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2009年6月30日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (9)

左右に分裂した日弁連の拮抗の上に支持された中坊公平日弁連会長が唱えた「司法改革」は、実は矢口洪一最高裁長官がその4年前から着手していた。矢口洪一は、「保守反動の司法行政官」と「民意を受けた柔軟な改革者」という、一見矛盾する二つの顔を持つ。

先に述べた青法協系判事補再任拒否事件によって職を追われた宮本康昭弁護士は、「日弁連五十年史」の中で、大要こう述べる。「我が国の司法政策は1960年代後半に始まる司法の危機、官僚統制、密室性、不透明性、つまりは国民からの孤立化を深めた結果、様々な病理現象を呈することとなった。この二十年にわたる司法政策を自ら演出してきた矢口洪一氏は、最高裁長官就任のとき眼前に拡がる空漠とした司法の世界を見て、慄然としたに違いない」と。つまり、矢口洪一は、最高裁長官に就任したとき、自分の過ちに気付き、悔い改めて司法改革に着手したというのである。

これは間違った見方だと思う。36年間、裁判所のトップエリートとして出世競争と政治闘争に勝ち抜いて来た矢口洪一が、最高裁長官に上り詰めた途端に悔い改めることなどありえないと、私は考える。そうだとすれば、一見矛盾する矢口洪一の二つの顔には、一貫する柱があるはずだ。

私は、矢口洪一に一貫していたのは「司法の独立を守る」ことだったと考える。

矢口洪一から見れば、お仕着せの民主主義が導入されてたった数十年しかたたず、権力分立の思想など根付いたはずもない冷戦構造下の日本で、予算的にも法的権限も人的基盤も脆弱な日本の裁判所は、常に政治介入の危険に晒されていた。日米安保条約や自衛隊を憲法違反と言い出しかねない判事を内部に置くことは、政府与党に政治介入の口実を与える。宮本康昭判事補再任拒否事件の背景には、冷戦構造と55年体制下における脆弱な司法の地位があった。

その冷戦が終結し、55年体制が崩壊した80年代後半の日本は、継続的な政権交代時代の到来を予感していた(多少のひいき目を許していただけるなら、後に「大衆民主主義」あるいは「日本型ポピュリズム」と呼ばれることになる時代の到来を、矢口洪一は予感していたのかもしれない、とさえ思う)。これは、裁判所から見れば、時の政権がその都度裁判官人事や予算に口出しする危険を意味する。選挙という民主的基盤に支えられた国会に対し、制度的民主的基盤を持たない裁判所が組織防衛を遂行するためには、司法制度のありさまを国民に支持してもらわなければならない。矢口洪一が司法改革を推進し、かつ、後任に定年までの期間が最も長い裁判官出身者を指名したのは、組織防衛の観点から素直に理解できる。

裁判所のトップエリートである矢口洪一が終生取り組んだのは、組織としての裁判所の独立と自律性の保持であり、その意味で一貫していた。変わったのは時代背景であって、矢口洪一ではないというのが、私の考えである。(小林)

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2009年6月29日 (月)

防犯カメラ付き自販機いたずら、19歳会社員を現行犯逮捕

愛知県豊橋市の岩田運動公園に置かれた、防犯カメラなどがついた自動販売機のセンサーライトをハンマーでたたき壊していた19の会社員が、張り込みだった3人の豊橋署員に追跡され逮捕された。この会社員は、過去4回のいたずらも自分がやったと自供しているという。

このニュースは以前このブログでも触れたが、私が知っていた以外にも2回の被害があったようだ。つまり、この防犯カメラ付き自販機は、4回にわたって、自分を攻撃する犯人を撮影できなかったことになる。

本当に張り込み中だったかどうかはやや疑問だが、市民の安全を守るというのなら、自販機の回りに張り込むよりほかに、やるべきことがあると思う。(小林)

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2009年6月28日 (日)

婚外子の相続差別は少子化の一因か?

628日の日本経済新聞社説「日本の『結婚』は今のままでいいのか」は、法的に結婚していない両親から生まれる「婚外子」の割合が欧米諸国で増え続けているのに対し、日本では格段に低いことを指摘し、出生率上昇の障害を取り除くためには、「婚外子の相続差別を無くさねば始まらない」と言う。

さっぱり分からない。

民法9004項は、嫡出でない子(婚外子のこと)の法定相続分は、嫡出子の2分の1と定める。この条文については、憲法の定める平等原則違反だという議論がある。私は、合憲論違憲論とも理解できる。理解できないのは、これと少子化問題を結びつける社説の考え方だ。だって、婚外子の相続分差別のせいで、子作りや出産をためらうカップルって、いるのだろうか?いるとするなら、若いのに、よほど金持ちで、よほど心配性なんだろうなあ。

もちろん、婚外子を作るカップルは、両方若いとは限らない。その典型は、妻子のある男性が愛人との間に婚外子を作るパターンである。相続分の差別が問題になるのも、このパターンが多い。この差別が合憲か、あるいは妥当かという問題は別途議論いただくとして、この問題と少子化との間に、関係があるのだろうか?もし相続差別を撤廃したら、いわゆる不義の子は増えて、少子化問題が少しでも解消に向かうのか?

