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2009年8月27日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (24)

推測も交えながらごく簡単かつ乱暴に、日弁連における左翼系主弁護士の歴史をまとめるとこうなる。

日弁連における左翼系弁護士の源流は、昭和20年代の司法研修所を卒業した世代にある。戦前の差別と抑圧を体験した先輩弁護士から、法曹一元の理想をたたき込まれた(当時の)若手弁護士は、昭和39年(1964年)、当時の日弁連指導部が政治的妥協により法曹一元の採用を見送ったことに憤慨して長老支配を排除し、政府や裁判所と徹底的に対立する「反臨司路線」を取る。そのリーダー格だったのが松井康浩弁護士である。東西冷戦下において、徹底的に政府裁判所と対立する「反臨司路線」は、共産主義イデオロギーと合体していった。

しかし、1980年代後半に入ると、西側陣営の敗北と55年体制の崩壊、そして「一億層中流」といわれた経済状況を背景にして、日弁連内の左翼系主流派も衰退を始める。これに対抗して台頭してきたのが、企業法務や渉外業務を取り扱う弁護士だ。この2派は1980年代後半の日弁連会長選挙で熾烈な闘争を繰り広げるものの決着がつかず、1990年に大同団結して中坊公平氏を推す。

平成2年(1990年)以降の左翼系弁護士は、中坊公平氏の掲げる「司法改革」を支持しつつ、法曹人口論に関しては反対もしくは極力漸増の立場を取った。しかし、平成6年(1994年)、左翼系弁護士の支持を受けた土屋公献日弁連会長の下での、それまで年700名まで認めていた司法試験合格者数を年800名かつ5年間据置にするという日弁連臨時総会決議は、世論の轟轟たる非難を浴びたあげく、年1500名への流れを決定づけるという「藪蛇」に終わる。この敗北により左翼系弁護士は、イデオロギー色を薄め、民意を汲んで年1500名を受け入れる多数派と、イデオロギー色を維持し、徹底抗戦を叫ぶ少数派に分裂し、少数派は日弁連主流派から排除され、高山俊吉弁護士を推す「一条の会」の源流となる。一方、主流派にとどまりつつも、法曹人口問題での敗北感に打ちのめされていた左翼系弁護士の目の前に降って湧いたのが、「反臨司路線」での宿敵矢口洪一本最高裁判所長官が口火を切った「法曹一元」論の復活であった。

法曹一元論は、左翼系主流派弁護士の少なくとも一部をして、それまで反対してきた法曹人口増に掌を返したように賛成させ、それどころか、年3000名という、当時から見れば途方もない増員賛成へと突き動かしていく。なぜ、法曹一元論は、彼らを突き動かしたのか。それは、法曹一元論が、革命思想だったからだ。表向きイデオロギー色を薄めたところで、人間は一度抱いた革命の理想を簡単に払拭できない。

宗教では、理性ではどうすることもできない人間の本質的な性向を「業」という。近い意味の諺としては、「バカは死ななきゃ治らない」というのもある。(小林)

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2009年8月25日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (23)

平成2年(1990年)以降、日弁連は、「司法改革」を理念として掲げ、法曹人口問題をはじめとする内外の諸問題に司法改革の視点から取り組もうとした。しかし法曹人口問題では、平成7年(1995年)から平成9年(1997年)にかけて大敗北を喫する。そればかりか、日弁連は、その存在意義さえ疑われる。

ところが、その翌年、日弁連は熱気に包まれていた。それは、矢口洪一もと最高裁判所長官が口火を切り、自由民主党が正式な検討課題に掲げた法曹一元論がきっかけだった。

法曹一元論の詳細な内容は別稿でふれたから、本稿では代表的な見解をご紹介するに止める。

松井康浩もと日弁連事務総長(1973年、1974年度)は、自由と正義49巻8号「司法制度の改革と法曹一元制度」(1998年)で、我が国は「支配者」と「国民」に二分されており、法曹一元は司法を支配者から国民が奪取する行為であって、法曹一元が実現されれば、「誰が見ても違憲の」自衛隊は違憲となり、日米安保条約も当然破棄されると言う。そして、これを実現できるのは、法秩序と正義のために、官僚司法と闘う在野法曹である弁護士だけであって、弁護士であれば誰でも良いわけではなく、適切な弁護士を選任する制度がもっとも重要であるという(松井康浩著「法曹一元論」1992年より)。

