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2009年5月10日 (日)

日弁連はなぜ負けたのか?

日弁連はなぜ負けたのか?(1)

今回の日弁連会長選挙に立候補しているのは大阪弁護士会所属の宮﨑誠弁護士と、東京弁護士会所属の高山俊吉弁護士である。そこで最大の争点となっている司法試験合格者3000人問題だが、実は、私自身、いつどのようにして3000人という数字が決まったのか、よく知らなかった。高山俊吉候補は、「中坊公平が勝手にやった」と主張するが、事実認定を仕事とする弁護士としては、裏付けを取らずに、高山弁護士の言葉を額面どおり受け取ることはできない。そこで、「日経テレコン21」や、「電子政府の総合窓口」などを駆使して、歴史をひもといてみた。

私のおぼろげな記憶では、日弁連は最初800人、その後1000人で頑張っていたはずである。その立場からすれば、3000人は明らかな敗北だ。では、日弁連はいつ敗北したのだろうか。

調査の結果判明したことは、司法試験合格者数3000人という言葉が公式見解として初めて登場するのは、平成12年(2000年)87日の司法制度改革審議会集中討議第1日目の席上、「フランス並みの法曹人口(56万人)を目指すとすれば、年3000人としても実現は2018年になる。ミニマムの数字として年3000人合格を提言するべきだ。」という発言のときである(議事録上発言者は不明)。同日は結論が出ず、翌日に持ち越しとなる。ところが、翌88日、集中討議第2日目終了後の記者会見で、佐藤幸治会長は、「年3000人の合格者でおおむね一致」と公表する。その僅か3週間後の829日、当時の久保井一匡日弁連会長が司法制度改革審議会に呼ばれ、「日弁連として年3000人を受け入れることは可能」との見通しを表明し、111日、9時間近くに及び紛糾した異例のロングラン臨時総会において、賛成7437票、反対3425票で、3000人を事実上受け入れる決議を採択した。

つまり、3000人が事実上決定したのは平成1288日であり、日弁連会長の受諾は同月29日、日弁連が組織としてこれを受け入れたのが同年111日ということになる。このとき、法曹人口問題で日弁連は敗北したのだ。

では、なぜ、日弁連は敗北したのか。また、敗北といっても完敗から惜敗まで程度がある。そこで日弁連はどの程度敗北したのか。そこが次の問題である。

日弁連はなぜ負けたのか?(2)

司法試験合格者数3000人が公式な数字として表明されたのが平成12年(2000年)88日の司法制度改革審議会集中討議二日目の記者会見の席上であり、それまで公式には1000人を主張してきた日弁連は、この日、事実上敗北した。では、敗北に至る経緯はどうなっているのだろうか。

合格者数3000人を決定した司法制度改革審議会は、「司法制度改革審議会設置法」(平成1169日公布)という法律に基づいて設置され、同年727日から平成13727日までの二年間に、3日間の集中討議日を入れると実に66回開催された。委員は13名であり、その構成は、経済界から2名、学者5名、作家・労働組合・主婦連から各1名、弁護士3名である。弁護士3名といっても、一人は元裁判官、一人は元検察官であり、生え抜きの弁護士は中坊公平委員一人だ。つまり、3人の弁護士はそれぞれ、裁判所、検察庁、日弁連の事実上の代表である。会長は京都大学名誉教授佐藤幸治である。

佐藤幸治委員長は、平成11年(1999年)1022日の日本経済新聞のインタビューで抱負を聞かれ「まず司法の容量を拡大する必要がある。質の高い法曹人口を増やすためにしっかりとした法学教育を確立することが課題だ」と答えている。このように、法曹人口問題と法曹養成問題は、司法制度改革審議会における最大の論点であり、設置当初からの論点だった。

ところが、司法試験合格者数3000人という話は、議事録上、平成11727日の第一回会議から、平成1284日の第27回会議まで、全く出ていない。初めて出たのは、平成1287日の集中審議第1日目であり、翌8日には「年3000人の合格者でおおむね一致」と発表されている。合格者数問題は、司法制度改革審議会設置以前から何年にもわたって議論が重ねられてきた問題であるから、これがたった1日で決まったとは考えにくい。おそらく審議会設置当初より、オフレコで議論がなされてきたと見るべきだろう。(筆者注 その後,平成111124日の第7回審議会で,東京大学の青山義充副学長が3000人にすべしと言及していることを知ったので,この旨訂正します。)

