« 日弁連はなぜ負けたのか? | トップページ | 日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院編 »

2009年5月10日 (日)

日弁連はなぜ負けたのか? 法曹一元編

「housouichigen.pdf」をダウンロード

2008218 ()

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(1)~

「法曹一元」という言葉は,若い弁護士でも,耳にしたことがあると思う。それはかつて,「弁護士自治」や「法の支配」と並んで,弁護士にとって究極の理想とされていた(本稿では,後述する理由から,あえて過去形を使う)。実は,この「法曹一元」という言葉は,法曹人口問題において,重要な位置を占めている。

それを一言で言えば,2000111日の日弁臨時総会決議は,「法曹一元の実現を期するため」に,年3000人という法曹人口大幅増員を受け入れたのだ。

それほどの重要性のある「法曹一元」とは何だったのだろうか。本稿では,法曹一元という視点から,法曹人口問題を俯瞰してみる。

法曹一元問題と,法曹人口問題は,法曹養成問題を通じて結びつく。

石井美和氏の「法曹養成を巡る制度と政策 法曹三者の力学を中心として」によれば,法曹養成をめぐる法曹三者の関係は,昭和34年の臨時司法制度調査会(臨司)以降,平成7年の法曹養成制度等改革協議会意見書に至るまで,要するに,合格者の若年化を企図する法務省・最高裁VS日弁連,という構図で理解される。

合格者の若年化自体は特に争うべきことではないと思われるが,それが対立を生んだのは,法曹養成施設としての司法研修所の物理的キャパシティが原因である。昭和45年に東京都千代田区紀尾井町から文京区湯島に移転した司法研修所は,修習生を詰め込んでも700人程度が限度とされるため,これ以上の合格者の増員は,湯島の施設を前提にする限り,研修期間の短縮か,又は,法曹三者の分離修習を必然的にもたらす。合格者数を700人以内に維持しつつ,若年合格者を増やすためには,若年受験者を人為的に優遇する制度の導入が不可欠になる。まとめると,湯島の司法研修所を前提にする限り,若年合格者を増加させるためには,①修習期間の短縮,②分離修習,③若年受験者優遇制度,のいずれかの導入が不可欠になる。

余談になるが,44期の筆者が過ごした湯島研修所と馬橋寮での修習生としての生活が,上記のような法曹三者協議の舞台になっていたことについて,感慨を覚えずにはいられない。法曹三者による「コップの中の戦争」のコップが,実は司法研修所の物理的キャパシティだったというのは,一面,いかにも役人的であり,その予算第一の発想に苦笑するほかない。しかし他方,馬橋寮の実態は確かに,予算を第一に考えざるを得ない実情を反映していた。朝霞世代には伝説であろうが,馬橋寮はオンボロの建物で,8畳の4人部屋(!)の真ん中をベニヤ板で仕切って2人部屋にしており(但し2人部屋になったときは,一人が出て下宿するという不文律があり,その基金を皆で出し合った),ベニヤ板の薄さといったら「照明の紐を引く音が聞こえる」というものだった。筆者の部屋は諸般の理由で宴会部屋となり,「ベニヤの隣人」からの苦情は数知れず。共同浴場も一日おき。女性修習生の部屋とは廊下がカーテンで仕切ってあるだけで,女性修習生の部屋で酒盛りをしたり朝まで話し込んだりした。くっついたの別れたのという話も日常茶飯で,気恥ずかしい言い方だが,要するに受験で失った青春を,皆が必死で取り戻そうとしていた。ひどい生活だったが,そのせいで,寮で一緒に過ごした法曹とは,ある種の一体感が今でも続いている。朝霞の寮がどういうものか知らないが,このような一体感が喪失しているとすれば,筆者個人としても,法曹界にとっても,残念に思う。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(2)~

閑話休題。700人という司法研修所のキャパシティを前提として,分離修習や修習期間の短縮,若年受験者の優遇を図る法務省と最高裁の提案に対して,日弁連は徹底的に反対した。その理由は,石井氏によれば,戦後司法試験制度の理念と,法曹一元の理想にあるという。すなわち,戦後導入された司法試験制度は,戦前のそれと比較して,次の特徴を有する。

ア)  裁判官・検察官・弁護士の試験の統一(統一性)

イ)  行政官試験との峻別(分離独立性)

ウ)  一切の受験資格の制限撤廃(開放性・平等性)

エ)  採用試験ではなく資格試験であること(資格試験性)

修習期間短縮による修習の不徹底は,修習終了後の裁判所・検察庁における新人研修をもたらし,司法試験の統一性を害するうえ,弁護士任官を排除することにつながり,法曹一元を害する。また,若年受験者の人為的優遇は,様々な経歴を持つ者を不利にして,司法試験の開放性や平等性を害する。統一修習は,法曹一元の最後の砦である。日弁連はこのように主張して,反対の姿勢をとり続けたと思われる。

日弁連が戦後司法試験の理念と法曹一元の理想にこだわり続けたことの是非はさておき,このこだわりが,法曹三者の協議を機能不全に導き,のちの司法制度改革審議会の設立から合格者3000人増員に至る一連の経緯について,その一因になったことは,否定しがたい事実であると思う。

筆者は「日弁連はなぜ負けたのか(1)~(8)」で,法曹人口問題という視点で見ると,司法制度改革審議会が発足した時点で日弁連の敗北は既定事実として決まっていたと書いた。しかし,その司法制度改革審議会に,日弁連は,消極的に,嫌々ながら引きずり込まれたのではなく,法曹一元という視点から見ると,むしろ積極的に参加していった経緯が窺える。

それでは,日弁連がここまでこだわった法曹一元の理想とは,どういうものだったのか。「法曹一元」については,私自身,深くは理解していない概念である。期の若い弁護士の多くは,なおさらであろう。そこで,日弁連が理想に掲げた法曹一元とは何だったのかについて,検証してみることにする。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(3)~