松井康浩弁護士は、昭和58年(1983年)の東京都知事選に日本共産党推薦の候補者として出馬を取りざたされた人物であり、その旗幟は鮮明だ。その主張する法曹一元は、司法改革を通じて日本に共産主義革命を起こそうというものである。萩原金美神奈川大学教授も、「日弁連型法曹一元論(は)革命の名にふさわしい」と述べている(「法曹一元(論)の試論的検討」神奈川大学法学研究所研究年報4号(1983))。そのほか、このとき積極的に法曹一元を推進しようとした主だった弁護士には、左翼系が目立つ。つまり、法曹一元論は、日弁連の中でも特に左翼系主流派の弁護士を熱狂させたのだ。

もちろん、平成10年(1998年)の日弁連執行部が公式に採用する法曹一元論は、松井康浩弁護士が唱えるような過激なものではない。しかし、思想的な源流は、松井康浩弁護士の唱える法曹一元論にあると見てよい。なぜなら、松井康浩弁護士の唱える法曹一元論に見られる致命的な欠陥を、日弁連執行部が公式採用する法曹一元論は、そのまま引き継いでいるからだ。(小林)

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2009年8月20日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (22)

中坊公平日弁連会長(1990年~1991年)の時代、司法改革とは、左右に分裂した日弁連を統合し、来るべき法曹人口問題において裁判所・法務省に対抗できる交渉力を身につけるための手段であった。

鬼追明夫日弁連会長(1996年~1997年)の時代、司法改革とは、司法試験合格者数年1500名という「敗北」を受け入れ、正統化する一方、さらなる増員を防止するための理念となった。中坊時代にしろ、鬼追時代にしろ、司法改革は、法曹人口問題に対抗する手段として位置づけられてきた。

ところが平成9年(1997年)末ころ、司法改革と法曹人口問題の目的手段関係が逆転をはじめる。つまり、従前の、司法改革=手段、法曹人口問題=目的という関係が逆転して、司法改革=目的、法曹人口問題=手段とされたのだ。すなわち、司法改革を実現する手段として、さらなる法曹人口増を行うべきだという考えが、日弁連内部に台頭する。そのきっかけとなったのが、法曹一元論3度目の復活だった。

思い起こせば、平成元年(1989年)に中坊公平日弁連会長が司法改革を提唱したのは、これに先立つ矢口洪一最高裁判所長官の実践した司法改革を踏まえてのことだった。そして、平成9年(1997年)、法曹人口問題で無残な敗北を喫した日弁連が、法曹人口増推進へと大きく舵を切るきっかけとなったのも、退官した矢口洪一氏の発言だった。

平成8年(1996年)12月23日の毎日新聞で、矢口洪一氏は、法曹一元制度の採用、司法研修所の民間(日弁連を含む)への移管が必要と述べ、陪審制の採用にも積極的な態度を示した。

翌平成9年(1997年)8月30日に日弁連から発行された「あたらしい世紀への弁護士像」のあとがきで、宮川光治弁護士は、矢口洪一氏の発言に「注目すべきである」と記し、日弁連は法曹一元の実現と日弁連が司法研修所を所管することに向けて積極的に行動すべきであると述べた。

同年8月6日、法曹一元をテーマとする日弁連司法改革推進センターの合宿が京都で開催され、この種の集まりとしては異例となる100名以上の弁護士が全国から終結して、熱い議論を交わしたと報じられた(9月1日毎日新聞)。

平成9年(1997年)10月15日の日弁連臨時総会では、決議文の筆頭に法曹一元の実現と記され、これを実現するためとして、司法試験合格者数年1500名と、司法修習期間1年半の受入とが記された。参加者からも、「矢口洪一元最高裁長官でさえ、法曹一元を採用すべきであると述べている」川中宏弁護士 京都)、「日弁連が法曹一元実現のため国民運動を起こすことが執行部案の延長にあると構想して、執行部案を支持する」(斉藤浩弁護士 大阪)、「元最高裁長官やマスコミの論者も、真っ正面から法曹一元の必要性を訴えている。ここ3、4年こそが大きな司法改革、法曹一元に向かって前進する好機」(中村洋二郎弁護士 新潟)といった発言が相次いだ。

