回目として)立候補した高山俊吉弁護士は,選挙公報において,「弁護士が幅広く人権活動を行うことができるのも,経済的基盤があってこそ」であり,その裏付けのない弁護士人口の極端な増加は,弁護士の質を低下させ,弁護士自治を害し,ひいては社会的弱者の立場にある民衆に被害を与える,と主張した。この主張は,日弁連が1995年以降封印したはずの「弁護士の経済的基盤確保」論である。また,法科大学院構想に対しては,「有為の人材を閉め出すとともに,統一・公正・平等の理念を確実に失わせる」として反対した。

これに対し,対立候補の久保井一匡弁護士は,「国民が必要とする弁護士の増加と質の確保を実現する」という方針で対応すると主張し,従前の日弁連執行部路線の承継を公約するとともに,法曹養成制度に関しては,「法曹一元の実現に向け,大学関係者とも協議しつつ,法曹養成制度も改革する」としており,間接的な表現ながら,法科大学院構想を支持した。

この選挙では,事実上,司法試験合格者数年3000人程度を想定した法曹人口増の可否と,法科大学院構想の是非が争点になっていたと見られる。

久保井一匡弁護士が日弁連会長に当選した直後である2000年(平成12年)28日と22日,司法制度改革審議会において,中坊公平委員が,日弁連として司法試験合格者年3000人を事実上容認することとなるプレゼンを行う。そして,200088日,司法試験合格者数年3000人が事実上内定する。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(15)

2000年(平成12年)111日の日弁連臨時総会決議の提案理由は,「国民が必要とする適正な法曹人口」を5万人と試算し,これを実現するために,司法試験合格者数は年3000人程度が必要としている。

5万人という法曹人口について,提案理由文は,諸要素を総合的に考慮した,ともっともらしい理屈を述べているが,これまで概観してきた経緯に照らせば,これが建前であったことは明白である。本音は,全国に法科大学院を設置し,その経営が成り立つ最低ラインとして,司法試験合格者数年3000人を受け入れることにあった。

ではなぜ,日弁連が全国に法科大学院を設置し,その必然的な結果として弁護士数が飛躍的に増大することを容認する選択を行ったのか。それは第1に,法曹一元を実現するためであり,第2に,いくつかの司法改革の施策を実現するためであった。

この二つの目的のうち,法曹一元構想が無惨な敗北に終わったことは既に述べた。確かに,弁護士の大幅増員は法曹一元実現の必要条件かもしれないが,弁護士が増えたからといって,法曹一元が実現するわけではない。「法曹一元を期する」と言う以上は,その手懸かりを確保しておかないといけなかったのに,中坊公平委員と当時の日弁連執行部には,この点の認識が,なぜか,ぽっかりと抜けていた。

つぎに,司法改革については,裁判員制度,被疑者国選弁護など,いくつかの施策が実現し,また実現されようとしている。これは日弁連が法科大学院構想を支持し,法曹人口大幅増員を受け入れた一つの成果といえる。問題は,これらの司法改革の施策が,法曹人口増の大幅増に見合うものであったといえるか否かであるが,法科大学院の問題を離れるので,別の機会に論じたい。

一方,日弁連が法科大学院構想を積極的に支持し,法曹人口の大幅増員を受け入れたことは,いくつかの重大な問題を日弁連に突きつけることになったと思う。

その第1は,1997年以前の日弁連の態度との断絶ぶりである。日弁連が「国民が必要とする適正な法曹人口」を5万人と認めたことは,1997年以前,司法試験合格者数年1000人にも抵抗していた日弁連が,国民の利益を考えていなかったと認めることである。これは同時に,かつて法曹人口増員論抵抗の理由として日弁連が唱えた「弁護士の経済的基盤の確保論は,既得権益にしがみついた弁護士の業界エゴでした。すいません。」と,日弁連が公式に認めたことをも意味する。

第2は,1997年,日弁連が法曹人口増を抑制する武器として用い,一定の成果を挙げた「法曹養成機関の予算的限界論」を,日弁連自らが放棄したことを意味する。私立大学はもちろん,独立行政法人となった旧国立大学が法曹養成を行う以上,予算的限界が消滅してしまったからだ。

第3は,法科大学院の設立によって,日弁連は「後戻りのできない選択」をしてしまったという点である。単に,「国民の必要とする適正な法曹人口」の試算を間違った,というだけなら,後になって「あのときの計算は間違いでした。すいません訂正します。」と言えばよい話であり,後戻りが可能である。しかし,一旦設立させた法科大学院は,容易なことでは潰すことができない。まして,法科大学院制度全体を消滅させることは,事実上不可能である。つまり,後戻りができないのである。現在,法曹人口増に反対する弁護士の中には,「弁護士に自由競争原理を導入したのだから,法科大学院にも自由競争原理を導入すべきだ。過剰な法科大学院は潰せばよい。」という勇ましい意見を言う人がいる。筆者も潰れた法科大学院の教員や従業員に同情するつもりはないが,学生についてはそうはいかない。民間英会話学校の倒産でさえ,生徒の去就が社会問題になることを想起して欲しい。教育機関の倒産によって,若者が夢を絶たれるという事態は,社会にとって大きな損失だから,法科大学院はおいそれと潰すことはできないのである。

もちろん,かつて法曹人口増に抵抗するために用いた武器を自ら放棄したからといって,日弁連執行部が,2000年当時,年3000人を超える増員を容認したわけではない。その証拠としては,建前にせよ,モデル国とされたフランスが,他の先進諸国中最も法曹人口の少ない国であったこと,司法試験合格者数年3000人という数字が,法科大学院の経営が成り立つ最低レベルであったことが挙げられる。しかし,かつて法曹人口増に抵抗するために武器を放棄した結果,2000年以降,法曹人口増に抵抗する武器は「国民が必要とする法曹の量と質を確保する」という,とても曖昧な概念のみとなってしまった。しかも,「国民が必要とする法曹の量」という概念は,実際のところ,算定不能である。したがって,今後法曹人口論を論じるとき,日弁連が武器として使えるのは,「法曹の質」という概念だけとなる。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(16)

「法科大学院の初期設計ミスが露呈した」。20071123日の日本経済新聞はこのように論じた。曰く,「80以上もの乱立したロースクール卒業者の新司法試験合格率は最終的には二,三割とも言われ,高い授業料を払って三回しか受験資格のない学生たちは,(多彩で先進的な多くの科目を自由に履修するという法科大学院構想の理念どころか)ひたすら試験科目の勉強のみに熱中し,いまやロースクールは高級予備校化したとすら言われている」。

20076月には,慶應義塾大学法科大学院の植村栄治教授が,司法試験問題を学生に漏洩したと疑われ,司法試験考査委員を解任された。司法試験予備校は,法科大学院より格下かもしれないが,試験問題の不正入手はしていない。慶応義塾大学法科大学院は,「高級予備校と化した」どころか,低級予備校以下に堕落したというべきだろう。

法科大学院の「予備校化」と「不正行為」の背景となった「乱立」はなぜ発生したか。法科大学院側から見て最大の原因は,司法試験合格者数は年3000人にとどまらず,更に数千人規模で増加する,との見通しにあった。2002年(平成14年)7月,政府の総合規制改革会議は,司法試験合格者年3000人の早期実施と,それ以上の合格者増を中間答申している。司法試験合格者枠は,近い将来,5000人,6000人に増える,と法科大学院が予測する素地は確かに存在した。

政府与党が,関連する宗教団体の経営する大学への法科大学院設立を認めさせるために,認可基準を緩和したという,真偽不明の噂もある。

日弁連にも責任がある。日弁連の事実上の代表であった中坊公平委員は,司法制度改革審議会で,たびたび,年3000人というのはミニマムの数字であると発言している。また,2000年(平成12年)111日の臨時総会決議では,法科大学院に関し,「全国に適正配置する」ことを求めている。これは,法曹一元の理念に照らした場合,地元に密着した弁護士と,その弁護士の中から選任された裁判官が誕生する必要があるため,法科大学院を各地方都市に設立する必要が生じることによるものだ。司法試験合格率の高い大学は,大都市に集中しているから,地方都市に法科大学院を設立することは,必然的に,学生定員数の飛躍的増加(と合格率の低下)を招く。ここでも,法曹一元の理念が,法曹人口を大幅に増加させる理屈として登場している。

「法科大学院構想は日弁連とは無縁のところで進行したから関係ない」という意見を述べる弁護士もいる。しかし,上述の通り,日弁連は法科大学院構想の実現を積極的に支援し,実現させたのだから,その結果として生じた様々な問題に取り組む責任があると思う。

そして,日弁連として取り組むべき最も大きな問題は,法曹人口の大幅増員と法科大学院の設置,司法研修所における法曹教育比重の相対的低下が,それ以前の法曹と本質的に異なる法律家を生み出すのではないか,また,それにより,社会における法律家の存在意義が,それ以前と大きく変わってしまうのではないか,という点である。これはおそらく,今後の弁護士と日弁連のありかたを根本から変えることになると思う。もっとも,この点は,余りに大きな問題なので,別の機会に論じたい。

ともあれ,法科大学院構想に関して,日弁連は,この構想を通じて法曹一元を実現するという目的については敗北したが,いくつかの司法改革施策を実現させたという意味では,一定の成果を得た。しかし,そのために日弁連や個々の弁護士が払った,あるいはこれから払うことになる代償がどれだけのものになるのかは,未検証である。これは筆者の直感であるが,日弁連が積極的に支援し協力した法科大学院制度の設立は,将来,弁護士自治を相当程度失わせることになると思う。弁護士自治を失えば,弁護士会はただの業界団体になる。そうなれば,法科大学院制度を実現するために,日弁連は魂を売った,という歴史的評価を受けることになる。(小林)

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日弁連はなぜ負けたのか? 法曹一元編

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2008218 ()

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(1)~

「法曹一元」という言葉は,若い弁護士でも,耳にしたことがあると思う。それはかつて,「弁護士自治」や「法の支配」と並んで,弁護士にとって究極の理想とされていた(本稿では,後述する理由から,あえて過去形を使う)。実は,この「法曹一元」という言葉は,法曹人口問題において,重要な位置を占めている。

それを一言で言えば,2000111日の日弁臨時総会決議は,「法曹一元の実現を期するため」に,年3000人という法曹人口大幅増員を受け入れたのだ。

それほどの重要性のある「法曹一元」とは何だったのだろうか。本稿では,法曹一元という視点から,法曹人口問題を俯瞰してみる。

法曹一元問題と,法曹人口問題は,法曹養成問題を通じて結びつく。

石井美和氏の「法曹養成を巡る制度と政策 法曹三者の力学を中心として」によれば,法曹養成をめぐる法曹三者の関係は,昭和34年の臨時司法制度調査会(臨司)以降,平成7年の法曹養成制度等改革協議会意見書に至るまで,要するに,合格者の若年化を企図する法務省・最高裁VS日弁連,という構図で理解される。

合格者の若年化自体は特に争うべきことではないと思われるが,それが対立を生んだのは,法曹養成施設としての司法研修所の物理的キャパシティが原因である。昭和45年に東京都千代田区紀尾井町から文京区湯島に移転した司法研修所は,修習生を詰め込んでも700人程度が限度とされるため,これ以上の合格者の増員は,湯島の施設を前提にする限り,研修期間の短縮か,又は,法曹三者の分離修習を必然的にもたらす。合格者数を700人以内に維持しつつ,若年合格者を増やすためには,若年受験者を人為的に優遇する制度の導入が不可欠になる。まとめると,湯島の司法研修所を前提にする限り,若年合格者を増加させるためには,①修習期間の短縮,②分離修習,③若年受験者優遇制度,のいずれかの導入が不可欠になる。

余談になるが,44期の筆者が過ごした湯島研修所と馬橋寮での修習生としての生活が,上記のような法曹三者協議の舞台になっていたことについて,感慨を覚えずにはいられない。法曹三者による「コップの中の戦争」のコップが,実は司法研修所の物理的キャパシティだったというのは,一面,いかにも役人的であり,その予算第一の発想に苦笑するほかない。しかし他方,馬橋寮の実態は確かに,予算を第一に考えざるを得ない実情を反映していた。朝霞世代には伝説であろうが,馬橋寮はオンボロの建物で,8畳の4人部屋(!)の真ん中をベニヤ板で仕切って2人部屋にしており(但し2人部屋になったときは,一人が出て下宿するという不文律があり,その基金を皆で出し合った),ベニヤ板の薄さといったら「照明の紐を引く音が聞こえる」というものだった。筆者の部屋は諸般の理由で宴会部屋となり,「ベニヤの隣人」からの苦情は数知れず。共同浴場も一日おき。女性修習生の部屋とは廊下がカーテンで仕切ってあるだけで,女性修習生の部屋で酒盛りをしたり朝まで話し込んだりした。くっついたの別れたのという話も日常茶飯で,気恥ずかしい言い方だが,要するに受験で失った青春を,皆が必死で取り戻そうとしていた。ひどい生活だったが,そのせいで,寮で一緒に過ごした法曹とは,ある種の一体感が今でも続いている。朝霞の寮がどういうものか知らないが,このような一体感が喪失しているとすれば,筆者個人としても,法曹界にとっても,残念に思う。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(2)~

閑話休題。700人という司法研修所のキャパシティを前提として,分離修習や修習期間の短縮,若年受験者の優遇を図る法務省と最高裁の提案に対して,日弁連は徹底的に反対した。その理由は,石井氏によれば,戦後司法試験制度の理念と,法曹一元の理想にあるという。すなわち,戦後導入された司法試験制度は,戦前のそれと比較して,次の特徴を有する。