この二つの例を比べていただければ分かるが、「婚外子」の相続差別の問題は、「婚内子」(こんな言い方はしないのだけれども)がいるから発生する。事実婚を選択したカップルや、誰とも籍を入れていない男女間で生まれた子供は「婚外子」だが、これと相続分を争う「婚内子」がいないから、相続差別は受けない。そして、少子化対策問題と関係する「婚外子」は、籍を入れない若い男女の間の子、すなわち相続差別を受けない婚外子が(少なめに見積もっても)大半だ。だから、理論的に見ても、婚外子の相続差別問題は、少子化問題の一因ですらない。

少子化問題は大事だろうし、家族法を少子化対策の観点から見直すことにも異論はない。ただ、その切り口として婚外子の相続差別をもってくるのは、見当違いだと思う。(小林)

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2009年6月26日 (金)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (8)

中坊公平日弁連会長が唱えた「司法改革」。しかし、これに約5年先立ち、元最高裁板書長官の矢口浩一は「司法改革」に着手していた。

矢口洪一は「ミスター司法行政」と呼ばれ、戦後の裁判所史の中で傑出した人物である。最高裁判所には総務、人事などの行政局が7局あり、どれか一局でも勤めればエリート裁判官と呼ばれるなかで、36年間の裁判官人生中3分の2に及ぶ24年間、実に5局を経験した「エリート中のエリート裁判官」である。ずば抜けて頭がいいことはもちろん、出世競争や政治闘争にも、抜きんでた能力を有していた筈だ。

「裁判所で政治闘争?」と言うなかれ。裁判所にだって政治闘争はある。最高裁ならなおさらである。

矢口洪一を巡る代表的な逸話を二つ紹介しよう。一つは昭和46年(1971年)、宮本康昭熊本地方裁判所判事補が再任を拒否された事件だ。同判事補は左翼系とされる青年法律家協会(青法協)に所属しており、それが再任拒否の理由と騒がれたが、最高裁判所は沈黙を通した。このときの最高裁判所人事局長、すなわち再任拒否の担当責任者が矢口洪一である。判事再任を拒否された宮本康昭はその後弁護士登録し、中坊公平日弁連会長のもと、司法改革推進本部の中心メンバーとなる。それはさておき、この逸話から垣間見える矢口洪一像は、いわゆる「反動司法」「司法の右傾化」を体現し、左翼系弁護士から見れば「悪の親玉」というべき人物であった。

もう一つは、後任の最高裁判所長官指名を巡る逸話である。平成2年(1990年)、矢口洪一が定年を迎える際、後任に指名したのは、本命とされた高齢の裁判官ではなく、裁判官出身の最高裁判事としては最も若い草場良八であった。その前年の参院選で、社会党土井たか子党首によるマドンナ旋風が吹き、自民党が大敗して与野党が逆転した。その翌年にもあると予想された衆議院選挙で与野党が逆転した場合(そして実際そうなった)、内閣が最高裁判所長官人事に介入してくる可能性がある。そう考えた矢口洪一は、定年までの期間が最も長く、裁判官出身の草場良八を最高裁判所の次期長官に指名したと言われている。このエピソードから垣間見える矢口洪一像は、先見の明を備えた老獪な政治家である。

その矢口洪一が、退任の記者会見で、「司法制度の改革」「国民に分かりやすい判決」と唱え、これに先立ち自ら、傍聴人のメモ解禁を実現し、陪審制度の研究に着手した。そこには柔軟な改革者としての矢口洪一像が垣間見える。

「保守反動の司法行政官」「老獪な政治家」と「柔軟な改革者」。この一見相反する矢口洪一像をどうとらえるかは、「司法改革」の意義を理解する上で重要である。(小林)

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2009年6月24日 (水)

大津地裁彦根支部執行官室

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井伊直弼の居城でもあった彦根城二の丸にあるこの建物は、どう見ても番屋である。

裁判所は、この建物が彦根市民にどう見られているか、考えたことがあるのだろうか。

そもそも、「執行官」とは、この番屋で何を「執行」する役人と思われているのだろう。「執行」と聞いて「民事強制執行」を直ちに連想できる市民は少数で、多数は別の「執行」を連想するだろう。いっそ、鉢巻にたすき掛けで抜身の日本刀を下げた侍にうろうろさせたら面白い。

「市民の司法」「国民の司法」というスローガンは大いに結構だが、日本の裁判所の多くがなぜお城にあるのか、考えてみることも大事だと思う。〈小林〉

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日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (7)

中坊公平もと日弁連会長の地位は、衰退する左翼系人権派弁護士と、勃興する企業・渉外法務系弁護士という、分裂する二勢力の微妙な拮抗の上に成立していた。そういえば高校生時代、フランスの絶対王政は衰退する封建貴族と勃興する市民階級との均衡の上に成立したと教わった。中坊公平氏を知る人は、同氏を絶対君主にたとえることに賛成すると思う。

その「絶対君主」中坊公平氏が、日弁連会長としての公約を明らかにするため、選挙公報(平成2(1990)1月発行)で用いたのが「司法改革」という言葉である。つまり、「司法改革」という言葉は、分裂する二勢力を統合する役目を担っていた。

中坊公平氏はなぜ「司法改革」という言葉を使ったのだろう。

実は、「司法改革」は中坊公平氏の専売特許ではない。同時期に「司法改革」という言葉を使った人がいる。もと最高裁判所長官、矢口洪一(故人)である。

平成2(1990)216日、矢口洪一は19日の定年退官前に記者会見を行い、「司法改革が今後の課題」と述べた。この日付は、中坊公平氏が同じ言葉を選挙公報で用いたときより約1ヶ月遅い。しかし、矢口洪一は昭和60年(1985年)の最高裁判所長官就任後、法廷傍聴人のメモ解禁、陪審制度の研究や弁護士任官制度の採用など、裁判所の様々な制度改革に取り組んでいた。一方、選挙公報で中坊公平氏が唱えた「司法改革」は、「法廷に一輪の花」というスローガンが象徴するとおり、裁判所改革と裁判制度改革を意味していた。つまり、中坊公平氏は、矢口洪一の改革を受けて、「司法改革」を唱えたのである。そうだとすれば、中坊公平氏の掲げた「司法改革」の意味を知るためには、矢口洪一の実践した「司法改革」の本質をとらえる作業が不可欠である。(小林)

