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2009年5月10日 (日)

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院編

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2008414日~

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(1)

2000111日の日弁連の臨時総会決議は,司法試験合格者数年3000人を事実上受け入れた。しかし,このとき決議されたのは人口問題だけではない。これ以外に,①法曹一元の実現,と②法科大学院設立・運営に対する主体的かつ積極的な関与,を決議している。そして,①の法曹一元に関する日弁連の決議が,理念倒れの無惨な敗北に終わったことはすでに述べた。

そこで本稿では,②の法科大学院に関する決議について,法曹人口の視点から,検証してみたい。

法科大学院とは,法曹養成を目的とした高等教育機関であり,2004年(平成16年)の法整備に基づき発足した。文科省の資料によると,2006年(平成18年)現在,全国74大学に法科大学院が設置され,定員数の合計は5825人である。

当初,司法試験合格率7~8割と想定して構想された法科大学院であったが,司法試験合格者数3000人としてもなお合格率が2~3割と予想されるほどの「乱立」状態となってしまっている。そのため,法科大学院の中には,さらなる合格者増を求める声が強い。これが,今後の法曹人口を論じる上で,重大な問題となっていることは周知の通りだ。

もともと,司法試験合格者を年1000人に増やすのにも大反対していた日弁連の立場からすれば,このような問題をはらんだ法科大学院構想に協力していくと宣言したこと自体,とても奇妙なことに思える。

日弁連は,なぜ,法科大学院構想に積極的に協力していくという道を選択したのだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(2)

1997年(平成9年)1111日,自由民主党司法制度特別調査会(会長 保岡興治衆議院議員)が策定した「司法制度改革の基本方針」中,「法曹養成のあり方」の中に,「ロースクール方式の導入など,法曹人口の大幅増加に対応する法曹養成のあり方について検討する」と記載され,法科大学院構想の正式な検討が開始された。

1998616日,半年の検討を経た自由民主党司法制度特別調査会は,「21世紀の司法の確かな指針」と題する報告書を公表し,この中で,米国ロースクール方式の導入を検討対象としている。

19981026日,文部科学省の大学審議会は,自由民主党の提言を受け,「今後,法曹養成のための専門教育の課程を修了した者に法曹への道が円滑に開ける仕組み(例えばロースクール構想など)について広く関係者の間で検討していく必要がある。」と述べた。ちなみに,同年6月の中間答申にロースクールという文字はないが,同月6日の熊本日日新聞は,大学審議会大学院部会がロースクールの設置を検討したと報じている。このことから,文科省大学審議会の内部では,自由民主党内部での検討と平行して,19985月ころまでに,ロースクールの設置が検討されはじめたことが分かる。

1999年(平成11年)311日,大学審議会の答申を受け,文科省「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」が発足した。この会議は,2000年(平成12年)317日まで,10回の会議を重ね,法曹養成に関する国内外の情報や議論を集約する作業を行った。

1999年(平成11年)727日,司法制度改革審議会が発足する。この審議会は13人の委員中5人を学者が占め,後に法科大学院協会理事長となる佐藤幸治教授を委員長とするものであり,発足当初から,法科大学院構想の実現を意図するものだった。

1999920日,東京大学が日本型ロースクールの創設を提案したのを皮切りに,116日に一橋大学,2000123日に早稲田大学,311日に中央大学,以下多数の大学が,独自のロースクール構想を発表する。

2000年(平成12年)530日,文科省の「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」は,「法科大学院(仮称)構想に関する会議」へと発展して発足した。そして,200087日,同会議は司法制度改革審議会において,「法科大学院(仮称)構想に関する検討会議における議論の整理」と題したプレゼンテーションを行う。翌8日,司法試験合格者数年3000人が,事実上決定されるのである。

一つの制度が発想されてから実現される過程として,法科大学院構想の誕生から現実化までの道のりは,実に見事というほかはない。199711月の与党内での検討開始から,文科省,各大学での検討を経て,司法制度改革審議会で事実上のGOサインが出るまで,とてもスムースで,全く滞留がない。

このとき,日弁連は何をしていたのだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(3)

法科大学院構想は,1997年(平成9年)1111日に産声を上げた。そのきっかけはどこにあったのだろう。

話は1988年(昭和63年)まで遡る。日本最難関といわれた司法試験は,合格者の高齢化と,裁判官・検察官志望者不足という問題点を抱えていた。同年,法務省と最高裁は,いわゆる丙案(3割程度の若年受験者にゲタを履かせて優遇する案)を支持する。これに対して日弁連は,司法修習の理念である公平性と平等性に反するとして強硬に反対し,対案として1990年(平成2年),合格者年700人の単純増員を提案する。この対立は1990年(平成4年)1016日,1992年から5年間,年700人の単純増員を実施し,若年合格者の合格状況などを見た後,一定の条件が満たされなければ丙案を導入するという妥協が成立する。しかしこの条件が満たされる可能性は低く,丙案実施は不可避と予想されていた。

一方,法曹三者間の上記「コップの中の戦争」は,コップ外の政府や財界などから規制改革問題と認識され,先進諸国に比べ圧倒的に少ないとされる法曹人口の大幅増員が主張される。そのため日弁連は,丙案を巡る法務省・最高裁との攻防と,法曹人口大幅増員を主張する政府財界との攻防の二正面作戦を余儀なくされる。

日弁連は1994年(平成6年)1221日,丙案回避とともに,司法試験合格者数を,今後5年間年800人を限度にする,と決議するが,この決議は弁護士会の業界エゴだとする猛烈な批判を浴び,翌1995年(平成7年)112日,前年の決議を撤回して,1999年(平成11年)以降の合格者数1000人容認,修習期間2年間堅持,丙案回避の基本方針を決定する。しかし決定の十日後,司法改革協議会は司法試験合格者数1500人を多数意見として採用し,日弁連の主張は少数意見に留まった。しかも,19951211日,司法試験管理委員会は丙案実施を決定する。(以上 岩井重一「司法試験・法曹養成制度改革の経緯と概要」(自由と正義491号))

その後の法曹三者協議の結果を受け,19971015日,日弁連は1998年から合格者を年1000人,修習期間の16ヶ月への短縮を認めるとともに,将来の司法試験合格者数を年1500人とすることも事実上容認すると,執行部方針を変更し,1028日,法曹三者協議会でも,合格者1000人,修習期間16ヶ月が決定される。

このように,法曹人口論における日弁連は,1990年以降,700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退していった。日弁連は,法務省や最高裁に比べて極端に意思決定が遅く,三者協議の場から日弁連に持ち帰って検討を重ね,会内合意を得るころには後手に回ることを繰り返した(この経緯は,自由と正義19993月号「法曹養成制度改革座談会」に詳しい。)そして,当面年合格者数1000人,数年後の1500人も見通しに入れるという形で,19971028日に一応の決着を見たのである。

ところで,先に述べたとおり,自由民主党の司法制度特別調査会がロースクール構想の検討を含む「司法制度改革の基本方針」を発表した19971111日は,法曹三者協議会が修習期間短縮と司法試験合格者数年1000人(と将来の1500人)を決定した1028日の僅か二週間後である。つまり,「司法制度改革の基本方針」は法曹三者協議会の1028日の決定を受けて策定されたのである。

ロースクール構想が誕生したきっかけは,その2週間前に法曹三者協議会が行った司法試験合格者数年1000人と将来の1500人,という決定にあったのだ。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(4)

19971028日,法曹三者協議会は,翌年からの司法試験合格者年1000人,将来1500人への増加を検討すると決定する。そのわずか2週間後,自由民主党司法制度特別調査会はロースクール制度導入の検討を含む「司法制度改革の基本方針」を発表した。このとき,自由民主党司法制度特別調査会の意図はどこにあったのか。合格者数年1500人までを前提とした検討を意図したのか,それとも,さらなる大幅増員を意図していたのだろうか。

当時の公式資料を見る限り,1500人を超える目標を掲げているものは見られない。政府の規制緩和推進政策も,司法試験合格者年1500人を掲げており,法曹三者協議会の結論は,その上限を打った形だ。公的機関が1500人を超える増員を打ち出すのは,1998年(平成10年)1223日,小渕恵三内閣総理大臣下で発足した経済戦略会議が中間答申として司法試験合格者2000人を提言するまで待たなければならない。つまり,199712月までは,公式見解としては1500名が上限であった。

199711月に公表された自由民主党司法制度特別調査会の「司法制度改革の基本方針」も,法曹人口の大幅増員を掲げるものの,何人にするとは言っていない。しかし,政権与党の国会議員があえて検討課題として掲げる以上,他機関の決定に追随するのではなく,それを超える意図があると考える方が自然であろう。そして,この意図は1998年に胎動を始める。