日弁連にとって,法曹一元とはどれほど重要な理想であったのか。これを知る最適の手段は,日弁連の総会決議を紐解くことであろう。

日弁連のホームページ内で「法曹一元」を検索すると,85の文書がヒットする。「法曹一元」and「総会決議」で検索すると,25ヒットだ(もっとも,1966年以前の総会決議は検索対象になっていない)。そして,歴代総会決議のうち,「法曹一元」に最も強く言及しているのは,2000111日の臨時総会決議である。言うまでもなく,日弁連が司法試験合格者年3000人を受け容れた総会だ。この総会決議が,どれほど多く法曹一元に言及しているかについて,決議文及び提案理由に含まれる「法曹一元」という単語の数を比較してみよう。

 

 決議名

宣言中

提案理由中

1967

18回定期総会

司法制度の確立に関する宣言

1

0

1967

19回定期総会

自由の確率と人権の擁護に関する決議等

0

1

1968

19回定期総会

司法の民主化促進に関する決議

1

6

1969

臨時総会

司法修習生の追加採用に関する決議

0

5

1969

20回定期総会

司法権の独立に関する宣言

0

0

1970

21回定期総会

司法制度の改正に関する決議

0

0

1971

22回定期総会

司法の独立に関する宣言

0

0

1976

27回定期総会

司法研修所における法曹教育に関する決議

1

3

1990

41回定期総会

司法改革に関する宣言

1

2

1991

42回定期総会

司法改革に関する宣言その2

0

1

1992

43回定期総会

弁護士任官推進に関する決議

1

2

1994

45回定期総会

司法改革に関する宣言その3

1

1

1994

臨時総会

法曹養成制度の「統一・公正・平等」に関する決議

0

1

1994

臨時総会

司法基盤整備・法曹人口問題に関する関連決議

0

0

1997

48回定期総会

憲法50年・国民主権の確立を期する宣言

0

1

1999

50回定期総会

司法改革の実現を期する宣言

1

0

2000

51回定期総会

司法改革に関する宣言

1

0

2000

臨時総会

法曹人口,法曹養成制度並びに審議会への要望に関する決議

5

37

2001

52回定期総会

市民の理解と支持のもとに弁護士自治を維持・発展させる決議

0

0

2003

53回定期総会

司法改革に対し抜本的な予算措置を求め,市民のための大きな司法の実現をめざす宣言

0

2

2003

54回定期総会

司法改革宣言2003

0

0

2004

55回定期総会

弁護士任官を全会挙げて強力に進める決議

1

2

2004

55回定期総会

司法改革宣言2004

0

1

2005

56回定期総会

司法改革実行宣言

0

1

2006

57回定期総会

司法改革実行宣言

0

0

この表は,1967年以降の日弁連総会決議本文と提案理由中に,「法曹一元」という単語がいくつ含まれているかを数えてみたものである。但し,時間節約の観点より,決議名から推測しておよそ法曹一元に言及していないと思われるものは除外したから,漏れがあるかもしれない。しかし,2000年の臨時総会決議と提案理由に含まれる「法曹一元」という単語の数合計42個は,他の決議に比して,群を抜いて,ほとんど異常といえるほど多いことは一目瞭然である。これに対して,「決議文が長文だからだろう」と茶々が入るかもしれないので,同じ臨時総会決議中,他のキーワードと比較してみると,「司法改革」は12個,「人権」17個,「法曹人口」でさえ33個である。いかに2000年の臨時総会決議が,繰り返し「法曹一元」に言及したかは,もはや明白である。そして,ここまで熱心に言及された「法曹一元」というキーワードが,その後急速に廃れたこともまた,悲しいほど明白である。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(4)~

日弁連が,司法試験合格者数年3000人を受け入れた2000年の臨時総会決議の決議文と提案理由の中で,42回という異常な回数に亘り言及した「法曹一元」とは何か。実は,この決議文や決議理由を読んでも,よく理解できない。この決議自体が,法曹一元の定義を,同年5月の定期総会決議に譲っているからだ。そこで,20005月の定期総会決議の決議文を見てみると,日弁連の言う法曹一元とは,次の内容である。

★「市民の司法」を担う裁判官は、人権感覚を身につけ、司法の救済を求める人々とともに裁かれる立場から幅広い経験を積んできた人から選ばれる必要があります。また、市民も参加する民主的選考手続を経た人が任命される制度にするべきです。さらに、昇任・昇給など官僚的な人事制度を伴わないものでなければなりません。このようにして、弱者に優しい心と権力にたじろがない勇気をもった裁判官を実現することが、私たちが求める法曹一元制です。

何を言っているか分かりますか?筆者にはよく分からない。裁判官のキャリアシステムを否定していることは分かるが,では誰が裁判官になるのかについて,この決議文は曖昧である。そこで,1968年の第19回定期総会・司法の民主化促進に関する決議の提案理由と比べてみる。

★司法制度を民主化し、これを真に国民のものとするためには、現行の裁判官任用制度を廃止しまして、多年国民の中にありまして、社会の表裏に通じ生きた社会経験と広い視野を有する弁護士から裁判官を任命する制度を実現することが、唯一の方策であると信ずるのであります。

ここでは,裁判官を弁護士から任命することが法曹一元であると明言している。法曹一元は,本来,弁護士から裁判官を任命することだったのだ。ところが,2000年の決議では,「弁護士から」という言葉が抜け落ち,「民主的手続きを経た人」に代わっている。また,2000年の決議では,官僚的な人事権が否定されている。

この違いを理解することは,法曹一元の概念を理解する上で有益である。法曹一元は,もともと,「世界の狭い職業裁判官より,社会の表裏を知った弁護士が裁判官になる方が民主的で,国民の利益になる」という,牧歌的な発想であった。この牧歌的法曹一元論は,「弁護士が裁判官になることがなぜ民主的なのか」という素朴な疑問に対抗できず,力を失う。その後,冷戦構造の中で,裁判所が左翼的と見なした裁判官の再任を拒否したり,昇級や転勤等で露骨な差別をしたりしたことから,在野性の強い弁護士を裁判官にするとともに,昇級・転勤等の人事権を裁判所から剥奪することこそ,司法の独立を,ひいては国民の人権を守ると考えられるようになる。そして,弁護士の裁判官任官に民主的基礎を与えるため,選任過程の民主化が必要とされたのである。

