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2011年1月31日 (月)

人生の大問題を 一人で決めて大丈夫?

 大阪家庭裁判所は、大阪城の西隣、ビジネス街のど真ん中にあるから、「お客さん」は、自動車でなければ、地下鉄の最寄り駅から歩くしかない。だから、駅の裁判所側出口にある広告板をトイ面で借りれば、行き帰りに必ず広告を目にする。それなら、家裁事件の当事者に的を絞った広告をしたらどうだろう。こんな思いつきから、126日、写真のような広告がはじまった。

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 家庭裁判所は、地方裁判所に比べて、弁護士をつけない事件の割合が高い。そのため、裁判所に強引に説得され、不利な和解を呑まされる人が少なくない。後悔して弁護士に泣きついても後の祭り。そのような人は、家裁事件の中でも、離婚事件の当事者に多い。これは弁護士の実感である。そこで、離婚事件の当事者に絞って、弁護士をアピールする広告を出すことにした。コピーライターはさわらぎひろこさん。弁護士会からの依頼など初体験だと思うが、速攻で素晴らしいキャッチコピーをたくさん提案してくれた。

 この種の広告は、大阪弁護士会として初めてのことなので、実施まで数ヶ月かかってしまった。しかも、本当はもっと過激なコピーを使いたかったのだが、広告板の管理局に拒否されて断念した。

結果として、企画段階よりは大人しい広告になってしまったが、大阪弁護士会広報室の業務拡大への取り組みは、始まったばかりである。

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2011年1月29日 (土)

司法試験予備試験、再出願受付

 法務省は28日、法科大学院修了者でも司法試験を受験できる『予備試験』の再出願を受け付けると発表した。「普通の国民」さん、情報ありがとうございます。

 ざっと調べた限り最も詳細な産経新聞ニュースによると、今回が初回実施となる予備試験の受付は昨年12月に終了したが、「旧試験と同じ2月だと思った」との問い合わせが約100件あったため、「(受験)希望者が不慣れなことも考慮し」て再出願受付をきめたという。

 豪雪など予測不可能な事情ならともかく、予備試験の出願時期を知らなかったというのは明らかに受験者側のミスだから、「来年おいで」と冷たく対応する選択肢もあったと思うが、それが再出願受付となった理由としては、

1 上記の問い合わせが無視しがたいほど多かった

2 最初の出願者が予想外に少なかった(産経ニュースによれば7906人)

3 初回なので、受験者の不知を大目に見るべきだと思った

3つの総合判断だろう。

 確かに異例といえば異例だし、将来振り返ったら、2は新たな展開の端緒だった、ということになるかもしれない。

 しかし現時点としては軽々な判断を控えるべきだと思う。ということで備忘のためエントリしました。

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2011年1月27日 (木)

日弁連が総務省に噛みついた!?

 総務省行政評価局が主宰する「法科大学院(法曹養成制度)の評価に関する研究会」が昨年12月に発表した報告書に対し、1月25日、日弁連が意見書を提出し公表した。法科大学院制度と法曹人口増員政策の見直しを示唆する行政評価局を牽制しようとする日弁連の意見書については、特に増員反対派から非難が巻き起こっている。

 確かに、日弁連の意見書はひどい。「外野は黙ってろ」と書けば7文字で済むところを、5ページに引き延ばして書いたので、読んで退屈なこと甚だしい。

 なぜ総務省は、文科省・法務省管轄の制度に口を出したのだろう。行政評価局という組織は、もともと各府省の政策評価を行うための機関である。だから、「外野は黙ってろ」という日弁連の意見は筋違いだ。ただ、その評価局自身が、昨秋、中央官庁の既存組織として初めて事業仕分けの対象になる、という赤っ恥をかき、「機動性がない」(2011510日建設工業新聞)とハッパをかけられ、慌てて「機動調査チーム」を作り、大急ぎで7つ選んだ評価対象の一つが法科大学院制度だ。つまり、行政評価局が組織存亡をかけ、その存在意義をアピールする格好の素材として、法科大学院制度を選定したのだ。このことから、法科大学院制度は、政府内部においても、問題が多いと評価されていることが分かる。

 この経緯からすれば、行政評価局は、日弁連が何を言ったところで聞く耳を持たず、「法科大学院数・定員数の大幅削減」「司法試験合格者数年3000人の政府目標は下方修正が妥当」という意見書を出すだろう。何しろ組織存亡がかかっているのだ。日弁連の上記意見書には、守旧派の焦りを自白した以上の意味はない。

 しかし他方、事業仕分けの対象になったような組織が、急ごしらえで作った意見書に、どれほどの効果があるのか、疑問である。また、片山善博現総務相は、昨秋の日弁連司法シンポに、(地方)法科大学院存続支持の立場から出席した経緯もあるので、上記研究会の最終報告書には、それなりの圧力がかかる可能性がある。もっとも、片山総務相にしても、法務・文科相にしても、いつまで大臣でいられるか、分かったものではない。要するに、このお話におつきあいしても、未来は全く予測できない。

