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2009年8月27日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (24)

推測も交えながらごく簡単かつ乱暴に、日弁連における左翼系主弁護士の歴史をまとめるとこうなる。

日弁連における左翼系弁護士の源流は、昭和20年代の司法研修所を卒業した世代にある。戦前の差別と抑圧を体験した先輩弁護士から、法曹一元の理想をたたき込まれた(当時の)若手弁護士は、昭和39年(1964年)、当時の日弁連指導部が政治的妥協により法曹一元の採用を見送ったことに憤慨して長老支配を排除し、政府や裁判所と徹底的に対立する「反臨司路線」を取る。そのリーダー格だったのが松井康浩弁護士である。東西冷戦下において、徹底的に政府裁判所と対立する「反臨司路線」は、共産主義イデオロギーと合体していった。

しかし、1980年代後半に入ると、西側陣営の敗北と55年体制の崩壊、そして「一億層中流」といわれた経済状況を背景にして、日弁連内の左翼系主流派も衰退を始める。これに対抗して台頭してきたのが、企業法務や渉外業務を取り扱う弁護士だ。この2派は1980年代後半の日弁連会長選挙で熾烈な闘争を繰り広げるものの決着がつかず、1990年に大同団結して中坊公平氏を推す。

平成2年(1990年)以降の左翼系弁護士は、中坊公平氏の掲げる「司法改革」を支持しつつ、法曹人口論に関しては反対もしくは極力漸増の立場を取った。しかし、平成6年(1994年)、左翼系弁護士の支持を受けた土屋公献日弁連会長の下での、それまで年700名まで認めていた司法試験合格者数を年800名かつ5年間据置にするという日弁連臨時総会決議は、世論の轟轟たる非難を浴びたあげく、年1500名への流れを決定づけるという「藪蛇」に終わる。この敗北により左翼系弁護士は、イデオロギー色を薄め、民意を汲んで年1500名を受け入れる多数派と、イデオロギー色を維持し、徹底抗戦を叫ぶ少数派に分裂し、少数派は日弁連主流派から排除され、高山俊吉弁護士を推す「一条の会」の源流となる。一方、主流派にとどまりつつも、法曹人口問題での敗北感に打ちのめされていた左翼系弁護士の目の前に降って湧いたのが、「反臨司路線」での宿敵矢口洪一本最高裁判所長官が口火を切った「法曹一元」論の復活であった。

法曹一元論は、左翼系主流派弁護士の少なくとも一部をして、それまで反対してきた法曹人口増に掌を返したように賛成させ、それどころか、年3000名という、当時から見れば途方もない増員賛成へと突き動かしていく。なぜ、法曹一元論は、彼らを突き動かしたのか。それは、法曹一元論が、革命思想だったからだ。表向きイデオロギー色を薄めたところで、人間は一度抱いた革命の理想を簡単に払拭できない。

宗教では、理性ではどうすることもできない人間の本質的な性向を「業」という。近い意味の諺としては、「バカは死ななきゃ治らない」というのもある。(小林)

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