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2009年9月29日 (火)

著作権法と表現の自由(備忘録)

 米グーグルの絶版書籍電子化に関する和解案に関して、2009年9月28日の毎日新聞朝刊「メディア事情」に、岡村久道弁護士が、論考を寄せている。

 この和解案というのは、作者が異議申立をしない限り、金銭補償を条件にグーグルが絶版書籍を電子化して無断利用できるというものだそうだ。

 私は、この問題については全く疎いのだけれども、論考で目を引いたのが、この和解案は表現の自由を害するという岡村弁護士の指摘である。

 すなわち、「表現の自由」は、「沈黙の自由」を含み、これは書籍を「絶版にする自由」も含むから、著作権法は「増刷時に内容を修正増減する権利」や「絶版する権利」を認めてきた。和解案は、この権利を侵害するというのである。

 私のような凡人は、著作権法を財産権的にしか考えていなかったし、どちらかと言えば表現の自由と対立するように思っていた(紀藤正樹弁護士のブログご参照)。しかし、言われてみれば、著作物も表現の一種であるし、著作権法は財産的価値のない著作物をも保護しているから、著作権法も表現の自由の一つの現れだとする岡村弁護士の指摘は、一理あると思う。もちろん、対するグーグル側の電子化・ウェブ上の公開行為も表現の自由によって保障されているから、ご指摘に従う場合、両者は同じ表現の自由として、対等の関係に立つことになる。著作権を財産権とのみ考えると、表現の自由に一歩劣るとなりがちだが、そうではない、というのが、岡村弁護士の論考の眼目だと思う。

 ただ、著作権法上の絶版の権利は、本当に表現の自由の一内容と考えて良いのか、また、仮に良いとして、絶版書籍の電子化・ウェブ上の公開が、既発行書籍に関する著作権の問題として論じれば足りるのではないか、すなわち、わざわざ絶版の権利との対立関係を持出す必要があるのか、については、私の理解はまだ及んでいない。(小林)

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2009年9月27日 (日)

土屋公献弁護士死去

 9月25日、1994年、95年度の日弁連会長、土屋公献弁護士が死去した。86歳だった。

 土屋公献弁護士は、1994年12月21日の日弁臨時総会において、それまで年700名とされていた司法試験合格者数を年800人かつ5年間据え置きとする決議案を支持し、圧倒的多数での裁決に持ち込んだ。そして、当時の法曹養成制度等改革審議会では年1000名か、1500名かという議論をしていたときに800名の5年据え置き案を持っていき、案の定、世論と政府の袋だたきにあい、うろたえたあげく迷走して発言力を失った。

 歴史にIFはないが、このとき日弁連が年1000名以上への増員を決議していれば(そして、もともとの土屋執行部案は、それを企図していた)、今の年3000名はなかった。

 現在最高裁判所判事となっている宮川光治弁護士は、自由と正義平成8年3月号の特集「回顧と展望」で、土屋公献会長に対し、「(年800人とする関連決議案が平場から提案された)あのときに執行部が『いや、執行部案だけで十分であって、関連決議案は不要である』ということを、あの場ではっきりおっしゃっていれば、関連決議案はあのように大多数により賛成されなかったと思われます。そして、執行部案だけが通ったということであれば、その後の展開はかなり違ってきたのではないでしょうか。」と追及した。これに対して、土屋公献会長は、一言も発することができなかった。

 私はその後の文献等を調べてみたが、この後も、土屋公献弁護士の弁解に接することができていない。その機会は永久に失われてしまった。私としては、それが残念でならない。(小林)

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2009年9月10日 (木)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (26)

私は客観的かつ公平かつ冷静に、この文章を書いている。嘘つけと思われるかもしれないが、主観的にはそうあろうと努めている。しかし、法曹一元に熱狂した弁護士やその遺した資料を紹介する作業については、客観性も公平性も冷静さも保つことがとても困難である。資料を読めば血圧が上がって目がかすみ、パソコンに向かえば指先が震えてキーボードを打ちま間違う。正気を失うほど、彼らの馬鹿さ加減は異常である。

読者諸氏には迷惑だろうが、もう少しだけ、彼らの馬鹿っぷりにお付き合い願いたい。

平成10年(1998年)度の日弁連事務総長、平成13年(2001年)日弁連司法改革実現本部副本部長、平成20年(2008年)日本司法支援センター理事長を歴任した寺井一弘弁護士は、「法曹一元とは、治者と被治者の同一性・一元制を求める思想を端的に表現したもの」であり、「民衆の自由を護り、民主主義を支え、社会の創造的な発展に貢献する生きた正義を貫くことが法曹一元を必要とする理由」であると述べる(法律時報増刊号「シリーズ司法改革Ⅰ」)。これは、「法曹一元は国民が司法を支配者から奪取する行為」であると言った松井康浩もと日弁連事務総長と瓜二つである。つまり法曹一元を求めるたたかい(←あえてサヨクっぽく平仮名で書こう)は階級闘争であり、法曹一元は共産主義革命そのものだ。本稿で共産主義革命の是非を論じる意思はないが、平成12年という時代に、これほどあからさまに共産主義革命思想を論じて、国民に受け入れられると本気で思っていたのだろうか。