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2009年6月22日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (6)

大川真郎弁護士著「司法改革~日弁連の長く困難なたたかい~」によれば、司法改革は1990年、中坊公平氏の掲げた司法改革宣言が全会一致で可決されたときに始まったという。

しかし、1980年代後半以降、日弁連は二つに分裂していた。ごく大雑把に分類すると、一方は共産主義の失敗により存在意義を失いつつあった左翼系人権派弁護士であり、他方は、日本経済の発展に伴い勃興した企業・渉外法務系弁護士である。

もっとも、実態がそれほど単純でないことは、昭和61年(1986年)、昭和63年(1988年)と2回続いた日弁連会長選挙で、企業・渉外法務系側の候補が2回とも落選したことに表れている。いわゆる左翼系人権派弁護士は、当時すでに数的優位を失っていたかもしれないが、選挙になると強かった。金にならない人権活動に無関心な企業・渉外法務系弁護士と異なり,左翼系人権派弁護士は,日常の地味で過酷な人権活動を実直にこなす中で、全国的かつ強固な人脈を形成しているため、選挙においては、圧倒的な組織力を発揮するからである。また、業務上は人権活動とは全く無縁で、金儲けしか考えていないように見えても、左翼系人権派弁護士に心を寄せている弁護士は、筆者の実感としても、とても多い(業界的には「本籍と住所が違う」と言う)。こういった弁護士の心の持ち方は、興味深い問題であるが、本稿の主題とやや外れるので、措いておく。

企業・渉外法務系弁護士にとってもう一つの難敵は、地方単位会であった。日弁連会長選挙で当選するには、総得票数で一位になるほか、全国52単位会中18単位会で一位になる必要がある。しかし、法曹人口増を容認しがちな企業・渉外法務系弁護士の姿勢は、大都市圏ほど企業法務が発展していない地方単位会から、警戒の眼で見られていた。

これに加え、激戦の選挙に二回続けて敗れることは、ものすごい消耗である(業界的には「選挙疲れ」という)。3回目を戦える有力な候補者がいなければ、大同団結の道を探ることも当然と言えよう。

他方、左翼系人権派弁護士の側にも、政府与党の政策に反対するだけでは何の成果もえられず、組織的にもじり貧になる、という危機感があった。「日弁連五十年史」には、「(弁護士は)自身の手で司法政策を変更することもその遂行に歯止めをかけることもできず、虚しく反対と抗議を繰り返してきた」とある。昭和40年代以降の「反臨司路線」が「何でも反対の日弁連」「口だけの日弁連」というイメージを固めてきたことは、反臨司路線の中核を担った左翼系人権派弁護士にとってさえ、ほぞをかむ思いであったことが窺える。

平成2年(1990年)の日弁連会長選挙では、中坊公平候補が圧勝した。8247617という対立候補との票差(当時の有権者数約13900名)は、二つに分裂していた左翼系人権派弁護士と、企業・渉外法務系弁護士の両方が、中坊公平候補を支持したことを意味している。確かに、豊田商事の破産管財人であり、抜群の知名度を誇っていた中坊公平候補は、当時の日弁連の顔に最もふさわしいといえた。

中坊候補自身も、相対立する二勢力の均衡の上に支持されていることを十分承知していた。選挙公報には、両勢力への周到な配慮が見て取れる。また、同氏の就任挨拶には、「もっとも重要なことは約14000人の弁護士が一致団結して仲間割れしないことです。仲間割れは単に私たちの力をそぐだけでなく、目標自体を見失うことにすらなります」とある(「自由と正義」424号)。中坊公平氏は、未だ毀誉褒貶相半ばする人物だが、このような背景からすれば、評価が分かれるのは当然とも言えよう。(小林)

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2009年6月19日 (金)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (5)

東西冷戦構造とその崩壊は、日本の司法、そして弁護士という職業のありかたにも、大きな影響を及ぼした。

東西冷戦下で西側陣営に組み入れられた敗戦後の日本は、1ドル360円という、現在からみれば驚異的な為替レートと「核の傘」とに守られ、輸出産業を振興して復興を遂げる。この間裁判所は「統治行為論」などを用い、日米安保条約や自衛隊の合憲性等、東西軍事バランスにかかわる政治問題に口を出さないという態度を貫き、この態度を日弁連は批判し続けた。

1980年代に入ると、再興した日本の輸出産業が、その庇護者であったアメリカ経済に脅威を与えはじめる。ハンマーで日本車をたたき壊す米国労働者がテレビで報じられたのはこのころだ。産業界の意を受けた米政府は、貿易不均衡是正のため、日本政府に参入障壁撤廃を要求した。その一つに、外国弁護士の国内活動自由化がある。