ところで、司法試験合格者数を何人にするかという問題は、法曹人口を総体で何人にするかという問題と密接な関係がある。なぜなら、「全部で何人にするのか、この人数に達成するまで何年かけるのか」の二つの要素で、毎年の司法試験合格者数が決まってくるからだ。この点の議論は審議会設置当初からなされていたが、ターニングポイントとなったのは、平成12222日の第13回会議で、中坊公平委員が「フランス並みの56万人を目指すのが適切」という私案を発表したこととされている。この点は翌日の日経新聞に「中坊氏が大幅増員案」との見出しで「大幅増員に反対の多い弁護士出身の中坊委員が示した増員案は波紋を広げそうだ」と報じられている。もっとも、このとき中坊委員は、法曹人口の総体の数を述べただけで、1年当たりの司法試験合格者数には言及していない。しかし、法曹人口56万人を達成するのに、10年かけるとすれば、1年当たりの合格者数3000人という数字が自動的に算出されることになる。中坊公平委員は、合格者年3000人になるのは織り込み済みで、「フランス並み」という私案を作成したことは間違いない。

この中坊委員の私案をとらえて、今回日弁連会長候補に立候補している高山俊吉弁護士は、「3000人は中坊が勝手にやったこと」と断罪している。果たしてそうだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか?(3)

司法制度改革審議会が、平成1288日に司法試験合格者数3000人を事実上決定するにあたり、大きなターニングポイントとなったのは、同年2月、中坊公平委員が発表した「フランス並みの法曹人口56万人を目指す」という私案であった。

今回の日弁連会長候補である高山俊吉弁護士は、この点をとらえ、「3000人は中坊が勝手にやったこと。当時の久保井一匡日弁連会長は、恥知らずにもこれを追認した」と主張している。果たしてそうだろうか。

元日弁連会長である中坊公平委員は、当時日弁連の事実上の代表として司法制度改革審議会に出席している。子どもじゃあるまいし、日弁連執行部に無断で勝手に「私案」を発表したとは考えられない。また、司法制度改革審議会が3000を事実上決定した直後に、久保井日弁連会長がその受入を表明していることからしても、中坊公平委員が当時の日弁連執行部に無断で行動したとは考えられない。中坊公平委員の私案→年間3000人の合格者→久保井日弁連会長の受入表明→日弁連総会で承認という一連の流れは、中坊公平委員と当時の日弁連執行部の連係プレーと見るべきであろう。

そこで問題は、なぜ、当時の日弁連執行部が、3000人受入に繋がる一連の行動を取ったのか、という点になる。何しろ当時、日弁連の公式見解は1000人堅持であった。したがって、この一連の行動は、これに反対する弁護士から「裏切り」と非難されかねない部分を含んでいる。

日弁連はなぜ負けたのか?(4)

平成125月から8月にかけて、当時の日弁連執行部(久保井一匡会長)と元日弁連会長の中坊公平委員は、司法制度改革審議会において、合格者3000人の受け入れに動いた。当時日弁連の公式見解は1000人堅持であったにもかかわらず、なぜこのような動きになったのか。これは高山俊吉候補の言うとおり、弁護士への裏切り、権力へのすり寄りなのか。

私は、この日弁連執行部の一連の行動は、当時の情勢からはやむを得ない選択であったと考える。その根拠は、次のとおりだ。

1に、司法制度改革審議会の構成である。前述したとおり、前13人の委員のうち、弁護士は3名、うち日弁連の事実上の代表者はたった1名である。いかに中坊公平委員の声が大きくても、121となっては多勢に無勢、勝負にならない。もうひとつ見落とせないのは、委員の任命権が内閣にあり(司法制度改革審議会設置法41項)、これに基づいて任命された3名の弁護士委員がいずれも「元裁判官」「元検察官」「元日弁連会長」であって、現役でない点だ。これは非常に重要である。司法制度改革を標榜する委員会であるのに、裁判所・検察庁・日弁連の現役の代表者ではなく、「出身者」しか委員にならせてもらっていない、しかも法曹三者合わせても13分の3でしかない、という点は、法曹三者から見れば、屈辱的な扱いである。つまり、司法制度改革審議会は、当初から、「今後の司法制度の在り方について、国は法曹界の意見を聴きませんよ」というメッセージのもとに設置されていると言って過言でない。