平成10年(1998年)6月16日、自由民主党特別調査会は、「21世紀司法の確かな指針」と題する報告書を発表し、法曹一元を検討課題として掲げた。

平成10年(1998年)11月6日、日弁連が高松市で開催した司法シンポジウムは、法曹一元をテーマに据え、全体会はもちろん、3つの分科会すべてで法曹一元を論じ、その成果は450頁を超える書籍「市民に身近な裁判所へ 法曹一元をめざして」にまとめられた。その様子を紹介する日弁連新聞第299号は、「経団連から自民党までが法曹一元導入に賛成しているので、その実現は極めて近づいている」という萩原金美神奈川大学教授の発言を紹介した(しかし同教授の「幻想としての法曹一元(論)」(「民事司法・訴訟の現在課題」所収)によると、条件整備が全くなされていない現状では法曹一元の実現は無理なのに、上記シンポジウムは反対論者も呼ばない『仲良しクラブのイヴェント』であって、このような日弁連サイドの論調に少なからぬ懸念を感じる。もっとも、バブル崩壊と外圧の中、実体を欠いたまま法曹一元の制度だけが実現しちゃうかもしれない、とある。これは日弁連新聞の上記記事とは大分ニュアンスが異なる)。

このシンポジウムの資料によれば、アンケート回答者1685名中9割以上を法曹一元制度導入に積極的な意見が占めたという。しかし先に紹介した萩原教授は、上記論考の中で、「弁護士の側が国民は強く法曹一元を望んでいると無条件的に考えているならばそれは傲慢の謗りを免れない」と厳しく批判している。

同年11月20日、日弁連理事会で全会一致をもって採択された「司法改革ビジョン 市民に身近で信頼される司法をめざして」は、日本国憲法の理念を達成するには、市民に身近な司法を実現する必要があり、そのために法曹一元を導入する必要があると宣言する。

平成9年(1997年)まで、必死で抵抗した法曹人口増問題で敗北を喫し、打ちのめされていた日弁連は、その翌年、法曹一元の実現に向けた熱気に浮かれていた。この子供じみた振幅の大きさに呆れる。このような時に浮かれると大火傷することは経験則だし、なにより、うまい話ほど眉に唾を付けて聞くことは、弁護士として最低持つべき能力の一つであると思う。(小林)

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2009年8月18日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (21)

日本は民主主義国だから、我が国の司法制度をどのように設計するかを決める権限は、本来、国民の代表によって構成された国会にある。しかし、昭和45年(1970年)の参議院法務委員会附帯決議によって、法曹人口問題をはじめとする司法制度改正の権限は、事実上、法曹三者に委ねられていた。しかるに、「失われた10年」の中、21世紀を目前に控え,新しい社会システムを設計しなければならないときに、遅々として進まない法曹三者協議は、政府自由民主党をして、司法制度改正の権限を国会に戻すことを企図させる。大袈裟なたとえだが、大政奉還である。

これに対して日弁連は、いくつかの司法改革課題を検討項目とすることとの抱き合わせで、政府自由民主党の企図に応じた。当時の日弁連司法改革推進センター事務総長であった宮本康昭弁護士(東弁)は、「このときの日弁連の判断は極めて正しかった。実にそのことによって司法制度改革の端緒をつかんだと言えるからである。」と自画自賛している(「司法制度改革の史的検討序説」)。

しかし、この日弁連の対応は、たとえて言えば、肥料の買えない貧しい農夫が、司法制度改革という果実を得るために、農地を地主に譲り渡したに等しい。地主は、潤沢な肥料で土地を肥やし、はじめこそ農夫の望む果実を分け与えるだろうが、次の保証はない。分け与えるとしても、農夫が望む果実とは限らない。「大政奉還」の結果として、その後の司法制度改革に、日弁連はオブザーバーにしかなれず、当事者として関与できない。現に、司法書士への簡裁代理権の拡大は、今後も進行するだろうが、この問題で日弁連が当事者資格を失ったのは、宮本康昭弁護士の言う「実にそのこと」に起因する。2009年現在の法曹人口問題に日弁連が当事者として参加できないのも,「大政奉還」の結果である。言うまでもなく,今後行われる司法制度改革が、日弁連の理想に寄与するか否かは保障されない。

もちろん、この時点で、日弁連にほかの選択肢があった可能性は少ない。だから、このような選択をしたこと自体を非難するつもりはない。しかし、宮本康昭弁護士による手放しの自画自賛ぶりは、浅はかだと思うし、ついて行けない。

