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2009年6月22日 (月)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (6)

大川真郎弁護士著「司法改革~日弁連の長く困難なたたかい~」によれば、司法改革は1990年、中坊公平氏の掲げた司法改革宣言が全会一致で可決されたときに始まったという。

しかし、1980年代後半以降、日弁連は二つに分裂していた。ごく大雑把に分類すると、一方は共産主義の失敗により存在意義を失いつつあった左翼系人権派弁護士であり、他方は、日本経済の発展に伴い勃興した企業・渉外法務系弁護士である。

もっとも、実態がそれほど単純でないことは、昭和61年(1986年)、昭和63年(1988年)と2回続いた日弁連会長選挙で、企業・渉外法務系側の候補が2回とも落選したことに表れている。いわゆる左翼系人権派弁護士は、当時すでに数的優位を失っていたかもしれないが、選挙になると強かった。金にならない人権活動に無関心な企業・渉外法務系弁護士と異なり,左翼系人権派弁護士は,日常の地味で過酷な人権活動を実直にこなす中で、全国的かつ強固な人脈を形成しているため、選挙においては、圧倒的な組織力を発揮するからである。また、業務上は人権活動とは全く無縁で、金儲けしか考えていないように見えても、左翼系人権派弁護士に心を寄せている弁護士は、筆者の実感としても、とても多い(業界的には「本籍と住所が違う」と言う)。こういった弁護士の心の持ち方は、興味深い問題であるが、本稿の主題とやや外れるので、措いておく。

企業・渉外法務系弁護士にとってもう一つの難敵は、地方単位会であった。日弁連会長選挙で当選するには、総得票数で一位になるほか、全国52単位会中18単位会で一位になる必要がある。しかし、法曹人口増を容認しがちな企業・渉外法務系弁護士の姿勢は、大都市圏ほど企業法務が発展していない地方単位会から、警戒の眼で見られていた。

これに加え、激戦の選挙に二回続けて敗れることは、ものすごい消耗である(業界的には「選挙疲れ」という)。3回目を戦える有力な候補者がいなければ、大同団結の道を探ることも当然と言えよう。

他方、左翼系人権派弁護士の側にも、政府与党の政策に反対するだけでは何の成果もえられず、組織的にもじり貧になる、という危機感があった。「日弁連五十年史」には、「(弁護士は)自身の手で司法政策を変更することもその遂行に歯止めをかけることもできず、虚しく反対と抗議を繰り返してきた」とある。昭和40年代以降の「反臨司路線」が「何でも反対の日弁連」「口だけの日弁連」というイメージを固めてきたことは、反臨司路線の中核を担った左翼系人権派弁護士にとってさえ、ほぞをかむ思いであったことが窺える。

平成2年(1990年)の日弁連会長選挙では、中坊公平候補が圧勝した。8247617という対立候補との票差(当時の有権者数約13900名)は、二つに分裂していた左翼系人権派弁護士と、企業・渉外法務系弁護士の両方が、中坊公平候補を支持したことを意味している。確かに、豊田商事の破産管財人であり、抜群の知名度を誇っていた中坊公平候補は、当時の日弁連の顔に最もふさわしいといえた。

中坊候補自身も、相対立する二勢力の均衡の上に支持されていることを十分承知していた。選挙公報には、両勢力への周到な配慮が見て取れる。また、同氏の就任挨拶には、「もっとも重要なことは約14000人の弁護士が一致団結して仲間割れしないことです。仲間割れは単に私たちの力をそぐだけでなく、目標自体を見失うことにすらなります」とある(「自由と正義」424号)。中坊公平氏は、未だ毀誉褒貶相半ばする人物だが、このような背景からすれば、評価が分かれるのは当然とも言えよう。(小林)

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