2に、法科大学院(ロースクール)構想との関係である。先に指摘したとおり、13名の司法制度改革審議会の委員のうち、最大である5名を学者が占め、会長は佐藤幸治京都大学名誉教授である。また、政府が司法制度改革審議会設置法案を決定したと報じられたのが平成1125日であり、その翌月11日には、文科省に「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」第1回会議が招集され、ロースクール構想についての検討に入っている。この会議はその後「法科大学院(仮称)構想に関する検討会議」となり、平成12530日に第1回会合を開催し、726日の日経では、「ロースクール構想の衝撃 法科大学院構想がにわかに現実味を帯びてきた」と報道された。そして、この検討会議は、司法制度改革審議会集中審議第1日目(つまり、3000人構想が初めて議事録に掲載された日)に、法曹教育として法科大学院制度を導入する場合の基本事項を発表している。その翌日には、3000人構想が「おおむね一致」と発表されているのだ。つまり、司法制度改革審議会は、その設置当初から、法科大学院構想と一体のものだったのである。大学側としても、法科大学院を設立する以上は、ある程度以上の人数を受け入れないと経営が成り立たないし、一定以上の合格率が保証されていないといけない。この点、自民党の「法曹養成に関する小委員会」の太田誠一委員長は、法曹人口をフランス並みにすること、ロースクールの開校を広く容認すること、を表明している(平成12516日日経新聞)。このように法科大学院開校を目論む大学側としては、合格者数3000人は、大学経営上最低ラインの数字だったと思われる。

3に、司法制度改革審議会外部の動きである。平成12421日は、経済人らで構成された「司法改革フォーラム」(会長・鈴木良男朝日リサーチセンター社長)は、2011年までに法曹人口を9万人に増やす提言を発表した。同年518日には、自由民主党司法制度調査会が、「21世紀の司法の確かな一歩」と題する意見書を発表し、フランス並みの法曹人口を求めている。さらに、平成1269日に発表された「司法制度改革審議会に対する米国政府の意見表明」は、法曹人口について、「法曹人口を劇的に増加させるためのあらゆる方策を積極的に検討されること、同時に、自由民主党司法制度調査会の意見書『出発点』として勧告されることを強く要望します。」と要請している。平成12513日の日経新聞は、「司法制度改革審議会の議論は、法曹や大学関係者よりで、利用者の方を向いていない。」という森稔森ビル社長の発言を紹介し、同審議会の議論に経済界が苛立っていると報じている。このように、平成125月以降、政府、財界及びアメリカは、法曹人口を最低でもフランス並みにせよ、という強いメッセージを司法制度改革審議会に発していたのである。

この情況で、日弁連としてはどのような対応が可能であっただろうか。中坊公平委員が当時の日弁連の公式見解である1000人に固執しても、121で、結論として最低「フランス並み、年3000人」になったであろう。中坊委員が席を蹴れば、内閣は「これ幸い」と、日弁連とは無関係の委員にすげ替えた可能性さえある。それどころか、財界やアメリカの要求に応じて、さらなる法曹人口増大(例えば9万人)を決議していた可能性さえあった。つまり、「フランス並みの5万人、合格者3000人」は、日弁連にとって唯一の選択肢だったというほかはない。これは想像だが、おそらく中坊―久保井ラインは、「3000人に最も反対しそうと思われている日弁連委員が、率先して3000人を容認する発言を行うことで、それ以上の増員への流れを封じる」という、かなりアクロバティックな作戦を実行したと考える。

歴史的に見れば、司法制度改革審議会が発足した時点で、日弁連の敗北は決定しており、あとは「どのように敗北するか」という選択肢しか、日弁連に残っていなかったのだ。中坊公平委員は、高山俊吉候補の指弾する戦犯ではなく、敗戦処理投手だったとみるべきだろう。この時点で敗戦は決まっていたからだ。歴史にIFは無いが、もし日弁連が3000人未満の合格者数という「勝利」を得る可能性があったとすれば、それは、司法制度改革審議会発足前であったことになる。

日弁連はなぜ負けたのか?(5)

平成128月、日弁連は合格者3000人を事実上受け入れた。これは、司法制度改革審議会という枠内において、日弁連が取り得た唯一の選択肢であり、要するに敗戦処理であった。なぜ日弁連がこのような苦渋の選択をしなければならなかったかと言えば、それは、司法制度改革審議会が発足した時点において、すでに勝負はついており、後は日弁連にとって「どのように負けるか」「どうやったら損害を最小限度で食い止められるか」という選択肢しか残されていなかったからである。

