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2009年6月26日 (金)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (8)

中坊公平日弁連会長が唱えた「司法改革」。しかし、これに約5年先立ち、元最高裁板書長官の矢口浩一は「司法改革」に着手していた。

矢口洪一は「ミスター司法行政」と呼ばれ、戦後の裁判所史の中で傑出した人物である。最高裁判所には総務、人事などの行政局が7局あり、どれか一局でも勤めればエリート裁判官と呼ばれるなかで、36年間の裁判官人生中3分の2に及ぶ24年間、実に5局を経験した「エリート中のエリート裁判官」である。ずば抜けて頭がいいことはもちろん、出世競争や政治闘争にも、抜きんでた能力を有していた筈だ。

「裁判所で政治闘争?」と言うなかれ。裁判所にだって政治闘争はある。最高裁ならなおさらである。

矢口洪一を巡る代表的な逸話を二つ紹介しよう。一つは昭和46年(1971年)、宮本康昭熊本地方裁判所判事補が再任を拒否された事件だ。同判事補は左翼系とされる青年法律家協会(青法協)に所属しており、それが再任拒否の理由と騒がれたが、最高裁判所は沈黙を通した。このときの最高裁判所人事局長、すなわち再任拒否の担当責任者が矢口洪一である。判事再任を拒否された宮本康昭はその後弁護士登録し、中坊公平日弁連会長のもと、司法改革推進本部の中心メンバーとなる。それはさておき、この逸話から垣間見える矢口洪一像は、いわゆる「反動司法」「司法の右傾化」を体現し、左翼系弁護士から見れば「悪の親玉」というべき人物であった。

もう一つは、後任の最高裁判所長官指名を巡る逸話である。平成2年(1990年)、矢口洪一が定年を迎える際、後任に指名したのは、本命とされた高齢の裁判官ではなく、裁判官出身の最高裁判事としては最も若い草場良八であった。その前年の参院選で、社会党土井たか子党首によるマドンナ旋風が吹き、自民党が大敗して与野党が逆転した。その翌年にもあると予想された衆議院選挙で与野党が逆転した場合(そして実際そうなった)、内閣が最高裁判所長官人事に介入してくる可能性がある。そう考えた矢口洪一は、定年までの期間が最も長く、裁判官出身の草場良八を最高裁判所の次期長官に指名したと言われている。このエピソードから垣間見える矢口洪一像は、先見の明を備えた老獪な政治家である。

その矢口洪一が、退任の記者会見で、「司法制度の改革」「国民に分かりやすい判決」と唱え、これに先立ち自ら、傍聴人のメモ解禁を実現し、陪審制度の研究に着手した。そこには柔軟な改革者としての矢口洪一像が垣間見える。

「保守反動の司法行政官」「老獪な政治家」と「柔軟な改革者」。この一見相反する矢口洪一像をどうとらえるかは、「司法改革」の意義を理解する上で重要である。(小林)

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