 私が思うに、行政評価局がどのような意見書を書いても、日弁連がどれほど抵抗しても、法科大学院数と定員数は削減の方向を歩むだろう。しかし他方、法科大学院制度そのものが廃止されることや、総定員数が3000人を下回るようなことはないだろう。

 つまり、法科大学院数や定員数を減らしたところで、現在の法曹人口問題は全く影響を受けない、ということになる。

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2011年1月26日 (水)

まねきTV事件の射程に関するメモ

まねきTV事件の最高裁判所判決の射程に関する評論は百花繚乱だが、私は「受信者からの求めに応じ」というところがポイントではないかと思うのでメモしておきたい

池田信夫氏は、この最高裁判決によれば、Eメールもウェブサイトも、著作権法違反として規制の対象になり得るのではないか、と指摘しているが、違うと思う。「受信者からの求めに応じ」るのではなく、送信者が主体的に送付する場合は、この判決の射程外だと考える。

確かに、技術的に厳密にいえば、Eメールもウェブサイト閲覧も、受信者がサーバーにアクセスして(=求めて)データを貰っているのだが、法律的規範的にはそう見ないのではないか。

「受信者からの求めに応じ」がポイントではないかと思う理由は、「11」の送受信のうち、「受信者からの求めに応じ」てデータが配信される場合を、特に意識しているのではないかと考えるからだ。

いいかえると、「11」の送受信のうち、送信者が誰かに映画の著作物を送付する場合は、原則として「公衆送信可能化」に当たらない(他の著作権法違反になり得る点は措く)。しかし、「11」の送受信であっても、「受信者の求めに応じ」てデータが送信される場合は、「公衆送信可能化」に当たりうる。なぜ11なのに受信側が「公衆」と解釈されるのかというと、そう解釈しなければ、受信者が数珠つなぎになって著作物データが流れていくモデルを規制できないからだ。「公衆送信」の典型である「1対多」という「熊手」モデルだけではなく、「1111対…」とか、「11対多」という「数珠つなぎモデル」を規制する必要がある、という政策判断を、最高裁判所はしたのではないだろうか。

11」で送信側に主導権がある場合、何を送信するか、誰に送るか、転送を許すかは、いずれも送信者が決めることだ。ところが、受信側に主導権がある場合は、送信側はその著作物がどうなるか、について何も決められない。つまり、受信側が、受信したファイルをどう使うか(転送や公衆送信に使うか)は、もっぱら受信側に任せられている。このような状態に当該著作物を置くことそれ自体が、著作権を侵害する危険のある「公衆送信可能化」として法規制に値すると、最高裁は判断したのではないだろうか。

私は著作権法についての見識は素人同然なので、この記事は見当違いである可能性が高いから、うかつに信用しないよう注意されたい。万が一、この見解が的を射ているとすれば、それはウィニー事件の最高裁判決で証明されるかもしれない。

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2011年1月25日 (火)

弁護士は増えた。次は訴訟だ。

「著作権法改正案に違法状態拡大の懸念」

 1月24日の毎日新聞朝刊は、標記の見出しで、著作権法改正に懸念を示す記事を掲載した。これについて、ちょっと頭に来たので、2点指摘する。

 教科書的な説明をすると、著作権法上、例えば書籍のコピーは複製(21条)に当たる。ではコピーが全部違法かといえば、私的利用(30条)は適法だ。このような適法行為を、現行著作権法は具体的に列挙している。しかし、改正案は列挙せず、公正な利用(フェアユース)にあたる場合は適法、とすることにより、「著作物の利用の促進による新事業の創出などを狙」うようだ。
 これに対して記事は、著作権法上適法となる「例外」の列挙をやめて一般規定を置くことについて、疑問を提起している。しかし、原則と例外が逆だ、とまず指摘したい。
 確かに著作権法の教科書には、複製は原則全て違法で、私的利用等はその例外、と書いてある。しかし、この考え方はおかしい。「所有権絶対」という私法の基本原理からすれば、購入した本は、読もうが、焚きつけに使おうが、所有者の自由だ。同様に、コピーしても、書き写しても、引用しても、売っても貸しても自由である。ただ、この自由を徹底すると出版、映画、音楽などの表現・芸術活動や産業を阻害してしまうので、著作権法は一定の複製行為等を禁止したのだ。だから、コピーの自由こそ原則であり、複製禁止は例外である。私的複製を適法と定める現行著作権法30条は、この原則を確認した規定と解すべきだ。少なくとも、こういう解釈もあって良いと思うが、聞いたことがない。なぜだろう。

 もっとも、私がちょっと頭に来たというのはこの点ではない。記事が改正案に対する懸念として、「著作権を巡る争いが起きた場合に、その解決を裁判所に委ねてきた米国に対し、例外を具体的に明記した…日本は、判例の積み重ねがない。日米の著作権文化には違いがある(から米国制度の導入はいかがなものか)」という下りだ。
 この内藤陽、臺宏士という記者は、何をトンカチなことを言っておるのだろう。君らは、「権利を巡る争いが起きたときに、その解決を裁判所に委ねる」ことに賛成したはずだ。著作権だけ例外とは言わせない。それが「法の支配」ということであり、司法改革の本質であり、そのために弁護士を増やしたのであり、君らはそれに、諸手を挙げて賛同し推進し、疑問を呈する弁護士や弁護士会を攻撃してきたはずだ。嘘だと思うなら毎日新聞もと論説委員の坪井明典氏に聞いてみたらよい。