しかし,1997年末の日弁連執行部は,同年10月の臨時総会で,当面1000人,将来の1500人と決議したことで,気が抜けてしまっていたようである。自由と正義19983月号(脱稿は199711月ころ)でも,鬼追明夫日弁連会長は,「(当面,司法制度改革協議会の中期目標である司法試験合格者)年1500名という方向をにらみながら」と,暢気なことを言っている。

実際には,このとき,3000人に向けた大きなうねりが始まっていた。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(5)

1997年(平成9年)1028日,日弁連は,翌年からの司法試験合格者数年1000人,その後1500人の検討を開始することを認めた。これは,法務省・最高裁の意見をほぼ丸飲みした形であり,当時の政府見解に照らしても,人数としては上限を打った形になっている。そのためか,1997年末の日弁連執行部は,当面の戦場を「1000人と1500人の間」と見定めていた節がある。岩井重一弁護士は,「自由と正義」19981月号「司法試験・法曹養成制度改革の経緯と概要」で,「2003年に三者協が再開されるまで手を拱いていることは決して許されるものではなく」と述べ,1500人を巡る攻防が2003年に開始されると予想している。現実には「20031500人」どころか,「20003000人」なのだから,この予想は大ハズレだが,当時,「三者協議に関する合同会議事務局長」という最前線にあった岩井重一弁護士にしてこの程度であるから,あとは推して知るべしであろう。しかし,その時すでに,政府与党内では,「数千人」を念頭に置いた制度設計が始まろうとしていた。

ここで,当時,日弁連がどのような戦術を用いて法曹人口増員論に抵抗してきたかを見てみよう。

1994年ころ,日弁連が法曹人口大幅増に反対する理由の第1は,「弁護士の経済的独立性の確保」であった。たとえば,日弁連法曹養成問題委員会が作成した「法曹人口問題に関する意見書」(199412月号)は,弁護士増員の可否について,「弁護士の使命を果たすための会務活動はもとより,プロボノと言われる活動など対価の伴わない弁護士の公益的な活動は,客観的には弁護士のその他の職務で生計を維持することによって初めて成り立っている」から,「競争によって淘汰される弁護士が質の悪い弁護士とは限らず,会務や再審事件等の人権擁護活動にエネルギーを注ぐ弁護士が淘汰される危険さえある」とある。要するに,法曹人口が増えて弁護士間の競争が激化すると,弁護士の経済的余裕が無くなり,人権擁護と社会正義の実現(弁護士法1条)という弁護士の使命が実現できなくなる,という主張だ。

しかし,この主張は,マスコミから猛烈な反発をうける。たとえば,若林誠一NHK解説委員がこう言っている。「(日弁連の臨時総会を傍聴して)一番びっくりしましたのは,法曹人口をふやすということになると日本人の人権が守れないといった議論が行われたこと(です)。それは,人口をふやすと競争がふえる。そうすると,弁護士さんが,人権擁護活動といった銭にならない仕事をしなくなって,金もうけばかりに走ってしまうから,したがって日本人の人権が守れなくなるのだ,こういった議論が堂々と行われたりしたわけですね。そのときに私も,あるいは私と同じような立場にいます新聞社の論説委員などが口をそろえて言ったのは,そんな人権だったら守ってほしくない,こういうことだったわけです。そういった思い上がった議論が行われているというようなことが確かに法曹三者の中であるというのが率直な印象であります。」

この発言は1998年(平成10年),衆議院法務委員会における参考人としての供述であって,いつの臨時総会を傍聴した際の出来事なのか不明だが,文脈上,法曹人口が問題となった日弁連臨時総会(19941997年)を指すと思われる。また,自由と正義199412月号の土屋公献日弁連会長(当時)の巻頭言に,「特権意識によってしか護れない人権ならば護って貰わなくとも結構と反発する論説委員も現に存在しています。」との下りがあり,若林氏の供述とも一致することから,若林氏が「びっくりした」という日弁連臨時総会は,1994年のものである可能性が高い。

経済的余裕が無くなれば人権活動ができなくなる,というのは,正直言って,筆者の本音でもあるが,それが,マスコミから「思い上がり」「そんな人権だったら護ってもらわなくて結構」という反応を呼ぶというのは,我々弁護士として,肝に銘じなければならないことだろう。

19941221日の日弁連臨時総会決議の後,日弁連に浴びせられたものすごいバッシングの中には,「弁護士は思い上がるな!」という声が多く含まれていたと思われる。

そこで,日弁連が法曹人口増大に反対する理由として,経済的基盤論に代わって登場するのが,「法曹としての質の維持」論であった。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(6)

法曹人口増員の要求に対して,弁護士の過当競争は人権活動を阻害するという日弁連の主張は,「思い上がり」と批判され,代わって正面に出てきたのが,法曹養成の「法曹としての質の維持」論であった。

「法曹としての質」は,法曹養成「機関」及び法曹養成「期間」の問題である。法科大学院が登場する以前,法曹養成「機関」は専ら司法研修所であり,法曹養成「期間」は裁判所法に基づき2年とされていた。この2年間,司法修習生には給与が支給される。筆者の頃(平成2年)は手取りで月額20万円前後であった。

しかし,従来一学年500人であった司法修習生が1000人,1500人へと増加すれば,従前の予算では賄えなくなる。予算の総額が決まっている以上,司法修習生の給費制を維持するなら,2年間の修習は不可能だ。そのため,司法試験合格者増は,必然的に法曹養成「期間」の短縮を要請する。1996年以降の法曹三者協議で,最高裁が司法修習期間の1年短縮を主張したのは,当然の成り行きであった。

これに対して日弁連は,最高裁の主張は法律実務家の粗製濫造につながるとして,修習期間2年間の維持を強硬に主張する。予算に限界があるとの反論に対しては,弁護士会が人的経済的な負担も行うとまで主張した。具体的には,研修弁護士制度の提案である。これには最高裁も理解を示し,法務省の取りなしもあって,間を取った形で,19971028日,1年半の修習期間が合意された。(以上,岩井重一「司法試験・法曹養成制度改革の経緯と概要」(自由と正義491号))

日弁連が修習期間2年を主張した理由は,法律実務家としてふさわしい質の養成であった。しかし,法曹人口増の抑制も目的の一つにあったことは間違いないと思う。修習期間が2年から1年に短縮されれば,同じ予算で修習生の倍増が可能になる理屈である。日弁連は修習期間短縮に反対することを通じて,間接的に,修習生の増加を食い止めようとしたのである。

余談になるが,自由と正義19993月号「法曹養成制度改革」座談会は,その内容の生々しさにおいて,必読の文献である。なにより,表題が「法曹養成制度改革座談会」でありながら,内容の大半は法曹人口問題である点こそ,当時の日弁連にとって,法曹養成問題イコール法曹人口問題と認識されていたことを示している。

修習期間2年堅持という日弁連の主張は,結局1年半の修習として妥協した。批判もあったようだが,この妥協は老獪な交渉の結果と評価できる。なぜなら修習期間1年半なら,4月入所9月修了と10月入所3月修了を交互に繰り返すという極めて変則的な運用を行わない限り,修習生の増員に結びつかないからだ。しかし,このような変則的な運用は,予算編成・執行のあり方としても,教官の異動のあり方としても非現実的である。つまり,修習期間1年半の妥協は,日弁連にとって,法曹人口増を食い止めるという「実」を取ったものといえる。

修習期間の短縮を主張する最高裁に対して,自ら負担を背負ってでも法曹養成を充実させる,という日弁連の主張は,マスコミにも好意的に受け止められた。

19971027日の朝日新聞社説は,このようにいう。「日弁連のなかには,増員すれば競争が激しくなり,弁護士の基盤が脅かされかねないという慎重論が根強くあった。それを抑え,改革に取り組んできた歴代執行部の苦労は想像できる。ここで後ろ向きの姿勢をとっていれば,業界エゴとの批判を浴びるだけでなく,日弁連の自治能力にも疑問符がつくところだった。(修習への弁護士の積極的関与は)これまで,対応が後手後手に回ってきた感のある日弁連が,初めて自分から投げたボールである。内容の詰めはこれからだが,最高裁,法務省は提案を真剣に受け止めて実現をめざすべきではないか。」

いずれにせよ,1997年の法曹三者合意は,次の3つの効果をもたらした。

第一は,法曹人口が大幅に増加しないのは,法曹養成予算が限られているからだ,という認識を広めたことである。司法研修所に法曹養成をさせている限り法曹人口は年1500以上は増えない,ということを政府・自民党・財界がはっきりと認識した,ということである。自民党司法制度改革特別調査会がロースクール構想の検討を提案したのは,法曹養成予算の問題を解決し,1500人を大幅に上回る法曹人口養成の基盤とするためであった。