余談になるが、戦争の指揮官にとって戦場の選定が非常に重要であるように、弁護士にとって、闘いの枠組みをどう決めるかは、具体的な戦い方より重要である。誰を相手に裁判を起こすか、どこの裁判所に訴訟を起こすか、どのような法律構成を取るか、という選択が、具体的な主張より重要である場合は極めて多い。弁護士が紛争解決のプロであるという言い方は、言い換えれば、紛争解決の枠組みを作るプロである、ということだ。

日弁連執行部に就任する弁護士は、言うまでもなくプロ中のプロである。そのプロが、なぜ、司法制度改革審議会という、非常に不利な戦場に追い込まれ、負け戦を余儀なくされた挙げ句,自ら敗北を認めるような体たらくに至ったのか。

今回いろいろ調査してみて、これを歴史的に遡ろうとすると、昭和30年代くらいまで行きそうなことが判明した。しかし、直接関係し出すのは昭和62年ころからのことである(これ以降の経緯は東北大学大学院教育学研究科研究年報「法曹養成をめぐる制度と政策 法曹三者の力学を中心として」石井美和に詳しい)。そこで次に、司法制度改革審議会設置という歴史的ターニングポイントへの歩みを見てみる。

日弁連はなぜ負けたのか?(6)

司法試験合格者数3000人は、平成128月、司法制度改革審議会において事実上決定された。しかし、司法制度改革審議会が発足する以前は、司法試験合格者数は、法曹三者(裁判所、検察庁・法務省、弁護士会)が決めていた。つまり、平成1125日に政府が司法改革審議会設置法案を決定し、司法試験の合格者数を決定する権限を司法から行政に移転した時点で、日弁連を含む法曹三者は、法曹人口問題に関するイニシアティブを失ったと言ってよい。ではなぜ、法曹三者から権限が剥奪されたのだろうか。

話は昭和62年ころまで遡る。司法試験合格者数は、昭和38年から平成2年まで、500人前後で推移してきた。しかし合格者平均年齢の高齢化とバブル経済は、裁判官と検事希望者の減少を生み、これを憂慮した法務省が合格者の低年齢化を意図して、平成元年、甲乙丙3案からなる「司法試験制度改革の基本構想」を提案する。法務省と最高裁は、要するに若年者にゲタを履かせる丙案を支持し、これを法曹一元、機会平等への攻撃ととらえる日弁連と対立することになる。そこで日弁連が提案したのは、若年者にゲタを履かせないかわりに、合格者を700名程度に単純増員する案であった。一方最高裁は、合格者の増員は、司法研修所の物的容量から受け入れがたいとして、「合格者を増やすなら修習期間を短縮せよ」と主張する。他方日弁連は修習期間の短縮には絶対応じられないとして対立し、話し合いの枠組みを、法曹三者協議会から、平成3年に設立された「法曹養成制度等改革協議会」に移し、4年間の協議を経て意見書をまとめることになった。

ここまでは、司法試験合格者数と養成方法、司法修習生の就職先をめぐる法曹三者の争いであり、いわばコップの中の戦争であった。ところが、法曹養成制度等改革協議会が発足した平成3年は、「第三次行革審」発足直後であり、「コップの中の戦争」であった法曹人口問題は、「コップの外」である政府から、規制緩和政策の一環として認知されることになる。そもそも丙案回避のために合格者増員を言い出した日弁連であったが、政財界から規制緩和の一環として合格者の大幅増員が要求されるに及び、法曹の質の低下等を理由に掲げる増員反対派が発生する。その一つの現れが平成6年(1994年)1221日の日弁連臨時総会における日弁連司法基盤整備・法曹人口問題に関する関連決議であった。これは司法試験合格者数を「今後5年間800人程度を限度とする」というものである。