本稿の主題である法曹人口論との関係で指摘すべき最も重要な点は、宮本康昭弁護士の手放しの評価に見られる「優先順位の逆転」現象である。平成2年(1990年)に中坊公平日弁連会長が掲げた「司法改革」の目的は、分裂した日弁連を統合し、来るべき法曹人口問題で最高裁や法務省と対決できる実力を蓄えることにあった。平成9年(1997)に鬼追明夫日弁連会長が掲げた「司法改革」は、司法試験合格者数年1500名へという日弁連の敗北を正当化し受け入れるとともに、無軌道な増員に抵抗することを(隠れた)目的とした理念であった。しかし、宮本康昭弁護士の発想は、「司法改革を実現するために法曹人口問題に関する権限を政府自民党に譲り渡す」というものである。ここでは従前と比べて、目的と手段が逆転している。

このような優先順位の逆転現象は、宗教やイデオロギーにしばしば見られる。宗教やイデオロギーはもともと、たとえば「人生の幸福」という目的を実現するための手段だが、熱心な信奉者は時として、目的よりも教義の遵守を優先する。このような熱心さを、原理主義とか教条主義とか言うが、言われた本人に自覚のないことが普通である。

いずれにせよ、このような優先順位の逆転現象は、政府自由民主党から見ると、法曹人口問題は、日弁連にとって、最重要問題ではない、というメッセージとして受け取られた。日弁連は、法曹人口増にあれほど抵抗してきたにもかかわらず、政府側がある種の「飴」を示せば、抵抗しないというメッセージだ。そして、政府自由民主党が「法曹一元」という「飴」の威力に気づくのに、さして時間はかからなかった。(小林)

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2009年8月13日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (20)

東西冷戦とその終焉、日本経済の復興とバブル景気の到来そして崩壊が、日本における弁護士会や弁護士のあり方に大きな影響を与えてきたことは、すでに垣間見たとおりである。しかし、日弁連は、東西冷戦終結の5年後に、左翼臭のする「自由と正義」の表紙デザインをようやく差し替えた事実が象徴するとおり、激動する外部に比べれば、その動きは一歩も二歩も遅れていた。

平成8年(1996年)、バブル崩壊は単なる循環型の不景気ではない、底無しで未曾有の経済危機であることが明らかとなっていた。都市銀行を破綻させるべきか否かが、現実問題として政治の俎上に上った。翌平成9年(1997年)から平成10年(1998年)にかけて、北海道拓殖銀行、山一證券、日本債券信用銀行、日本長期信用銀行が破綻する。戦後日本の経済成長を支えてきたシステムが崩壊しつつあることは、誰の目にも明らかだった。日本再生に向け、政治・社会・経済システムの再構築を模索する中で、政治家が司法システムの抜本改革が必要と考えたことは自然である。

しかし、法曹三者は、平成6、7年のすったもんだの挙げ句、司法試験合格者数を当面年1000名、その後年1500名とすることを決め、平成8年(1996年)からまる2年かけてやっと、司法修習期間を2年から1年半に短縮することを決めた。その亀の歩みの過程でさえ、日弁連内部では、修習期間を短縮すれば戦前の分離修習に戻る、日本は再び戦争になるという、かび臭い議論が反主流派を中心に声高になされていた。また、司法研修所の容量や予算では、年間1500名以上の法曹を養成することが物理的に不可能であることも明らかになる。政治家から見れば、日弁連を始めとする法曹三者に当事者能力の欠けていることは明白だった。しかし、「司法制度の改正にあたっては法曹三者の意見を一致させて実施するよう努めなければならない」という昭和45年(1970年)の参議院法務委員会附帯決議は、法曹三者協議に対する政治介入を阻んでいた。

平成9年(1997年)6月、自由民主党司法制度特別調査会は、法曹三者協議のあり方や、上記附帯決議の見直し等をテーマに掲げて発足し、日弁連と最高裁、法務省に同調査会への出席を要請した。6月12日のNHKニュースは、同調査会は12月を目途に法曹人口を大幅に増加させることなどを内容とする大綱をまとめることになったと報じた。

この要請に応じるか否かは、日弁連にとって、政権政党とはいえ一政党への関与が許されるかという難しい問題を含んでいたが、結局、①裁判官・検察官の大幅増員、②法律扶助の拡大、③司法関係施設の拡充整備をはじめとする司法改革の諸課題を検討項目とすることとの抱き合わせで、出席要請に応じた。

