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2009年7月14日 (火)

「自由とは何か~監視社会と『個人』の消滅」 大屋雄裕 ちくま書房

新宿歌舞伎町には50台以上の監視カメラが設置されており,もはや撮影されずに歌舞伎町に行くことは不可能らしい。アメリカでは,1994年以降,性犯罪前歴者の情報は基本的にアメリカ全土において,インターネットで公開されている。また,一部の州では,前歴者にGPS付足輪を装着させ,小学校など一定の場所に近づくと警告を与える制度が実施されている。

このような,先端技術を用いた監視システムに対して,いわゆる人権派から,個人の自由に対する不当な侵害だ監視社会だという非難がなされている。これに対して大屋は,そもそも犯罪を行う自由はないし,一般市民に~被監視者に対してさえ~一定の利益をもたらしているのは事実だし,適切に運用される限り一般市民の自由を不当に侵害することはないと言う。「監視の背後に人々を幸福にしたいという信念や善意があることは,多くの場合に事実であり,我々は,監視が親切であることを認めることから出発しなければならない」。そして,「監視」に対立する「自由」とはそもそも何かと大屋は問う。近代市民社会に想定する人間は,自由で自律的な意思決定が可能なものであることが前提とされているが,それが人間の実態とかけ離れていることは,すでに証明されている。そうだとすれば,こんな観念上の「自由」をそれほど尊重する必要があるのかと。そもそも近代市民社会が想定した個人の自由が擬制であり,個人と社会の幸福実現のツールに過ぎないのならば,監視強化によって個人と社会の幸福が実現できるとき,「自由」は必要なのだろうか。

この問いに対して大屋は共感を吐露しつつ,「自由を擬制し,自由に基づく選択の結果(リスク)を個人に負担させる」という近代社会のシステムは「まだ」尊重すべき価値があるという認識を本書の結論とする。

刺激的な内容が平易な言葉で論じられており(法哲学書に「がちょーん」が引用されるとは…),大変興味深く読んだ。あえて注文を付けるとすれば,この問題を論じる場合,監視技術の(近い将来における)技術的限界点はどこかという問題と,監視技術濫用のリスクをどの程度見るか,という問題を避けて通ることができないのに,本書はあえてこれらの問題を回避しているように見える点である。著者の大屋氏はまだ30代半ばであり,今後のご活躍を期待したい。(小林)

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