日弁連のこの決議は、特権階級である弁護士が既得権益を守ろうとしているとして、政財界やマスコミ、そして法曹養成制度等改革協議会内部から極めて厳しい非難を浴びている。日経テレコン21から検索できる記事も多数あり、その一部を引用すると、「日弁連決議は改革つぶし。法曹改革の出発点は非常識に少ない法曹人口の正常化のはず」【朝日新聞論壇「法曹にも必要な規制緩和」】「司法改革の最大の担い手である弁護士が使命を忘れ、内向きの狭い発想に閉じこもるのでは、司法はますます国民から見放されるだろう。弁護士は、今自分たちが国民からどのように見られているかをよく考えて欲しい」【朝日新聞社説】「法曹養成制度等改革協議会中間報告には、弁護士会が嫌がるならば、司法書士らが法律業務を代行できるよう、弁護士法を改正すべきだという強硬な意見が盛り込まれた。」【朝日新聞】「日弁連とは何者だ。監督官庁を持たない一種のカルテル組織ではないか」【1995330日産経新聞】「日弁連は既得権益を守るため、外国人弁護士の活躍の場を広げることも、日本人の弁護士を増やすことにも消極的で、競争による内部改革を拒否している。日弁連の体質を改めなければ司法改革はいつまでも幻想のままだ」【1995330日産経新聞】「ギルド化する弁護士、正義を掲げ権益も守る?競争生む増員に逃げ腰」【日経産業新聞】「日弁連は大道を見失うな 質の低下などの問題を理由に妥協の道を閉ざすのでは、一部に根強い既得権を守ろうというだけの増員反対論に力を貸すことにならないか。」【朝日新聞】「法曹人口増員は必要だが、司法基盤整備と並行して進めるべきだとの主張は商売敵が増えることをおそれた改革つぶしとも見られ、旗色が悪い。」【朝日新聞】「弁護士人口増は競争激化を招き、弁護士の質の低下に繋がるとの主張が弁護士会内部では根強いが、これは「弁護士ギルド」の発想である。制度改善が進まない限り法曹人口を増やすべきではないという議論は本末転倒である。」【日経社説】

「ギルド社会」「業界のエゴ」「既得権益」の大合唱である。

しかし、実は、この時点では日弁連はまだ見捨てられていない。日弁連が見捨てられるのは、この後のことである。

日弁連はなぜ負けたのか?(7)

「司法試験合格者数は今後5年間800名程度を限度とする」という平成6年(1994年)1221日の日弁連臨時総会決議は、ものすごい世論のバッシングを浴びた。これを受けて、平成7年(1995年)112日、日弁連は昨年の決議をあっさり撤回して、司法試験合格者1000人を容認する(なぜかこの決議は新聞報道しか資料が無く、日弁連ホームページの決議集には掲載されていない)。しかし時すでに遅く、合格者数1500人を容認していた法曹養成制度等改革協議会との乖離は埋めることができなかった。そのため、平成71113日に発表された同協議会の意見書は、1500人と1000人の両論併記に終わる。

この時点での報道を見ると、日弁連の態度を批判しつつも、なお、法曹三者協議による事態の収拾を求めていることが分かる。「国民の司法実現へ(法曹三者の)歩み寄りを」【読売新聞】「(法曹)三者は、後ろ向きの議論に時間を費やさず、なお合意を目指して努力すべきだ。」【朝日新聞社説】「国民の立場に立った具体的な司法像を描くうえで、引き続き三者の協力が求められている。」【日経】

しかし政府の対応は、このころから急転回を始めた。行革委員会規制緩和小委員会は平成7127日、「司法試験合格者数を大幅に増加することが必要。『法曹養成制度等改革協議会』の意見書の、中期的には千五百人程度を目標との意見について評価する。」として、1500人支持を明確にする。「日弁連が自治団体であることを主張するなら、自らの体質改革が前提となる。そのためには、現在の意思形成の仕組みを改めないと、駄々っ子みたいなごね得狙いの反対者の巣窟(そうくつ)と言われよう。日弁連はいま自治能力を深く疑われているという事実を悟るべきだ。」【毎日新聞】「抜本的な改革論議がもう十数年間も続いている。やっと司法試験合格者を二百人増の七百人にこぎつけたぐらいだ。一向にまとまらないのなら、第三者に任せたらどうだろう。ひとえに司法試験の合格者の数の問題から始まっている。弁護士側は少なくない、多すぎるぐらいだと言い、いつまでも堂々巡りだ。」【読売新聞】

これらの新聞報道は、実は、司法試験合格者数の決定権限を法曹三者から取り上げ、政府に委譲することを指向している。ところが、この時点での日弁連はことの重大性に思い至らず、「行革委が司法制度の根幹にかかわる法曹人口や修習問題まで取り上げることは三権分立に反する」【柳瀬康治 日弁連事務次長 毎日新聞】とか、「法曹人口は長期計画で増やせ」(大原誠三郎弁護士)【毎日新聞】「法曹人口を増やすことは、弁護士の生活や業務のあり方にかかわる面もあり、弁護士会でも見解が分かれています。」【鬼追明夫日弁連新会長 毎日新聞】といった、原理主義的な議論や、相変わらずの引き延ばし策や、のんびりムードの見解を述べている程度だ。