ア)  裁判官・検察官・弁護士の試験の統一(統一性)

イ)  行政官試験との峻別(分離独立性)

ウ)  一切の受験資格の制限撤廃(開放性・平等性)

エ)  採用試験ではなく資格試験であること(資格試験性)

修習期間短縮による修習の不徹底は,修習終了後の裁判所・検察庁における新人研修をもたらし,司法試験の統一性を害するうえ,弁護士任官を排除することにつながり,法曹一元を害する。また,若年受験者の人為的優遇は,様々な経歴を持つ者を不利にして,司法試験の開放性や平等性を害する。統一修習は,法曹一元の最後の砦である。日弁連はこのように主張して,反対の姿勢をとり続けたと思われる。

日弁連が戦後司法試験の理念と法曹一元の理想にこだわり続けたことの是非はさておき,このこだわりが,法曹三者の協議を機能不全に導き,のちの司法制度改革審議会の設立から合格者3000人増員に至る一連の経緯について,その一因になったことは,否定しがたい事実であると思う。

筆者は「日弁連はなぜ負けたのか(1)~(8)」で,法曹人口問題という視点で見ると,司法制度改革審議会が発足した時点で日弁連の敗北は既定事実として決まっていたと書いた。しかし,その司法制度改革審議会に,日弁連は,消極的に,嫌々ながら引きずり込まれたのではなく,法曹一元という視点から見ると,むしろ積極的に参加していった経緯が窺える。

それでは,日弁連がここまでこだわった法曹一元の理想とは,どういうものだったのか。「法曹一元」については,私自身,深くは理解していない概念である。期の若い弁護士の多くは,なおさらであろう。そこで,日弁連が理想に掲げた法曹一元とは何だったのかについて,検証してみることにする。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(3)~

日弁連にとって,法曹一元とはどれほど重要な理想であったのか。これを知る最適の手段は,日弁連の総会決議を紐解くことであろう。

日弁連のホームページ内で「法曹一元」を検索すると,85の文書がヒットする。「法曹一元」and「総会決議」で検索すると,25ヒットだ(もっとも,1966年以前の総会決議は検索対象になっていない)。そして,歴代総会決議のうち,「法曹一元」に最も強く言及しているのは,2000111日の臨時総会決議である。言うまでもなく,日弁連が司法試験合格者年3000人を受け容れた総会だ。この総会決議が,どれほど多く法曹一元に言及しているかについて,決議文及び提案理由に含まれる「法曹一元」という単語の数を比較してみよう。

 

 決議名

宣言中

提案理由中

1967

18回定期総会

司法制度の確立に関する宣言

1

0

1967

19回定期総会

自由の確率と人権の擁護に関する決議等

0

1

1968

19回定期総会

司法の民主化促進に関する決議

1

6

1969

臨時総会

司法修習生の追加採用に関する決議

0

5

1969

20回定期総会

司法権の独立に関する宣言

0

0

1970

21回定期総会

司法制度の改正に関する決議

0

0

1971

22回定期総会

司法の独立に関する宣言

0

0

1976

27回定期総会

司法研修所における法曹教育に関する決議

1

3

1990

41回定期総会

司法改革に関する宣言

1

2

1991

42回定期総会

司法改革に関する宣言その2

0

1

1992

43回定期総会

弁護士任官推進に関する決議

1

2

1994

45回定期総会

司法改革に関する宣言その3

1

1

1994

臨時総会

法曹養成制度の「統一・公正・平等」に関する決議

0

1

1994

臨時総会

司法基盤整備・法曹人口問題に関する関連決議

0

0

1997

48回定期総会

憲法50年・国民主権の確立を期する宣言

0

1

1999

50回定期総会

司法改革の実現を期する宣言

1

0

2000

51回定期総会

司法改革に関する宣言

1

0

2000

臨時総会

法曹人口,法曹養成制度並びに審議会への要望に関する決議

5

37

2001

52回定期総会

市民の理解と支持のもとに弁護士自治を維持・発展させる決議

0

0

2003

53回定期総会

司法改革に対し抜本的な予算措置を求め,市民のための大きな司法の実現をめざす宣言

0

2

2003

54回定期総会

司法改革宣言2003

0

0

2004

55回定期総会

弁護士任官を全会挙げて強力に進める決議

1

2

2004

55回定期総会

司法改革宣言2004

0

1

2005

56回定期総会

司法改革実行宣言

0

1

2006

57回定期総会

司法改革実行宣言

0

0

この表は,1967年以降の日弁連総会決議本文と提案理由中に,「法曹一元」という単語がいくつ含まれているかを数えてみたものである。但し,時間節約の観点より,決議名から推測しておよそ法曹一元に言及していないと思われるものは除外したから,漏れがあるかもしれない。しかし,2000年の臨時総会決議と提案理由に含まれる「法曹一元」という単語の数合計42個は,他の決議に比して,群を抜いて,ほとんど異常といえるほど多いことは一目瞭然である。これに対して,「決議文が長文だからだろう」と茶々が入るかもしれないので,同じ臨時総会決議中,他のキーワードと比較してみると,「司法改革」は12個,「人権」17個,「法曹人口」でさえ33個である。いかに2000年の臨時総会決議が,繰り返し「法曹一元」に言及したかは,もはや明白である。そして,ここまで熱心に言及された「法曹一元」というキーワードが,その後急速に廃れたこともまた,悲しいほど明白である。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(4)~

日弁連が,司法試験合格者数年3000人を受け入れた2000年の臨時総会決議の決議文と提案理由の中で,42回という異常な回数に亘り言及した「法曹一元」とは何か。実は,この決議文や決議理由を読んでも,よく理解できない。この決議自体が,法曹一元の定義を,同年5月の定期総会決議に譲っているからだ。そこで,20005月の定期総会決議の決議文を見てみると,日弁連の言う法曹一元とは,次の内容である。

★「市民の司法」を担う裁判官は、人権感覚を身につけ、司法の救済を求める人々とともに裁かれる立場から幅広い経験を積んできた人から選ばれる必要があります。また、市民も参加する民主的選考手続を経た人が任命される制度にするべきです。さらに、昇任・昇給など官僚的な人事制度を伴わないものでなければなりません。このようにして、弱者に優しい心と権力にたじろがない勇気をもった裁判官を実現することが、私たちが求める法曹一元制です。

何を言っているか分かりますか?筆者にはよく分からない。裁判官のキャリアシステムを否定していることは分かるが,では誰が裁判官になるのかについて,この決議文は曖昧である。そこで,1968年の第19回定期総会・司法の民主化促進に関する決議の提案理由と比べてみる。

★司法制度を民主化し、これを真に国民のものとするためには、現行の裁判官任用制度を廃止しまして、多年国民の中にありまして、社会の表裏に通じ生きた社会経験と広い視野を有する弁護士から裁判官を任命する制度を実現することが、唯一の方策であると信ずるのであります。

ここでは,裁判官を弁護士から任命することが法曹一元であると明言している。法曹一元は,本来,弁護士から裁判官を任命することだったのだ。ところが,2000年の決議では,「弁護士から」という言葉が抜け落ち,「民主的手続きを経た人」に代わっている。また,2000年の決議では,官僚的な人事権が否定されている。

この違いを理解することは,法曹一元の概念を理解する上で有益である。法曹一元は,もともと,「世界の狭い職業裁判官より,社会の表裏を知った弁護士が裁判官になる方が民主的で,国民の利益になる」という,牧歌的な発想であった。この牧歌的法曹一元論は,「弁護士が裁判官になることがなぜ民主的なのか」という素朴な疑問に対抗できず,力を失う。その後,冷戦構造の中で,裁判所が左翼的と見なした裁判官の再任を拒否したり,昇級や転勤等で露骨な差別をしたりしたことから,在野性の強い弁護士を裁判官にするとともに,昇級・転勤等の人事権を裁判所から剥奪することこそ,司法の独立を,ひいては国民の人権を守ると考えられるようになる。そして,弁護士の裁判官任官に民主的基礎を与えるため,選任過程の民主化が必要とされたのである。

ところで,法曹一元の制度的根幹となるのが,判事補制の廃止である。裁判官は判事と判事補(裁判官に任官して10年未満の者)とからなるが,判事は通常,判事補から任命されていた。判事補は,裁判所に判事として採用してもらいたいから,どうしても「お上」の顔色を窺うようになり,それが個々の判決に反映することになる。このような理解から日弁連は,判事補から判事を任命する制度(判事補制度)が,官僚司法制度の中核であるとして,その廃止を求め続けてきた。つまり,法曹一元と,判事補制度の廃止は,表裏一体の関係にある。法曹一元の本質は,判事補制度の廃止にある。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(5)~

概ね以上のような内容を持つ「法曹一元」という理想であったが,この理想が,かつて2度「死んだ」ことは,年長の弁護士にとっては,日本がかつて戦争で負けたことくらいの常識に属する。

明治31年,植村俊平弁護士が「将来は判事の数を減らして新任の判事は必ず弁護士より採用すること」を唱えたのが,法曹一元論の始まりとされている。

法曹一元論は弁護士会も唱えるところとなって立法活動が開始され,法曹一元化法案が昭和13年,14年,15年にそれぞれ国会に上程され,衆議院で可決されたが,いずれも貴族院で廃案となった。記録によれば,弁護士に限らず,時の法学者や裁判官も,法曹一元の理念を支持していたという。日本経済聯盟(今の経団連のようなものか?)も法曹一元を望む意見書を出した。日本史的には,当時の法曹一元論は大正デモクラシーの一内容と位置づけられるのだと思う。

太平洋戦争により,法曹一元論は一度中断するが,終戦の年である194511月,司法省に司法制度改正審議会が設置され,法曹一元が検討の俎上にのぼったが見送りとなった(法曹一元論一度目の死)。しかし弁護士会は法曹一元論を諦めず,運動を継続した結果,1962年,臨時司法制度調査会(臨司)が法曹一元を重要な検討課題とする。しかし結局,「法曹一元の制度は,これが円滑に実現されるならば,我が国においても一つの望ましい制度である。しかし,この制度が実現されるための基盤となる諸条件は,未だに整備されていない。」と結論づけ,法曹一元論を再び棚上げした(法曹一元論の二度目の死)。これは,弁護士会内で,「法曹一元葬式論」と評価された。(以上,坪井明典毎日新聞論説委員「法曹一元に関する戦前の取り組みから学ぶもの」(自由と正義513号 2000)の要約)

この棚上げにより,法曹一元論は挫折体験として弁護士会に語り継がれることになる。その後法曹一元論は弁護士会の「悲願」となり,総会決議などで折に触れ言及されつつ,実現の時を待っていた。

そして1997年ころ,突如,法曹一元論は復活の産声を上げる。1998年と2000年に開始された司法シンポジウムは連続して(司法シンポジウムは隔年で開催される)法曹一元を主要テーマに取り上げ,「自由と正義」は2000年の1月号で法曹一元の特集号を発行した。法曹一元は各単位会でも議論の対象となり,京都弁護士会が発行した「法曹一元 市民のための司法を目指して」を始め,各地の弁護士会が法曹一元を論じた冊子を発行した。

以上,戦前戦後を通じて3度目の復活をした法曹一元論が,2000年の臨時総会決議に結実したのである。その結果法曹一元は実現することとなったのであろうか。

前述した坪井明典氏は論考の中でこう述べている。「臨司意見書は,弁護士会がしつこく繰り返す法曹一元論に終止符を打つために,お葬式を出したのだ。『一つの理想』という言葉は,お葬式の供花に過ぎない。これでもう,化けて出てこないというつもりだった。(中略)『二度あることは三度ある』ともいう。今回棚上げされれば,今度こそ法曹一元に本当に葬式を出すことになる。二度と化けてでることもできない状況に陥りかねない。」

法曹一元論に,三度目の葬式は出たのだろうか。(小林)

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(6)~

司法試験合格者数年3000人を日弁連が受け入れた2000年臨時総会の決議文及び提案理由において,日弁連執行部は,「法曹一元」という単語を42回も用いた。しかし,「法曹一元」という言葉の意味は,日弁連総会決議という公式声明の中でも,歴史的に変容していることは,本稿(4)でご紹介したとおりである。それでは,歴史を縦軸と位置づけた場合,横軸はどうか。実は,1997年から2000年に限ってみても,「法曹一元」の理解にはかなりの幅がある。

日弁連が2000218日に行った「法曹一元の実現に向けての提言」によると,法曹一元の制度構造は,「裁判官以外の法曹資格者(主として弁護士)から市民を含む裁判官推薦委員会の推薦を受けた者のみが裁判官となる制度であって,従前の昇給・転勤等の人事制度を廃止する」ものであり,2010年をもって新規判事補の採用を廃止するとする。このようにして選任された裁判官の数は3000名(ちなみに2000 年当時の判事数は1360名)を想定し,これを支える弁護士数を確保する,というものである。これが,20005月における日弁連の公式見解としての「法曹一元」の内容である。この公式見解には,ロースクールへの言及はなく,陪審制・参審制への言及もない。弁護士人口についても増員を言うだけで,数についての言及はない。20001117日に開催された第18回日弁連司法シンポジウムは法曹一元をテーマにしたが,基調報告の内容は,基本的に上記提言に沿ったものとなっている。なお,こうした日弁連の立場を中心になって推進したと思われる小川達雄弁護士(京都弁護士会)は,自由と正義511号「『20世紀の宿題』法曹一元制度の実現へ」(2000)は,日弁連提言と同様の私案を提起しつつ,法曹一元の裁判官3000名を支えるための司法試験合格者数を年1500人とし,2003年からは年40人,2010年からは年140人,2019年からは年100人の弁護士を裁判所に供給することにより,2020年ころまでに全キャリア裁判官は消滅すると推計している。