第二は,日弁連内に,法曹養成は弁護士会が率先して行うべきだという思想を発生させたことである(塚原英治弁護士「法律家の養成と弁護士会の役割」(自由と正義19981月号)など)。そして,この思想は,ロースクール構想になじみやすいものであった。

第三は,「法曹の質を維持する」という日弁連の主張は,その背後に法曹人口増抑制の目的があったにせよ,世論に受け入れられた,ということである。司法試験合格者年3000人を事実上受け入れた日弁連臨時総会決議にもある「国民が必要とする(法曹人口)数を,質を維持しながら確保する」との文言は,このような歴史的背景に基づいている。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(7)

1994年(平成6年)以降,司法試験合格者数年700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退していた日弁連であったが,この後退も,1500人で一応の上限を打った形となった。それは,日弁連の抵抗の成果であるともいえるが,なにより,司法研修所という従前の法曹養成機関では,容量的予算的に年1500人を超える法曹を養成できないことが判明したからであった。そこで,司法試験合格者数数千人時代を見据えて,司法研修所に代わる法曹養成機関が模索され,その一つとして,ロースクール制度の導入が検討課題となっていく。この過程を1人の人間の発言として辿るなら,矢口洪一もと最高裁長官がふさわしい。

若い弁護士には矢口洪一を知らない人もいるだろうが,同氏は,裁判官人生の3分の2以上もの間法廷に出ず,司法行政を司り,最高裁長官にまで上り詰めたエリート中のエリート中のエリート,という「エリートの3乗」を体現し,「ミスター司法行政」と言われた人物である。在任中から諸外国の司法制度を研究し,1990年に定年退官したころ以降,司法改革を提言していたが,その発言は1996年末から具体性を帯びていく。

たとえば,1996年(平成8年)1223日付毎日新聞で,早急に,司法試験合格者数を最低でも年4000人にすべきであり,これに伴い,法曹養成機関の抜本改革が必要と発言した。ただし,ロースクール構想は触れられていない。

1998年(平成10年)28日,日本経済新聞朝刊で,矢口洪一氏は次のように述べる。「規制緩和の時代,司法の容量が小さすぎる。社会のあらゆるところに,法律家が浸透する必要がある。それには,法曹人口は最低でも,今の倍の4万人は必要である。そのためには,判事補制度を廃止し,法曹一元を導入するべきである。法曹一元を導入すれば,優れた弁護士が裁判官になることになるので,裁判所が裁判官を養成する必要が無くなるから,司法研修所は要らない。弁護士としてスタートするのに基礎的な訓練が必要というなら,大学で事前の教育を行うべき。」ここでは,法曹養成機関として,ロースクール構想が登場している。

矢口洪一氏はまた,司法改革を進める方法論として,「政府直轄の委員会を作り,法曹関係者は1人も委員に入れないようにすべきです。法曹三者中心となると,時間ばかりかかりすぎます。司法制度をどうするかは国民が決めることで,法曹三者の仲間内だけの問題ではありません。」と言っている。この制度論が,そのまま,その1年後にスタートする司法制度改革審議会の青写真になっていることは注目される。

このとき矢口洪一氏は78歳。もと最高裁長官で「ミスター司法行政」とはいえ,退官して8年経ち,「過去の人」となっていて不思議でない時期である。しかし,その政策論が全国紙に掲載されたこと,そして,この発言がそのまま,自由民主党司法制度特別調査会の意見書として反映され,後の司法制度改革審議会の青写真になっていることからすると,矢口洪一氏は当時,司法制度改革の分野において,政府与党に対して大きな発言力を持っていたと見て間違いない。つまり,このインタビュー記事は,高度に政治的な意味がある。

「ミスター司法行政」による「高度に政治的な発言」という視点から,再度このインタビュー記事を読んでみると,矢口洪一氏の意図を推量することができる。

まず注目すべき点は,矢口洪一氏は法曹一元の導入を,裁判官は増員しなくて良い,という文脈で提唱していることだ。つまり,法曹人口の大幅増員は,弁護士の増加によって賄われるべきだ,ということである。そして,大幅に増えた弁護士の養成機関として,第1に大学教育を考えるべきだとしている。

次に,「司法改革を推進する政府委員会から法曹三者を排除する」との提案が注目される。これは一見,自らの出身母体である裁判所を含めた法曹三者全部を排除する公平な見解とも見える。しかし,その理由として同氏が掲げる「法曹三者協議は決定が遅すぎる」ことの原因が専ら日弁連にあることは,周知の事実である。他方,政府委員会から裁判所を排除しても,裁判官の大幅増員が回避できるのなら,裁判所としては特に異議はない。すなわち,発言のポイントは,「日弁連を外した政府委員会で弁護士の大幅増員を決定すべし」という点にある。

この推測には異論もあろう。最大の問題点は,法曹一元が,矢口洪一氏の出身母体である裁判所にとっても脅威である,という点だ。しかし,1960年代の臨時司法制度調査会において,日弁連が「法曹一元」を悲願と崇め,こだわり続けてきた有様をつぶさに見てきた矢口洪一氏は,このような判断をしたと思う。「第1に,法曹一元を看板に掲げれば,日弁連は抵抗しない。第2に,一旦日弁連を懐柔すれば,その後は臨司のときと同様,法曹一元を葬り去ること十分可能。第3に,仮に判事補制度が廃止されても,裁判官の大幅増員に比べて,裁判所の痛みは少ない」と。もっとも,矢口洪一氏は裁判所行政官時代,英米の法曹一元制度を研究していた経緯があり,退官直後から,陪審制や法曹一元の導入に積極的な発言を行っている(1990124日朝日新聞)から,個人的には,法曹一元になってよい,と考えていた節もある。いずれにしろ,矢口洪一氏の意図は,早急に政府直轄で日弁連を排除した司法制度改革の委員会を創設することと,その看板に法曹一元を掲げることにより,日弁連を懐柔することにあったと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(8)

法曹人口増に反対する根拠として,「法律実務家の質の維持」を挙げ,修習には最低2年間が必要,弁護士会も自らの負担で修習に協力する,という日弁連の主張は,司法修習予算を増額できない法務省・最高裁の弱みを突き,実質的に,法曹人口増を抑制する効果を果たした。

読者はここで,司法修習予算が法曹人口増の抑制になるなら,予算を増やせばいいじゃないか,という素朴な疑問を持たれるかもしれない。そこで,この点についてすこし触れてみたい。

この答えは,鬼追明夫もと日弁連会長の次の発言に示されていると思う。曰く,「市民から見ますと,なぜ法律家が二年間国費で養成されて当然なのか,それが数が増えても全然ビタ一文まけられない,というような議論が本当に支持されるのだろうかということになると,私は必ずしも自信がないわけです。」(自由と正義19983月号「回顧と展望」)

筆者自身,当たり前と信じて疑わなかったことであるが,筆者の1期500人の時代でさえ,このうち400人以上が弁護士となる。1500人時代になればその9割以上が弁護士となるし,仮に法曹一元が導入されれば,とりあえず全員が弁護士となる。弁護士は言うまでもなく公務員でなく,民間の事業者だ。この民間人を養成するために,修習生,教官や事務局の給与を含む多額の国費が投入され,修習生は学費を払う必要がない。よくよく考えてみると,民間の事業者を,国が丸々二年間費用丸抱えで養成する制度は,我が国では,おそらく極めて特異である。

もちろん,民間人といえども,国民の生命や重大な利益に直結する職能を,国費で養成する制度はほかにもある。独立行政法人化される前の国立大学の医学部がそうであるし,パイロットを養成する航空大学校もそうだ。しかし,これらの職能養成制度においては,学生に学費支払義務がある。かつての司法研修所のように,2年間,学費を取らず,費用を全部国が負担するばかりか給与まで支給する職能養成制度は,ほかに無いのではないか。

なるほど,国民の人権を守るという見地から,法曹は国が養成する,という政策的選択肢は存在する。しかし,「生命を守る医師の養成でさえ学費を取るのに,なぜ弁護士の養成には学費を取ってはならないのか?なぜ弁護士の養成だけ特別扱いなのか?」と問われたら,答えは難しい。そうは言いつつ,我が国は戦後40年間,全額国費による法曹養成を行ってきたわけだが,従来に数倍する法曹養成を念頭に置いた場合,これに対応して数倍となる国費負担増を国民が納得するとは言い難い。しかも,国立大学法人化を含め,「官から民へ」の大合唱の中,弁護士の養成だけは完全に別扱いというためには,よほどの理由が必要である。