ところで,法曹一元の制度的根幹となるのが,判事補制の廃止である。裁判官は判事と判事補(裁判官に任官して10年未満の者)とからなるが,判事は通常,判事補から任命されていた。判事補は,裁判所に判事として採用してもらいたいから,どうしても「お上」の顔色を窺うようになり,それが個々の判決に反映することになる。このような理解から日弁連は,判事補から判事を任命する制度(判事補制度)が,官僚司法制度の中核であるとして,その廃止を求め続けてきた。つまり,法曹一元と,判事補制度の廃止は,表裏一体の関係にある。法曹一元の本質は,判事補制度の廃止にある。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(5)~

概ね以上のような内容を持つ「法曹一元」という理想であったが,この理想が,かつて2度「死んだ」ことは,年長の弁護士にとっては,日本がかつて戦争で負けたことくらいの常識に属する。

明治31年,植村俊平弁護士が「将来は判事の数を減らして新任の判事は必ず弁護士より採用すること」を唱えたのが,法曹一元論の始まりとされている。

法曹一元論は弁護士会も唱えるところとなって立法活動が開始され,法曹一元化法案が昭和13年,14年,15年にそれぞれ国会に上程され,衆議院で可決されたが,いずれも貴族院で廃案となった。記録によれば,弁護士に限らず,時の法学者や裁判官も,法曹一元の理念を支持していたという。日本経済聯盟(今の経団連のようなものか?)も法曹一元を望む意見書を出した。日本史的には,当時の法曹一元論は大正デモクラシーの一内容と位置づけられるのだと思う。

太平洋戦争により,法曹一元論は一度中断するが,終戦の年である194511月,司法省に司法制度改正審議会が設置され,法曹一元が検討の俎上にのぼったが見送りとなった(法曹一元論一度目の死)。しかし弁護士会は法曹一元論を諦めず,運動を継続した結果,1962年,臨時司法制度調査会(臨司)が法曹一元を重要な検討課題とする。しかし結局,「法曹一元の制度は,これが円滑に実現されるならば,我が国においても一つの望ましい制度である。しかし,この制度が実現されるための基盤となる諸条件は,未だに整備されていない。」と結論づけ,法曹一元論を再び棚上げした(法曹一元論の二度目の死)。これは,弁護士会内で,「法曹一元葬式論」と評価された。(以上,坪井明典毎日新聞論説委員「法曹一元に関する戦前の取り組みから学ぶもの」(自由と正義513号 2000)の要約)

この棚上げにより,法曹一元論は挫折体験として弁護士会に語り継がれることになる。その後法曹一元論は弁護士会の「悲願」となり,総会決議などで折に触れ言及されつつ,実現の時を待っていた。

そして1997年ころ,突如,法曹一元論は復活の産声を上げる。1998年と2000年に開始された司法シンポジウムは連続して(司法シンポジウムは隔年で開催される)法曹一元を主要テーマに取り上げ,「自由と正義」は2000年の1月号で法曹一元の特集号を発行した。法曹一元は各単位会でも議論の対象となり,京都弁護士会が発行した「法曹一元 市民のための司法を目指して」を始め,各地の弁護士会が法曹一元を論じた冊子を発行した。

以上,戦前戦後を通じて3度目の復活をした法曹一元論が,2000年の臨時総会決議に結実したのである。その結果法曹一元は実現することとなったのであろうか。

前述した坪井明典氏は論考の中でこう述べている。「臨司意見書は,弁護士会がしつこく繰り返す法曹一元論に終止符を打つために,お葬式を出したのだ。『一つの理想』という言葉は,お葬式の供花に過ぎない。これでもう,化けて出てこないというつもりだった。(中略)『二度あることは三度ある』ともいう。今回棚上げされれば,今度こそ法曹一元に本当に葬式を出すことになる。二度と化けてでることもできない状況に陥りかねない。」

法曹一元論に,三度目の葬式は出たのだろうか。(小林)

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(6)~

司法試験合格者数年3000人を日弁連が受け入れた2000年臨時総会の決議文及び提案理由において,日弁連執行部は,「法曹一元」という単語を42回も用いた。しかし,「法曹一元」という言葉の意味は,日弁連総会決議という公式声明の中でも,歴史的に変容していることは,本稿(4)でご紹介したとおりである。それでは,歴史を縦軸と位置づけた場合,横軸はどうか。実は,1997年から2000年に限ってみても,「法曹一元」の理解にはかなりの幅がある。

日弁連が2000218日に行った「法曹一元の実現に向けての提言」によると,法曹一元の制度構造は,「裁判官以外の法曹資格者(主として弁護士)から市民を含む裁判官推薦委員会の推薦を受けた者のみが裁判官となる制度であって,従前の昇給・転勤等の人事制度を廃止する」ものであり,2010年をもって新規判事補の採用を廃止するとする。このようにして選任された裁判官の数は3000名(ちなみに2000 年当時の判事数は1360名)を想定し,これを支える弁護士数を確保する,というものである。これが,20005月における日弁連の公式見解としての「法曹一元」の内容である。この公式見解には,ロースクールへの言及はなく,陪審制・参審制への言及もない。弁護士人口についても増員を言うだけで,数についての言及はない。20001117日に開催された第18回日弁連司法シンポジウムは法曹一元をテーマにしたが,基調報告の内容は,基本的に上記提言に沿ったものとなっている。なお,こうした日弁連の立場を中心になって推進したと思われる小川達雄弁護士(京都弁護士会)は,自由と正義511号「『20世紀の宿題』法曹一元制度の実現へ」(2000)は,日弁連提言と同様の私案を提起しつつ,法曹一元の裁判官3000名を支えるための司法試験合格者数を年1500人とし,2003年からは年40人,2010年からは年140人,2019年からは年100人の弁護士を裁判所に供給することにより,2020年ころまでに全キャリア裁判官は消滅すると推計している。