井垣康弘神戸家庭裁判所判事(当時)は,自由と正義511号「私の構想する『法曹一元制度』」(2000)で,「日本型ロースクールを設け,判事補制度を廃止し,法曹有資格者で裁判官以外の経験を10年以上有する者(主として弁護士)から,任期10年,任地・ポスト固定,報酬同額の条件で,民意の反映するような方法で判事を任用するべきである(あわせて陪審制度・参審制度を導入するべきである)とする立場に「全面的に賛成」であると述べる。ここで,法曹一元とロースクール,あるいは陪審制度との関連が述べられているが,井垣判事の理解するところの「日本型ロースクール」が何を意味するのか,あるいは,法曹一元と陪審制度等との論理的関連は明らかにされていない。

戒能通厚名古屋大学教授は,自由と正義489号「法曹一元と裁判官【司法改革を展望して】」(1997)で,「法曹人口増加や研修期間を短縮する等の司法改革が,『法曹一元』の概念をご都合主義的に歪曲して語られ,独り歩きして,それぞれの主張を裏付け権威づける都合のいい概念として多用されている」として,法曹一元の名の下に修習期間短縮を受け入れようとする立場を批判する。同教授によれば,日弁連が範とするイギリスの法曹一元制度は,バリスタという特権者のギルド集団の中で,「尊敬を勝ち取る」ことによってのみ裁判官への道が開かれる制度が,国民の自由の擁護者として支持されてきたものであり,官僚司法と対峙するものの,民主主義とは相容れない制度であるという。もっとも,イギリスの法曹一元制度自体,急激に変容しつつあることは,教授自身指摘している。

松井康浩もと日弁連事務総長は,自由と正義498号「司法制度の改革と法曹一元制度」(1998)で,我が国は「支配者」と「国民」に二分されており,法曹一元は司法を支配者から国民が奪取する行為であって,法曹一元が実現されれば,「誰が見ても違憲の」自衛隊は違憲となり,日米安保条約も当然破棄されると予想する。法曹一元のための弁護士増は不要であり,法曹養成の費用は専ら国費で賄うべきであると主張する。乱暴に要約すれば,この主張は国費を元手に司法権を通じて日本に革命を起こそうというものである。革命の善し悪しはさておいても,日弁連事務総長の要職にあった人物が,「弁護士が裁判官になれば革命が起こってすべてがうまくいく」という脳天気な議論を本気で行っていることに驚きを禁じ得ない。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(7)~

このように,弁護士や法学者の中でも法曹一元に関する理解には幅があるが,他方共通するのは,法曹一元は戦前に遡る弁護士会の「悲願」であり,1964年の臨司意見書で「たなざらし」になった挫折をふまえ,その後の弁護士会においては司法の「理想」として語られてきた,という点である。そして,「理想」であるだけに,その中身が吟味されないまま,様々な意味が付与され,「ご都合主義的な概念」として多用されてきた一面もあるのだろう。

さて,このような弁護士会の理想とする法曹一元論に対しては,次のような痛烈な批判があることにも言及しておかなければならない。

京都大学の棚瀬孝雄教授は,「法曹一元の構想と現代司法の構築」(ジュリスト1170号。20001月)の中で,次のように主張する。すなわち,在野法曹であれば必ず職業裁判官より市民感覚が優れ,世間の表裏に通暁しているとなぜ言えるのか。大企業の顧問弁護士が庶民感覚を有するのか。弁護士会が裁判官選任に関与すれば「民主的」で「市民感覚」に優れると言うが,全ての弁護士が市民の側に立っているとはいえず(企業側や体制側の弁護士もいれば,市民の中にも多様な利害対立がある),民主的で公平な裁判官選任が担保され得ない。「裁判官には社会常識がない」という一般論も,科学的な検証がなされていない。しかも,法曹一元制度は,我が国の大陸法系の実体法を英米法系のそれに変更することを伴い,さらに,裁判官が争点整理から審理・和解又は判決まで主体的に関わる職権主義的訴訟手続を,当事者主義的訴訟手続に大転換することにつながるのであり,それは,弁護士費用の高騰といった国民にとってのリスクをもたらす可能性があるから,法曹一元制度を採用するには,国民的合意と支持が不可欠である。教授は言う。「裁判所がかりの訴訟運営を漫然と続けながら法曹一元性を採用するということは,私には不可能なことを主張しているように見える。」

棚橋教授は,上記のような問題点のほかに,従前の法曹一元論は,東西対立というイデオロギー構造の中で,体制側の裁判所と市民側の弁護士という文脈で語られてきたが,東西対立構造が終焉を迎えた今日,弁護士会が語ってきた法曹一元論も構造的な修正が迫られるのではないか,と示唆している。

法曹一元をめぐる論考は多数に亘り,筆者にはこれを網羅し検討する能力も余裕もない。また,本稿の主旨は法曹一元論そのものを良いとか悪いとか評価することではないから,法曹一元論の内容の是非については立ち入らない。筆者が本稿で検討したいのは,2000年(平成12年)当時,日弁連にとって法曹一元論は,本気で実現を企図するほどの実体を備えていたのか否か,である。

このような見地から2000年当時の日弁連の公式見解を検討してみると,第一に,理論的裏付けが希薄であるといわざるを得ない。すでに指摘したとおり,法曹一元論は歴史的に変容しており,2000年ころの日弁連内部での理解にも幅があるのであって,日弁連執行部がこれらを批判的に検討したうえで,「日弁連が目指す法曹一元はこれだ!」と宣言したようには見受けられない。むしろ,会内合意の獲得を最優先にして,総花的抽象的な法曹一元論を呈示しているようにしか思えない。筆者から見て最大の理論的問題点は,かつて確かに裁判所に見られた所内人事の不適正さや,行政寄り・保守派寄りの判決が,裁判官のキャリアシステムを主たる原因とするものなのか,それとも,冷戦構造化の東西イデオロギー対立に基づくものなのか,という理論的検討が疎かであり,そのため,東西冷戦構造が終結した後の法曹一元論の理論的支柱が脆くなってしまったことにある。

理論的問題点もさることながら,第二に,明確な戦略が描かれていないことが致命的な問題点であると思う。日弁連の公式見解は到達点の青写真にすぎず,到達点にどうやって行くのか,という検討が全く見られない。法曹一元論は,百年以上続いてきた裁判所のキャリアシステムを根本から覆す大事業であって,裁判所が猛烈に抵抗することは必至であるのに,これを打ち破る戦略が全く示されていないのはどういうことなのだろうか。「戦略は軍事機密です」という反論があるならまだマシだが,日弁連執行部に機密にするほどの戦略があったのかは大いに疑問である。「矢口洪一と佐藤幸治が支持するのだから,総理大臣も動く」と安易に考えていたのではないかという疑問を筆者は払拭できないし,仮にそう考えていたなら(つまり,内閣府直轄の司法制度改革審議会で決まれば裁判所のキャリアシステムは廃止されると考えていたなら),三権分立に関する日弁連執行部の理解が疑われる。

そもそも,法曹一元が本当に実現したら,日弁連はどうするつもりだったのだろう。青写真の通り,2010年に判事補制度が廃止されたら,その後,全国規模で数十人から百人規模の弁護士任官者が継続的に確保されなければならない。しかも,その弁護士任官者は弁護士会内で能力を認められたエリートでなければならないのだ。もし定員割れが発生したら日弁連は世間の笑いものになる。少ない裁判官任官のポストを,弁護士同士が争うようでなければ,法曹一元にした意味はない。一体,青写真を書いた先生方は,弁護士登録後10年~30年の有能な弁護士が,こぞって任官を希望する有様を想定できたのだろうか。

第三に,戦略的目標(法曹一元の実現,判事補制度の廃止)がとても大きく,一朝一夕には達成できない以上,日弁連執行部としては,当面の戦術的目標を掲げ,どこに橋頭堡をつくるか明確にしなければならなかったのに,それがない。具体的には,法曹一元の本質が判事補制度の廃止にある以上,判事補制度を廃止するための第一目標が設定されなければいけなかったのに,それがない。その結果,その戦術的目標達成のためにはどんなリスクとコストが想定されるのかという事前検討ができなくなったばかりか,事後の検証もできなくなってしまった。後述するように法曹一元論が葬り去られたにもかかわらず,「法曹一元の理念は残った」などという,ふざけた評価がなされたのは,ひとえに,事前の戦術的目標の設定が無かったからにほかならない。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(8)~

司法試験合格者年3000人を事実上受け入れた2000年の日弁連臨時総会決議は,「法曹人口」の33回よりも多い42回,「法曹一元」という単語を繰り返した。なぜこれほど多数回,同じ言葉を繰り返したのか。前稿までで基礎的なお勉強をすませたことでもあり,再度,決議文と提案理由にあたってみよう。

本決議文は,柱書のほか,下記3項に大別される。

第1項は,判事補制度の廃止と弁護士からの裁判官任官,及び陪審・参審制の導入を求め,

第2項は,「法曹一元制の実現を期して」,国民が必要とする法曹数を確保することを宣言し,

第3項は,「法曹一元制を目指し」,法科大学院の設立に協力すること,を宣言している。

このうち,第1項の判事補制度の廃止や弁護士任官は法曹一元そのものだから問題ない。陪審制は本来法曹一元と異なる概念だが,刑事司法への国民参加という文脈でとらえることにより,法曹一元と趣旨を同じくするものと理解できる。問題は第2項と第3項である。

まず,第2項で,「法曹一元を期する」ことが,なぜ年間3000人という法曹人口大幅増に結びつくのか。すでに垣間見たとおり,法曹一元と弁護士人口の大幅増は,論理的に直結しないし,イギリスの伝統的法曹一元制が示すとおり,制度的にも無関係である。しかし日弁連は,優秀で幅広い人材を弁護士の中から裁判所に投入するためには,まず弁護士自身が社会の隅々まで行き渡る必要がある,という見解を採用した。ここに,「法曹一元制の実現を期して」,その基盤整備のために,弁護士の数を大幅に増やす,という論理が登場する。

次に,第3項で,「法曹一元制を目指す」ことが,なぜ法科大学院の設置に結びつくのか。まず,法曹一元を期して法曹の大幅増員を遂行する以上,従前の司法研修所による法曹教育では不十分となる。そこで,代替機関として法科大学院を想定するとともに,幅広い人材を養成し,地域に密着した法曹を養成する(日弁連の提言する法曹一元制度は裁判官の異動がない)ため,多数の法科大学院を全国に設置することが必要となる。このように,法曹一元制を目指すためには,多数の幅広い人材としての法曹を養成する機関として,多様かつ全国的な法科大学院の設立が必要になる。

2000年の臨時総会決議が,法曹一元という単語を42回も使って説明しようとしたことは,要約すると,概ね,上記のような内容となる。

それなりに筋の通った話であることは分かる。読者の皆さんは,なるほど,と納得されただろうか。

筆者は全く納得できない。むしろ,かなりの胡散臭さを感じる。それはなぜだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(9)~

日弁連は2000年の臨時総会決議により,法曹人口の大幅増員(司法試験合格者年3000人)を受け入れた。決議文と提案理由によれば,日弁連がこのような大幅増員を受け入れたのは,ひとえに「法曹一元」の実現のためであり,このことは,決議文と提案理由に「法曹一元」という単語が42回も繰り返し用いられていることに,象徴的に示されている。

しかし,法曹一元実現のために3000人を受け入れたという日弁連の論理は,筆者には大変胡散臭く思える。その最大の理由は,それほどまでして目標に掲げた法曹一元の理想が,2000年の決議の後,あっという間に小さくなってしまったからだ。2000年の臨時総会決議の後2007年の総会決議まで,「法曹一元」に日弁連が言及したのはたったの7回である。2000年の臨時総会では1回の決議で42回言及された「法曹一元」という単語が,その後7年間全部合わせても7回しか言及されていない。日弁連は,法曹一元の理想を忘れたのだろうか。それとも,すでに法曹一元は実現したとして,満足してしまったのだろうか。非常勤裁判官の採用,弁護士任官や判弁交流は,裁判官全体の数から見れば,細々と行われているに過ぎない。「弁護士も増えたが,裁判官も相当増えた」と言う暢気な弁護士もいるが,職業裁判官を増やしたら,法曹一元が遠のくばかりではないか。2010年に判事補制度を廃止するという計画はどうなったのだろうか。日弁連が本気で法曹一元の実現を目指し,そのために大幅増員を受け入れたのなら,その後遅々として法曹一元が進展しないことに対して,抗議の声を上げてしかるべきである。しかし,筆者の知る限り,日弁連がそのような抗議を行ったことを示す資料はない。

では,日弁連は2000年の臨時総会決議当時,初めから,法曹一元を実現する気がなかったのであろうか。「法曹一元」はただの建前であり,反対派を懐柔するための便法に過ぎなかったのだろうか。