例えばこういう反論もあろう。「なるほど医学部学生は学費を払っているが,独立法人化したとはいえ,医学部には莫大な国庫補助がある。医師一人の養成に投入される税金の金額は,弁護士一人の養成に投入される税金に数倍するのではないか。」それはその通りだと思う。しかしこの反論では,弁護士の養成だけを完全に国庫で賄ってもよい,との結論になっても,賄わなくてはならない,との結論にはならない。限りある国の予算を,医師の養成に幾ら投入するべきか,弁護士の養成に幾ら投入するべきかは,国家政策の問題だからである。たとえるなら,産業振興助成金をどの産業にいくら投入するかが国家政策の問題であるのと同じことだ。

「弁護士は平和と人権を守る最後の砦」であるから,法曹養成は国家が行うべきだという主張もあるが,やめた方がよいと思う。弁護士の中に,平和と人権を守る能力と識見を有する人が一部いることは否定しないが,だからといって,弁護士全部がそうではない,というより大部分の弁護士はそうではない,ということは,国民はとっくにお見通しだからである。この手の主張は,「弁護士は職業裁判官より人権感覚が優れている」という,法曹一元論の根拠となった主張と同じくらい,国民に対する訴求力がない,薄っぺらな,思い上がった主張なのだ。

2010年から司法修習生の給与の貸与制が開始される。これも,上記と同じ文脈で理解される。日弁連をはじめ各弁護士会は反対したが,押し切られてしまった。国側からすれば,授業料を取らないだけでもありがたく思え,ということなのだろう。

法科大学院,あるいはその構想に対しては,構想誕生当初から現在に至るまで,弁護士によるさまざまな批判が行われている。的を射た批判も多いが,大きな視点として,「国費丸抱えの法曹養成は国家政策として必然ではない」という認識を忘れるべきではないと思う。この認識を忘れて,「弁護士は税金で養成してもらって当然」と受け取られかねない物言いをすると,「思い上がるな」という怒りにさらされることになる。日弁連は,司法修習生の給与貸与制に反対する理由の一つとして,「弁護士の公共的使命感は給費制によって醸成されたもの」という点を挙げているが,上記の意味で,リスキーな主張だったと思う。

筆者はもちろん,司法修習生の養成を全額国費で行ってきた従前の制度が悪い,というつもりはない。良い点もある。様々な職歴や経歴,様々な階層の人たちが,このような司法修習制度が一因となって弁護士となり大成し,多大な社会的貢献を果たしているのは事実である。しかし,本稿の目的は制度の善し悪しを論じることではないので,これ以上立ち入らない。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(9)

法科大学院構想は,従前の司法研修所のみによる実務法曹教育に代わるものとして,あるいはその欠点を補うものとして構想された。つまり,構想した者から見ると,従前の司法研修所の法曹教育には,根本的な(対症療法では治癒できない)欠陥があったと認識されたことになる。かような欠陥に満ちた従前の司法研修所における実務法曹教育とは,どのようなものだったのだろうか。

司法研修所における法曹教育は,民事裁判,刑事裁判,検察,民事弁護,刑事弁護の5教科に分かれ,それぞれ裁判官,検察官,弁護士がクラスに計5人つき,教官として教育を行う。その内容は,簡単にまとめれば,裁判実務における事実認定の手法と,訴状,起訴状,判決書を含む裁判実務文書の起案が中心である。また,5科目の中では,民事裁判に最もウェートが置かれ,司法修習生は,特に入所後3ヶ月間の前期修習中,要件事実論という民事裁判における精緻な論理構造の習得に多くの時間を割く。それまで受験勉強に明け暮れてきた修習生にとって新鮮な体験であり,筆者を含め多くの修習生は要件事実論に夢中になった。

女性修習生が数人,通勤電車の中で要件事実を論じ,「ヒニンよ,ヒニンしなければだめよ。なんでヒニンしなかったの?」と大声で議論して周囲のひんしゅくを買ったという本当の話もある。ヒニンとは否認のことであり,相手の主張を認めないことを意味する要件事実論上の用語である。

司法研修所における法曹教育の主眼が,裁判実務の習得に置かれていたことは間違いない。前述のとおり,司法研修所卒業生の8割以上が弁護士になるのに,なぜ裁判実務を中心に教育がなされるのか。これを「最高裁による思想統制」と批判する見解もあるが,筆者はそう思わない。これは,裁判実務の習得を通じて,裁判官・検察官・弁護士は同じ言語を話せるようになるためのプロセスと見るべきであると思う。平たく言えば,お互いに話が分かるようになるのである。これは裁判官から見ると,訴訟進行を円滑に行うために大変便宜であるし,弁護士から見ると,裁判官や検察官が何を考えているか分かるようになる。事件の筋が見えるようになるのである。その意味で,裁判実務を統一して修習することに利点があることは間違いない。しかし他方,市民から見れば,「ヒニン」の実話のように,法曹三者が一般市民に分からない言語で話をする有様に「ギルド的」な疎外感を感じる面もあろう。

要件事実論が前期修習の要になる理由はもう一つある。それは,我が国の民法体系がドイツ民法に主として由来する成文法主義を取っている点だ。成文法主義においては,国が制定し,法典に記載された法律(成文法)が良くも悪くもルールであり,法律実務家には法典の精緻な論理解釈や事実への当てはめの技術が高度に要求される。これに対して不文法主義は,法典はもちろん存在するものの,これに優位する高度なルールが存在すると観念され(例えると,人間が作った法律の上に,神様が作った法律がある,ということです。神様が作った法律は紙に書いてありません。だから不文法と呼ばれます),法律実務家には,紙に書かれていないルールを探求する技術を求められる。アメリカの弁護士が,日本の法律実務家から見ると目を剥くような突拍子もない理屈を言い出すことがあるのは,彼の国が不文法国であることと無縁ではない。これに対して,成文法主義をとる日本では,明治以来100年以上にわたり,法文の論理解釈技術が積み上げられ,職人の技として伝承され,これが近年の裁判官によって要件事実論として体系化されたのだ。

ところで法科大学院構想の基礎となったロースクールは,英米のものが典型であるが,いずれも不文法国である。したがって,我が国にロースクール制度を導入することは,成文法国に不文法国の制度を導入することであり,この点で「木に竹を接ぐようなもの」(園部逸雄もと最高裁判事)という批判は的を射ていると言えよう。

明治時代,日本はフランスに倣った民法典を作ろうとしたが,日本伝統の儒教的価値観にそぐわないと批判され(「民法出デテ忠孝亡ブ」と言われた。),ドイツ民法典に乗り換えたことがある。このように,法体系をどうするかという問題は,国の在り方の根本に関わる問題である。その意味で,ロースクール制度の導入が,日本の法体系や国の在り方にどのような影響を与えるかという問題は,深く検討されるべきである。

いずれにせよ,制度の善し悪しを論じることは本稿の目的ではない。木に竹を接ぐにせよ,その是非が十分に検討され,相応の理由に基づいて導入されるのであれば,結構なことであり,結果として失敗しても,チャレンジとしては意味がある。しかし,我が国における法科大学院構想は,その是非が十分に検討され,相応の理由に基づいて導入されたのであろうか。まして,本稿の主題である日弁連は,特に法曹人口問題との関係において,どの程度真剣に法科大学院構想を検討したのだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(10)

日本において法科大学院構想の検討が公式に開始されたのは,1997年(平成9年)1111日,自由民主党の司法制度改革特別調査会がロースクール制度導入の是非を検討すると発表したのが最初である。

一方日弁連においては,1998年(平成10年)10月に開催された第17回司法シンポジウムの第三分科会において,ロースクール制度導入の是非が検討対象になった。当日配布された冊子中,第2東京弁護士会作成の冊子には,同年2月脱稿の論文が掲載されている。この冊子編集の会議が開始され,論文掲載依頼があったのが脱稿の約2,3ヶ月前であるとすると,ロースクール構想が弁護士会内で検討対象とされ始めたのは,1997年末か1998年初とみてよいだろう。このように,検討が開始された時期としては,国政レベルと弁護士会とで,大差はない。

日弁連第17回司法シンポジウムが開催されたのと同じころである1998年(平成10年)1026日,自由民主党の提言を受けた文部科学省の大学審議会は,「今後,法曹養成のための専門教育の課程を修了した者に法曹への道が円滑に開ける仕組み(例えばロースクール構想など)について広く関係者の間で検討していく必要がある。」と提言した。

1998年秋,日弁連内部でロースクール制度導入に最も積極的だったのは第二東京弁護士会法曹養成二弁センター(委員長飯田隆,副委員長遠藤直哉,野島正,小林哲也各弁護士)であり,国内外の資料と論考を収集したうえ,我が国にロースクール制度を導入するメリットと必要性を論じている。