井垣康弘神戸家庭裁判所判事(当時)は,自由と正義511号「私の構想する『法曹一元制度』」(2000)で,「日本型ロースクールを設け,判事補制度を廃止し,法曹有資格者で裁判官以外の経験を10年以上有する者(主として弁護士)から,任期10年,任地・ポスト固定,報酬同額の条件で,民意の反映するような方法で判事を任用するべきである(あわせて陪審制度・参審制度を導入するべきである)とする立場に「全面的に賛成」であると述べる。ここで,法曹一元とロースクール,あるいは陪審制度との関連が述べられているが,井垣判事の理解するところの「日本型ロースクール」が何を意味するのか,あるいは,法曹一元と陪審制度等との論理的関連は明らかにされていない。

戒能通厚名古屋大学教授は,自由と正義489号「法曹一元と裁判官【司法改革を展望して】」(1997)で,「法曹人口増加や研修期間を短縮する等の司法改革が,『法曹一元』の概念をご都合主義的に歪曲して語られ,独り歩きして,それぞれの主張を裏付け権威づける都合のいい概念として多用されている」として,法曹一元の名の下に修習期間短縮を受け入れようとする立場を批判する。同教授によれば,日弁連が範とするイギリスの法曹一元制度は,バリスタという特権者のギルド集団の中で,「尊敬を勝ち取る」ことによってのみ裁判官への道が開かれる制度が,国民の自由の擁護者として支持されてきたものであり,官僚司法と対峙するものの,民主主義とは相容れない制度であるという。もっとも,イギリスの法曹一元制度自体,急激に変容しつつあることは,教授自身指摘している。

松井康浩もと日弁連事務総長は,自由と正義498号「司法制度の改革と法曹一元制度」(1998)で,我が国は「支配者」と「国民」に二分されており,法曹一元は司法を支配者から国民が奪取する行為であって,法曹一元が実現されれば,「誰が見ても違憲の」自衛隊は違憲となり,日米安保条約も当然破棄されると予想する。法曹一元のための弁護士増は不要であり,法曹養成の費用は専ら国費で賄うべきであると主張する。乱暴に要約すれば,この主張は国費を元手に司法権を通じて日本に革命を起こそうというものである。革命の善し悪しはさておいても,日弁連事務総長の要職にあった人物が,「弁護士が裁判官になれば革命が起こってすべてがうまくいく」という脳天気な議論を本気で行っていることに驚きを禁じ得ない。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(7)~

このように,弁護士や法学者の中でも法曹一元に関する理解には幅があるが,他方共通するのは,法曹一元は戦前に遡る弁護士会の「悲願」であり,1964年の臨司意見書で「たなざらし」になった挫折をふまえ,その後の弁護士会においては司法の「理想」として語られてきた,という点である。そして,「理想」であるだけに,その中身が吟味されないまま,様々な意味が付与され,「ご都合主義的な概念」として多用されてきた一面もあるのだろう。

さて,このような弁護士会の理想とする法曹一元論に対しては,次のような痛烈な批判があることにも言及しておかなければならない。

京都大学の棚瀬孝雄教授は,「法曹一元の構想と現代司法の構築」(ジュリスト1170号。20001月)の中で,次のように主張する。すなわち,在野法曹であれば必ず職業裁判官より市民感覚が優れ,世間の表裏に通暁しているとなぜ言えるのか。大企業の顧問弁護士が庶民感覚を有するのか。弁護士会が裁判官選任に関与すれば「民主的」で「市民感覚」に優れると言うが,全ての弁護士が市民の側に立っているとはいえず(企業側や体制側の弁護士もいれば,市民の中にも多様な利害対立がある),民主的で公平な裁判官選任が担保され得ない。「裁判官には社会常識がない」という一般論も,科学的な検証がなされていない。しかも,法曹一元制度は,我が国の大陸法系の実体法を英米法系のそれに変更することを伴い,さらに,裁判官が争点整理から審理・和解又は判決まで主体的に関わる職権主義的訴訟手続を,当事者主義的訴訟手続に大転換することにつながるのであり,それは,弁護士費用の高騰といった国民にとってのリスクをもたらす可能性があるから,法曹一元制度を採用するには,国民的合意と支持が不可欠である。教授は言う。「裁判所がかりの訴訟運営を漫然と続けながら法曹一元性を採用するということは,私には不可能なことを主張しているように見える。」

棚橋教授は,上記のような問題点のほかに,従前の法曹一元論は,東西対立というイデオロギー構造の中で,体制側の裁判所と市民側の弁護士という文脈で語られてきたが,東西対立構造が終焉を迎えた今日,弁護士会が語ってきた法曹一元論も構造的な修正が迫られるのではないか,と示唆している。

法曹一元をめぐる論考は多数に亘り,筆者にはこれを網羅し検討する能力も余裕もない。また,本稿の主旨は法曹一元論そのものを良いとか悪いとか評価することではないから,法曹一元論の内容の是非については立ち入らない。筆者が本稿で検討したいのは,2000年(平成12年)当時,日弁連にとって法曹一元論は,本気で実現を企図するほどの実体を備えていたのか否か,である。

このような見地から2000年当時の日弁連の公式見解を検討してみると,第一に,理論的裏付けが希薄であるといわざるを得ない。すでに指摘したとおり,法曹一元論は歴史的に変容しており,2000年ころの日弁連内部での理解にも幅があるのであって,日弁連執行部がこれらを批判的に検討したうえで,「日弁連が目指す法曹一元はこれだ!」と宣言したようには見受けられない。むしろ,会内合意の獲得を最優先にして,総花的抽象的な法曹一元論を呈示しているようにしか思えない。筆者から見て最大の理論的問題点は,かつて確かに裁判所に見られた所内人事の不適正さや,行政寄り・保守派寄りの判決が,裁判官のキャリアシステムを主たる原因とするものなのか,それとも,冷戦構造化の東西イデオロギー対立に基づくものなのか,という理論的検討が疎かであり,そのため,東西冷戦構造が終結した後の法曹一元論の理論的支柱が脆くなってしまったことにある。