日弁連は反対した。その理由は、外国弁護士の活動を自由化すれば、弁護士自治が崩壊し、国民の人権が害されるということだった。これが業域保護目的の屁理屈であることは明白だが、政府や産業界は日弁連を擁護した。当時、渉外法律業務に携わる日本の弁護士はせいぜい数百人。外国弁護士の国内活動を解禁すれば、日本の渉外弁護士は駆逐される危険があった。これは日本経済にとってもマイナスである。政府と産業界はおそらくそう考え、日弁連と共同戦線を張って、アメリカの要求に抵抗した。もちろん、これは短期的な話であり、中長期的には、外国弁護士に対抗しうる量と質をもつ国内弁護士を養成することが、政府の課題となった。

いわゆる外弁問題は、日弁連が自分自身の問題として対面した、初めての国際問題であった。同時に、政府と共同戦線を張らなければ解決しない問題でもあった。このとき、企業法務や渉外法務に携わる弁護士は、何かと言えば政府に反対しかしない左翼系人権派弁護士を、苦々しく見ていたことだろう。

昭和60年(1985年)、アメリカの巨額の貿易赤字を解消するため、先進5ヶ国が為替レート介入を行い、円高ドル安誘導を行うことが決まる(プラザ合意)。そして、円高による打撃から国内産業を保護するためとして大規模な金融緩和が行われ、これがもたらした空前の金余り現象は、不動産や金融・株式相場の爆発的な高騰を招いた。いわゆるバブル景気である。

金融経済の発展は、企業法務と呼ばれる弁護士の職域を拡大し、多額の経済的利益を弁護士にもたらした。田中森一もと弁護士著「反転~闇社会の守護神と呼ばれて~」によれば、昭和62年(1987年)に検察官を辞職し弁護士として独立した際、開業祝いとして贈られたゴルフバックに現金6000万円が詰め込まれていたという。これは極端な例であるが、戦後の経済発展とバブル景気は、弁護士という職業のあり方を大きく変えていった。企業法務や渉外法務が花形とされ、若くして司法試験に合格した優秀な司法修習生には、大規模法律事務所が多額の年収を保障し青田買いを競った。

余談になるが、平成元年(1989)、坂本堤弁護士一家がオウム真理教幹部に誘拐された後公開された同弁護士の自宅は、坂本弁護士が経済的にとてもささやかな暮らしをしていたことを示していた。坂本堤弁護士は人権活動に熱心に取り組んでいたが,共産党系法律事務所に所属し神奈川県警と対立していたため,誘拐された後も警察が初動捜査を怠ったという話もある。同じころ、筆者が就職活動のため訪問した大阪の中規模企業法務事務所のパンフレットには、テニスラケットを持って大型のベンツに寄りかかる新人弁護士や、豪華ヨットを借り切っての事務所旅行の写真が掲載されていた。

このころ、若い修習生の多くが弁護士となったため、その割を食って裁判官、検察官志望者が減少し、特に裁判官に比べ転勤が多く定年が早い検察官の志望者が激減して、検察庁と法務省とは危機感を募らせていた。(小林)

                  

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2009年6月17日 (水)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (4)

 本論に戻ろう。

昭和61年(1986年)、昭和63年(1988年)と続いた日弁連の分裂。これは決して、日弁連という小さなコップの中だけの事象ではない。日本の、そして世界の動きを反映している。それは一言で言えば、イデオロギーという「大きな物語の終わり」だった。そして、イデオロギーが滅びた社会では、宗教が力を持つことがある。

1980年代後半は、東側陣営の標榜する共産主義の失敗が明らかになる時代だった。第二次世界大戦終結時に始まった東西冷戦は、それから40年を経て、経済的には西側資本主義陣営の圧倒的優位を迎える。ロナルド・レーガン米大統領が莫大な国家予算をつぎ込んで軍拡競争を仕掛けると、体力を失った共産主義陣営は自己崩壊を始める。1989年にはベルリンの壁が崩壊し、1991年にはソ連邦が消滅して、東西冷戦は東側の敗北で終結した。

東西冷戦の終結は、国内政治に55年体制の終結をもたらした。すなわち、自由民主党対社会党という対決の構図、とりわけ社会党の存在意義は失われる。社会党は平成元年(1989年)こそ、土井たか子委員長の「マドンナ旋風」で一時的に議席を伸ばすが、その後左右への大きな迷走を繰り返し、分裂し消滅する。

国内政治体制の大変革は、日弁連にも大きな影響を与えた。権力の不当な行使に異議を唱え弱者の人権を守るという日弁連の看板は、理論的には共産主義と無関係である。しかし、55年体制下で「右翼」与党と「左翼」野党という構図が長年間続いた日本において、日弁連の看板が左翼政党のそれと似通ってくることは当然ともいえた。そのため、東西冷戦が左翼勢力の敗北に終わり,55年体制が崩壊すると、弁護士会内の左翼思想もその存在意義を問われ、現実路線(中道左翼)と原理主義路線(極左)に分裂していく。

土屋公献執行部が迷走し、日弁連が解体の危機を迎えた平成7年(1995年)、社会党が自衛隊違憲論を撤回して「右旋回」し、自民党と連立与党となっていたことは、単なる偶然ではない。この後社会党は「左」に揺れ戻し、分裂し、滅びの道をたどる。日弁連の歴史を振り返るとき、社会党との共通点が多いことに気づく。(小林)

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2009年6月15日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (3)