筆者にはそうとも思われない。主なものを挙げるだけでも,1998年と2000年の司法シンポジウムは,法曹一元を主要テーマに掲げている。また,2000年の「自由と正義」511号は,法曹一元の特集号である。地方単位会も,京都弁護士会が発行した「法曹一元 市民のための司法を目指して」(1998)ほか,少なからぬ単位会が,法曹一元をテーマにした本や小冊子を発行している。いうまでもなく,このようなイベントや出版は,相当数の弁護士が,仕事と収入と睡眠時間を犠牲にして奮闘しなければ実現しない。こういった多数の弁護士の努力が,弁護士大幅増員を受け入れる便法・建前と割り切ってなされたとは考えられない。資料を見る限り,確かに2000年までは,法曹一元制度を実現させようという熱気が,日弁連内に存在していたようである。

2000年当時,日弁連は本気で法曹一元を実現させようと考えており,その基盤整備として法曹人口の大幅総員を受け入れたとするならば,なぜその後,法曹一元実現の熱意を急速に失ったのだろう。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(10)~

日弁連は,2000111日の臨時総会決議で,法曹一元という単語を42回も繰り返して用いた。法曹一元は,戦前からの日弁連の悲願であり,すでに2回,潰えている。それが3度目の復活を遂げたのは,どういう経緯からだろうか。

1998年(平成10年)616日,自由民主党司法制度特別調査会は,「21世紀の司法の確かな指針」と題する報告書を発表した。ここには一言だけだが,「かつて臨時司法制度調査会において協議され,未だ基盤整備がなされていないとされた法曹一元の問題(中略)も検討課題と言える。」との一文がある。与党内でこの調査会はその1年前に発足しているから,法曹一元が同調査会で検討対象になったのは,1997年(平成9年)中であろう。いち政党内部とはいえ,与党内で法曹一元が議論の対象になったわけであり,これは日弁連にとって,朗報と受け止められたことは想像に難くない。

次いで,1998年の司法シンポジウムは,法曹一元を主要テーマに掲げた。シンポのテーマはだいたい1年前に決まるから,やはり1997年中に,日弁連としても法曹一元を再々度真剣に検討する必がある,と考える事情が発生したのだろう。

199828日の日本経済新聞において,元最高裁長官の矢口洪一氏が,現行憲法が予定しているのは法曹一元であり,判事補制度は廃止すべきと発言した。なにしろ元最高裁長官だけでなく,「ミスター司法行政」と呼ばれたえり抜きのエリートであり,その発言は重い。同氏は1998年の9月には日弁連に招かれて法曹一元を求める講演をしている。

自由民主党司法制度特別調査会報告書作成にも関わった佐藤幸治京都大学教授は,「法曹一元 市民のための司法を目指して」(京都弁護士会1998)の中で,「法の支配の実現のためには法曹一元が不可欠」「法曹一元で裁判官の独立性が高まる」「法曹一元と陪審制は一体」「法曹一元をつくるには,大学が法曹専門教育の主たる担い手になるべき」「自民党の司法制度特別調査会の報告書の考え方を突き詰めていけば,法曹一元制に行きつくのではないかと私は理解している」と述べている。佐藤幸治教授の構想する法曹一元制度が,2000111日の日弁連臨時総会決議文の構成と極めて類似していることは注目される。

佐藤幸治教授は,「自由と正義」19991月号においても,中坊公平氏,保岡興治衆議院議員らとの対談でも,上記同様の発言をした。

この佐藤幸治教授が,19997月,司法制度改革審議会の委員長に就任した。しかも,同年69日に成立した司法制度改革審議会設置法には,衆議院法務委員会の附帯決議として「審議会は、その審議に際し、法曹一元(中略)など司法制度をめぐり議論されている重要な問題点について、十分に論議すること。」との一文が付されている。日弁連としては,「これは本当に法曹一元が実現するかもしれない」と思ったとしても不思議ではない。法曹一元論については,理念倒れだとする痛烈な批判があることは前述の通りであるが,法曹一元を政府が決定すれば,あとは何とかなる,と思ったのかもしれない。

いずれにせよ,このような経緯で,法曹一元論は三度目の復活を遂げた。その先に悲劇が待ちかまえていたことは,日弁連にとって青天の霹靂だったかもしれないし,見る人が見れば,当然の結末だったかもしれない。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(11)~

法曹一元に対する日弁連の期待を背負って1999年(平成11年)7月に発足した司法制度改革審議会であったが,その審議の中で,法曹一元はどのように取り扱われたか。同審議会は,66回の審議中,「司法制度改革に向けてー論点整理」「中間報告」「最終報告」の三つの文書をとりまとめている。そこで,前例に倣い,三つの文書中,「法曹一元」という単語を検索してみよう。

まず,「司法制度改革に向けてー論点整理」中,法曹一元という単語は,10回用いられている。

次に,「中間報告」では,法曹一元という単語は,4回用いられている。

最後に,「最終報告」ではどうだろうか。

ゼロ,である。筆者も驚いて2回調べたが,「法曹一元」という単語は,ただの一回も用いられていない。司法制度改革審議会の最終報告書において,法曹一元という言葉は,抹殺されていたのである。

この最終報告に対する日弁連会長声明は,次のとおりである。

★当連合会が強く訴えてきた法曹一元に基づく裁判官制度の改革については、その理念に基づき、弁護士任官の推進、判事補の相当長期の多様な法律専門家としての他職経験、特例判事補制度の計画的・段階的解消、裁判官選考について国民も参加する推薦機関の設置、人事制度の非官僚化などを打ち出されたことは重要な意義をもつものです。

これはつまり,「法曹一元」という言葉は採用されなかったが,その「理念に基づく」いくつかの提言を積極的に評価する,という意味である。また,「法曹一元の理念である」という言葉を使わず,「法曹一元の理念に基づく」という,一歩引いた表現になっているのは,法曹一元にとって本質的な要素である判事補制度の廃止や,昇給・任地等に関する官僚的人事制度の廃止がほとんど含まれていないからであろう。最終報告書が採用されたのは,主として,裁判官に社会経験を積ませたり,弁護士任官を推進するなどして,「裁判官は世間知らず」という批判を回避するための方策に過ぎない。

司法制度改革審議会最終報告書における裁判官制度改革について,法曹一元の観点からどのように評価するかは,前述したとおり,事前の目標設定がなかったため,立場によって評価が分かれることとなった。裁判所におけるキャリアシステムと判事補制度が法曹一元の本質であるとの立場に基づくならば,上記最終報告書の内容は法曹一元論の完全な敗北と評価される。他方,裁判所に市民感覚を反映させるのが法曹一元論の趣旨と考える立場からすれば,上記最終報告書の内容は一定の前進と評価される。

現在,各単位会で,弁護士任官や,非常勤裁判官などの取り組みが行われている。しかし,2000年当時に存在したような,法曹一元に向けた熱気が見られないこともまた事実である。司法制度改革審議会の最終報告書が一度も「法曹一元」という言葉を使用しなかったことからしても,「法曹一元」という理想は,3度目の死を迎えたと見るべきだと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(12)~

司法制度改革審議会において,法曹一元がどのように議論されたかに興味のある方は,是非,同審議会の議事録をお読み頂きたい。集中審議第2日目(200088日),3日目(89日),第28回(829日),第36回(1031日)において,法曹一元論は大いに議論されている。議論は,法曹一元論と判事補制度の廃止を強硬に主張する中坊公平員と,これに反対する裁判所代表の藤田耕三委員との激論が中心である。

中坊公平委員は,法曹一元問題について,よく戦ったと思う。判事補制度を廃止しなければ,弁護士会として法曹人口増員に賛成できない,という,脅しとも取れる発言さえしている。しかし最終的には,中坊委員は,委員会の説得に失敗した。その理由は第1に,「法曹一元」という言葉の多義性(あいまいさ)と,東西冷戦時代下のイデオロギー色が嫌われたこと,第2に,「判事補制度には致命的な欠陥がある」と中坊委員がいかに力説しても,判事補から判事になった者に一般的普遍的に欠点があるとは受け取られず(むしろ,多くの調査結果は現在の裁判官に国民の多くが満足していることを示しているとされた),また,弁護士が判事補より判事にふさわしいという理解も信頼も得られなかったこと,当の弁護士自身に任官への熱意が見られなかったこと(弁護士任官の多くは今も昔も,適任者の一本釣りで行われている),等が挙げられよう。結局のところ,法曹一元論について従前から指摘されていた曖昧さや理念倒れ,冷戦時代の遺物,といった批判を克服できなかったため,中坊委員ほどの論客をしても,他の委員を味方につけることができなかったともいえよう。法曹一元論は,未熟で,時代遅れで,理念倒れの議論だった。

結局,審議会での議論は,「現行の判事補制度は,利点もあるが,欠点もある。国民のための司法という観点からすれば,利点は残しつつ,欠点の是正に努めればよい。判事補制度を廃止する必然性までは認められない」という,至極穏当な結論に落ち着いたのである。

審議会の中では,一橋大学名誉教授の竹下守夫副委員長は,法曹一元論反対の論陣を張った。佐藤幸治委員長は,現代裁判所制度の問題点の指摘には積極的であったものの,判事補制度の廃止という法曹一元論の本質については,中立を通したように見える。もともと,法曹一元論,判事補制度の廃止を提唱していた佐藤幸治教授であるが,なぜ,日弁連と共同歩調を取らなかったのであろうか。あるいは,佐藤幸治教授にとって,法曹一元や判事補制度の廃止はあまり重要なことではなかったのだろうか。1997年,自民党や佐藤幸治教授が法曹一元を言い出したのは,日弁連に法曹人口大幅増と法科大学院設立を呑ませるための策略だったのか。筆者に調査する余裕はないが,少なくとも,佐藤幸治委員長が本気で法曹一元・判事補制度廃止を考えていたのか否かについては,司法制度改革審議会終了後における佐藤幸治教授の発言を詳細に追跡すれば,自ら明らかになると思う。

江田五月現参議委員議長は,当時,こう書いている。「日弁連は、法曹一元制度採用、法律扶助制度の大巾な拡充、裁判官・検察官の大巾な増員、などと抱き合わせにしてOKサインを出していたのですが、このへんのところは(案の定)適当にすっぽかされて、『年間3000人』と『法科大学院』だけが一人歩きをする内容になりました。(中略)審議会にここまでいいように「いいとこ取り」をされたのは、日弁連の偉い人たちが、『われわれの主張は正しいのだから審議会でそれが通るはずだ』とばかりに突っ込んでいったからです。大甘もいいところです。『貧弱な戦術手段しかもっていないのに、過大な戦略目標を追求した』のです。孫子は2500年も前に、こういう戦争はやっちゃならんと言っています。曰く、『小敵の堅は大敵の擒なり』と。」

江田五月氏が「つける薬もないような人たち」,要するに「馬鹿」と罵倒した対象に中坊公平氏が含まれることは当然だが,同氏だけでない。1998年から3年がかりで「法曹一元」で大騒ぎをした挙げ句,無惨な敗戦を喫した「日弁連の偉い人たち」は,ちゃんと首を洗ったのだろうか。すくなくとも,資料を見る限り,日弁連や各単位会の「偉い人たち」が完敗を認める記述には接することができない。自虐的にせよ,「法曹一元葬式論」を認めていた昭和30年代の日弁連の方が,よほど健全だったと思う。それどころか,「司法制度改革審議会は,法曹一元という言葉こそ使わなかったが,その理念を反映し…」といった言い訳めいた発言に終始している。しかし,法曹一元の本質は,すでに述べたとおり,判事補制度の廃止である。判事補制度の廃止か,廃止へ向けた道筋が付けられない限り,法曹一元論は敗北したというほかはない。

筆者は以前,3000人問題に関して,「司法制度改革審議会発足の時点で,すでに勝負は決まっていた。中坊公平委員は,戦犯というより敗戦投手というべきである」と書いた。しかし,法曹一元論という切り口で見ると,中坊公平委員は敗戦投手と呼ぶより,「貧弱な戦術手段しか持たないのに,過大な戦略目標を追求した」ドン・キホーテと呼ぶに相応しい。そして,当時の日弁連は,ドン・キホーテを大いに盛り上げた哀れなサンチョ・パンサというべきであろう。

ちなみに,法曹一元論における日弁連の敗北が事実上確定したのは,平成12年(2000年)1031日である。つまり,臨時総会の前日だ。「法曹一元」を42回も繰り返した決議文がすでにできあがり,翌日に臨時総会を控えた日に,法曹一元論は葬り去られたのだ。歴史の皮肉というほかはない。日弁連執行部が翌日の総会で,法曹一元論の敗北を認めれば,決議は否決されるし,認めなければ,後日「嘘つき」と非難されることになる。最悪のタイミングである。1031日の晩,日弁連執行部の先生方は眠れぬ夜を過ごしたと思う。気の毒な話ではあるが,彼らが「嘘つき」を選択した責任は免れないと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(13)~

以上,法曹一元論という視点から,法曹人口問題を概観してみた。まとめると,こういうことになる。

戦前から日弁連の理想であり悲願であった法曹一元論は,二度葬り去られた後,1997年(平成9年),突然の復活を遂げた。日弁連は熱意を持って法曹一元の実現に取り組み,司法制度改革審議会においてその実現を図る。しかし,法曹一元論はその理論的脆弱さや戦略・戦術の無さなどから,審議会内の合意を全く得られず,20001031日,みたび葬り去られる。それにもかかわらず,その翌日である111日の臨時総会において,日弁連は,「法曹一元」という単語を42回も用い,「法曹一元を期するために,法曹人口の大幅増員を受け入れる」との決議を行った。日弁連は公式には「法曹一元への手がかりは残った」と評価したが,その後,法曹一元への熱意は失われる。つまり,法曹一元論において,日弁連は完敗した。残ったのは,法曹人口大幅増員と,法科大学院制度の導入,そしていくつかの司法改革の施策だけであった。