理論的問題点もさることながら,第二に,明確な戦略が描かれていないことが致命的な問題点であると思う。日弁連の公式見解は到達点の青写真にすぎず,到達点にどうやって行くのか,という検討が全く見られない。法曹一元論は,百年以上続いてきた裁判所のキャリアシステムを根本から覆す大事業であって,裁判所が猛烈に抵抗することは必至であるのに,これを打ち破る戦略が全く示されていないのはどういうことなのだろうか。「戦略は軍事機密です」という反論があるならまだマシだが,日弁連執行部に機密にするほどの戦略があったのかは大いに疑問である。「矢口洪一と佐藤幸治が支持するのだから,総理大臣も動く」と安易に考えていたのではないかという疑問を筆者は払拭できないし,仮にそう考えていたなら(つまり,内閣府直轄の司法制度改革審議会で決まれば裁判所のキャリアシステムは廃止されると考えていたなら),三権分立に関する日弁連執行部の理解が疑われる。

そもそも,法曹一元が本当に実現したら,日弁連はどうするつもりだったのだろう。青写真の通り,2010年に判事補制度が廃止されたら,その後,全国規模で数十人から百人規模の弁護士任官者が継続的に確保されなければならない。しかも,その弁護士任官者は弁護士会内で能力を認められたエリートでなければならないのだ。もし定員割れが発生したら日弁連は世間の笑いものになる。少ない裁判官任官のポストを,弁護士同士が争うようでなければ,法曹一元にした意味はない。一体,青写真を書いた先生方は,弁護士登録後10年~30年の有能な弁護士が,こぞって任官を希望する有様を想定できたのだろうか。

第三に,戦略的目標(法曹一元の実現,判事補制度の廃止)がとても大きく,一朝一夕には達成できない以上,日弁連執行部としては,当面の戦術的目標を掲げ,どこに橋頭堡をつくるか明確にしなければならなかったのに,それがない。具体的には,法曹一元の本質が判事補制度の廃止にある以上,判事補制度を廃止するための第一目標が設定されなければいけなかったのに,それがない。その結果,その戦術的目標達成のためにはどんなリスクとコストが想定されるのかという事前検討ができなくなったばかりか,事後の検証もできなくなってしまった。後述するように法曹一元論が葬り去られたにもかかわらず,「法曹一元の理念は残った」などという,ふざけた評価がなされたのは,ひとえに,事前の戦術的目標の設定が無かったからにほかならない。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(8)~

司法試験合格者年3000人を事実上受け入れた2000年の日弁連臨時総会決議は,「法曹人口」の33回よりも多い42回,「法曹一元」という単語を繰り返した。なぜこれほど多数回,同じ言葉を繰り返したのか。前稿までで基礎的なお勉強をすませたことでもあり,再度,決議文と提案理由にあたってみよう。

本決議文は,柱書のほか,下記3項に大別される。

第1項は,判事補制度の廃止と弁護士からの裁判官任官,及び陪審・参審制の導入を求め,

第2項は,「法曹一元制の実現を期して」,国民が必要とする法曹数を確保することを宣言し,

第3項は,「法曹一元制を目指し」,法科大学院の設立に協力すること,を宣言している。

このうち,第1項の判事補制度の廃止や弁護士任官は法曹一元そのものだから問題ない。陪審制は本来法曹一元と異なる概念だが,刑事司法への国民参加という文脈でとらえることにより,法曹一元と趣旨を同じくするものと理解できる。問題は第2項と第3項である。

まず,第2項で,「法曹一元を期する」ことが,なぜ年間3000人という法曹人口大幅増に結びつくのか。すでに垣間見たとおり,法曹一元と弁護士人口の大幅増は,論理的に直結しないし,イギリスの伝統的法曹一元制が示すとおり,制度的にも無関係である。しかし日弁連は,優秀で幅広い人材を弁護士の中から裁判所に投入するためには,まず弁護士自身が社会の隅々まで行き渡る必要がある,という見解を採用した。ここに,「法曹一元制の実現を期して」,その基盤整備のために,弁護士の数を大幅に増やす,という論理が登場する。

次に,第3項で,「法曹一元制を目指す」ことが,なぜ法科大学院の設置に結びつくのか。まず,法曹一元を期して法曹の大幅増員を遂行する以上,従前の司法研修所による法曹教育では不十分となる。そこで,代替機関として法科大学院を想定するとともに,幅広い人材を養成し,地域に密着した法曹を養成する(日弁連の提言する法曹一元制度は裁判官の異動がない)ため,多数の法科大学院を全国に設置することが必要となる。このように,法曹一元制を目指すためには,多数の幅広い人材としての法曹を養成する機関として,多様かつ全国的な法科大学院の設立が必要になる。

2000年の臨時総会決議が,法曹一元という単語を42回も使って説明しようとしたことは,要約すると,概ね,上記のような内容となる。

それなりに筋の通った話であることは分かる。読者の皆さんは,なるほど,と納得されただろうか。

筆者は全く納得できない。むしろ,かなりの胡散臭さを感じる。それはなぜだろうか。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(9)~

日弁連は2000年の臨時総会決議により,法曹人口の大幅増員(司法試験合格者年3000人)を受け入れた。決議文と提案理由によれば,日弁連がこのような大幅増員を受け入れたのは,ひとえに「法曹一元」の実現のためであり,このことは,決議文と提案理由に「法曹一元」という単語が42回も繰り返し用いられていることに,象徴的に示されている。

しかし,法曹一元実現のために3000人を受け入れたという日弁連の論理は,筆者には大変胡散臭く思える。その最大の理由は,それほどまでして目標に掲げた法曹一元の理想が,2000年の決議の後,あっという間に小さくなってしまったからだ。2000年の臨時総会決議の後2007年の総会決議まで,「法曹一元」に日弁連が言及したのはたったの7回である。2000年の臨時総会では1回の決議で42回言及された「法曹一元」という単語が,その後7年間全部合わせても7回しか言及されていない。日弁連は,法曹一元の理想を忘れたのだろうか。それとも,すでに法曹一元は実現したとして,満足してしまったのだろうか。非常勤裁判官の採用,弁護士任官や判弁交流は,裁判官全体の数から見れば,細々と行われているに過ぎない。「弁護士も増えたが,裁判官も相当増えた」と言う暢気な弁護士もいるが,職業裁判官を増やしたら,法曹一元が遠のくばかりではないか。2010年に判事補制度を廃止するという計画はどうなったのだろうか。日弁連が本気で法曹一元の実現を目指し,そのために大幅増員を受け入れたのなら,その後遅々として法曹一元が進展しないことに対して,抗議の声を上げてしかるべきである。しかし,筆者の知る限り,日弁連がそのような抗議を行ったことを示す資料はない。