本稿以前の弁護士の歴史を簡単に振り返るため、小山稔弁護士による「戦後弁護士論序説」(「変革の中の弁護士」(上)所収)を要約してご紹介したい。

明治維新以来、戦前の70年間、弁護士は「三百代言」と蔑称され、各省の通達や規則の立法趣旨を論じることさえ禁止され、司法官僚である裁判官・検察官より低い地位におかれ、戦時中は「正業に就け」と揶揄されるほど経済的に困窮した。この差別は、弁護士層に司法官僚に対する抜きがたいコンプレックスと、その反動として強烈な対抗意識である「在野の精神」を植え付け、「法曹一元」「弁護士自治」を悲願とする土壌を作った。また、弁護士に対する抑圧は、その反動として団体内部における上昇志向と権力志向を強め、人事問題に対する強烈な執着心として現れる。明治13年以降、東京代言人組合は分裂を繰り返し、遂に大正12年と15年の分裂騒ぎにより、第一東京弁護士会と第二東京弁護士会が設立される。東京や大阪では、この騒ぎはしばしば暴力沙汰となり、監督権者である検事や検事正が議場に臨場して取り鎮める事態が頻発した。

昭和20年(1945年)の敗戦とGHQは、日本の弁護士に、世界に類を見ないほど完全な自治権と、裁判官・検察官との身分差別の撤廃をもたらした。また、抑圧の中で実力を付けていた弁護士が主導して、昭和24年(1949年)に新弁護士法が制定された。敗戦から昭和30年ころまでは、戦後弁護士の昂揚期であった。

昭和32年、日弁連は法曹一元制の実現に動き出す。しかしこの法曹一元論は、「弁護士が裁判官・検察官になることこそ司法の民主化である」という、戦前のコンプレックスがそのまま反映した、あまりに独りよがりな観念論だった。昭和39年、臨時司法制度調査会は、法曹一元制度を「望ましい制度」としながらも、その採用を見送る。同時にこの調査会意見書は、法曹人口の飛躍的増加、弁護士の地域分布の平均化等を提言した。臨司意見書は,日弁連の決定的な分裂を招き、多数は「反臨司路線」に終結し、意見書に対する全面対決の姿勢を取る。中堅・若手弁護士は、臨司意見書を主導した弁護士会の長老と対立し、排除したうえ、臨司意見書に基づく司法協議会準備幹事から日弁連委員を引き揚げた。これにより、昭和40年以降平成元年まで、司法制度はほとんど何の改革もなされなかった。著者は「日弁連の『反臨司路線』は『司法改革』を20年遅らせたとの批判を免れない」と言う。

その後昭和40年代後半以降の「司法反動の時代」「荒れる法廷」「刑法・少年法改正」「弁護人抜き法案」の攻防を経て、日弁連は、裁判所・法務省に対する当初の全面対決の姿勢から、協議交渉による解決へと重心を移していく。その背景には、弁護士過疎問題や、「交通戦争」を処理する弁護士の過少など、弁護士に対する国民的信頼の低下があった。また、戦後高度経済成長は、弁護士の業務領域や人権活動領域の拡大・多様化、会内世論の多様化をもたらす。

このような歴史を概観した上で、著者は、それまで弁護士が金科玉条としてきた「人権擁護と社会正義の実現」、「弁護士の公共性(プロフェッション性)」、「在野性」について、その歴史的意義を認めつつも、硬直性を批判し、「冷静でバランス感覚に富む思考」に基づく「明日の弁護士、弁護士会」を考えるべきであるとする。

私の要約が正しいか否かは自信がない。興味を持たれた方は、是非原典に当たってほしい。もちろん小山弁護士の提言をどう評価するかは自由だが、それ以前の問題として、弁護士会が戦前からこのような対立と分裂を繰り返してきたこと、現在に続く弁護士の選挙好きと派閥好き、一部に見られるアジ演説のような主張の源流がどこにあるかを知ることは、若手の弁護士にとって、とても重要だと思う。多くの先輩は、こういう恥部を教えてくれないからね。(小林)

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2009年6月11日 (木)

株主はなぜエライのか?

日本経済新聞の「大機小機」は,匿名ならではの鋭い切り口がウリなのだろうが,稀に,とてもレベルの低いコラムを掲載することがある。

611日の「株主による企業統治を疑う」という大層な表題でコラムを書いた「猪突」氏は,「なぜ上場企業の株主にこれほどまでに大きな権限が与えられているのだろうか,という素朴な疑問」から始まり,「会社の様々な利害関係集団の中でも貢献が目立たないのが株主である。にもかかわらず企業統治に関し過大ともいえる大きな権限が与えられている理由は」株主が会社の所有者であるという「法技術的な解答」や,会社債権者よりリスクが高いという「まっとうな答え」でも説得力が無く,結局「歴史的な経緯でこうなった」のに過ぎないのだろうと言う。

過大か否かはさておき,株主は企業統治に関して大きな権限を持つ。株主総会には経営陣の任免権があり,黒字の会社を潰すことだってできる。その根拠は何か。株主は出資者だからである。「猪突」氏は知らないようだが,こんなことは基本の基本である。出資者とは,起業するときや事業を拡張するとき,起業家の器や事業の将来性に賭けて資本を提供した人だ。つまり会社の生みの親であり育ての親である。芸能人のパトロン,相撲取りのタニマチである。「会社に対する貢献が目立たない」とは何事だろう。こういう手合いを俗に「恩知らず」という。

こういう批判記事を書くとピントのずれた反論をする人がいるからあらかじめお断りしておくが,私は,株主の権限を制限するべきだというコラムの主旨に対して賛成も反対もしない。私が言いたいのは,猪突猛進も結構だが,大層な主張をする前に,基本の基本くらい勉強しないとダメだ,ということである。(小林)

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2009年6月10日 (水)