もちろん,一般論としては,日弁連が必要ないし重要と考えた制度について,時機を見てその実現にチャレンジすることは意義のあることだし,それが結果的に失敗することもあるだろうし,努力が無駄になったり,失ったりするものもあるだろう。それ自体はやむを得ないことであって,失敗した執行部の責任を必要以上に追求することはよくないと思う。

しかしそうはいっても,法曹一元論に関する日弁連の戦いぶりは,余りにも稚拙であり,その負けぶりは,恥ずかしいほどの惨敗である。日弁連は,「法曹一元」の実現によって何を目指そうとしたのか,どうやって「法曹一元」を目指そうとしたのか,そのためにどんなコストやリスクを覚悟したのか,よく分からない。加えて,最も腹立たしいのは,日弁連が公式には完敗したことを認めていないため,敗北の事実が,会内に共有されていないことだ。だから,未だに折に触れ「法曹一元を実現するためには…」といった定型句を用いる弁護士会のお偉いさんが後を絶たない。日弁連執行部にとって,恥ずかしすぎるほどの負け戦であったことは理解できる。しかし,このままでは,法曹一元論はいつの日か4度目の復活を遂げ,そして4度目の葬式を迎えることになる。動員される弁護士の努力は全て無駄になり,日弁連には「理想倒れの書生。付ける薬のない馬鹿」という評価が下される。

筆者としては,「法曹一元は,日弁連が理想とするほどの価値や内容があったのか?」という疑問を感じずにはいられない。法曹一元には,法曹人口大幅増による犠牲に見合うだけの価値があったのだろうか。少なくとも,その価値があるか否か,という真剣な検討がなされたことがあったのだろうか。日弁連は,法曹一元論復活の兆しに,余りに安直に飛びついたのではないか。むしろ,大幅増員を受け入れるなら,もっと真っ当な対価を求めるべきだったのではないだろうか。一つの決議に42回も繰り返された「法曹一元」という言葉は,人口問題で追いつめられた日弁連の見た幽霊であり,うわごとでははなかったのか,という批判に,日弁連は答えられるのだろうか。(小林)

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日弁連はなぜ負けたのか?

日弁連はなぜ負けたのか?(1)

今回の日弁連会長選挙に立候補しているのは大阪弁護士会所属の宮﨑誠弁護士と、東京弁護士会所属の高山俊吉弁護士である。そこで最大の争点となっている司法試験合格者3000人問題だが、実は、私自身、いつどのようにして3000人という数字が決まったのか、よく知らなかった。高山俊吉候補は、「中坊公平が勝手にやった」と主張するが、事実認定を仕事とする弁護士としては、裏付けを取らずに、高山弁護士の言葉を額面どおり受け取ることはできない。そこで、「日経テレコン21」や、「電子政府の総合窓口」などを駆使して、歴史をひもといてみた。

私のおぼろげな記憶では、日弁連は最初800人、その後1000人で頑張っていたはずである。その立場からすれば、3000人は明らかな敗北だ。では、日弁連はいつ敗北したのだろうか。

調査の結果判明したことは、司法試験合格者数3000人という言葉が公式見解として初めて登場するのは、平成12年(2000年)87日の司法制度改革審議会集中討議第1日目の席上、「フランス並みの法曹人口(56万人)を目指すとすれば、年3000人としても実現は2018年になる。ミニマムの数字として年3000人合格を提言するべきだ。」という発言のときである(議事録上発言者は不明)。同日は結論が出ず、翌日に持ち越しとなる。ところが、翌88日、集中討議第2日目終了後の記者会見で、佐藤幸治会長は、「年3000人の合格者でおおむね一致」と公表する。その僅か3週間後の829日、当時の久保井一匡日弁連会長が司法制度改革審議会に呼ばれ、「日弁連として年3000人を受け入れることは可能」との見通しを表明し、111日、9時間近くに及び紛糾した異例のロングラン臨時総会において、賛成7437票、反対3425票で、3000人を事実上受け入れる決議を採択した。

つまり、3000人が事実上決定したのは平成1288日であり、日弁連会長の受諾は同月29日、日弁連が組織としてこれを受け入れたのが同年111日ということになる。このとき、法曹人口問題で日弁連は敗北したのだ。

では、なぜ、日弁連は敗北したのか。また、敗北といっても完敗から惜敗まで程度がある。そこで日弁連はどの程度敗北したのか。そこが次の問題である。

日弁連はなぜ負けたのか?(2)

司法試験合格者数3000人が公式な数字として表明されたのが平成12年(2000年)88日の司法制度改革審議会集中討議二日目の記者会見の席上であり、それまで公式には1000人を主張してきた日弁連は、この日、事実上敗北した。では、敗北に至る経緯はどうなっているのだろうか。

合格者数3000人を決定した司法制度改革審議会は、「司法制度改革審議会設置法」(平成1169日公布)という法律に基づいて設置され、同年727日から平成13727日までの二年間に、3日間の集中討議日を入れると実に66回開催された。委員は13名であり、その構成は、経済界から2名、学者5名、作家・労働組合・主婦連から各1名、弁護士3名である。弁護士3名といっても、一人は元裁判官、一人は元検察官であり、生え抜きの弁護士は中坊公平委員一人だ。つまり、3人の弁護士はそれぞれ、裁判所、検察庁、日弁連の事実上の代表である。会長は京都大学名誉教授佐藤幸治である。

佐藤幸治委員長は、平成11年(1999年)1022日の日本経済新聞のインタビューで抱負を聞かれ「まず司法の容量を拡大する必要がある。質の高い法曹人口を増やすためにしっかりとした法学教育を確立することが課題だ」と答えている。このように、法曹人口問題と法曹養成問題は、司法制度改革審議会における最大の論点であり、設置当初からの論点だった。

ところが、司法試験合格者数3000人という話は、議事録上、平成11727日の第一回会議から、平成1284日の第27回会議まで、全く出ていない。初めて出たのは、平成1287日の集中審議第1日目であり、翌8日には「年3000人の合格者でおおむね一致」と発表されている。合格者数問題は、司法制度改革審議会設置以前から何年にもわたって議論が重ねられてきた問題であるから、これがたった1日で決まったとは考えにくい。おそらく審議会設置当初より、オフレコで議論がなされてきたと見るべきだろう。(筆者注 その後,平成111124日の第7回審議会で,東京大学の青山義充副学長が3000人にすべしと言及していることを知ったので,この旨訂正します。)

ところで、司法試験合格者数を何人にするかという問題は、法曹人口を総体で何人にするかという問題と密接な関係がある。なぜなら、「全部で何人にするのか、この人数に達成するまで何年かけるのか」の二つの要素で、毎年の司法試験合格者数が決まってくるからだ。この点の議論は審議会設置当初からなされていたが、ターニングポイントとなったのは、平成12222日の第13回会議で、中坊公平委員が「フランス並みの56万人を目指すのが適切」という私案を発表したこととされている。この点は翌日の日経新聞に「中坊氏が大幅増員案」との見出しで「大幅増員に反対の多い弁護士出身の中坊委員が示した増員案は波紋を広げそうだ」と報じられている。もっとも、このとき中坊委員は、法曹人口の総体の数を述べただけで、1年当たりの司法試験合格者数には言及していない。しかし、法曹人口56万人を達成するのに、10年かけるとすれば、1年当たりの合格者数3000人という数字が自動的に算出されることになる。中坊公平委員は、合格者年3000人になるのは織り込み済みで、「フランス並み」という私案を作成したことは間違いない。

この中坊委員の私案をとらえて、今回日弁連会長候補に立候補している高山俊吉弁護士は、「3000人は中坊が勝手にやったこと」と断罪している。果たしてそうだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか?(3)

司法制度改革審議会が、平成1288日に司法試験合格者数3000人を事実上決定するにあたり、大きなターニングポイントとなったのは、同年2月、中坊公平委員が発表した「フランス並みの法曹人口56万人を目指す」という私案であった。

今回の日弁連会長候補である高山俊吉弁護士は、この点をとらえ、「3000人は中坊が勝手にやったこと。当時の久保井一匡日弁連会長は、恥知らずにもこれを追認した」と主張している。果たしてそうだろうか。

元日弁連会長である中坊公平委員は、当時日弁連の事実上の代表として司法制度改革審議会に出席している。子どもじゃあるまいし、日弁連執行部に無断で勝手に「私案」を発表したとは考えられない。また、司法制度改革審議会が3000を事実上決定した直後に、久保井日弁連会長がその受入を表明していることからしても、中坊公平委員が当時の日弁連執行部に無断で行動したとは考えられない。中坊公平委員の私案→年間3000人の合格者→久保井日弁連会長の受入表明→日弁連総会で承認という一連の流れは、中坊公平委員と当時の日弁連執行部の連係プレーと見るべきであろう。

そこで問題は、なぜ、当時の日弁連執行部が、3000人受入に繋がる一連の行動を取ったのか、という点になる。何しろ当時、日弁連の公式見解は1000人堅持であった。したがって、この一連の行動は、これに反対する弁護士から「裏切り」と非難されかねない部分を含んでいる。

日弁連はなぜ負けたのか?(4)

平成125月から8月にかけて、当時の日弁連執行部(久保井一匡会長)と元日弁連会長の中坊公平委員は、司法制度改革審議会において、合格者3000人の受け入れに動いた。当時日弁連の公式見解は1000人堅持であったにもかかわらず、なぜこのような動きになったのか。これは高山俊吉候補の言うとおり、弁護士への裏切り、権力へのすり寄りなのか。

私は、この日弁連執行部の一連の行動は、当時の情勢からはやむを得ない選択であったと考える。その根拠は、次のとおりだ。

1に、司法制度改革審議会の構成である。前述したとおり、前13人の委員のうち、弁護士は3名、うち日弁連の事実上の代表者はたった1名である。いかに中坊公平委員の声が大きくても、121となっては多勢に無勢、勝負にならない。もうひとつ見落とせないのは、委員の任命権が内閣にあり(司法制度改革審議会設置法41項)、これに基づいて任命された3名の弁護士委員がいずれも「元裁判官」「元検察官」「元日弁連会長」であって、現役でない点だ。これは非常に重要である。司法制度改革を標榜する委員会であるのに、裁判所・検察庁・日弁連の現役の代表者ではなく、「出身者」しか委員にならせてもらっていない、しかも法曹三者合わせても13分の3でしかない、という点は、法曹三者から見れば、屈辱的な扱いである。つまり、司法制度改革審議会は、当初から、「今後の司法制度の在り方について、国は法曹界の意見を聴きませんよ」というメッセージのもとに設置されていると言って過言でない。

2に、法科大学院(ロースクール)構想との関係である。先に指摘したとおり、13名の司法制度改革審議会の委員のうち、最大である5名を学者が占め、会長は佐藤幸治京都大学名誉教授である。また、政府が司法制度改革審議会設置法案を決定したと報じられたのが平成1125日であり、その翌月11日には、文科省に「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」第1回会議が招集され、ロースクール構想についての検討に入っている。この会議はその後「法科大学院(仮称)構想に関する検討会議」となり、平成12530日に第1回会合を開催し、726日の日経では、「ロースクール構想の衝撃 法科大学院構想がにわかに現実味を帯びてきた」と報道された。そして、この検討会議は、司法制度改革審議会集中審議第1日目(つまり、3000人構想が初めて議事録に掲載された日)に、法曹教育として法科大学院制度を導入する場合の基本事項を発表している。その翌日には、3000人構想が「おおむね一致」と発表されているのだ。つまり、司法制度改革審議会は、その設置当初から、法科大学院構想と一体のものだったのである。大学側としても、法科大学院を設立する以上は、ある程度以上の人数を受け入れないと経営が成り立たないし、一定以上の合格率が保証されていないといけない。この点、自民党の「法曹養成に関する小委員会」の太田誠一委員長は、法曹人口をフランス並みにすること、ロースクールの開校を広く容認すること、を表明している(平成12516日日経新聞)。このように法科大学院開校を目論む大学側としては、合格者数3000人は、大学経営上最低ラインの数字だったと思われる。

3に、司法制度改革審議会外部の動きである。平成12421日は、経済人らで構成された「司法改革フォーラム」(会長・鈴木良男朝日リサーチセンター社長)は、2011年までに法曹人口を9万人に増やす提言を発表した。同年518日には、自由民主党司法制度調査会が、「21世紀の司法の確かな一歩」と題する意見書を発表し、フランス並みの法曹人口を求めている。さらに、平成1269日に発表された「司法制度改革審議会に対する米国政府の意見表明」は、法曹人口について、「法曹人口を劇的に増加させるためのあらゆる方策を積極的に検討されること、同時に、自由民主党司法制度調査会の意見書『出発点』として勧告されることを強く要望します。」と要請している。平成12513日の日経新聞は、「司法制度改革審議会の議論は、法曹や大学関係者よりで、利用者の方を向いていない。」という森稔森ビル社長の発言を紹介し、同審議会の議論に経済界が苛立っていると報じている。このように、平成125月以降、政府、財界及びアメリカは、法曹人口を最低でもフランス並みにせよ、という強いメッセージを司法制度改革審議会に発していたのである。