このときの日弁連の対応は、どう評価されるべきだろうか。

当時の日弁連司法改革推進センター事務総長であった宮本康昭弁護士(東弁)は、「このときの日弁連の判断は極めて正しかった。実にそのことによって司法制度改革の端緒をつかんだと言えるからである。」と自画自賛している(「司法制度改革の史的検討序説」)。

私は、とても浅はかな評価だと思う。(小林)

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2009年8月11日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (19)

日弁連は、平成7年(1995年)までは、法曹人口増に頑強に提供した。しかし、同年臨時総会で議決した「年800名の5年据置」案は、轟々たる非難を浴び、弁護士会の存在意義そのものを問われることになった。そこで翌平成8年(1996年)渋々認めた「年1000名」の案も、法曹養成制度等改革協議会の単独少数意見に止まり、年1500名への流れが事実上決定する。そして法曹養成制度等改革協議会は、「法曹三者は、本意見書の趣旨を尊重して、真に国民的見地にたった司法試験制度及び法曹養成制度の抜本的改革を実現させるため、直ちに協議を行い、速やかに具体的な方策を採らなければならない。」と法曹3者にゲタを返した。

法曹人口問題に関する法曹三者協議では決着がつかず、外部委員を交えた法曹養成制度等改革協議会を創設したのに、なぜまた法曹三者にゲタを返すのか?と読者は思われるだろう。

その理由は、「司法制度の改正にあたっては法曹三者の意見を一致させて実施するよう努めなければならない」という昭和45年(1970年)の参議院法務委員会附帯決議にある。この決議によって、法曹三者が合意しない限り、司法制度は改正されないとされていたのだ。これは、昭和45年(1970年)、法務省が簡易裁判所の事物管轄を10万円から30万円に引き上げる法案を日弁連の反対を押し切って提出したため国会審議が混乱したことを受けて決議されたものである。

平成9年(1997年)に就任した鬼追明夫日弁連会長の仕事は、「直ちに」この三者協議を始め、「速やかに」遂行することにあった。しかし、この法曹三者協議は、その後2年もかけたにもかかわらず、「司法修習期間を2年から1年半に短縮する」ことだけしか決まらなかった。あまりの遅さは、当時の法務大臣が「司法制度改革は日弁連抜きで」と発言したほどだった。

もちろん、鬼追明夫執行部が故意にサボタージュを行ったわけではない。執行部としては、年1500名を日弁連として受け入れるための理論づけや、会内合意の取りまとめを行いながらの法曹三者協議なので、必然的に時間がかかる。長年続いた法曹三者間の相互不信もあり、法曹三者協議では解決できない、国家予算という重大な障害もあった。また、これは推測だが、日弁連に限らず、最高裁や法務省も、年1500名への増員に直ちに着手する意欲を欠いていたのではないかと思う。いずれにせよ、外部から見て遅々として進まない法曹三者協議の有様は、政府与党からは、「法曹三者協議」という枠組み、ひいては昭和45年(1970年)の参議委員法務委員会附帯決議そのものの機能不全として認識されることになった。(小林)

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2009年8月 7日 (金)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (18)

現在の日弁連が唱える「司法改革」の内容をなす「アクセス障害の解消」「法の支配」「大きな司法」といった概念は、もともと、司法試験合格者数年3000人への増員を正当化するために編み出されたものではなかった。平成7年(1995年)、法曹人口問題を巡って分裂し、人口増に対して頑強に抵抗したあげく、世論の集中砲火を浴び、年800名どころか、年1500名への流れが決定したため、敗北感に打ちのめされた左翼勢力が、年1500名を正統化する論理として編み出したのが、これらの概念だった。

平成8年(1996年)4月、日弁連会長に就任した鬼追明夫弁護士は、「自由と正義」平成9年(1997年)1月号「年頭所感」において、「憲法理念の具体的な実現、展開の一つとして、日弁連は、市民の司法や弁護士へのアクセス障害を除去するため、法曹人口の一定の増加を図ろうとしています。」と述べた。