防犯カメラのニュース4題

2009年6月5日のasahi.comによると,警察庁は,補正予算59千万円で,全国15箇所の小中学校近くの住宅街に25台ずつの防犯カメラ計375台を設置する。防犯カメラは,地元の警察と日頃協力的な民間の防犯ボランティア団体に管理してもらう。カメラ画像を見るのは原則,犯罪などがあって捜査上必要な場合に限る。記事は,プライバシーとの関係で論議を呼びそうだとも伝えている。

麻生内閣の巨額補正予算は,繁華街や商店街だけでなく,一般の住宅街への防犯カメラ設置を現実化した。適切なプライバシー保護方策をとる必要があることは言うまでもないし,警察もそうすると言っているようだ。

しかしそれなら,「地元警察と日頃協力的な民間の防犯ボランティア団体」に協力してもらうというのはいかがなものか。そもそも,この「民間の防犯ボランティア団体」とは何なのか。仮に町内会で組織した自警団のような団体であるなら,プライバシー保護の見地からは完全に落第である。なぜなら,そのような団体には法人格がない。法人格がない団体は,責任の所在が曖昧である。そのような団体にカメラ画像の管理を任せるのでは,管理上問題があっても責任を問えないからだ。

同日のIT proは,「1万台超の監視カメラ監視にはインテリジェンスが必要」というスウェーデン監視カメラ会社CEOのインタビュー記事を掲載した。発言の要旨は,ストックホルムで15000台のバスに監視カメラを設置する事例で,カメラに対する撮影妨害行為(タンパリング)の自動警告機能や,自動画像処理機能を備えた次世代監視カメラについてのものであるが,これらの機能に限らず,監視カメラ技術のハイテク化は,日進月歩であるし,このような技術が無ければ,増える一方の監視カメラを管理できない。

6月4日の「アキバ経済新聞」は,秋葉原先端技術実証フィールド推進協議会が数百万フレームの画像を対象に1秒以内で類似した特徴を持つ顔画像を検索することによって特定の人物を捜し出す「類似検索技術」の実証実験が開始されたと報じた。これも,監視カメラシステムが必然的に歩むハイテク化である。なお,膨大な顔画像の瞬時検索が可能になったということは,この顔画像の保有者は当然,いわゆる個人情報保護法の定める個人情報取扱事業者に該当することになり,様々な法的義務を負うことになる。分かっているとは思うけど。

6月6日の毎日jpは,タスポ無しでタバコが買えると評判を呼んだ「顔認証方式」自販機が,10歳児でも購入実例があることが判明し,そこで認証基準を見直したところ,明らかな成人でも購入が拒否されるというクレームが続出していると報じた。先端技術でも,いざ実用段階になると,うまくいかないことが多いのだろう。(小林)

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2009年6月 8日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (2)

宗教書の目的は、その宗教を権威づけることにある。また、宗教が語る理想は、これと正反対の現実があることを示す。

キリスト教徒でなくても、教養のため、あるいは退屈な出張先のホテルで、新訳聖書を読んでみようと思った人は少なくないと思う。そして筆者を含め多くが、1ページ目で挫折する。あの、「ナントカはナントカの父、ナントカはナントカの父…」と延々と続く無意味としか思えない記述は何なんだ、と。余談だが、筒井康隆の「バブリング創世記」は、この部分のパロディとして傑作である。

しかし、聖書の1ページ目である以上、無意味なはずはない。そこには、キリストの出自に正統性を与え権威づけるという、宗教にとって最も重要な意味が込められている。キリスト教が数ある新興宗教の一つだった時代に、教祖の血統が極めて重要だったことは当然である。そして、新約聖書冒頭の名前の羅列を辿ると、キリストは始祖アブラハムとダビデ王の血統と書いてある。

日本文化の「聖書」ともいうべき17条憲法は、「和を以て貴しと為す」で始まる。よく言われるように、当時の日本が平和に満ちていたなら、この言葉は冒頭に来ない。争乱の時代であるからこそ、「和」を説く意味がある。日本人の理想とされる「和の文化」は、争乱の世から生まれたのだ。

大川真郎弁護士(大阪)著「司法改革 日弁連の長く困難なたたかい」は、平成2年の日弁連「司法改革宣言」が、満場一致で採択されたとの記述から始まる。冒頭にこの事実を記したのは、聖書と同様、司法改革という理念に正統性を与え、権威づける意図に基づく。そして、「満場一致」と記されているのは、当時の日弁連が分裂していたことを示している。

平成2年(1990年)の司法改革宣言から、話は4年、すなわち日弁連会長の任期にして2期遡る。昭和61年(1986年)の日弁連会長選挙では、本命と言われた東京弁護士会の児島平候補を破り、神戸弁護士会(現兵庫県弁護士会)の北山六郎候補が勝利した。東京と大阪以外の地方単位会の弁護士が日弁連会長になったのは、当時30年になる日弁連の歴史の中で、初めてだった。朝日新聞は、「異変」と報じ、「会長職をたらい回しにしてきた東京と大阪に対する地方の反感」と、「革新系グループの組織的な運動」が北山六郎候補当選の原因と分析した。選挙の前年には、日弁連執行部の提案した弁護士の広告解禁案が、総会で事実上否決されるというハプニングもあり、波乱の芽はあったとされる。

この選挙では、「都市と地方」「企業系弁護士と人権派弁護士」という対立軸を挟んで、日弁連が二つに分裂した。

また、昭和62年(1987年)になされた、いわゆるスパイ防止法案反対決議に対して、100名を超える弁護士が原告となり、同決議は弁護士会の目的を逸脱し、会員の思想良心の自由を侵害するとする訴訟が提起された。

