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2009年8月13日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (20)

東西冷戦とその終焉、日本経済の復興とバブル景気の到来そして崩壊が、日本における弁護士会や弁護士のあり方に大きな影響を与えてきたことは、すでに垣間見たとおりである。しかし、日弁連は、東西冷戦終結の5年後に、左翼臭のする「自由と正義」の表紙デザインをようやく差し替えた事実が象徴するとおり、激動する外部に比べれば、その動きは一歩も二歩も遅れていた。

平成8年(1996年)、バブル崩壊は単なる循環型の不景気ではない、底無しで未曾有の経済危機であることが明らかとなっていた。都市銀行を破綻させるべきか否かが、現実問題として政治の俎上に上った。翌平成9年(1997年)から平成10年(1998年)にかけて、北海道拓殖銀行、山一證券、日本債券信用銀行、日本長期信用銀行が破綻する。戦後日本の経済成長を支えてきたシステムが崩壊しつつあることは、誰の目にも明らかだった。日本再生に向け、政治・社会・経済システムの再構築を模索する中で、政治家が司法システムの抜本改革が必要と考えたことは自然である。

しかし、法曹三者は、平成6、7年のすったもんだの挙げ句、司法試験合格者数を当面年1000名、その後年1500名とすることを決め、平成8年(1996年)からまる2年かけてやっと、司法修習期間を2年から1年半に短縮することを決めた。その亀の歩みの過程でさえ、日弁連内部では、修習期間を短縮すれば戦前の分離修習に戻る、日本は再び戦争になるという、かび臭い議論が反主流派を中心に声高になされていた。また、司法研修所の容量や予算では、年間1500名以上の法曹を養成することが物理的に不可能であることも明らかになる。政治家から見れば、日弁連を始めとする法曹三者に当事者能力の欠けていることは明白だった。しかし、「司法制度の改正にあたっては法曹三者の意見を一致させて実施するよう努めなければならない」という昭和45年(1970年)の参議院法務委員会附帯決議は、法曹三者協議に対する政治介入を阻んでいた。

平成9年(1997年)6月、自由民主党司法制度特別調査会は、法曹三者協議のあり方や、上記附帯決議の見直し等をテーマに掲げて発足し、日弁連と最高裁、法務省に同調査会への出席を要請した。6月12日のNHKニュースは、同調査会は12月を目途に法曹人口を大幅に増加させることなどを内容とする大綱をまとめることになったと報じた。

この要請に応じるか否かは、日弁連にとって、政権政党とはいえ一政党への関与が許されるかという難しい問題を含んでいたが、結局、①裁判官・検察官の大幅増員、②法律扶助の拡大、③司法関係施設の拡充整備をはじめとする司法改革の諸課題を検討項目とすることとの抱き合わせで、出席要請に応じた。

このときの日弁連の対応は、どう評価されるべきだろうか。

当時の日弁連司法改革推進センター事務総長であった宮本康昭弁護士(東弁)は、「このときの日弁連の判断は極めて正しかった。実にそのことによって司法制度改革の端緒をつかんだと言えるからである。」と自画自賛している(「司法制度改革の史的検討序説」)。

私は、とても浅はかな評価だと思う。(小林)

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