では,日弁連は2000年の臨時総会決議当時,初めから,法曹一元を実現する気がなかったのであろうか。「法曹一元」はただの建前であり,反対派を懐柔するための便法に過ぎなかったのだろうか。

筆者にはそうとも思われない。主なものを挙げるだけでも,1998年と2000年の司法シンポジウムは,法曹一元を主要テーマに掲げている。また,2000年の「自由と正義」511号は,法曹一元の特集号である。地方単位会も,京都弁護士会が発行した「法曹一元 市民のための司法を目指して」(1998)ほか,少なからぬ単位会が,法曹一元をテーマにした本や小冊子を発行している。いうまでもなく,このようなイベントや出版は,相当数の弁護士が,仕事と収入と睡眠時間を犠牲にして奮闘しなければ実現しない。こういった多数の弁護士の努力が,弁護士大幅増員を受け入れる便法・建前と割り切ってなされたとは考えられない。資料を見る限り,確かに2000年までは,法曹一元制度を実現させようという熱気が,日弁連内に存在していたようである。

2000年当時,日弁連は本気で法曹一元を実現させようと考えており,その基盤整備として法曹人口の大幅総員を受け入れたとするならば,なぜその後,法曹一元実現の熱意を急速に失ったのだろう。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(10)~

日弁連は,2000111日の臨時総会決議で,法曹一元という単語を42回も繰り返して用いた。法曹一元は,戦前からの日弁連の悲願であり,すでに2回,潰えている。それが3度目の復活を遂げたのは,どういう経緯からだろうか。

1998年(平成10年)616日,自由民主党司法制度特別調査会は,「21世紀の司法の確かな指針」と題する報告書を発表した。ここには一言だけだが,「かつて臨時司法制度調査会において協議され,未だ基盤整備がなされていないとされた法曹一元の問題(中略)も検討課題と言える。」との一文がある。与党内でこの調査会はその1年前に発足しているから,法曹一元が同調査会で検討対象になったのは,1997年(平成9年)中であろう。いち政党内部とはいえ,与党内で法曹一元が議論の対象になったわけであり,これは日弁連にとって,朗報と受け止められたことは想像に難くない。

次いで,1998年の司法シンポジウムは,法曹一元を主要テーマに掲げた。シンポのテーマはだいたい1年前に決まるから,やはり1997年中に,日弁連としても法曹一元を再々度真剣に検討する必がある,と考える事情が発生したのだろう。

199828日の日本経済新聞において,元最高裁長官の矢口洪一氏が,現行憲法が予定しているのは法曹一元であり,判事補制度は廃止すべきと発言した。なにしろ元最高裁長官だけでなく,「ミスター司法行政」と呼ばれたえり抜きのエリートであり,その発言は重い。同氏は1998年の9月には日弁連に招かれて法曹一元を求める講演をしている。

自由民主党司法制度特別調査会報告書作成にも関わった佐藤幸治京都大学教授は,「法曹一元 市民のための司法を目指して」(京都弁護士会1998)の中で,「法の支配の実現のためには法曹一元が不可欠」「法曹一元で裁判官の独立性が高まる」「法曹一元と陪審制は一体」「法曹一元をつくるには,大学が法曹専門教育の主たる担い手になるべき」「自民党の司法制度特別調査会の報告書の考え方を突き詰めていけば,法曹一元制に行きつくのではないかと私は理解している」と述べている。佐藤幸治教授の構想する法曹一元制度が,2000111日の日弁連臨時総会決議文の構成と極めて類似していることは注目される。

佐藤幸治教授は,「自由と正義」19991月号においても,中坊公平氏,保岡興治衆議院議員らとの対談でも,上記同様の発言をした。

この佐藤幸治教授が,19997月,司法制度改革審議会の委員長に就任した。しかも,同年69日に成立した司法制度改革審議会設置法には,衆議院法務委員会の附帯決議として「審議会は、その審議に際し、法曹一元(中略)など司法制度をめぐり議論されている重要な問題点について、十分に論議すること。」との一文が付されている。日弁連としては,「これは本当に法曹一元が実現するかもしれない」と思ったとしても不思議ではない。法曹一元論については,理念倒れだとする痛烈な批判があることは前述の通りであるが,法曹一元を政府が決定すれば,あとは何とかなる,と思ったのかもしれない。

いずれにせよ,このような経緯で,法曹一元論は三度目の復活を遂げた。その先に悲劇が待ちかまえていたことは,日弁連にとって青天の霹靂だったかもしれないし,見る人が見れば,当然の結末だったかもしれない。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(11)~

法曹一元に対する日弁連の期待を背負って1999年(平成11年)7月に発足した司法制度改革審議会であったが,その審議の中で,法曹一元はどのように取り扱われたか。同審議会は,66回の審議中,「司法制度改革に向けてー論点整理」「中間報告」「最終報告」の三つの文書をとりまとめている。そこで,前例に倣い,三つの文書中,「法曹一元」という単語を検索してみよう。

まず,「司法制度改革に向けてー論点整理」中,法曹一元という単語は,10回用いられている。

次に,「中間報告」では,法曹一元という単語は,4回用いられている。

最後に,「最終報告」ではどうだろうか。

ゼロ,である。筆者も驚いて2回調べたが,「法曹一元」という単語は,ただの一回も用いられていない。司法制度改革審議会の最終報告書において,法曹一元という言葉は,抹殺されていたのである。

この最終報告に対する日弁連会長声明は,次のとおりである。

★当連合会が強く訴えてきた法曹一元に基づく裁判官制度の改革については、その理念に基づき、弁護士任官の推進、判事補の相当長期の多様な法律専門家としての他職経験、特例判事補制度の計画的・段階的解消、裁判官選考について国民も参加する推薦機関の設置、人事制度の非官僚化などを打ち出されたことは重要な意義をもつものです。