そして、北山六郎会長の任期が終わる昭和63年(1998年)、日弁連会長職は、再び選挙で争われ、またも波乱が起きた。

この年の日弁連会長選挙は、当初、佐藤庄市郎弁護士(一弁)と、小林宏也弁護士(東弁)の一騎打ちと見られていた。しかし、佐藤庄市郎弁護士が、前年のスパイ防止法案反対決議を念頭に、強制加入団体である弁護士会は、政治的争点やイデオロギーに関わる発言を抑制すべしとする「自制と限界」論を唱えたのに対し、「在野性の危機」を訴える東京弁護士会の中堅・若手弁護士が、人権派の長老とされる藤井英男弁護士を担ぎ出したため、熾烈な三つ巴の闘いが展開された。この「保革対立」という日弁連始まって以来の路線闘争は、藤井英男候補が僅差で制する。

しかし、「保革対立の図式は単純には当てはまらない」と朝日新聞は分析する。藤井英男候補は、地方都市では圧勝するが、大都市では佐藤庄市郎候補とほぼ拮抗していた。企業法務の第一人者であり、後の最高裁判事となる佐藤庄市郎弁護士は、司法試験合格者増を含む司法試験制度改革に積極的な立場をとったが、地方では、「これ以上弁護士が増えると、仕事が減る」と改革に消極的な意見が強く、これが、藤井英男候補への支持に繋がったという分析だ。

このような分析を経て、朝日新聞は、「人権派が在野で革新」「実務派が官庁寄りで保守」という単純な図式ではとらえられず、むしろ人権派が時代の変化に対応しきれず保守化・硬直化しているのではないかという。佐藤庄市郎弁護士の善戦は、「日弁連既存路線への不満や批判が一定の潮流をつくりつつあることを示している」と結んでいる。

藤井英男候補は選挙公報で、「弁護士会の生命は、その在野性にこそある」と力説した。この主張は、現在反主流派の代表である高山俊吉候補の主張と、驚くほど似通っている。このことは、藤井英男候補を支え、現在も司法改革路線の中核となっているグループが、実は反主流派と同じDNAを持つことを示している。つまり、彼らと反主流派は、仲の悪い兄弟なのだ。(小林)

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2009年6月 5日 (金)

「新左翼の遺産」大嶽秀夫著

「新左翼」に関連する本を片っ端から読んだ。なぜか幻冬舎刊が多いが、ご紹介するのは東京大学出版会である。小泉元首相をはじめ、現代日本の舵取りを担う世代が新左翼の遺産を引き継いでいるというのが主旨である。

新左翼とは、共産党・社会党など既成左翼(旧左翼)を批判し、既成左翼よりさらに左に位置する原理的共産主義運動であり、日本では、60年安保から70年安保前後に青春を迎えた「団塊の世代」がこれを担った。平たく言うと、60年安保で共産主義同盟(ブント)の一員として国会議事堂敷地に突入した際死亡した樺美智子に世代的共感を持った当時の若者である。

新左翼勢力はその直接行動主義から「過激派」と呼ばれ、内紛と分裂を繰り返し、1972年の浅間山荘事件を境に衰退していく。

それだけならそれで終わりだ。新左翼はその行動(事件)によって歴史に残ったが、これが新左翼と言える思想体系は何も遺さなかった。しかし、思想といえるほど体系的ではない何か、「気分」とも「風潮」とも言うべき何かが、政治的立場の違いを問わず、団塊の世代を中心に遺された。大嶽秀夫は、これを「新左翼の遺産」という。

その気分とは、例えば理想主義、殉教精神、反権威主義、反パターナリズムであり、弱者や被差別者に対する偏愛と自己否定(加害者意識・自虐史観)、強烈な直接民主主義志向とエリート意識であって、これらが矛盾をはらみながら混じり合ったものである。なにしろ「思想」ではなく「気分」なので、自己矛盾があっても平気なのだ。そして新左翼の遺産は、具体的には、(団塊の世代の)子供らへの丸刈り強制・制服強制反対運動、マイノリティ(ゲイ・レズビアン)擁護、男女平等運動やDV、パワハラ、セクハラ、アカハラ否定運動に結びついていく。

大嶽秀夫はまた、小泉内閣は、一面で新自由主義(ネオ・リベラリズム)的であるが、これが同時に、新左翼の遺産を受け継いだ政権であり、これは例えば、男女共同参画社会の目標化や司法改革(裁判に対する国民参加)などにあらわれているという。そういえば、小泉元首相には、ハンセン氏病患者に対する劇的な対応や、一種の理想主義、革命指向等、新左翼的という説明が可能な行動や思考がとても多いことに気付く。もちろん、小泉だけでなく、この世代の知識人には、政治的立場を問わず、新左翼的「気分」に支配された人がとても多い。特に、福井秀夫など、かなり極端な新自由主義者は、新左翼に分類した方が分かりやすい。

「団塊の世代」は、ここ10年ほど社会の主役として活動し、多くは定年を迎えて引退しつつあるが、社会のリーダー格となった「団塊の世代」は、今後10年は日本の舵取りとして生き残るだろう。ということは、現代社会を読み解くキーワードとして「新左翼」は欠かせないことになる。「いまさら」新左翼を取り上げた大嶽秀夫の問題意識はおそらくこの辺にある。