この議論の是非善悪を論じることは本稿の目的ではないから立ち入らないが,資料に接するとき,とても不思議なことは,法曹人口との関係に全く触れられていない点である。これはどういうことなのだろう。

すでに指摘したとおり,1994年(平成6年)以降1997年(平成9年)まで,日弁連は,法曹人口問題で必死に抵抗しつつ,司法試験合格者年700人→800人→1000人→1500人と,ずるずると後退を重ねてきた。この数年間,法曹増員論は,日弁連執行部にとって繰り返す悪夢のようなものであったはずだ。日弁連執行部は,まるで狼に追われる手負いの野ウサギのように,法曹増員のニオイにとても敏感だったはずである。しかも,ロースクール構想が発生した背景には,年1500人では全然足りない,数千人規模の司法試験合格者数が必要と考える勢力があった。ところが,当時の日弁連内部には,法科大学院構想の中に,法曹人口大増員のニオイをかぎ取った形跡が見られない。

1998年始めころから弁護士会内部で検討が始まった法科大学院構想は,法曹人口問題と完全に別なものと認識されていたのだろうか。言い換えれば,法科大学院構想は,あくまで1000人~1500人時代を前提に検討されたのであって,法科大学院構想自体が,さらなる人口増員を招来するものとは認知されなかったのだろうか。

3000人を容認してしまった現在から振り返る限り,1998年秋当時の日弁連執行部が,法科大学院構想にさらなる法曹増員の危惧を感じなかったというのは,とても不思議なことに見える。それは,「あと知恵」だけの問題ではない。1500人を念頭おいていた1998年の時点においても,当然,さらなる法曹増員への危惧が発生して然るべきだったからだ。なぜなら,少し計算すれば分かることであるが,1500人を前提にする限り,法科大学院構想は成立し得ないからだ。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(11)

日弁連が1998年(平成10年)からの司法試験合格者1000人と,その後1500人へ向けての検討を受け入れた199711月,自由民主党司法制度改革特別調査会において,ロースクール制度導入の検討が開始された。これは一見,1000人~1500人時代を前提にした法曹養成の問題のように見える。しかし,少し計算すれば分かることであるが,1500人を前提にする限り,ロースクール制度を日本に導入することは不可能である。

ロースクール構想は,合格者の高齢化や司法試験予備校の跋扈を弊害と考え,ロースクールで真面目に勉強すれば司法試験に合格する合格率,具体的には7~8割を想定していた。そこで,試験1回あたりの合格率7割,受験回数制限3回で,司法試験合格者数を年1500人と想定すると,ロースクール生の総定員数は1学年約1550人となる。これを各ロースクールに割り振るわけだが,平均100人とすれば16校,平均80人とすれば20校のロースクールが誕生する計算である。

しかし,各校平等80人~100人定員制は,現実問題としては成り立ち得ない。その理由は簡単で,東大,早稲田,中央,京大,慶應といった司法試験有力校が,そんな少数の定員には応じないからだ。これを証明するために,これら5校の1990年から1995年までの司法試験合格者数実績を,合格者数1500人に引き直してみると,次のとおりとなる。

東大   324人 (304人) 【300人】

早稲田  217人 (223人) 【300人】

京大   180人 (211人) 【200人】

慶應   145人 (271人) 【260人】

中央   139人 (292人) 【290人】

上記のうち,()内は平成19年度(合格者数合計1851人)の各大学法科大学院生(既習・未習合計)の出願者数であり,【】内は平成18年度の各大学法科大学院の定員数である。

東大の立場で言えば,「1997年(総合格者数746人)の東大の合格者が188人だから,総合格者数が倍になるなら,東大の合格者数も倍になる理屈である。だから,東大法科大学院の定員は最低でも300人は欲しい。」ということになる。司法試験合格者数は,法学部の格付の問題だから,東大の立場としては当然の要求だ。現に,総合格者数1851人の平成19年度における法科大学院生受験者数は304人,平成18年度の定員数は300人となっており,筆者の推論を裏付けている。

もちろん,これはとても単純な計算であり,少なくとも,次の2点を増減要素として考慮しなければならない。増加要素としては,総合格者数を750人から1500人に倍増した場合,東大出身の合格者数は倍増以上になるはずだ,という点がある。なぜなら,東大生の偏差値が高いからである。他方,減少要素としては,いかに東大が格付にこだわったとしても,法学部の定員数が415人であり,その全員が司法試験を受けるわけでは無かろうから(東大である以上国家公務員上級試験や外交官試験もある),余りに大人数の定員は欲しないだろう,という点が指摘できる。但しこの点は,法学部生の多い私立大学では,増加要素として作用する。いずれにしろ,東大としては法科大学院定員数300人を要求するであろうことは,容易に計算できることである。

同じ計算を上記の司法試験合格者数上位5校に当てはめてみると,この5校だけで,法科大学院生数の定員は1100名に達する。従って,下位校に配分できる法科大学院生数は合計450名しかない。しかも,一橋,大阪,東北,九州,名古屋,大阪市立,明治,関西,上智といった,「上位十校の常連」レベルの大学は,合格者総数1500人に引き直した場合,国立に50人,私立に100人を割り付けると,ロースクール生総定員数は2200人を超えるのだ。まして,これに北海道,金沢,横浜,首都大学東京,学習院,青山,日本,東海,立教,同志社,関西学院,などといった比較的有力な大学に30人ずつ定員を認めると,総定員数は2500人に達する。もちろんこれはとても控えめな試算である。これらのうち,500名以上の法学部学生を抱える私立大学が,定員30名で納得する筈はないのだが。

このように,ごく簡単で,しかも,とても控えめな計算をしただけで,東大,早稲田,中央,京都,慶應といった有力校が各200300人の定員を要求すること,その結果,合格者総数1500人を維持できなくなることは明白になる。逆に言うと,合格者総数1500人を前提にする限り,ロースクールは10校程度しか開校できない。

筆者にとってとても不思議なのは,なぜ日弁連が,当時,このような計算を試みなかったのか,ということだ。東大出身の弁護士だったら,母校がロースクールの定員80名で納得するはずがなく,最低300人を要求することは,容易に想像できたはずである。そうなれば,下位校にしわ寄せが行き,20校に1550人を配分するという制度設計が行き詰まることは簡単に分かったはずなのだ。

それでは,1500人では全然足りないとして,何人ならば,ロースクール制度の導入が可能になるのか。一つの参考として,早稲田大学のロースクール構想を見てみると,「短期的に見て10002000名の司法試験合格者を想定した議論と長期的に見て20003000名の合格者を想定した議論が必要であろう。」としている。この構想は2000年(平成12年)123日に公表されたものであるが,ロースクールの経営と国庫補助を第一に考える大学側からみれば,総定員数と自分の大学の定員数が最大関心事であったことは想像に難くない。法科大学院を運営する大学側から見れば,司法試験合格者数年3000人というのが,当面の目標であったことが窺える。

このように,大学にとっては,ロースクール構想と法曹人口問題は,当然のように結びつけて考えられていた。

しかし,翻って弁護士を見てみると,筆者の知る限り,1998年当時,ロースクール制度導入の是非を検討するに当たって,これが合格者数年1500人をはるかに超える法曹人口大幅増をもたらすかもしれない,という事実を指摘した弁護士は,主流派,反主流派を問わず,誰一人いない。とても不思議である。

1998年中に,そのような指摘をした弁護士がいたら教えてください。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(12)

1997年(平成9年)末から検討が開始された法科大学院構想は,司法試験合格者数年数千人時代を念頭に置いていた。すなわち,司法試験合格者数年1500人を前提にする限り,法科大学院構想が成立し得ないことは,少し考えれば分かるはずだった。しかし,1998年(平成10年)中,法科大学院構想は法曹人口の大幅増員をもたらすと指摘した弁護士は,筆者の知る限り,誰一人いない。1997年末から1998年にかけて,日弁連執行部は,「2003年ころ,1500人を巡る攻防が始まる」という,暢気な予想していた。

もっとも,1998年秋になると,「司法試験合格者数千人の時代が近い」という認識が生まれ始めてきた節がある。

199839日,大阪弁護士会で行われた講演会で,矢口洪一もと最高裁長官は,毎年4000人くらいの有資格者(但し,全員が弁護士にはならず,有資格者として企業法務に携わる者もいるとする)を輩出させる必要があると述べた。

19981119日,「自由と正義」掲載のため行われた座談会で,佐藤幸治教授は,ロースクール制度の導入とともに,「私は少なくとも毎年数千人の合格者を考えています」と明言した。同教授は,翌年7月,司法制度改革審議会委員長に就任する,司法制度改革のキーマンとなる人物である。「司法試験合格者数千人」という発言について,このときが最初であったのかは不明だが,このころ,「ロースクール制度を導入するなら,司法試験合格者は数千人規模になる」という認識が,日弁連内に生まれ始めたと思われる。