日弁連のこのような態度や、法曹養成制度等改革協議会の分裂による機能不全を見て、おそらく平成10年ころ、政府は法曹養成制度の決定権限を法曹三者から取り上げることを決意する。そして平成11年(1999年)25日、司法改革審議会設置法案が決定される。それ以後の経緯は、すでに述べたとおりである。新聞報道からは、日弁連の文字が急速に減った。日弁連は、法曹人口問題の当事者から降ろされたのである。

平成12112日の日本経済新聞には、次の記載がある。「人口増に反対する代表的な意見は、『競争激化で弁護士の経済的基盤が危うくなり、本来の人権擁護活動が弱まる』との考え方。これに、『これまで法曹三者で慎重に扱われていた法曹人口枠が突然拡大された』との不満が加わった。 こうした反対派の主張に共感する弁護士は少なくない。しかし、弁護士過疎地域で人権活動もままならない賛成派弁護士が総会で訴えた切実な増員の声に、こたえるような具体策を示す反対派はいなかった。 また、大幅増の案は『突然』浮上したわけではない。(中略)司法審が司法試験合格者数『年間三千人』を打ち出したのは8月。この間、現場の弁護士が意見を表明する機会はいくらでもあった。」従前、法曹三者の仲直りを求めていた頃に比べて、突き放すような書き方だ。このように、この時点で反対派は、世論から冷笑され見放されていたのである。

歴史にIFは許されないが、おそらく、日弁連が引き返せないポイントを曲がったのは、平成8年と9年の間であろう。この間、日弁連が法務省や最高裁との「コップの中の戦争」を止め、大同団結して1500人を容認し、法曹養成制度等改革協議会の機能不全を予防していれば、その後の3000人への道筋は、回避できていたかもしれない。

日弁連はなぜ負けたのか?(8)

法曹人口問題で日弁連が敗北するに至った経緯をおさらいしてみよう。

法曹人口問題は、平成元年、裁判官・検察官希望者不足を解消するため最高裁・法務省が支持した「丙案」(若手受験者にゲタを履かせて優遇する案)に、日弁連が反対するという「コップの中の戦争」としてスタートした。しかし、法曹人口問題は国民に規制緩和問題として認知されたため、大幅な増員に反対する日弁連の態度は、世論の猛烈なバッシングにさらされた。これを受けて日弁連の方針は、平成6年の臨時総会決議を翌年に撤回するなど迷走し、日弁連が当事者として参加していた法曹養成制度等改革協議会を機能不全に陥らせた。ここに至って政府は法曹三者による法曹人口問題解決能力を見限り、司法制度改革審議会を設置して法曹人口問題の解決を図る。「コップの中の戦争」をコップごとひっくり返し、法曹三者はお飾りのように圧倒的少数派として審議会に参加させるにとどめた。この審議会では法曹人口大幅増大は既定路線であり、ただ、法曹の質の維持をどうやって図るかという点だけが問題であった。しかしこの点は法科大学院の設置により解決の目処が立つ。そこで司法制度改革審議会は、平成1288日、司法試験合格者年3000人を事実上決定するに至るのである。

歴史的評価は私の手に余るが、結果論としてみる限り、日弁連の第一の失策は、必要以上に「丙案反対・修習2年」に固執したことであろう。日弁連が丙案反対に固執した理由は、分離修習による法曹一元の危機、法曹資格機会均等の破壊などが挙げられ、修習2年への固執は法曹の質の維持が目的であった。しかし、丙案が廃止されたことと、3000人体制を比べて、3000人体制の方が良かったと言えるだろうか。

日弁連の第二の失策は、第一の点の裏返しであるが、法務省や最高裁だけを相手にした近視眼的な「兄弟喧嘩」に明け暮れ、その三兄弟が外部からどう見られているかに思いをいたさなかった点であろう。

そして第三の失策は、「これ以上法曹三者間の内部抗争に明け暮れるなら、司法改革問題の当事者から外す」という明確なサインが政府からあったにもかかわらず、これを見落とした点、あるいは気付いていたのに対処できなかった点である。