私の問題意識もとても近い。1998年ころ以降、突如盛り上がった「司法改革」を推進した弁護士たちは、「団塊の世代」であって,「新左翼の遺産」を受け継いでおり,青臭い理想主義、反パターナリズム、直接民主主義、革命指向、エリート意識という「気分」に支配されていたというのが今の私の考えである。そしてこれらの弁護士たちは、ここ数年間、各弁護士会の会長を担う世代となり、今後数年間の弁護士会を支配していくであろう。彼らの行動パターンを読み解くには、新左翼的「気分」への理解が不可欠であると思う。(小林)

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2009年6月 3日 (水)

仮釈放者に電子足輪

6月1日の読売新聞によると、法務省は、GPSを使って仮釈放者の行動を把握する仕組みの検討を始めた。当面の対象は性犯罪者であるという。

電子監視については、すでにご紹介したところであり、法務省はもう数年前から、前向きな検討を開始している。今回報道されたことの意義は、「検討を始めた」というより、検討が大詰めに入ったことを意味するのだろう。もっとも、今回の大型補正予算の余波の一つに過ぎないかもしれないが。

この問題を考えるにあたって持つべき視点は、3つはあると思う。

一つ目は被装着者の人権の問題だ。上記の電子監視は言うまでもなく、被装着者の行動の自由を侵害する。ただ、仮釈放中の者は、もともと刑務所に収容されても文句を言えない立場だから、刑務所の外で暮らせる代わりに電子足輪を付けさせられても、やはり文句は言えない。しかし、仮釈放者への電子監視が認められれば、次は前歴者(特に小児性愛傾向者)の電子監視立法が検討の俎上に載せられるだろう。日弁連は反対するだろうが、ただ反対するだけでは阻止は難しいと思う。少なくとも特定の犯罪については、本人にはどうしようもない「ビョーキ」の側面が強いことが、科学的にも明らかになりつつあるからだ。弁護士としての私の経験で言えば、男の痴漢と女の万引は、かなりの確率で「ビョーキ」である。

二つ目は刑事政策上の問題だ。電子監視は、被監視者を危険な動物と同視する政策である。言い換えれば、本人の努力による更生をはじめから期待していない(すくなくとも、そのように被監視者に思わせる)。このような刑事政策上の考え方は、昔からあるが、実際のところ、とてもコストがかかることが分かっている。人間は、「刑務所」という物理的な隔離装置を開発して長いが、技術の進歩は、電子的な社会隔離を可能にした。しかし、その功罪はまだ分からない。また、社会内更生を考える場合、共同浴場に行けなくなるなどといった日本独特の問題も考慮する必要があろう。

平成18年に法務省で行われた「更生保護のあり方を考える有識者会議」の第15回会議では、佐伯仁志東京大学教授と堀野紀弁護士が、上記二つの視点からだと思われるが、電子監視の導入に消極の意見を述べている。

三つめの視点は、電子監視のリスクだ。特に日本の場合、法務省が電子監視の導入に熱心なのは、刑務所が溢れかけていることに関係があるだろう。電子監視を導入する代わり、簡単に仮出所が認められるようになったとき、法務省は本当に仮出所者を監視できるのか。もし、被監視者が法務相の目を盗んで犯罪を行った場合、法務省が「管理責任」ならぬ「監視責任」を問われるおそれはないのか。

法務省が一番気にすることになるのは、案外、この三つめの視点かもしれない。(小林)

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2009年6月 1日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (1)

1980年代後半以降、日弁連は法曹人口の増員に一生懸命反対しつつ,後退と敗北を繰り返してきた。筆者は様々な視点から法曹人口問題の歴史を振り返ってみたが,どの断面から見ても,日弁連の敗北は明らかだ。

それはそれでやむをえない。誰にでも,負ける時がある。大事なことは,負けを負けと認め,そこから何を学び、次世代に受け継ぐかだ。敗北体験を伝承しない者は、過ちを繰り返して滅びる。歴史を学ぶ意義はここにある。

しかし,平成12年(2000年)からの10年間,日弁連執行部は,法曹人口問題で敗北を重ねた歴史をひた隠しにし、封印してきた。それどころか、「司法改革」の名の下、法曹人口増員を推進してきたかのように喧伝している。その結果、日弁連が負けた事実すら知らない若手弁護士が多い。

後述するように、日弁連は、平成9年(1997年)末ころまでは、法曹人口増員に一生懸命抵抗し、敗北を重ねてきた。ところが、平成10年(1998年)ころ以降、まるで人格が入れ替わったかのように、法曹人口増員を推進する立場に転じている。この転換はなぜ生じたのか。これが、法曹人口問題における、最大の謎と言って過言ではない。

そこで本稿では、「司法改革」という視点から、法曹人口増員の歴史を振り返ってみたい。更新頻度は遅めになる予定だが、のんびりとお付き合い下さい。

さて、司法改革を宗教とするなら、その最新にして正統な伝道書は、平成15年(2003年)の日弁連事務総長である大川真郎弁護士(大阪)著「司法改革 日弁連の長く困難なたたかい」である。

同著の冒頭には、平成2年(1990年)5月に高知市で開催された日弁連定期総会で、「司法改革に関する宣言」が満場一致で採択されたとの記述がある。日弁連が「司法改革」という言葉を公式に採用したのはこのときが最初であるため、「高知弁護士会の中には、この宣言が坂本龍馬出生の地で採択されたことを、今も誇りにする弁護士がいる」という。

この文章からは、日弁連は平成2年(1990年)以降、一致団結して司法改革に向けた「長く困難なたたかい」を続けてきたように見える。

しかし、実態は正反対である。

このとき、日弁連は真っ二つに分裂していた。(小林)

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