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2009年7月 7日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (11)

中坊公平日弁連会長が掲げた「司法改革」という理念は、民意を背景に、裁判所と裁判制度を改革することが第一義であり、この理念をもって、分裂した日弁連の再統合を図るものだった。そして、法曹人口問題や外弁問題などを「各論」として「司法改革」の理念の中に体系づけることによって、日弁連の分裂を避けようとしたのである。

そうは言っても、中坊公平執行部自身が、これら諸問題の体系化を果たしたわけではない。そんな悠長な作業を許さないほど事態は切迫していた。平成3年(1991年)年初、井田惠子日弁連事務総長(故人)が「自由と正義」に記した「当面する重要問題」の筆頭は外弁問題、2番目は法曹人口問題であるが、いずれの問題についても、各論に「司法改革」という言葉は一切出てこない。

法曹人口問題、すなわち司法試験の合格者数問題に関しては、バブル経済の影響等により、若くて優秀な人材が多く弁護士になってしまうことに危機感を強めていた最高裁判所と法務省が、日弁連に対して、「丙案」すなわち若手受験者にゲタを履かせて優遇する案の受諾を強硬に要求していた。日弁連は中坊公平執行部以前に、合格者数年700名への引き上げを提案していたが、最高裁と法務省は、単純増では効果がないと拒否する。中坊執行部1年目の7月には、丙案を受諾するか否かで、日弁連内部が再び分裂する危機が訪れた。ここで中坊公平氏は、「当面5年間、700名への単純増員で様子を見る。それでも企図したとおり若手合格者が増加しなければ、丙案に匹敵する抜本的改革案がない限り、丙案を受諾する」という「解除条件付の妥協案」をひねり出し、会内合意と法曹三者合意に漕ぎ着ける(このあたりの生々しい経緯は「自由と正義」423号に詳しい)。これは中坊公平氏の政治的才覚ともいえるが、問題の先送りに過ぎないともいえた。

しかし、5年経っても期待どおりには若手合格者は増えず、このままでは丙案に匹敵する「抜本的改革案」を日弁連が提示できない限り、丙案実施は必至という情勢になった。

そして平成6年、平成7年度の日弁連会長選挙は、川上義隆弁護士と土屋公献弁護士の一騎打ちとなる。どちらも「司法改革路線の継承」を掲げたから、この選挙はさながら宗派対立である。そして川上義隆候補が「抜本的改革案」として司法試験合格者数年1000人への増員も選択肢に入れるべしと主張したのに対して、これに反対した土屋公献候補が当選した。それぞれの得票数は川上義隆候補4817票に対し土屋公献候補6669。但し東京3会ではほぼ拮抗ないし川上義隆候補が制したのに対し、地方単位会では軒並み土屋公献候補が制した。

つまりこの選挙結果は、中坊公平日弁連会長が当選する以前の分裂した会長選挙の再現である。企業渉外系弁護士側(+都市部)が推したのが川上義隆候補であり、左翼系人権派弁護士側(+地方単位会)が土屋公献候補だ。そして土屋公献日弁連会長は、分裂した一方勢力のみの支持を基盤に、追い詰められた法曹人口問題解決に取り組むことになる。(小林)

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