« 株主はなぜエライのか? | トップページ | 日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (4) »

2009年6月15日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (3)

本稿以前の弁護士の歴史を簡単に振り返るため、小山稔弁護士による「戦後弁護士論序説」(「変革の中の弁護士」(上)所収)を要約してご紹介したい。

明治維新以来、戦前の70年間、弁護士は「三百代言」と蔑称され、各省の通達や規則の立法趣旨を論じることさえ禁止され、司法官僚である裁判官・検察官より低い地位におかれ、戦時中は「正業に就け」と揶揄されるほど経済的に困窮した。この差別は、弁護士層に司法官僚に対する抜きがたいコンプレックスと、その反動として強烈な対抗意識である「在野の精神」を植え付け、「法曹一元」「弁護士自治」を悲願とする土壌を作った。また、弁護士に対する抑圧は、その反動として団体内部における上昇志向と権力志向を強め、人事問題に対する強烈な執着心として現れる。明治13年以降、東京代言人組合は分裂を繰り返し、遂に大正12年と15年の分裂騒ぎにより、第一東京弁護士会と第二東京弁護士会が設立される。東京や大阪では、この騒ぎはしばしば暴力沙汰となり、監督権者である検事や検事正が議場に臨場して取り鎮める事態が頻発した。

昭和20年(1945年)の敗戦とGHQは、日本の弁護士に、世界に類を見ないほど完全な自治権と、裁判官・検察官との身分差別の撤廃をもたらした。また、抑圧の中で実力を付けていた弁護士が主導して、昭和24年(1949年)に新弁護士法が制定された。敗戦から昭和30年ころまでは、戦後弁護士の昂揚期であった。

昭和32年、日弁連は法曹一元制の実現に動き出す。しかしこの法曹一元論は、「弁護士が裁判官・検察官になることこそ司法の民主化である」という、戦前のコンプレックスがそのまま反映した、あまりに独りよがりな観念論だった。昭和39年、臨時司法制度調査会は、法曹一元制度を「望ましい制度」としながらも、その採用を見送る。同時にこの調査会意見書は、法曹人口の飛躍的増加、弁護士の地域分布の平均化等を提言した。臨司意見書は,日弁連の決定的な分裂を招き、多数は「反臨司路線」に終結し、意見書に対する全面対決の姿勢を取る。中堅・若手弁護士は、臨司意見書を主導した弁護士会の長老と対立し、排除したうえ、臨司意見書に基づく司法協議会準備幹事から日弁連委員を引き揚げた。これにより、昭和40年以降平成元年まで、司法制度はほとんど何の改革もなされなかった。著者は「日弁連の『反臨司路線』は『司法改革』を20年遅らせたとの批判を免れない」と言う。

その後昭和40年代後半以降の「司法反動の時代」「荒れる法廷」「刑法・少年法改正」「弁護人抜き法案」の攻防を経て、日弁連は、裁判所・法務省に対する当初の全面対決の姿勢から、協議交渉による解決へと重心を移していく。その背景には、弁護士過疎問題や、「交通戦争」を処理する弁護士の過少など、弁護士に対する国民的信頼の低下があった。また、戦後高度経済成長は、弁護士の業務領域や人権活動領域の拡大・多様化、会内世論の多様化をもたらす。

このような歴史を概観した上で、著者は、それまで弁護士が金科玉条としてきた「人権擁護と社会正義の実現」、「弁護士の公共性(プロフェッション性)」、「在野性」について、その歴史的意義を認めつつも、硬直性を批判し、「冷静でバランス感覚に富む思考」に基づく「明日の弁護士、弁護士会」を考えるべきであるとする。

私の要約が正しいか否かは自信がない。興味を持たれた方は、是非原典に当たってほしい。もちろん小山弁護士の提言をどう評価するかは自由だが、それ以前の問題として、弁護士会が戦前からこのような対立と分裂を繰り返してきたこと、現在に続く弁護士の選挙好きと派閥好き、一部に見られるアジ演説のような主張の源流がどこにあるかを知ることは、若手の弁護士にとって、とても重要だと思う。多くの先輩は、こういう恥部を教えてくれないからね。(小林)

                      (2)  

|

« 株主はなぜエライのか? | トップページ | 日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/45328339

この記事へのトラックバック一覧です: 日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (3):

« 株主はなぜエライのか? | トップページ | 日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (4) »