19981120日,日弁連理事会で承認された「司法改革ビジョン」は,同年6月に公表された自由民主党司法制度特別調査会の報告書の対案として策定されたものであるが,その中で,「司法試験合格者数の確保については,不断に検討を加えていくことが必要です。」と述べている。一見,「検討する」こと以外何も言っていないように見えるが,前年の決議は1000人あるいは1500人という「人数」を明記していた。その数字を撤廃したということは,当時の日弁連執行部において,それ以上の増員があり得ると想定していたことを窺わせる。

一方,この「司法改革ビジョン」には,ロースクール制度の検討を明言した自由民主党司法制度特別調査会に対する対案であるにもかかわらず,ロースクール制度導入への言及はない。これは,ロースクール制度導入に対する日弁連としての意思決定が,まだ白紙であったことを示している。

199811月ころの,法曹人口問題及びロースクール問題に関する日弁連執行部の認識は,この程度のものだった。

一方,日弁連外においては,19981223日,「経済戦略会議中間とりまとめ」が,「司法試験合格者を毎年2000人以上に速やかに引き上げる」ことを提言した。

政府が司法制度改革審議会設置法案を決定するのは翌1999年(平成9年)24日であり,同審議会のメンバー13人中5人を学者が占めることが内定するのは同年610日である。3000人への外堀は着実に埋まって行く。歴史にIFはないが,仮に,日弁連が「20103000人」に有効な異議を述べるチャンスがあったとすれば,それは1998年冬までのことだったと思う。それを知ってか知らずか,日弁連は何ら異議を述べないまま,1998年が暮れた。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(13)

1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて,ロースクール(法科大学院)構想に関する多くの論考が発表された。法科大学院設立を希望する大学としての発言も多いが,弁護士の論考も多い。公刊物の中で,いわゆる日本型ロースクールの導入について本格的に検討した最初のものは,筆者の知る限り,柳田幸男弁護士の「日本の新しい法曹養成システム(上)(下)」(ジュリスト199821日号,215日号)である。弁護士会の中では,第二東京弁護士会法曹養成二弁センター(委員長飯田隆,副委員長遠藤直哉,野島正,小林哲也各弁護士)が最も導入に積極的だった。これら積極論者の主張は大同小異である。従前の司法修習制度や司法試験制度の欠点を鋭く指摘する一方,ロースクール制度を導入すれば,従前の欠点が克服され,新しい司法制度や国家のあり方に適合した法曹が養成されるというものである。

日弁連内部における,ロースクール制度導入に対する反応はどうだったのだろうか。参考になるものとして,1999年(平成11年)920日,ロースクールをテーマに東京大学で開催された「法曹養成と法学教育のシンポジウム」における,宮川光治弁護士の発言をご紹介したい。同弁護士によると,日弁連内部の立場は大きく三分される。「最多数は,現行の司法修習を批判し,法曹一元をめざす立場から,日弁連はロースクール構想を積極的にリードすべきであるとする積極意見であり,半数近くを占めている。第二位は,統一修習の利点が失われ,法曹人口増に歯止めがかからなくなるとしてロースクール制度の導入に反対する消極意見であり,全体の三分の一を占める。現行司法修習における統一・公正・平等の理念が維持されるのであればロースクール制度導入に賛成するという条件付き賛成意見もあるが,少数である。」(ジュリスト1999121日号)

この発言が事実であるとすると,1999年秋までには,ロースクール構想は,法曹人口増員論との関係においても,日弁連内で議論されていたことが分かる。そして,日弁連内の多数派の弁護士は,司法試験合格者数が数千人となり,さらに,それ以上の人口増に歯止めがかからなくなるとのリスクを承知しつつ,ロースクール制度の導入に賛成していたことになる。その僅か2年前まで,法曹人口増に必死で抵抗してきた経緯からすれば,人格が分裂したと思うほどの変化である。そして,このような変化が日弁連内部にもたらされた理由は,主として,次の3点にあると思う。

第1点は,ロースクール構想が,「法曹一元」という衣をまとっていたことである。論理的には,ロースクール制度の導入と法曹一元とは無関係であり,宮澤節生神戸大学教授(当時)はこのことを明言している(自由と正義199912月号など)が,弁護士による多くの論考は,むしろ,ロースクール制度は法曹一元制度への足がかりであると主張する(遠藤直哉弁護士,斎藤浩弁護士など)。多くの弁護士にとって,ロースクール構想は,「法曹一元」という弁護士会の悲願を成就する導きの星として受け取られたと思われる。

第2点は,ロースクール制度導入が,法曹養成問題として検討されたことである。司法試験合格者数1000人時代を迎え,弁護士会も積極的に「法曹の質」を維持向上するべく取り組もうとしていた矢先,「法曹人口増員に歯止めがかからない」という理由でロースクール制度導入に反対したのでは,「業界エゴ」との大批判を浴びることは必至だった。

第3点は,当時の日弁連は,政府与党から,起訴前弁護や陪審制など,懸案だったいくつかの司法改革を実現するとのメッセージを受けていたため,これらの制度を遂行するに足る法曹大増員を本気で考え始めたことである。ただ,司法改革の問題は,別の機会に論じることにする。

すでに繰り返し述べているとおり,本稿の目的はロースクール構想の是非を論じることではない。新しい制度を導入するについて,賛成意見と反対意見があるのは当然のことだし,弁護士がロースクール構想に賛成し,法曹人口増員を容認する発言をしたからといって,そのことだけで「この裏切り者」と非難するつもりは全くない。

しかし,筆者の感覚としては,現行司法研修所の問題点を批判するのはまだ理解できるとしても,未だ実現してもいない日本型ロースクールの方が現行制度に勝ると主張し,司法研修所を廃止してしまえとする議論に対しては,議論の公平さに疑問を持つし,なにより話が乱暴だし,胡散臭さを感じずにはいられない。大学関係者の主張なら,当事者のセールストークと思って聞けば腹も立たないが,なぜ弁護士まで,大学のお先棒を担ぐような主張を当時行っていたのか,理解できない。大阪弁護士会の斎藤浩弁護士は,従前の司法修習制度は「官僚統制」の道具であり,教育内容もお粗末な「欠陥品」であって,これを支持するのはただの「ノスタルジー」であると断じ,日本型ロースクールこそ,「法曹一元への道を確実にする橋頭堡である」と主張する(自由と正義20007月号)。当時,未完成の設計図しか存在しない制度が,なぜ,現在施行されている制度より間違いなく優れており,しかも,法曹一元を確実にする,となぜ言えるのか。ホントにそうなったらその慧眼を讃えよう。しかし,法曹一元が完璧な敗北に終わったことはすでに述べたとおりである。

当時も,筆者と同様の感覚を持つ人がいたと見えて,ジュリスト19991215日号には,前澤達朗東京地裁判事補が「米国のロー・スクールにおける法曹養成の現状と問題点」と題した論考を寄せている。この論考で前澤判事補は,米国ロースクールの長所を認めつつ,あえて問題点を指摘したと断った上で,アメリカの法曹には,日本の司法研修所教育をうらやむ声も多いと述べ,「(いま日本に)必要なのは,隣の芝が青いと見ることでなく,…米国の法学教育をめぐる環境全体を客観的に観察し,具体的に検証することではないだろうか。」と結んでいる。筆者は,このようなバランス感覚こそ,当時の日弁連が持つべきものではなかったかと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(13の2)

ここで,日弁連内部において,法科大学院構想についてどのような意見表明がなされたのか,概観してみよう。

1999年(平成11年)1021日(12日の間違いとの指摘もある),第二東京弁護士会は,「法科大学院(ロースクール)問題に関する提言」を行った。詳細はジュリスト1172号をご参照頂きたいが,法科大学院制度の導入と司法研修所の廃止,及び,法科大学院の総定員数約2000名,司法試験合格率80%,等を特徴としている。この意見書は会長名で発表されているが,その内容から推して,法曹養成二弁センター(委員長飯田隆,副委員長遠藤直哉,野島正,小林哲也各弁護士)が中心になって作成したものと思われる。

この意見書に対しては,その直後,当時の司法研修所民事弁護教官,刑事弁護教官全員が連名で意見書ないし申入書を発表した。特に民事弁護教官による意見書は,「『二弁提言』における司法研修所廃止論とその論拠は,…余りに独善的で偏狭な議論である」という激烈な批判となっている。これに対しては山岸良太第二東京弁護士会副会長(当時)から,「法曹一元を真に目指す方向性…からも,弁護士側からの決意表明として,司法研修所廃止を提言せざるを得ない」とする再反論がなされた。