これはつまり,「法曹一元」という言葉は採用されなかったが,その「理念に基づく」いくつかの提言を積極的に評価する,という意味である。また,「法曹一元の理念である」という言葉を使わず,「法曹一元の理念に基づく」という,一歩引いた表現になっているのは,法曹一元にとって本質的な要素である判事補制度の廃止や,昇給・任地等に関する官僚的人事制度の廃止がほとんど含まれていないからであろう。最終報告書が採用されたのは,主として,裁判官に社会経験を積ませたり,弁護士任官を推進するなどして,「裁判官は世間知らず」という批判を回避するための方策に過ぎない。

司法制度改革審議会最終報告書における裁判官制度改革について,法曹一元の観点からどのように評価するかは,前述したとおり,事前の目標設定がなかったため,立場によって評価が分かれることとなった。裁判所におけるキャリアシステムと判事補制度が法曹一元の本質であるとの立場に基づくならば,上記最終報告書の内容は法曹一元論の完全な敗北と評価される。他方,裁判所に市民感覚を反映させるのが法曹一元論の趣旨と考える立場からすれば,上記最終報告書の内容は一定の前進と評価される。

現在,各単位会で,弁護士任官や,非常勤裁判官などの取り組みが行われている。しかし,2000年当時に存在したような,法曹一元に向けた熱気が見られないこともまた事実である。司法制度改革審議会の最終報告書が一度も「法曹一元」という言葉を使用しなかったことからしても,「法曹一元」という理想は,3度目の死を迎えたと見るべきだと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(12)~

司法制度改革審議会において,法曹一元がどのように議論されたかに興味のある方は,是非,同審議会の議事録をお読み頂きたい。集中審議第2日目(200088日),3日目(89日),第28回(829日),第36回(1031日)において,法曹一元論は大いに議論されている。議論は,法曹一元論と判事補制度の廃止を強硬に主張する中坊公平員と,これに反対する裁判所代表の藤田耕三委員との激論が中心である。

中坊公平委員は,法曹一元問題について,よく戦ったと思う。判事補制度を廃止しなければ,弁護士会として法曹人口増員に賛成できない,という,脅しとも取れる発言さえしている。しかし最終的には,中坊委員は,委員会の説得に失敗した。その理由は第1に,「法曹一元」という言葉の多義性(あいまいさ)と,東西冷戦時代下のイデオロギー色が嫌われたこと,第2に,「判事補制度には致命的な欠陥がある」と中坊委員がいかに力説しても,判事補から判事になった者に一般的普遍的に欠点があるとは受け取られず(むしろ,多くの調査結果は現在の裁判官に国民の多くが満足していることを示しているとされた),また,弁護士が判事補より判事にふさわしいという理解も信頼も得られなかったこと,当の弁護士自身に任官への熱意が見られなかったこと(弁護士任官の多くは今も昔も,適任者の一本釣りで行われている),等が挙げられよう。結局のところ,法曹一元論について従前から指摘されていた曖昧さや理念倒れ,冷戦時代の遺物,といった批判を克服できなかったため,中坊委員ほどの論客をしても,他の委員を味方につけることができなかったともいえよう。法曹一元論は,未熟で,時代遅れで,理念倒れの議論だった。

結局,審議会での議論は,「現行の判事補制度は,利点もあるが,欠点もある。国民のための司法という観点からすれば,利点は残しつつ,欠点の是正に努めればよい。判事補制度を廃止する必然性までは認められない」という,至極穏当な結論に落ち着いたのである。

審議会の中では,一橋大学名誉教授の竹下守夫副委員長は,法曹一元論反対の論陣を張った。佐藤幸治委員長は,現代裁判所制度の問題点の指摘には積極的であったものの,判事補制度の廃止という法曹一元論の本質については,中立を通したように見える。もともと,法曹一元論,判事補制度の廃止を提唱していた佐藤幸治教授であるが,なぜ,日弁連と共同歩調を取らなかったのであろうか。あるいは,佐藤幸治教授にとって,法曹一元や判事補制度の廃止はあまり重要なことではなかったのだろうか。1997年,自民党や佐藤幸治教授が法曹一元を言い出したのは,日弁連に法曹人口大幅増と法科大学院設立を呑ませるための策略だったのか。筆者に調査する余裕はないが,少なくとも,佐藤幸治委員長が本気で法曹一元・判事補制度廃止を考えていたのか否かについては,司法制度改革審議会終了後における佐藤幸治教授の発言を詳細に追跡すれば,自ら明らかになると思う。

江田五月現参議委員議長は,当時,こう書いている。「日弁連は、法曹一元制度採用、法律扶助制度の大巾な拡充、裁判官・検察官の大巾な増員、などと抱き合わせにしてOKサインを出していたのですが、このへんのところは(案の定)適当にすっぽかされて、『年間3000人』と『法科大学院』だけが一人歩きをする内容になりました。(中略)審議会にここまでいいように「いいとこ取り」をされたのは、日弁連の偉い人たちが、『われわれの主張は正しいのだから審議会でそれが通るはずだ』とばかりに突っ込んでいったからです。大甘もいいところです。『貧弱な戦術手段しかもっていないのに、過大な戦略目標を追求した』のです。孫子は2500年も前に、こういう戦争はやっちゃならんと言っています。曰く、『小敵の堅は大敵の擒なり』と。」

江田五月氏が「つける薬もないような人たち」,要するに「馬鹿」と罵倒した対象に中坊公平氏が含まれることは当然だが,同氏だけでない。1998年から3年がかりで「法曹一元」で大騒ぎをした挙げ句,無惨な敗戦を喫した「日弁連の偉い人たち」は,ちゃんと首を洗ったのだろうか。すくなくとも,資料を見る限り,日弁連や各単位会の「偉い人たち」が完敗を認める記述には接することができない。自虐的にせよ,「法曹一元葬式論」を認めていた昭和30年代の日弁連の方が,よほど健全だったと思う。それどころか,「司法制度改革審議会は,法曹一元という言葉こそ使わなかったが,その理念を反映し…」といった言い訳めいた発言に終始している。しかし,法曹一元の本質は,すでに述べたとおり,判事補制度の廃止である。判事補制度の廃止か,廃止へ向けた道筋が付けられない限り,法曹一元論は敗北したというほかはない。