この発言は、平成8年(1996年)1年間の議論を経て、中坊公平氏が掲げた当初の「司法改革」概念が換骨奪胎されたことを意味している。すなわち、中坊「司法改革」が端的に裁判所・裁判制度改革を意味したのに対して、鬼追「司法改革」は、「憲法理念実現」のため、「司法へのアクセス障害」を解消し、「法の支配」を実現するため「大きな司法」をめざすものとされた。その結果として、中坊「司法改革」が掲げた「裁判所・裁判制度改革」は、司法改革の第一目標ではなく、複数ある目標の一つに堕とされた。

本稿の主題と関連する限りで、鬼追版「司法改革宣言」の特徴を2点指摘したい。まず、「日弁連は…法曹人口の増加を図ろうとしています」という嘘である。すでに述べてきたところから明白なとおり、この時点で、日弁連が法曹人口の増加を「図ろうとした」ことなど一度もない。第二に、それにもかかわらず、鬼追版「司法改革宣言」にはしたたかな計算が垣間見える点である。「法曹人口の増加」はあくまで「一定の」という縛りがかけられており、また、憲法理念云々に枠づけされることになる。すなわち、鬼追版「司法改革宣言」には、司法試験合格者年1500名への増加を既定のものとして受け入れつつ、無軌道な増加に歯止めをかけようとする意図があった。

大川真郎弁護士著「司法改革 日弁連の長く困難なたたかい」には、鬼追版「司法改革宣言」を「司法改革の新しい視点であった」と総括している。私は、実体はそんな美しいものではなかったと思う。例えるなら、裏切られた恋人に、ぼこぼこに殴られ、涙と鼻血にまみれてすがりついたのが、「憲法理念」というあらたな偶像だったのだ。

ただし、この偶像はヤヌスのように双頭を持っていた。一つの顔は慈悲深く日弁連を見つめ、もう一つの顔は、3000人への道を歩もうとしていたのである。当時の日弁連には、最初の顔しか見えなかった。(小林)

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2009年8月 5日 (水)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (17)

「司法改革」を掲げ、国民を味方に付けることができると信じていた土屋公献日弁連会長と、これを支持した左翼系人権派弁護士と地方単位会の弁護士の目論見は、轟轟たる世間の非難を浴び、年1500名への流れが事実上決定する。これら弁護士には、敗北感を克服し、年1500名を受け入れるための教義が必要だった。

当時、日弁連の外にあって、法曹人口の大幅増員を正当化する理論として存在したのは、弁護士業務に対する規制緩和と自由競争促進こそ、国民の利益に資するという考え方である。そこで、年1500名を受け入れる考え方として、規制緩和と自由競争促進論を是とするか否かが問われた。

後の司法改革推進を担った一人である宮川光治弁護士が編集長を務めた「自由と正義」平成8年(1996年)1月号以降数号にも、規制緩和と自由競争促進の立場からの主張が複数掲載されている。しかし、後の司法改革の中核となる弁護士の論考はいずれも、規制緩和論とは一線を画するものだった。

吉川精一弁護士(後の二弁会長)は、法曹人口増は、弁護士へのアクセス障害を解消するために必要であるとしつつ、その根拠を規制緩和に求めるのは間違いであると言う。そして、規制緩和論は第一に、社会的弱者の弁護士へのアクセス障害を解消しない、第二に、弁護士業務のビジネス性を強調する余り、弁護士自治の崩壊を招く危険があるとして、弁護士業務の公共的性格(プロフェッション)の昂揚こそ必要と説く。塚原英治弁護士(二弁)は、増加した弁護士は企業や行政法務領域に進出すべきとしつつ、「法の支配」を実現する「民衆の弁護士」であり続けるために、「基本的人権の擁護と社会正義の実現」という弁護士法1条の精神を徹底すべしと説く。高橋利明弁護士(東弁)は、国の司法抑制政策、すなわち「小さな司法」が司法の機能不全をもたらしたのだから、「大きな司法」すなわち弁護士人口を含む法曹人口全体の増加、司法予算の大幅増加、法律扶助の大幅増強が必要であると主張した。

本稿でこれら論考の内容には立ち入らないが、重要なのは次の2点である。第1点は、これらの論考は年1500名への流れが事実上決定した後であって、かつ、年3000名への増員は想定されていない時期に著されたものということだ。第2点は、それにもかかわらず、これらの論考には、後の3000人を正当化する考え方が示されていることだ。