すでに指摘したとおり,偏差値により序列化された日本の大学制度を前提に法科大学院制度を導入した場合,総定員数2000名,合格率80%という第二東京弁護士会の構想は,現実問題として少数に過ぎ,ほとんど実施不可能である。そのくせ,同弁護士会は自分では大宮法科大学院大学(平成19年度司法試験出願者数62名,最終合格者数6名)の経営に提携している。弁護士会がこんなレベルの低い大学にまで法科大学院を設置しようとするから,法科大学院の「乱立」が発生し,法曹人口増に歯止めがかからなくなるのだ。

また,司法研修所を廃止するというのも,余りに乱暴な議論というほかはない。この点は,他の弁護士会(東京,第一東京,大阪など)も司法研修所の存続を前提とした法科大学院構想を発表しており,思慮深さにおいては二弁構想に勝る。司法研修所と二回試験の存在が,法曹の最低限の質を維持し,法曹人口激増の事実上の歯止めになりつつある現状を思うとき,これを廃止すると提言した二弁構想の無思慮さと見通しの無さは,大いに批判されるべきである。もしこれに反論したいなら,再度,今更どうやって「法曹一元を真に目指す」のか,説明して欲しいところである。

また,1998年から2000年にかけて行われた上記「二弁提言」は,上記のとおり余りに無思慮・拙速・乱暴なものでありながら,これを巡る日弁連内の議論を分裂させ,意思統一を行う機会を失わせた,という意味でも,大いに非難に値する。既に指摘したとおり,もし日弁連が法科大学院構想や司法試験合格者年3000人に反対することができたとすれば,それは1998年(平成10年)がタイムリミットであった。

大阪弁護士会の森下弘弁護士は,「市民弁護士から見た司法改革」(自由と正義19999月号で,文部科学省や大学を法曹養成制度に参画させることの危険性を指摘した。これは慧眼と言うべきであろう。もっとも,同弁護士が提唱した「大学とは別に,法曹三者の経営する法曹養成機関を設立する」という案が,この時点(1999年)において,どれほどの現実味を有していたかは疑問である。この時点では法科大学院制度の導入は事実上内定していたからである。

名古屋弁護士会の森山文昭弁護士は,「法科大学院(ロースクール)構想の隘路」(自由と正義20007月号)で,様々な観点から,法科大学院構想の問題点を指摘している。法科大学院構想は司法試験予備校の隆盛によって空洞化した大学法学教育を復興し,かつ,法曹養成予算不足に対応しようとするものであるが,そもそも,大学法学教育が空洞化したか,空洞化したとしてそれが司法試験予備校のせいなのか,未検証であるし,また,法科大学院によって従前通りの法曹の質が確保される保証もないばかりか,法曹養成の統一性・開放性・平等性を害する危険があると述べる。そして,一旦法科大学院制度を導入したら法曹人口大幅増に歯止めがかからなくなるのであるから,拙速を慎み,まず,適正な法曹人口について検証を行うべきであると主張する。

これらの主張は,法科大学院制度の問題点を的確に指摘したものと考える。惜しむらくは,20007月の指摘では(仮に脱稿を4月としても),約2年,遅きに失したといわざるを得ない。

ところで,森山文昭弁護士が現在,愛知大学法科大学院の専任教員を務めていることが,法科大学院の問題点を指摘した上記主張と矛盾しないのか,矛盾しないとすればどのような関係に立つのか,やや気になるところではある。もとより,森山文昭弁護士は法科大学院構想に正面から反対していたわけではないから,与えられた環境の中で,優秀な法曹を養成するため全力を尽くそうとなされたのかもしれない。しかし,それならば,その愛知大学法科大学院が,司法試験受験科目を過度に偏重している(平たく言えば受験予備校化している)として,財団法人日弁連法務研究財団から不適合の評価を受けたことは,皮肉なことというほかはない。このことについて,森山文昭弁護士はどのようなお考えをお持ちなのだろうか。同弁護士の今後の発言と去就が注目される。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(14)

法曹人口増問題は,1997年(平成9年)10月,将来の1500人を視野に入れたところで,一旦上限を打つ。これは,当時の司法修習制度と予算の物理的限界であった。翌11月に登場したロースクール構想は,1500人では全然足りないとする自由民主党司法制度特別調査会の意思に基づいて発想されたものであり,かつ,ロースクール構想は,本質的に,司法試験合格者年1500人では成立し得ないものだった。従って,従来法曹人口増に抵抗を続けていた日弁連の立場からすれば,ロースクール構想に反対して然るべきところだが,現実には,日弁連はロースクール構想に異議を唱えることはなかった。それは,ロースクール構想が,日弁連の悲願である「法曹一元」と「司法改革」の衣をまとって登場したからであった。

1999年(平成11年)62日,司法制度改革審議会設置法が成立する。同日,日弁連の小堀樹会長(当時)は,「司法制度改革実現のため長年にわたり着実な取り組みを進めてきた当連合会の活動の成果ともいうことができ、国民主権の下における司法の改革が広く国民各層の間における議論を踏まえて実現されようとすることに格別の意義を認める」との談話を発表し,これを歓迎した。

司法制度改革審議会設置法成立の9日後である1999611日,司法制度改革審議会委員13人が内定する。うち5人は学者であり,このうち北村敬子中央大学商学部長と鳥居泰彦日本私立大学連盟会長の2名を除く佐藤幸治座長(京都大学教授),井上正仁東京大学教授,竹下守夫駿河大学長の3名は,現在も法科大学院協会の役員を務めている(筆者注;佐藤幸治氏は平成203月をもって退任した)。このときをもって,法科大学院制度の発足は内定したとみてよい。

もっとも,この時点では,日弁連が法科大学院構想に対して公式にどのような態度を取るかは未定であった。すでに指摘したとおり,日本に法科大学院制度を設けるためには,司法試験合格者数は最低でも年3000人は必要と計算されたため,日弁連が反対する可能性があったからである。

しかし,19991119日,日弁連は法曹人口に関して,「市民が要望する良質な法的サービスの提供と法曹一元制度を実施するためには、弁護士の人口が相当数必要であり…法の支配を社会のすみずみまで貫徹させる観点から…日弁連は国民が必要とする弁護士の増加と質の確保を実現する」との基本的提言を行い,将来の司法試験合格者に1500人という「上限」を付した1997年の基本方針を事実上撤回した。

19991124日,司法制度改革審議会第7回審議において,東京大学の青山義充副学長(当時)が,将来の日本の法曹人口は,少なくともフランス並みの75600人を目指すべきであり,これを達成するために年3000人の司法試験合格者が必要と述べたが,日弁連の事実上の代表であった中坊公平委員はこのとき,全く発言していない。なお,同年出版された文藝春秋12月号において,中坊公平委員は,日本が必要とする法曹人口として6万人とする試算を行っていた。

このようにして,司法試験合格者数年3000人に向けたレールが着々と敷かれていく。

1999年末から2000年にかけて,日弁連会長選挙が行われた。

このとき初めて(後に5回連続して立候補する第1回目として)立候補した高山俊吉弁護士は,選挙公報において,「弁護士が幅広く人権活動を行うことができるのも,経済的基盤があってこそ」であり,その裏付けのない弁護士人口の極端な増加は,弁護士の質を低下させ,弁護士自治を害し,ひいては社会的弱者の立場にある民衆に被害を与える,と主張した。この主張は,日弁連が1995年以降封印したはずの「弁護士の経済的基盤確保」論である。また,法科大学院構想に対しては,「有為の人材を閉め出すとともに,統一・公正・平等の理念を確実に失わせる」として反対した。

これに対し,対立候補の久保井一匡弁護士は,「国民が必要とする弁護士の増加と質の確保を実現する」という方針で対応すると主張し,従前の日弁連執行部路線の承継を公約するとともに,法曹養成制度に関しては,「法曹一元の実現に向け,大学関係者とも協議しつつ,法曹養成制度も改革する」としており,間接的な表現ながら,法科大学院構想を支持した。

この選挙では,事実上,司法試験合格者数年3000人程度を想定した法曹人口増の可否と,法科大学院構想の是非が争点になっていたと見られる。

久保井一匡弁護士が日弁連会長に当選した直後である2000年(平成12年)28日と22日,司法制度改革審議会において,中坊公平委員が,日弁連として司法試験合格者年3000人を事実上容認することとなるプレゼンを行う。そして,200088日,司法試験合格者数年3000人が事実上内定する。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(15)

2000年(平成12年)111日の日弁連臨時総会決議の提案理由は,「国民が必要とする適正な法曹人口」を5万人と試算し,これを実現するために,司法試験合格者数は年3000人程度が必要としている。