弁護士ではないが、日本経済新聞のもと論説委員の藤川忠宏氏は端的に、「司法改革は文化大革命である」と主張した。毛沢東が「司令部を砲撃せよ」と言って文化大革命ののろしをあげたように、我が国は「法の支配」ののろしをあげて司法官僚制を砲撃すべきだという。何とも勇ましい主張であるが、中身は新左翼大学生のアジ演説と同レベルである。頭でっかちで、大袈裟なくせに、薄っぺらだ。毛沢東を引用するあたり、新左翼そのものである。余談だが、このような新左翼思想の持ち主が、よりによって日本経済新聞の論説委員であったのはなぜなのだろう。さらに余談だが、日弁連反主流派の代表格である高山俊吉弁護士は、平成8年(1996年)の法律時報68巻3号に「丙案廃止に向けた闘いのために」と題する論考を寄せ、その末尾に、「われらが到達した峰に主峰を目指す砲台を揺るぎなく据えよ。」と記した。立場は違うのに、「大砲系」の喩えが好きなのはなぜなのだろう。

話を戻そう。平成12年(2000年)の日弁連司法シンポジウム基調報告書は、当時、弁護士任官が進まない理由の筆頭として、「キャリアシステム、官僚司法制度だから」と指摘する。裁判所のキャリアシステムを打破するために法曹一元を導入すると言っておきながら、キャリアシステムのせいで法曹一元が進まないと弁解する矛盾!自分でやらないで、いったい誰がキャリアシステムを打破してくれるというのだろうか。神風が吹くとでもいうのか。

こうして日弁連は、「法曹一元」を旗印に、客観的にはまるで勝算の無いたたかいに、歓喜の声を上げて突進していった。(小林)

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2009年9月 8日 (火)

日弁連はなぜ負けたのか ~司法改革という宗教~ (25)

平成10年(1998年)、日弁連の左翼系主流派弁護士を熱狂させた法曹一元論、しかし、致命的な三つの欠陥を抱えていた。

一つ目は前述したが、染みついた左翼臭と革命思想である。その是非を論じることは本稿の目的ではないが、東西冷戦が終結し、21世紀を迎えようというときに、日弁連外部ではほぼ絶滅した思想の腐臭は、それだけで反発を買うことが必至だった。現に、司法制度改革審議会で法曹一元論が葬り去られた主たる理由は、ぬぐいきれないその左翼臭にあった。

二つ目は、社会の実情に通じた弁護士が裁判官や検察官になることこそ国民主権の実現であるという、鼻持ちならない優越思想である。これは戦前から、弁護士自身によって「自画自賛は一般に通用せぬ」と批判されてきたところであるし、小山稔弁護士にも、「あまりに弁護士の独りよがりではあるまいか。国民から見れば裁判官も弁護士も世間知らずの点においては同断ではないのか。また、弁護士及び弁護士会の実態が国民の信頼を受けるに足る機能と実力を備えているか、その保証はあるか。」と、厳しく指摘されている(「変革の中の弁護士」所収「戦後弁護士論序説」1992年)。この点は、平成10年(1998年)の司法シンポジウムにおいても、馬場健一神戸大学助教授(当時)から、「弁護士が一番優れた法律家なのだと弁護士自身が言うことは、普通の人から見ると、正義の味方が『自分は正義の味方である』と言って回っているのと同じで、あまり格好のいいものではないなぁと、素朴に思う」と皮肉られている。

3点目は、裁判官となる弁護士をどうやって確保するかという「給源」構想の欠如である。全国で2000~3000名と想定される「法曹一元裁判官」を10年で実現するためには年200~300名、判事補制度を廃止して、経験10年クラスの裁判官を弁護士出身者に入れ替えるだけでも年100名もの弁護士任官者が出なければならない。すでに平成4年(1992年)、宮川光治弁護士は、「自由な開かれた精神を持った練達の弁護士が、使命感のみで、ただ一度きりの生涯の残りを、閉鎖的な官僚システム(である裁判所)の中で過ごすことを受け入れることはほとんどありえないであろう。にもかかわらず、裁判官の道を選ぼうとする弁護士が存在することを否定はしないが、その数は極めて少ない。われわれは、弁護士層の中から裁判官になろうとするものは僅かであるという現実から出発すべき」と述べる(「変革の中の弁護士」所収「あすの弁護士」)。

私は、第3点目の給源構想欠如が、最も深刻と考える。他の欠陥は対症療法でごまかすことが可能かもしれないが、制度を支える人材供給の問題は、ごまかしようがないからだ。

この対策として、日弁連司法シンポジウム実行委員は、次の方策を提言している。(「市民に身近な裁判所へ 法曹一元をめざして」1998年)

        推薦・採用手続の明確化。不採用に対する抗議

        裁判官養成研修の実施

        優秀な弁護士を推薦する

        任官に伴う事務所閉鎖、事務局転職の支援

これで何かの対策になっているのだろうか。この方策で、年100名もの弁護士が事務所を閉鎖してでも裁判官を目指すと、主催者は本気で思ったのだろうか。そうだとすれば、呆れるほどの愚かしさである。

立命館大学の渡辺千原教授は「司法改革論議における『常識』の位置」の中で、「法曹一元導入が今回も見送られたのは、…弁護士側の人的基盤が不足していたなどの要因も大きい」と述べる。年100名もの弁護士を裁判所に送り込むことが最初から不可能であることは、日弁連外部からは自明だった。

弁護士任官制度が開始された昭和63年(1988年)から平成15年(2003年)まで16年間の弁護士任官者数は合計52名。1年平均で4人強であり、法曹一元が日弁連を熱狂させた平成10年(1998年)以降も、1年あたりの任官数は全く増えていない。このことは、当時、法曹一元実現という熱狂を主導した弁護士が、制度構築の実務作業を完全に怠ったことを証明している。(小林)

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