この情況で、日弁連としてはどのような対応が可能であっただろうか。中坊公平委員が当時の日弁連の公式見解である1000人に固執しても、121で、結論として最低「フランス並み、年3000人」になったであろう。中坊委員が席を蹴れば、内閣は「これ幸い」と、日弁連とは無関係の委員にすげ替えた可能性さえある。それどころか、財界やアメリカの要求に応じて、さらなる法曹人口増大(例えば9万人)を決議していた可能性さえあった。つまり、「フランス並みの5万人、合格者3000人」は、日弁連にとって唯一の選択肢だったというほかはない。これは想像だが、おそらく中坊―久保井ラインは、「3000人に最も反対しそうと思われている日弁連委員が、率先して3000人を容認する発言を行うことで、それ以上の増員への流れを封じる」という、かなりアクロバティックな作戦を実行したと考える。

歴史的に見れば、司法制度改革審議会が発足した時点で、日弁連の敗北は決定しており、あとは「どのように敗北するか」という選択肢しか、日弁連に残っていなかったのだ。中坊公平委員は、高山俊吉候補の指弾する戦犯ではなく、敗戦処理投手だったとみるべきだろう。この時点で敗戦は決まっていたからだ。歴史にIFは無いが、もし日弁連が3000人未満の合格者数という「勝利」を得る可能性があったとすれば、それは、司法制度改革審議会発足前であったことになる。

日弁連はなぜ負けたのか?(5)

平成128月、日弁連は合格者3000人を事実上受け入れた。これは、司法制度改革審議会という枠内において、日弁連が取り得た唯一の選択肢であり、要するに敗戦処理であった。なぜ日弁連がこのような苦渋の選択をしなければならなかったかと言えば、それは、司法制度改革審議会が発足した時点において、すでに勝負はついており、後は日弁連にとって「どのように負けるか」「どうやったら損害を最小限度で食い止められるか」という選択肢しか残されていなかったからである。

余談になるが、戦争の指揮官にとって戦場の選定が非常に重要であるように、弁護士にとって、闘いの枠組みをどう決めるかは、具体的な戦い方より重要である。誰を相手に裁判を起こすか、どこの裁判所に訴訟を起こすか、どのような法律構成を取るか、という選択が、具体的な主張より重要である場合は極めて多い。弁護士が紛争解決のプロであるという言い方は、言い換えれば、紛争解決の枠組みを作るプロである、ということだ。

日弁連執行部に就任する弁護士は、言うまでもなくプロ中のプロである。そのプロが、なぜ、司法制度改革審議会という、非常に不利な戦場に追い込まれ、負け戦を余儀なくされた挙げ句,自ら敗北を認めるような体たらくに至ったのか。

今回いろいろ調査してみて、これを歴史的に遡ろうとすると、昭和30年代くらいまで行きそうなことが判明した。しかし、直接関係し出すのは昭和62年ころからのことである(これ以降の経緯は東北大学大学院教育学研究科研究年報「法曹養成をめぐる制度と政策 法曹三者の力学を中心として」石井美和に詳しい)。そこで次に、司法制度改革審議会設置という歴史的ターニングポイントへの歩みを見てみる。

日弁連はなぜ負けたのか?(6)

司法試験合格者数3000人は、平成128月、司法制度改革審議会において事実上決定された。しかし、司法制度改革審議会が発足する以前は、司法試験合格者数は、法曹三者(裁判所、検察庁・法務省、弁護士会)が決めていた。つまり、平成1125日に政府が司法改革審議会設置法案を決定し、司法試験の合格者数を決定する権限を司法から行政に移転した時点で、日弁連を含む法曹三者は、法曹人口問題に関するイニシアティブを失ったと言ってよい。ではなぜ、法曹三者から権限が剥奪されたのだろうか。

話は昭和62年ころまで遡る。司法試験合格者数は、昭和38年から平成2年まで、500人前後で推移してきた。しかし合格者平均年齢の高齢化とバブル経済は、裁判官と検事希望者の減少を生み、これを憂慮した法務省が合格者の低年齢化を意図して、平成元年、甲乙丙3案からなる「司法試験制度改革の基本構想」を提案する。法務省と最高裁は、要するに若年者にゲタを履かせる丙案を支持し、これを法曹一元、機会平等への攻撃ととらえる日弁連と対立することになる。そこで日弁連が提案したのは、若年者にゲタを履かせないかわりに、合格者を700名程度に単純増員する案であった。一方最高裁は、合格者の増員は、司法研修所の物的容量から受け入れがたいとして、「合格者を増やすなら修習期間を短縮せよ」と主張する。他方日弁連は修習期間の短縮には絶対応じられないとして対立し、話し合いの枠組みを、法曹三者協議会から、平成3年に設立された「法曹養成制度等改革協議会」に移し、4年間の協議を経て意見書をまとめることになった。

ここまでは、司法試験合格者数と養成方法、司法修習生の就職先をめぐる法曹三者の争いであり、いわばコップの中の戦争であった。ところが、法曹養成制度等改革協議会が発足した平成3年は、「第三次行革審」発足直後であり、「コップの中の戦争」であった法曹人口問題は、「コップの外」である政府から、規制緩和政策の一環として認知されることになる。そもそも丙案回避のために合格者増員を言い出した日弁連であったが、政財界から規制緩和の一環として合格者の大幅増員が要求されるに及び、法曹の質の低下等を理由に掲げる増員反対派が発生する。その一つの現れが平成6年(1994年)1221日の日弁連臨時総会における日弁連司法基盤整備・法曹人口問題に関する関連決議であった。これは司法試験合格者数を「今後5年間800人程度を限度とする」というものである。

日弁連のこの決議は、特権階級である弁護士が既得権益を守ろうとしているとして、政財界やマスコミ、そして法曹養成制度等改革協議会内部から極めて厳しい非難を浴びている。日経テレコン21から検索できる記事も多数あり、その一部を引用すると、「日弁連決議は改革つぶし。法曹改革の出発点は非常識に少ない法曹人口の正常化のはず」【朝日新聞論壇「法曹にも必要な規制緩和」】「司法改革の最大の担い手である弁護士が使命を忘れ、内向きの狭い発想に閉じこもるのでは、司法はますます国民から見放されるだろう。弁護士は、今自分たちが国民からどのように見られているかをよく考えて欲しい」【朝日新聞社説】「法曹養成制度等改革協議会中間報告には、弁護士会が嫌がるならば、司法書士らが法律業務を代行できるよう、弁護士法を改正すべきだという強硬な意見が盛り込まれた。」【朝日新聞】「日弁連とは何者だ。監督官庁を持たない一種のカルテル組織ではないか」【1995330日産経新聞】「日弁連は既得権益を守るため、外国人弁護士の活躍の場を広げることも、日本人の弁護士を増やすことにも消極的で、競争による内部改革を拒否している。日弁連の体質を改めなければ司法改革はいつまでも幻想のままだ」【1995330日産経新聞】「ギルド化する弁護士、正義を掲げ権益も守る?競争生む増員に逃げ腰」【日経産業新聞】「日弁連は大道を見失うな 質の低下などの問題を理由に妥協の道を閉ざすのでは、一部に根強い既得権を守ろうというだけの増員反対論に力を貸すことにならないか。」【朝日新聞】「法曹人口増員は必要だが、司法基盤整備と並行して進めるべきだとの主張は商売敵が増えることをおそれた改革つぶしとも見られ、旗色が悪い。」【朝日新聞】「弁護士人口増は競争激化を招き、弁護士の質の低下に繋がるとの主張が弁護士会内部では根強いが、これは「弁護士ギルド」の発想である。制度改善が進まない限り法曹人口を増やすべきではないという議論は本末転倒である。」【日経社説】

「ギルド社会」「業界のエゴ」「既得権益」の大合唱である。

しかし、実は、この時点では日弁連はまだ見捨てられていない。日弁連が見捨てられるのは、この後のことである。

日弁連はなぜ負けたのか?(7)

「司法試験合格者数は今後5年間800名程度を限度とする」という平成6年(1994年)1221日の日弁連臨時総会決議は、ものすごい世論のバッシングを浴びた。これを受けて、平成7年(1995年)112日、日弁連は昨年の決議をあっさり撤回して、司法試験合格者1000人を容認する(なぜかこの決議は新聞報道しか資料が無く、日弁連ホームページの決議集には掲載されていない)。しかし時すでに遅く、合格者数1500人を容認していた法曹養成制度等改革協議会との乖離は埋めることができなかった。そのため、平成71113日に発表された同協議会の意見書は、1500人と1000人の両論併記に終わる。

この時点での報道を見ると、日弁連の態度を批判しつつも、なお、法曹三者協議による事態の収拾を求めていることが分かる。「国民の司法実現へ(法曹三者の)歩み寄りを」【読売新聞】「(法曹)三者は、後ろ向きの議論に時間を費やさず、なお合意を目指して努力すべきだ。」【朝日新聞社説】「国民の立場に立った具体的な司法像を描くうえで、引き続き三者の協力が求められている。」【日経】

しかし政府の対応は、このころから急転回を始めた。行革委員会規制緩和小委員会は平成7127日、「司法試験合格者数を大幅に増加することが必要。『法曹養成制度等改革協議会』の意見書の、中期的には千五百人程度を目標との意見について評価する。」として、1500人支持を明確にする。「日弁連が自治団体であることを主張するなら、自らの体質改革が前提となる。そのためには、現在の意思形成の仕組みを改めないと、駄々っ子みたいなごね得狙いの反対者の巣窟(そうくつ)と言われよう。日弁連はいま自治能力を深く疑われているという事実を悟るべきだ。」【毎日新聞】「抜本的な改革論議がもう十数年間も続いている。やっと司法試験合格者を二百人増の七百人にこぎつけたぐらいだ。一向にまとまらないのなら、第三者に任せたらどうだろう。ひとえに司法試験の合格者の数の問題から始まっている。弁護士側は少なくない、多すぎるぐらいだと言い、いつまでも堂々巡りだ。」【読売新聞】

これらの新聞報道は、実は、司法試験合格者数の決定権限を法曹三者から取り上げ、政府に委譲することを指向している。ところが、この時点での日弁連はことの重大性に思い至らず、「行革委が司法制度の根幹にかかわる法曹人口や修習問題まで取り上げることは三権分立に反する」【柳瀬康治 日弁連事務次長 毎日新聞】とか、「法曹人口は長期計画で増やせ」(大原誠三郎弁護士)【毎日新聞】「法曹人口を増やすことは、弁護士の生活や業務のあり方にかかわる面もあり、弁護士会でも見解が分かれています。」【鬼追明夫日弁連新会長 毎日新聞】といった、原理主義的な議論や、相変わらずの引き延ばし策や、のんびりムードの見解を述べている程度だ。

日弁連のこのような態度や、法曹養成制度等改革協議会の分裂による機能不全を見て、おそらく平成10年ころ、政府は法曹養成制度の決定権限を法曹三者から取り上げることを決意する。そして平成11年(1999年)25日、司法改革審議会設置法案が決定される。それ以後の経緯は、すでに述べたとおりである。新聞報道からは、日弁連の文字が急速に減った。日弁連は、法曹人口問題の当事者から降ろされたのである。

平成12112日の日本経済新聞には、次の記載がある。「人口増に反対する代表的な意見は、『競争激化で弁護士の経済的基盤が危うくなり、本来の人権擁護活動が弱まる』との考え方。これに、『これまで法曹三者で慎重に扱われていた法曹人口枠が突然拡大された』との不満が加わった。 こうした反対派の主張に共感する弁護士は少なくない。しかし、弁護士過疎地域で人権活動もままならない賛成派弁護士が総会で訴えた切実な増員の声に、こたえるような具体策を示す反対派はいなかった。 また、大幅増の案は『突然』浮上したわけではない。(中略)司法審が司法試験合格者数『年間三千人』を打ち出したのは8月。この間、現場の弁護士が意見を表明する機会はいくらでもあった。」従前、法曹三者の仲直りを求めていた頃に比べて、突き放すような書き方だ。このように、この時点で反対派は、世論から冷笑され見放されていたのである。

歴史にIFは許されないが、おそらく、日弁連が引き返せないポイントを曲がったのは、平成8年と9年の間であろう。この間、日弁連が法務省や最高裁との「コップの中の戦争」を止め、大同団結して1500人を容認し、法曹養成制度等改革協議会の機能不全を予防していれば、その後の3000人への道筋は、回避できていたかもしれない。

日弁連はなぜ負けたのか?(8)

法曹人口問題で日弁連が敗北するに至った経緯をおさらいしてみよう。

法曹人口問題は、平成元年、裁判官・検察官希望者不足を解消するため最高裁・法務省が支持した「丙案」(若手受験者にゲタを履かせて優遇する案)に、日弁連が反対するという「コップの中の戦争」としてスタートした。しかし、法曹人口問題は国民に規制緩和問題として認知されたため、大幅な増員に反対する日弁連の態度は、世論の猛烈なバッシングにさらされた。これを受けて日弁連の方針は、平成6年の臨時総会決議を翌年に撤回するなど迷走し、日弁連が当事者として参加していた法曹養成制度等改革協議会を機能不全に陥らせた。ここに至って政府は法曹三者による法曹人口問題解決能力を見限り、司法制度改革審議会を設置して法曹人口問題の解決を図る。「コップの中の戦争」をコップごとひっくり返し、法曹三者はお飾りのように圧倒的少数派として審議会に参加させるにとどめた。この審議会では法曹人口大幅増大は既定路線であり、ただ、法曹の質の維持をどうやって図るかという点だけが問題であった。しかしこの点は法科大学院の設置により解決の目処が立つ。そこで司法制度改革審議会は、平成1288日、司法試験合格者年3000人を事実上決定するに至るのである。