5万人という法曹人口について,提案理由文は,諸要素を総合的に考慮した,ともっともらしい理屈を述べているが,これまで概観してきた経緯に照らせば,これが建前であったことは明白である。本音は,全国に法科大学院を設置し,その経営が成り立つ最低ラインとして,司法試験合格者数年3000人を受け入れることにあった。

ではなぜ,日弁連が全国に法科大学院を設置し,その必然的な結果として弁護士数が飛躍的に増大することを容認する選択を行ったのか。それは第1に,法曹一元を実現するためであり,第2に,いくつかの司法改革の施策を実現するためであった。

この二つの目的のうち,法曹一元構想が無惨な敗北に終わったことは既に述べた。確かに,弁護士の大幅増員は法曹一元実現の必要条件かもしれないが,弁護士が増えたからといって,法曹一元が実現するわけではない。「法曹一元を期する」と言う以上は,その手懸かりを確保しておかないといけなかったのに,中坊公平委員と当時の日弁連執行部には,この点の認識が,なぜか,ぽっかりと抜けていた。

つぎに,司法改革については,裁判員制度,被疑者国選弁護など,いくつかの施策が実現し,また実現されようとしている。これは日弁連が法科大学院構想を支持し,法曹人口大幅増員を受け入れた一つの成果といえる。問題は,これらの司法改革の施策が,法曹人口増の大幅増に見合うものであったといえるか否かであるが,法科大学院の問題を離れるので,別の機会に論じたい。

一方,日弁連が法科大学院構想を積極的に支持し,法曹人口の大幅増員を受け入れたことは,いくつかの重大な問題を日弁連に突きつけることになったと思う。

その第1は,1997年以前の日弁連の態度との断絶ぶりである。日弁連が「国民が必要とする適正な法曹人口」を5万人と認めたことは,1997年以前,司法試験合格者数年1000人にも抵抗していた日弁連が,国民の利益を考えていなかったと認めることである。これは同時に,かつて法曹人口増員論抵抗の理由として日弁連が唱えた「弁護士の経済的基盤の確保論は,既得権益にしがみついた弁護士の業界エゴでした。すいません。」と,日弁連が公式に認めたことをも意味する。

第2は,1997年,日弁連が法曹人口増を抑制する武器として用い,一定の成果を挙げた「法曹養成機関の予算的限界論」を,日弁連自らが放棄したことを意味する。私立大学はもちろん,独立行政法人となった旧国立大学が法曹養成を行う以上,予算的限界が消滅してしまったからだ。

第3は,法科大学院の設立によって,日弁連は「後戻りのできない選択」をしてしまったという点である。単に,「国民の必要とする適正な法曹人口」の試算を間違った,というだけなら,後になって「あのときの計算は間違いでした。すいません訂正します。」と言えばよい話であり,後戻りが可能である。しかし,一旦設立させた法科大学院は,容易なことでは潰すことができない。まして,法科大学院制度全体を消滅させることは,事実上不可能である。つまり,後戻りができないのである。現在,法曹人口増に反対する弁護士の中には,「弁護士に自由競争原理を導入したのだから,法科大学院にも自由競争原理を導入すべきだ。過剰な法科大学院は潰せばよい。」という勇ましい意見を言う人がいる。筆者も潰れた法科大学院の教員や従業員に同情するつもりはないが,学生についてはそうはいかない。民間英会話学校の倒産でさえ,生徒の去就が社会問題になることを想起して欲しい。教育機関の倒産によって,若者が夢を絶たれるという事態は,社会にとって大きな損失だから,法科大学院はおいそれと潰すことはできないのである。

もちろん,かつて法曹人口増に抵抗するために用いた武器を自ら放棄したからといって,日弁連執行部が,2000年当時,年3000人を超える増員を容認したわけではない。その証拠としては,建前にせよ,モデル国とされたフランスが,他の先進諸国中最も法曹人口の少ない国であったこと,司法試験合格者数年3000人という数字が,法科大学院の経営が成り立つ最低レベルであったことが挙げられる。しかし,かつて法曹人口増に抵抗するために武器を放棄した結果,2000年以降,法曹人口増に抵抗する武器は「国民が必要とする法曹の量と質を確保する」という,とても曖昧な概念のみとなってしまった。しかも,「国民が必要とする法曹の量」という概念は,実際のところ,算定不能である。したがって,今後法曹人口論を論じるとき,日弁連が武器として使えるのは,「法曹の質」という概念だけとなる。

日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院構想編(16)

「法科大学院の初期設計ミスが露呈した」。20071123日の日本経済新聞はこのように論じた。曰く,「80以上もの乱立したロースクール卒業者の新司法試験合格率は最終的には二,三割とも言われ,高い授業料を払って三回しか受験資格のない学生たちは,(多彩で先進的な多くの科目を自由に履修するという法科大学院構想の理念どころか)ひたすら試験科目の勉強のみに熱中し,いまやロースクールは高級予備校化したとすら言われている」。

20076月には,慶應義塾大学法科大学院の植村栄治教授が,司法試験問題を学生に漏洩したと疑われ,司法試験考査委員を解任された。司法試験予備校は,法科大学院より格下かもしれないが,試験問題の不正入手はしていない。慶応義塾大学法科大学院は,「高級予備校と化した」どころか,低級予備校以下に堕落したというべきだろう。

法科大学院の「予備校化」と「不正行為」の背景となった「乱立」はなぜ発生したか。法科大学院側から見て最大の原因は,司法試験合格者数は年3000人にとどまらず,更に数千人規模で増加する,との見通しにあった。2002年(平成14年)7月,政府の総合規制改革会議は,司法試験合格者年3000人の早期実施と,それ以上の合格者増を中間答申している。司法試験合格者枠は,近い将来,5000人,6000人に増える,と法科大学院が予測する素地は確かに存在した。

政府与党が,関連する宗教団体の経営する大学への法科大学院設立を認めさせるために,認可基準を緩和したという,真偽不明の噂もある。

日弁連にも責任がある。日弁連の事実上の代表であった中坊公平委員は,司法制度改革審議会で,たびたび,年3000人というのはミニマムの数字であると発言している。また,2000年(平成12年)111日の臨時総会決議では,法科大学院に関し,「全国に適正配置する」ことを求めている。これは,法曹一元の理念に照らした場合,地元に密着した弁護士と,その弁護士の中から選任された裁判官が誕生する必要があるため,法科大学院を各地方都市に設立する必要が生じることによるものだ。司法試験合格率の高い大学は,大都市に集中しているから,地方都市に法科大学院を設立することは,必然的に,学生定員数の飛躍的増加(と合格率の低下)を招く。ここでも,法曹一元の理念が,法曹人口を大幅に増加させる理屈として登場している。

「法科大学院構想は日弁連とは無縁のところで進行したから関係ない」という意見を述べる弁護士もいる。しかし,上述の通り,日弁連は法科大学院構想の実現を積極的に支援し,実現させたのだから,その結果として生じた様々な問題に取り組む責任があると思う。

そして,日弁連として取り組むべき最も大きな問題は,法曹人口の大幅増員と法科大学院の設置,司法研修所における法曹教育比重の相対的低下が,それ以前の法曹と本質的に異なる法律家を生み出すのではないか,また,それにより,社会における法律家の存在意義が,それ以前と大きく変わってしまうのではないか,という点である。これはおそらく,今後の弁護士と日弁連のありかたを根本から変えることになると思う。もっとも,この点は,余りに大きな問題なので,別の機会に論じたい。

ともあれ,法科大学院構想に関して,日弁連は,この構想を通じて法曹一元を実現するという目的については敗北したが,いくつかの司法改革施策を実現させたという意味では,一定の成果を得た。しかし,そのために日弁連や個々の弁護士が払った,あるいはこれから払うことになる代償がどれだけのものになるのかは,未検証である。これは筆者の直感であるが,日弁連が積極的に支援し協力した法科大学院制度の設立は,将来,弁護士自治を相当程度失わせることになると思う。弁護士自治を失えば,弁護士会はただの業界団体になる。そうなれば,法科大学院制度を実現するために,日弁連は魂を売った,という歴史的評価を受けることになる。(小林)

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コメント

今年、サラリーマンを辞めて法科大学院へ行くことを決心したRyongboと申します。とても興味深い記事ですので、リンクさせていただいてよろしいでしょうか?どうぞ宜しくお願いいたします。

投稿: Ryongbo | 2009年6月19日 (金) 08時52分

コメントありがとうございます。ご健闘をお祈りします。リンクはご自由にどうぞ。

投稿: 小林正啓 | 2009年6月19日 (金) 14時07分

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