筆者は以前,3000人問題に関して,「司法制度改革審議会発足の時点で,すでに勝負は決まっていた。中坊公平委員は,戦犯というより敗戦投手というべきである」と書いた。しかし,法曹一元論という切り口で見ると,中坊公平委員は敗戦投手と呼ぶより,「貧弱な戦術手段しか持たないのに,過大な戦略目標を追求した」ドン・キホーテと呼ぶに相応しい。そして,当時の日弁連は,ドン・キホーテを大いに盛り上げた哀れなサンチョ・パンサというべきであろう。

ちなみに,法曹一元論における日弁連の敗北が事実上確定したのは,平成12年(2000年)1031日である。つまり,臨時総会の前日だ。「法曹一元」を42回も繰り返した決議文がすでにできあがり,翌日に臨時総会を控えた日に,法曹一元論は葬り去られたのだ。歴史の皮肉というほかはない。日弁連執行部が翌日の総会で,法曹一元論の敗北を認めれば,決議は否決されるし,認めなければ,後日「嘘つき」と非難されることになる。最悪のタイミングである。1031日の晩,日弁連執行部の先生方は眠れぬ夜を過ごしたと思う。気の毒な話ではあるが,彼らが「嘘つき」を選択した責任は免れないと思う。

日弁連はなぜ負けたのか? ~法曹一元とは何だったのか(13)~

以上,法曹一元論という視点から,法曹人口問題を概観してみた。まとめると,こういうことになる。

戦前から日弁連の理想であり悲願であった法曹一元論は,二度葬り去られた後,1997年(平成9年),突然の復活を遂げた。日弁連は熱意を持って法曹一元の実現に取り組み,司法制度改革審議会においてその実現を図る。しかし,法曹一元論はその理論的脆弱さや戦略・戦術の無さなどから,審議会内の合意を全く得られず,20001031日,みたび葬り去られる。それにもかかわらず,その翌日である111日の臨時総会において,日弁連は,「法曹一元」という単語を42回も用い,「法曹一元を期するために,法曹人口の大幅増員を受け入れる」との決議を行った。日弁連は公式には「法曹一元への手がかりは残った」と評価したが,その後,法曹一元への熱意は失われる。つまり,法曹一元論において,日弁連は完敗した。残ったのは,法曹人口大幅増員と,法科大学院制度の導入,そしていくつかの司法改革の施策だけであった。

もちろん,一般論としては,日弁連が必要ないし重要と考えた制度について,時機を見てその実現にチャレンジすることは意義のあることだし,それが結果的に失敗することもあるだろうし,努力が無駄になったり,失ったりするものもあるだろう。それ自体はやむを得ないことであって,失敗した執行部の責任を必要以上に追求することはよくないと思う。

しかしそうはいっても,法曹一元論に関する日弁連の戦いぶりは,余りにも稚拙であり,その負けぶりは,恥ずかしいほどの惨敗である。日弁連は,「法曹一元」の実現によって何を目指そうとしたのか,どうやって「法曹一元」を目指そうとしたのか,そのためにどんなコストやリスクを覚悟したのか,よく分からない。加えて,最も腹立たしいのは,日弁連が公式には完敗したことを認めていないため,敗北の事実が,会内に共有されていないことだ。だから,未だに折に触れ「法曹一元を実現するためには…」といった定型句を用いる弁護士会のお偉いさんが後を絶たない。日弁連執行部にとって,恥ずかしすぎるほどの負け戦であったことは理解できる。しかし,このままでは,法曹一元論はいつの日か4度目の復活を遂げ,そして4度目の葬式を迎えることになる。動員される弁護士の努力は全て無駄になり,日弁連には「理想倒れの書生。付ける薬のない馬鹿」という評価が下される。

筆者としては,「法曹一元は,日弁連が理想とするほどの価値や内容があったのか?」という疑問を感じずにはいられない。法曹一元には,法曹人口大幅増による犠牲に見合うだけの価値があったのだろうか。少なくとも,その価値があるか否か,という真剣な検討がなされたことがあったのだろうか。日弁連は,法曹一元論復活の兆しに,余りに安直に飛びついたのではないか。むしろ,大幅増員を受け入れるなら,もっと真っ当な対価を求めるべきだったのではないだろうか。一つの決議に42回も繰り返された「法曹一元」という言葉は,人口問題で追いつめられた日弁連の見た幽霊であり,うわごとでははなかったのか,という批判に,日弁連は答えられるのだろうか。(小林)

|

« 日弁連はなぜ負けたのか? | トップページ | 日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院編 »

コメント

>朝霞の寮がどういうものか知らないが,このような一体感が喪失しているとすれば,筆者個人としても,法曹界にとっても,残念に思う。

それが馴れ合いを生んでいたのでは?

いまだに年配の弁護士は仕事は弁護士仲間からもらうべきもので広告をするのは邪道だとかいいますけど、そういって国民のほうを見ずに仲間内のコネだけで生きている弁護士が多いのも、司法修習の仕組みにも問題があったのかもしれません。

もちろん、西田研志弁護士がおっしゃるとおり、日弁連強制加入、業界団体が懲戒権まで持つ特殊な制度のなかで、弁護士が日弁連第一、国民第二になるのは仕方がないにしても、日弁連に睨まれない範囲でもう少し国民のほうを向くこともできるはずなのに、と思いますね。

そのためには養成課程から見直したほうがいいのかもしれません。

でも、本質はこのブログを見ても分かるように個々の弁護士と日弁連は考え方が対立することも多いのに、その日弁連に懲戒権まで握られていると弁護士は国民のほうを向いて仕事ができないのではないかという問題です。

日弁連は任意加入の政治団体にして、懲戒権は政府からは独立した行政独立委員会に帰属させるべきというのが多くの国民の理想に合致するのではないでしょうか。

投稿: jo | 2009年9月 2日 (水) 06時09分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/44922309

この記事へのトラックバック一覧です: 日弁連はなぜ負けたのか? 法曹一元編:

« 日弁連はなぜ負けたのか? | トップページ | 日弁連はなぜ負けたのか? 法科大学院編 »