歴史的評価は私の手に余るが、結果論としてみる限り、日弁連の第一の失策は、必要以上に「丙案反対・修習2年」に固執したことであろう。日弁連が丙案反対に固執した理由は、分離修習による法曹一元の危機、法曹資格機会均等の破壊などが挙げられ、修習2年への固執は法曹の質の維持が目的であった。しかし、丙案が廃止されたことと、3000人体制を比べて、3000人体制の方が良かったと言えるだろうか。

日弁連の第二の失策は、第一の点の裏返しであるが、法務省や最高裁だけを相手にした近視眼的な「兄弟喧嘩」に明け暮れ、その三兄弟が外部からどう見られているかに思いをいたさなかった点であろう。

そして第三の失策は、「これ以上法曹三者間の内部抗争に明け暮れるなら、司法改革問題の当事者から外す」という明確なサインが政府からあったにもかかわらず、これを見落とした点、あるいは気付いていたのに対処できなかった点である。

以上に付け加えるなら、日弁連、というより弁護士にありがちな欠点として、「正しいことであれば必ず認められる」という、法律の世界での理想を、政治の世界に持ち込みがちな点があげられる。言うまでもなく政治の世界は強いものが正しい、「勝てば官軍負ければ賊軍」の世界である。私はこの論考を纏めるに当たって、「正しかったか、間違っていたか」という判断を慎重に排除したつもりである。したがって、合格者3000人という決定が正しかったか、間違っていたかは、本論考の対象外である。本論考で私が対象としているのは、「日弁連はなぜ負けたか」という問題であって、「日弁連は正しかったか」あるいは「日弁連は間違っていたのか」ではない。

外から侵略されているのに、一致団結せず、内部抗争に明け暮れたため、結局外国に滅ぼされた国は、歴史上、枚挙に暇がない。法曹人口問題に関して日弁連は、実に幼稚な対応しかできなかったと評価されてもやむを得ないと思う。我々弁護士は、日弁連として余りに惨めな展開を辿った歴史を深く反省するとともに、これを繰り返さない努力をするべきであろう。

日弁連会長選挙の候補者である高山俊吉弁護士は、平成8年(1996年)の法律時報683号に「丙案廃止に向けた闘いのために」と題する論考を寄せ、その末尾に、誇らしげに次のように記している。「とまれ厳しい条件と情勢の中でも丙案を葬り去る一歩手前まで到達し得たことを考え、運動への確信をもってこれからの闘いを取り組みたいものである。『われらが到達した峰に主峰を目指す砲台を揺るぎなく据えよ。』」

高山弁護士は、このとき、目の前の「主峰」にばかり気を取られ、足下の「峰」が音を立てて崩れ始めていたことに気付かなかったようである。

日弁連はなぜ負けたのか?(番外編1)

平成1925日の読売新聞が、日弁連会長選挙公聴会で宮崎・高山両候補が表明した弁護士増阻止の動きを「業界利益の追求」と牽制した。これを増田尚弁護士が「永遠のワンパターン」と批判したのに対して、筆者が「確かにワンパターンだが,『敵』は10年前にも同じ戦術で勝ったのだから,当然,勝ちパターンで攻めてくるわけである。むしろ,『弁護士の生活不安』を全面に出して,負けパターンを繰り返す愚こそ責められるべきであろう。」と書いた。これに対して増田弁護士から、「しかし、2000年当時、3000人問題に関していえば、日弁連は、そのように主張することすらせず、最初から戦いを放棄していた」との反論をいただいた。

こうなっては当事者以外どうでもいいような話であるが、増田弁護士のブログ経由で当ブログをご覧になる読者も多いようだし、弁護士としては、主張の違いはともかく、事実に反する指摘を看過できない。

まず2000112日、3000人を事実上容認し紛糾した日弁連総会の翌日の日本経済新聞は、「日弁連の臨時総会が紛糾したのは、弁護士の間に自らの生活を直撃しかねない増員への反発が根強かったためだ。」と解説している。これは、高山候補ら反対派が、弁護士の生活問題を主張していたことを示している。また、1996311日の毎日新聞に掲載された日弁連会長インタビューには、「法曹人口を増やすことは、弁護士の生活(中略)にかかわる面もあり、弁護士会でも見解が分かれています。」という日弁連会長の発言が記載されている。このように、当時の反主流派に限らず、会長も、弁護士の生活不安を法曹人口増に反対する理由の一つに挙げている。だから、「日弁連は法曹人口増が弁護士の生活不安につながるという主張をしなかった」という増田弁護士の指摘は事実ではない。ちなみに、この会長とは鬼追明夫弁護士であり、宮崎候補の推薦人の1人であるが、この話題とは無関係である。大事なのは、当時の日弁連会長が、法曹人口増に反対する理由に弁護士の生活を掲げた、という点だ。

すでに「日弁連はなぜ負けたのか?(6)」に記載したことであるが、日弁連による「弁護士の生活不安」の主張は、マスコミにどう評価されたか。

「日弁連とは何者だ。監督官庁を持たない一種のカルテル組織ではないか」(1995330日産経新聞)

「ギルド化する弁護士,正義を掲げ権益も守る?競争生む増員に逃げ腰」(199558日 日経産業新聞)

「質の低下などの問題を理由に妥協の道を閉ざすのでは,一部に根強い既得権を守ろうというだけの増員反対論に力を貸すことにならないか。」(19951019日朝日新聞)

「法曹人口増員は(中略)司法基盤整備と並行して進めるべきだとの主張は商売敵が増えることをおそれた改革つぶしとも見られ,旗色が悪い。」(19951031日 朝日新聞)

「駄々っ子みたいなごね得狙いの反対者の巣窟」(19951227日 毎日新聞)

「弁護士一人ひとりが(司法改革の最大の担い手であるという)使命を忘れ、内向きの狭い発想に閉じこもるのでは、司法はますます国民から見放されるだろう。」(19961219日朝日新聞社説)

筆者は当時の日弁連(あるいは日弁連反主流派)とマスコミとの、どちらの主張が正しかったかを論じるつもりはない。重要なのは、10年前、日弁連の執行部も反主流派も、弁護士の生活問題を法曹人口増反対の理由に掲げたが、それらはマスコミから、「弁護士ギルド」「既得権益擁護」「ごね得」と、さんざんな批判を浴び、人口問題における日弁連の敗北につながったという点だ。

もちろん、マスコミによる不当な批判に対しては、日弁連は反論するべきである。10年前と今とで、事情が変更した部分もあろう。かつて批判されたからといって萎縮したのでは、「羮に懲りて膾を吹いている」との誹りを免れまい。しかしだからといって、10年前の事実を知りもせず、あるいは忘れ、かつて失敗したのと同じ戦法で敵に立ち向かうのはただの愚者である。法曹人口問題において、日弁連が弁護士の生活問題を主張すること自体は結構だ。しかしそれには細心の注意が必要であり、少なくとも、全面に出すのは愚の骨頂である。

日弁連はなぜ負けたのか?(番外編2)

「日弁連はなぜ負けたのか?」は,お陰様でたくさんのアクセスをいただいた。読んで頂いた方々に御礼を申し上げる。日弁連会長選挙は終わったが,この論考は,今後「ぼちぼち」続けていきたいと思う。

「日弁連はなぜ負けたのか」の(1)から(8)で,3000人増員を受け入れたのは日弁連の敗北であり,司法制度改革審議会に日弁連代表として出席していた中坊公平委員は敗戦投手であると書いた。

この認識に変更はないが,誤解しないで頂きたいのは,このとき日弁連は全66回にわたる審議の最終回まで闘い,刀折れ矢尽きて3000人増員を呑まされたのではない,という点だ。実際には,審議の前半戦で積極的に3000人増員を受け入れている。ではなぜ,積極的に3000人増員を受け容れたのか。ここに,法曹人口問題と並ぶ重要な要素として,法曹一元及び司法改革という概念が登場する。おそらく,中坊公平氏と日弁連執行部は,最低3000人の受け入れは避けられないと見切ったうえで,これと引換に,いわば条件闘争として,法曹一元及び司法改革の実現を図ったのだ。

筆者の見解に対して,「敗戦処理として責任を軽く考えてよいのか?」というご批判をいただいた。これはやや誤解していると思う。確かに,平成12年の時点では,「最低でも3000人」という選択肢しか無かったのだから,その意味では,3000人を選択した日弁連執行部に責任はないと思う(「5000人を選択しなかった責任」があるというなら話は別だが)。あくまで3000人を受け入れた責任を誰かに問いたいのなら,平成11年以前にまで遡って頂くしかない。しかし,平成12年当時の日弁連執行部が3000人受け容れと引換に「法曹一元」「司法改革」という条件を提示したこと,これを(一部にせよ)国に呑ませたこと,あるいは,ほかの条件を提示しなかったこと,について,その是非を歴史的に検証する必要も無い,とは言っていない。むしろ,この意味においては,当時の日弁連執行部の責任の有無や程度は,おおいに検討に値すると考える。

今年は「司法改革実践の年」と言われる。筆者のような「一応若手」のノンポリ弁護士からすると,お題目のように繰り返されてきた「司法改革」であるが,それがどのような経緯で実現したのか,何を犠牲にして実現したのか,日弁連は3000人増員を受け容れる代わりに何を守ろうとしたのか,そして,司法改革はその犠牲に見合ったものだったのか。守ろうとしたものは守れたのか。そろそろ,これらの検証に着手するべき時期に来ているのではないか。なお,筆者とほぼ同じ見解に立つと思われるものとして,豊崎寿昌弁護士のブログをご紹介する。(小林)

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2008

130日~

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2009年5月 6日 (水)

日弁連はなぜ負けたのか?(総会編4 ~総集編~)

平成12111日日弁連臨時総会編 ~敗戦処理の総会~

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I.               本総会の意義

平成12111日,日弁連会館講堂「クレオ」に1400名余,代理出席と合計して12000人以上の会員弁護士を集めて開催された臨時総会では,平成22年(2010年)からの司法試験合格者数を年3000人とすることの受入を内容とする執行部案が,74373425で採決された。

4回の臨時総会中,最多数が出席した上、最長の9時間以上を要し,最も荒れた総会は,しかし,票差にして4000票以上,ダブルスコアを超える大差となった。この差は,過去4回の臨時総会中最も大きい。

この総会に先立つ平成1162日,司法制度改革審議会設置法が成立する。同法の1条は,「内閣に,司法制度改革審議会を置く」と定める。これにより,「司法制度の改正にあたっては法曹三者の意見を一致させて実施するよう努めなければならない」という昭和45年(1970年)の参議院法務委員会付帯決議は覆され,司法制度改革の権限は法曹三者から内閣に移転した。同時に,司法制度改革の調査審議は,法曹三者ではなく,司法制度改革審議会が行うこととなった。

平成11611日,13名の委員が任命される。委員の中には,日弁連,最高裁,法務省の代表者はいない。委員の中に中坊公平もと弁護士はいたが,彼は法的には,日弁連の代表ではない。すなわちこのとき,日弁連は,法曹人口問題に関与する権限を公式に失った。

平成128月,平成22年(2010年)からの司法試験合格者年3000人の構想が,司法制度改革審議会で内定する。これを日弁連として積極的に受け入れるか否かが諮られたのが,111日の臨時総会である。

3回の臨時総会に比べ,決定的に異なるのは,執行部案が可決されようが否決されようが,司法制度改革審議会の意見に対する法的影響が全くない,という点である。そもそも司法制度改革審議会は,法曹人口問題から日弁連を外すことを目的に設置されたのだ。つまり,日弁連の権限が及ばないところで,3000人は内定した。この内定を,日弁連として受け入れるか否かが諮られたのが,この総会である。受け入れなくても,内定に変更はない。

例えとして最適か否か自信がないが,昭和20814日の御前会議で,日本政府はポツダム宣言受諾を決定した。しかし,この決定によって,日本が太平洋戦争に負けたという歴史認識は間違いである。この時日本はすでに太平洋戦争に負けており,これを政府が公式に受け入れたのが,御前会議であるにすぎない。御前会議で政府が選択したのは,本土決戦前にポツダム宣言を受諾するという「負け方」であって,「負けるか否か」を選択したのではない。平成12年の臨時総会で執行部案を否決すれば日弁連が負けることはなかったと主張する弁護士の意見は、このたとえ話で言えば、本土決戦に持ち込めば太平洋戦争に勝てた、という陸軍青年将校の主張に等しい。極左と極右の精神構造は同じ、とは良く言われることだ。

話を戻そう。平成12年(2000年)111日の日弁連臨時総会は,日弁連にとって,ポツダム宣言受託を決した御前会議並みの歴史的意義を有するかもしれないが,それ以上の意味はない。

この時すでに,日弁連は負けていたからだ。

II.         執行部の発言

まず,久保井一匡日弁連会長を中心に,執行部の発言を振り返る。(『』は執行部内他者の発言)