以上に付け加えるなら、日弁連、というより弁護士にありがちな欠点として、「正しいことであれば必ず認められる」という、法律の世界での理想を、政治の世界に持ち込みがちな点があげられる。言うまでもなく政治の世界は強いものが正しい、「勝てば官軍負ければ賊軍」の世界である。私はこの論考を纏めるに当たって、「正しかったか、間違っていたか」という判断を慎重に排除したつもりである。したがって、合格者3000人という決定が正しかったか、間違っていたかは、本論考の対象外である。本論考で私が対象としているのは、「日弁連はなぜ負けたか」という問題であって、「日弁連は正しかったか」あるいは「日弁連は間違っていたのか」ではない。

外から侵略されているのに、一致団結せず、内部抗争に明け暮れたため、結局外国に滅ぼされた国は、歴史上、枚挙に暇がない。法曹人口問題に関して日弁連は、実に幼稚な対応しかできなかったと評価されてもやむを得ないと思う。我々弁護士は、日弁連として余りに惨めな展開を辿った歴史を深く反省するとともに、これを繰り返さない努力をするべきであろう。

日弁連会長選挙の候補者である高山俊吉弁護士は、平成8年(1996年)の法律時報683号に「丙案廃止に向けた闘いのために」と題する論考を寄せ、その末尾に、誇らしげに次のように記している。「とまれ厳しい条件と情勢の中でも丙案を葬り去る一歩手前まで到達し得たことを考え、運動への確信をもってこれからの闘いを取り組みたいものである。『われらが到達した峰に主峰を目指す砲台を揺るぎなく据えよ。』」

高山弁護士は、このとき、目の前の「主峰」にばかり気を取られ、足下の「峰」が音を立てて崩れ始めていたことに気付かなかったようである。

日弁連はなぜ負けたのか?(番外編1)

平成1925日の読売新聞が、日弁連会長選挙公聴会で宮崎・高山両候補が表明した弁護士増阻止の動きを「業界利益の追求」と牽制した。これを増田尚弁護士が「永遠のワンパターン」と批判したのに対して、筆者が「確かにワンパターンだが,『敵』は10年前にも同じ戦術で勝ったのだから,当然,勝ちパターンで攻めてくるわけである。むしろ,『弁護士の生活不安』を全面に出して,負けパターンを繰り返す愚こそ責められるべきであろう。」と書いた。これに対して増田弁護士から、「しかし、2000年当時、3000人問題に関していえば、日弁連は、そのように主張することすらせず、最初から戦いを放棄していた」との反論をいただいた。

こうなっては当事者以外どうでもいいような話であるが、増田弁護士のブログ経由で当ブログをご覧になる読者も多いようだし、弁護士としては、主張の違いはともかく、事実に反する指摘を看過できない。

まず2000112日、3000人を事実上容認し紛糾した日弁連総会の翌日の日本経済新聞は、「日弁連の臨時総会が紛糾したのは、弁護士の間に自らの生活を直撃しかねない増員への反発が根強かったためだ。」と解説している。これは、高山候補ら反対派が、弁護士の生活問題を主張していたことを示している。また、1996311日の毎日新聞に掲載された日弁連会長インタビューには、「法曹人口を増やすことは、弁護士の生活(中略)にかかわる面もあり、弁護士会でも見解が分かれています。」という日弁連会長の発言が記載されている。このように、当時の反主流派に限らず、会長も、弁護士の生活不安を法曹人口増に反対する理由の一つに挙げている。だから、「日弁連は法曹人口増が弁護士の生活不安につながるという主張をしなかった」という増田弁護士の指摘は事実ではない。ちなみに、この会長とは鬼追明夫弁護士であり、宮崎候補の推薦人の1人であるが、この話題とは無関係である。大事なのは、当時の日弁連会長が、法曹人口増に反対する理由に弁護士の生活を掲げた、という点だ。

すでに「日弁連はなぜ負けたのか?(6)」に記載したことであるが、日弁連による「弁護士の生活不安」の主張は、マスコミにどう評価されたか。

「日弁連とは何者だ。監督官庁を持たない一種のカルテル組織ではないか」(1995330日産経新聞)

「ギルド化する弁護士,正義を掲げ権益も守る?競争生む増員に逃げ腰」(199558日 日経産業新聞)

「質の低下などの問題を理由に妥協の道を閉ざすのでは,一部に根強い既得権を守ろうというだけの増員反対論に力を貸すことにならないか。」(19951019日朝日新聞)