つまり、平成8年(1996年)初頭に、司法試験合格者年1500名を事後的に受け入れるため編み出された教義は、その後、もともとの目的を乗り越えて、年3000名を正当化するための教義に変貌していったのである。(小林)

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2009年8月 3日 (月)

ライフログとプライバシー問題の法的切り分け(試論4)

単一端末型

端末横断型

自己回帰型

A

C

外部提供型

B

D

第4に、Dの「端末横断型で外部提供型」の場合はどうか。この場合、個人情報である以上は本人の事前の同意が必要であることは、Bの場合と同じである。問題は、個人情報を除去して抽象化する場合だ。

抽象化する以上は、Bと同じで、単一端末型と端末横断型を区別する必要はないようにも見える。しかし実際にはそうはいかない。

具体例で考えてみよう。花子さんがICカードを使い、東急二子玉川駅から渋谷でJRに乗り換え、新宿で降りて伊勢丹でハンドバックを購入したとする。使ったカードはPASMOとSUICAとクレジットカードだ。この場合、それぞれのカードを通じて記録されたライフログは、次のとおりである。

① PASMO→「花子さん」が○年○月○日○時○分○秒二子玉川駅改札を通過し、同日○時○分○秒渋谷駅改札を通過

② SUICA→「花子さん」が○年○月○日○時○分○秒JR渋谷駅改札を通過し、同日○時○分○秒新宿駅改札を通過

③ クレジットカード→「花子さん」が○年○月○日○時○分伊勢丹デパートハンドバック売場で商品番号○○のハンドバックをリボ払いで購入

①、②、③はそれぞれ一個の端末である。一個の端末ごとにライフログを第三者に提供する場合、プライバシーの問題を回避するためには、それぞれの情報から個人の属性を除去しなければならない。すなわち、上記のログから「花子さん」の部分を削除することになる。具体的には、次のとおりになる。

① PASMO→誰かが○年○月○日○時○分○秒二子玉川駅改札を通過し、同日○時○分○秒渋谷駅改札を通過

② SUICA→誰かが○年○月○日○時○分○秒JR渋谷駅改札を通過し、同日○時○分○秒新宿駅改札を通過

③ クレジットカード→誰かが○年○月○日○時○分伊勢丹デパートハンドバック売場で商品番号○○のハンドバックをリボ払いで購入

ところが、これでは、①と②と③のライフログが、同一人のものであるか否かが分からなくなってしまう。つまり、端末を横断して情報を統合することができない。言い換えると、①と②と③のライフログを統合するためには、「花子さん」という個人の属性情報が不可欠である。だから、「外部提供型で端末横断型」の場合、ライフログを抽象化するためには、抽象化の前に、個人の属性情報をキーにしてライフログを統合する必要がある。言い換えると、Bの「外部提供型で単一端末型」の場合、情報の抽象化はその端末(とその端末用のアプリケーション)の内部で行われるのに対して、Dの「外部提供型で端末横断型」の場合、情報は端末内部では抽象化されず、個人属性情報付の具体的情報が第三者に提供され、ここで統合された後でなければ、抽象化ができない。だから、「外部提供型で端末横断型」の場合、ライフログはかなり重大なプライバシー上の問題を引き起こす。なぜなら、花子さん以外の誰かが、「花子さんは○月○日二子玉川から渋谷経由で新宿伊勢丹に行き、リボ払いでハンドバックを購入した」という事実を知ることになるからであり、これは花子さんにとっては、重大なプライバシー侵害になるからだ。しかし一方、ライフログビジネスのもたらす莫大な経済的メリットは、この「外部提供型で端末横断型」にこそ存在する。

しかし、だからといって、ライフログビジネスに取り組もうと思っている人は、躊躇される必要はない。なぜなら、現在のところ、「外部提供型で端末横断型」のライフログビジネスは、技術的に難しいからだ。今のところ問題となるライフログビジネスは、せいぜい上記のABのパターンであり、アマゾンがやっているとおり、これだけでも十分商売になる。つまり、私が問題点の切り分けを行った趣旨は、「Dの問題は難しいですよ」というよりも、「A、B、Cの問題なら、プライバシーに神経過敏にならなくても大丈夫ですよ」という点にある。そして、そのうちに、Dの「外部提供型で端末横断型」についても、有用な解決策が提示されるだろう。それはおそらく、技術面と法制度面の両面からのアプローチによって解決されることになると思う。(小林)

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