「(執行部案が掲げた)司法改革の改革課題は,法曹一元と陪審制の実現,市民に開かれた弁護士制度の構築,それにふさわしい法曹養成システムの構築の3つであり,まとめると,官僚的で小さな司法を見直して,市民に開かれた大きな司法をつくるということであります。日弁連として,その構築の段階から参画することがどうしても必要であり,できあがってから受動的に賛成するとかボイコットするのでは,日弁連としての責務を果たしたことにはなりません。『(年3000人は)従来の日弁連決議とは一貫性がないし,現状は3000名を直ちに吸収できる状況にはないと認識している』(平山正剛副会長)。しかし,明日からすぐ3000人になるというわけではなく,21世紀は行政主導の社会ではなくて,1人1人の個人や企業が自立して活動を展開しなければならない社会になる。そうなれば,トラブルの発生が多発してくる。さらに,国際化,グローバル化,高度情報化,高齢化する複雑な社会では,否応なしに法化社会に進んでいく。消費者被害や破産事件の増加を見ても,それは明らかだと思うわけであります。

また,扶助予算の増額に応じて,弁護士数を増加させる必要があります。国民の必要とする法曹人口数は,年3000人とか全部で5万人とか決まっているわけではなくて,マーケットとか需要とかが法曹人口の一つのファクターになってくる。最終的には,国民なり利用者が決めるということが基本的な原則であると思います。

確かに,法曹人口を増員したときに,懲戒機能を拡充しても,不祥事の発生を完全に妨げるとは言い切れない部分があると思います。しかし,だから遡って必要な人口も増やさないというのは,議論としては逆立ちであると思います。

また,増員した弁護士の就職先として公務員を考える場合,弁護士が公権力側に立つことによって,人権擁護という基本使命と両立し得なくなるのではないかというご質問ですが,法律家が行政の中に入って,法律による正しい行政をやって貰うようにそのコントロールをしていく,一種のコンプライアンスということもあると思います。在野が権力にはいるのは間違いだと機械的にはいかないので,筋を通してやっていけば十分に両立しうると思います。

3000人で増やしていって,5万人になったら打ち切りと言ったって,ロースクールが承知しないのではないかというご質問ですが,大企業でも,社会の養成によって大幅に工場を削減する,減らしていくということだって,当然これはあっていいことと考えます。」

久保井一匡日弁連会長の答弁は,激増する弁護士を支える需要の見通しや,増えすぎた場合の調整について,絵空事というべき発言に終始しており,無責任との誹りを免れない。

ただ,一方,久保井一匡日弁連会長が,なぜこのような夢みたいなことを言ったのかを考えたとき,私としては一抹の同情を禁じ得ないことも事実である。弁護士増員にしても,ロースクールの削減にしても,既に日弁連の関与しうるところではなくなっていたし,頼みの綱の法曹一元さえ,臨時総会前日の司法制度改革審議会での激論の末,事実上葬り去られていた。責任の持てない問題について,やけくそになって夢物語を語ったというのが実情に近いのではないかと,今の私は想像している。

III.      執行部案支持の討論と論評

次に,執行部案に賛成の討論をいくつかご紹介する。

司法改革,法曹一元を前面に押し出して賛成した意見として,福原弘弁護士(東弁)は,「執行部案は第一に,大きな司法の実現を改革の中心課題とした点,その障害となっていた(少ない)法曹人口について,『国民が必要とする数を確保するように務める』と明言している点は,特に高く評価すべきであります。法曹人口を充実させることにより,社会の隅々にまで法の支配を及ぼす基礎ができます。そして,法曹一元や陪審の実現をより具体的に実現可能な制度として,力強い運動を進めることができるようになります。」などと述べた。

福原弘弁護士は,平成6年(1994年)の日弁連臨時総会においても,執行部案を支持する討論を行い,このときは,「(700人に固執すれば)マスコミの批判を浴び,国民の信頼を失う。そうなったら,司法試験改革から日弁連は外され,簡単に2000人,3000人という大量増員が進められることになる」と述べている。このとき予言した最悪の結果が実現するというときに,これを「高く評価する」というのはいかなる心境の変化によるものか,私には理解できない。

樋口俊二弁護士(東京)は,「先ほど,5万人という弁護士規模について,具体的な根拠がないようにおっしゃいましたけれども,これもちゃんとございます。これは法曹一元という立場からしますと,5万人規模の弁護士がないと法曹一元は実現不可能と。これは東京大学の田中教授もそう言うことをおっしゃっている。」と述べた。すでにのべたように、この総会の前日、司法制度改革審議会において、法曹一元論は葬り去られていた。樋口俊二弁護士の主張は、これを知ってのことなら愚かであるし、知らないでのことなら哀れである。なお、未だに東京弁護士会の意見書は,露と消えた法曹一元論を崇拝しているが,これは樋口俊二弁護士の流れをくむものなのだろうか。

四ノ宮啓弁護士(千葉)は陪審問題を取り上げ,「陪審問題というのは国民が司法の中に入っていくということです。その国民の側から司法の中に根を伸ばしていくということです。それだけでその土壌が十分でしょうか。やはり別の方向からも根を伸ばす必要があるんじゃないでしょうか。私は十分な数の弁護士が,十分な必要な教育を受けて,今度は法曹の方が国民の方に,司法が国民の方に根を伸ばして入っていく。二つの方向から根を伸ばし合って,そして強い土壌をつくっていく。私は地域の法化というものが,このようにして初めて実現できるのではないかと思います。」と述べた。「根」の例えはよく分からないが,四ノ宮弁護士は,現在も裁判員裁判の円滑な実現に向けて奮闘している。

弁護士過疎地域に関連して,相良博美弁護士(奈良)は,奈良弁護士会の歴史と,司法改革への取り組みを訴えたうえ,「常に私たちが抱えてきた(問題)は,会員の少なさでありました。地元に根ざし,地元の人々に真に頼られる弁護士と弁護士会を築いていこうと会一丸になって頑張ってきたその結果が,余りにも仲間が足りなすぎるという厳しい現実であります。私たち弁護士一人一人が文字通り社会生活上の医師として,意気高く国民の中に入っていこうではありませんか。」と述べた。奈良は過去4回の臨時総会ではいずれも,執行部案賛成,法曹増員賛成の立場で討論を行っている。

松原三朗弁護士(島根弁護士会もと会長)は,奈良と同様,弁護士過疎地域における弁護士の圧倒的不足を訴えた。

当時の若手弁護士も意見を述べている。宮岡孝之弁護士(東弁)は,弁護士激増による不安を率直に訴えつつ,「弁護士の質に関する国民の声を聞き,これをロースクールに伝えるべきです。自由競争に任せればよいという考え方は,同じ弁護士という肩書きを持つ弁護士に依頼しながら,不十分な法的サービスしか受けられない国民の出現,すなわち法曹の質の低下による新しい司法過疎が生じることになります。職域については,プロボノ活動を職域の一態様であるかのように説明するのは間違いです。我々が求めているのは,無償で提供する法的サービスや,お布施しかもらえないような仕事ではなく,正当な報酬を得ることができる職域です。執行部は,我々の必要とする情報を会員に提供し,特に若手会員の共感を得られるような存在になることを切望します」と述べた。現在に通じる問題点を的確に指摘していると思う。

池内稚利弁護士(一弁)は,一弁の若手弁護士の代表として,「弁護士のいない町がある。あるいは遅々として進まない訴訟がある。こういった意見がずっと出てきました。それに対して,我々は基盤整備がなってないとか,我々の収入はどうなるんだと,そういう理屈で国民の期待を裏切り続けて来たんじゃないかと。これが改革協で無視されて,弁護士会が参加できないような司法審になってしまった原因があるんではないかと。ここでもう一度我々は原点に立ち戻って,21世紀に向かう国民が望む司法改革を,自らあえて血を流しながら進んでいくべきであろうと思います」と述べた上,弁護士の質の維持やロースクールのあり方に注文を付けた。

正確な現状分析,冷静な意見であると思う。

IV.         執行部案反対の討論と論評

執行部案反対の討論をご紹介する。

まず,執行部案を通すと日本は戦争になるという意見として,武内更一弁護士(東京)は,「私たちが目指しているのは基本的人権擁護を守る,国民の盾になって権力の攻撃に対して立ち向かう,そういうことに志をもって弁護士になったんじゃありませんか。企業法務,公務員,そういうところにわんさと殺到する弁護士を,国民が望んでいるわけないじゃありませんか。司法審は,周辺事態法,盗聴法,国旗国歌法,憲法調査会設置のための国会法と同時に設置された。司法審の目的は,戦争をするという口実を作ることにあります。そういう国自体に,どんどん向かっているんです。こういうときこそ頑張らなければ戦前のようになります。」と訴えた。

この武内更一弁護士は,平成91015日の日弁連臨時総会で,反執行部案の提案者として,「在野の弁護士は外へ向かって訴えかけ,その民衆の声を背景にしてこそ日弁連は力が出せるんだと私は思っています。それを抜きにして日弁連の闘争はないはずです」と国民運動の必要性を訴えた。ところが,日弁連執行部が国民260万人もの署名を集めると,国民が望むはずがない,翼賛体制で戦争になると言う。このような議論のしかたは卑怯だと思う。

同じく戦争になるという意見として,熊野勝之弁護士(大阪)は,「今回の決議は,(法曹人口を)国民の必要とする数に任せますという,全くの白紙委任です。これは1933年のナチス授権法と同じだと僕は思っています。それぐらい危険な法だと思っています。どうか真剣に国民のためを考えられるなら,本当に真剣にこの法案の決議案の持っている危険性を考えて頂きたい。」と述べた。私は,日弁連が法曹人口増受入の決議をしたくらいで戦争になるというのは、日弁連の影響力を買いかぶりすぎていると思う。

前田知克弁護士(二弁)は,「何のために弁護士法の第一条があるのか。力は弱いけれども正しい理屈をもっている。弱い者の権利をきちっと守ってやる。これが司法であり,それを担うのは弁護士なんです。それをやるためにこそ,弁護士自治があり独立性がある。我々のこのバッヂは,総理大臣ですらはずせないんだ。これを持っているんだ。

久保利英明弁護士は,企業が雇ってくれるというけれども,雇われるために弁護士になるんですか。整理回収機構のような一番厳しい取立屋の手先みたいになって,何でもかんでも法律自治を通して今後やるということが,弁護士に期待されていることなんですか。はっきり言っておくけどね,飯のため稼ぐんだったら,法律事務屋になって雇われればいいんですよ。何のために司法試験を受けて,苦労して弁護士になる必要ないじゃないか。

ロースクールで弁護士を大量につくって,そうして仕事がないからできるだけ企業に雇ってくれ。これが司法の拡大なんですか。そんなことを喜んで,そこへ雇ってもらえる,職域が増えた。こんな情けない弁護士になりたいですか。」と述べた。

前田知克弁護士は,日弁連が法曹人口問題から引きずりおろされる直接のきっかけとなった,平成6年(1994年)1221日の臨時総会関連決議を画策した張本人である。しかし,日弁連の敗北を自ら招いたことに対する言及も弁解も反省も,全くない。

矢野修弁護士(札幌)は,司法改革・法曹一元・陪審制の実現は賛成するとしながらも,その実現可能性や司法基盤の整備が乏しい中で法曹人口のみを増加させることへの危惧を表明した。鈴木秀幸弁護士(名古屋)は,具体的な数字を指摘して,司法基盤整備の不足や,目標を5万人とする弁護士人口論が空想であると主張した。佐久間敬子弁護士(仙台)は,「大きな司法」という執行部のキャッチフレーズは,弁護士の在野性,独立性,自治性を害するものであり,むしろ裁判所の充実や司法基盤の整備を求めるべきであると言う。森重知之弁護士(山口)は,執行部案はいたずらに弁護士を貧窮に追い込み,貧すれば鈍する結果,国民にも被害を及ぼすと述べた。武本夕香子弁護士(兵庫)は,「大きな司法」が国民の利益になるとは限らない,数の増加は質の低下を招く,法曹人口増と弁護士過疎の問題は無関係,などと主張した。

これらの主張は,平成9年までの総会で主張するならともかく,この日の臨時総会で行う議論としてはピントがずれている。なぜなら,この臨時総会で問われているのは,内定済みの3000人体制を日弁連として受け入れるか否かであって,3000人に決定するか否かではないからだ。日弁連に内定を覆す力があれば別だが,それを失ったことが明らかである以上,この場所で3000人の是非を論じることに何の意味もない。もっとも,司法改革,とりわけ法曹一元という「まやかし」(高山俊吉弁護士)によって,問題の本質を誤魔化そうとしたのは久保井一匡日弁連会長以下執行部であって,せっかくの臨時総会にピントのずれた発言を誘発した責任は執行部にもある。

新穂正俊弁護士(埼玉)は,執行部案の実現によって,現実に多くの犠牲や不利益を受けるのは,若手の弁護士と,これから弁護士になる学生ら後進であって,中堅やベテランの弁護士は何の経済的不利益も受けないと安心しているのではないかと問う。「執行部やこの議案に賛成するあなたは,この議案に賛成することによってどのような不利益を受け,どのような自己犠牲を払うのでしょうか。日弁連執行部がいう自己改革を実現するために,誰が多くの犠牲を払い不利益を受けるのでしょうか。」と述べる。

この発言も,議題とピントがずれている点では,上記発言と同様である。しかし,弁護士激増が,世代間の対立を生み,日弁連を(左右にではなく)上下に分裂させていくことを予言した点において,この発言は記憶に留められるべきである。(小林)

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