「法曹人口増員は(中略)司法基盤整備と並行して進めるべきだとの主張は商売敵が増えることをおそれた改革つぶしとも見られ,旗色が悪い。」(19951031日 朝日新聞)

「駄々っ子みたいなごね得狙いの反対者の巣窟」(19951227日 毎日新聞)

「弁護士一人ひとりが(司法改革の最大の担い手であるという)使命を忘れ、内向きの狭い発想に閉じこもるのでは、司法はますます国民から見放されるだろう。」(19961219日朝日新聞社説)

筆者は当時の日弁連(あるいは日弁連反主流派)とマスコミとの、どちらの主張が正しかったかを論じるつもりはない。重要なのは、10年前、日弁連の執行部も反主流派も、弁護士の生活問題を法曹人口増反対の理由に掲げたが、それらはマスコミから、「弁護士ギルド」「既得権益擁護」「ごね得」と、さんざんな批判を浴び、人口問題における日弁連の敗北につながったという点だ。

もちろん、マスコミによる不当な批判に対しては、日弁連は反論するべきである。10年前と今とで、事情が変更した部分もあろう。かつて批判されたからといって萎縮したのでは、「羮に懲りて膾を吹いている」との誹りを免れまい。しかしだからといって、10年前の事実を知りもせず、あるいは忘れ、かつて失敗したのと同じ戦法で敵に立ち向かうのはただの愚者である。法曹人口問題において、日弁連が弁護士の生活問題を主張すること自体は結構だ。しかしそれには細心の注意が必要であり、少なくとも、全面に出すのは愚の骨頂である。

日弁連はなぜ負けたのか?(番外編2)

「日弁連はなぜ負けたのか?」は,お陰様でたくさんのアクセスをいただいた。読んで頂いた方々に御礼を申し上げる。日弁連会長選挙は終わったが,この論考は,今後「ぼちぼち」続けていきたいと思う。

「日弁連はなぜ負けたのか」の(1)から(8)で,3000人増員を受け入れたのは日弁連の敗北であり,司法制度改革審議会に日弁連代表として出席していた中坊公平委員は敗戦投手であると書いた。

この認識に変更はないが,誤解しないで頂きたいのは,このとき日弁連は全66回にわたる審議の最終回まで闘い,刀折れ矢尽きて3000人増員を呑まされたのではない,という点だ。実際には,審議の前半戦で積極的に3000人増員を受け入れている。ではなぜ,積極的に3000人増員を受け容れたのか。ここに,法曹人口問題と並ぶ重要な要素として,法曹一元及び司法改革という概念が登場する。おそらく,中坊公平氏と日弁連執行部は,最低3000人の受け入れは避けられないと見切ったうえで,これと引換に,いわば条件闘争として,法曹一元及び司法改革の実現を図ったのだ。

筆者の見解に対して,「敗戦処理として責任を軽く考えてよいのか?」というご批判をいただいた。これはやや誤解していると思う。確かに,平成12年の時点では,「最低でも3000人」という選択肢しか無かったのだから,その意味では,3000人を選択した日弁連執行部に責任はないと思う(「5000人を選択しなかった責任」があるというなら話は別だが)。あくまで3000人を受け入れた責任を誰かに問いたいのなら,平成11年以前にまで遡って頂くしかない。しかし,平成12年当時の日弁連執行部が3000人受け容れと引換に「法曹一元」「司法改革」という条件を提示したこと,これを(一部にせよ)国に呑ませたこと,あるいは,ほかの条件を提示しなかったこと,について,その是非を歴史的に検証する必要も無い,とは言っていない。むしろ,この意味においては,当時の日弁連執行部の責任の有無や程度は,おおいに検討に値すると考える。

今年は「司法改革実践の年」と言われる。筆者のような「一応若手」のノンポリ弁護士からすると,お題目のように繰り返されてきた「司法改革」であるが,それがどのような経緯で実現したのか,何を犠牲にして実現したのか,日弁連は3000人増員を受け容れる代わりに何を守ろうとしたのか,そして,司法改革はその犠牲に見合ったものだったのか。守ろうとしたものは守れたのか。そろそろ,これらの検証に着手するべき時期に来ているのではないか。なお,筆者とほぼ同じ見解に立つと思われるものとして,豊崎寿昌弁護士のブログをご紹介する。(小林)

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2008

130日~

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