 弁護士は増えた。次は訴訟だ。これこそ、毎日新聞が進むべき道だ。方針転換したというなら、連絡してほしい。撤回してもらう社説があるから。

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2011年1月24日 (月)

軍人と弁護士のあいだ

 122日の各紙は、村井嘉浩宮城県知事が、性犯罪前歴者にGPS装置の携帯やDNA提出を義務づける条例制定の検討に入った、と報じた。毎日新聞夕刊によれば、「性犯罪被害者の代理人を務めた経験のある望月晶子弁護士」は、「条例化が実現すれば画期的で大賛成」とコメントした。

 このコメントについて思うところを述べたい。

 電子監視については以前のエントリで紹介した。私の考えとしては、基本的人権に関わる重大な規制だが、性犯罪については科学的・統計的に再犯可能性が高いと思われること、その被害と社会的影響の重大性、昔の監視・再犯防止・前歴者隔離手段としての入れ墨などと比べて電子監視という手段の人権侵害性が低いと言えること、一定の犯罪抑止効果は期待できること、性犯罪前歴者に対する電子監視は先進国の趨勢ともいいうること、などの点に照らせば、厳格な要件や方法のもとで、許される余地はあると考える。ただ、条例では無理で、立法を要すると思う。
 ところで、村井宮城県知事はもと自衛官だ。他に自衛官出身の首長としては、前阿久根市長の竹原信一氏がいる。軍人出身のお二人とも、正しいと信じることの実現には迷わないタイプのようだ。
 確かに、迷わない、疑わない、というのは、軍人に求められる資質として重要だろう。軍人が上官の命令を疑ったり、迷っていたりしたのでは、勝てる戦争にも負けてしまう。

 これと対比した場合、弁護士に求められる資質は何だろう。私は、疑い、迷うことだと思う。性犯罪再犯防止は重要な社会的要請だ。だがそのために、刑期を終えた者の人権を侵害することが許されるのか。許されるとしてその強度と期間は何が適当か。監視情報の公開と保存のあり方はどうするのか。前歴者に与える疎外感が、逆に犯罪を誘発する可能性はないか。技術的確実性は担保されているのか。電子監視に要するコストはどうか。もし監視漏れのため犯罪が起きたとき、監視者(国や地方自治体や警察)が法的責任を負う場合があるのか。

 疑い迷った上でなら、結論はどちらでも良い。弁護士の責任として重要なことは、対立する別の正義を示し、比較考量をしてみせることだ。だからこそ、頭から否定したり、手放しで賛成したりすることは、よほどの場合でない限り、弁護士としてやるべきではないと思う。

 「(電子監視は)画期的で大賛成」という望月晶子弁護士のコメントは、軍人にこそふさわしい。

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2011年1月23日 (日)

エコノミスト増刊「弁護士・会計士たちの憂鬱」増刷出来!

お陰様で、大変売れているようです。編集者によると、増刷といっても多くないので、入手できなかった方は、早めにお買い求めください。アマゾンでお買い求めの方は、右のサムネイルをクリックしてください。

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2011年1月19日 (水)

法科大学院と「老人国家ニッポン」

 昨年67日の日本教育新聞は、「教職大学院を(教員養成制度の)中核に据えたい」という鈴木寛文部科学副大臣の発言を紹介した。同年1228日のNHKは、中教審部会が教員免許取得に教職大学院等での修士課程を義務づける方向で検討に入ったと報じた。要するに、教師になりたい人は、大学院を出ないとダメになるらしい。
 教育改革は専門外だが、「これって10年前の法科大学院導入経緯と同じじゃないか?」というのは、少なくとも「
こん日」の読者なら当然持つ感想だろう。

 従前の教員養成制度も問題山積だろうが、だからといって、教育期間を2年延長すれば解決するほど甘いはずがない。大学にとっては、2年分の学費を余計に稼げることに意味があろう。「酔うぞの遠めがね」氏は端的に、法科大学院も教職大学院も、「大学業界のための制度」と喝破している。

 教職大学院は、いわゆる専門職大学院の一つだ。法科大学院は、その嚆矢だった。石井美和氏は、「法科大学院が専門職大学院制度を牽引する役割を果たしてきた」と述べる。法科大学院に続いて、経営専門職大学院や技術経営専門職大学院等の専門職大学院が雨後のタケノコのように創設され、また、大学院重点化計画によって多数の修士取得者が誕生した。しかしポスドクの「高学歴ワーキングプア」問題等、様々な社会問題を生み、おそらくどれ一つとして、成功と評価されていない。
 失敗した制度なら大学院に行かず、社会人になればよい、と言えればよいが、そうもいかない。大学卒業生の就職内定率は就職氷河期といわれた2004年を下回った。社会に出ても職がない以上、専門職大学院に行くことは、親の金を当てにできる若者にとって魅力的な選択肢になりつつあるはずだ。
 こうして文部科学省は、何につけ教育期間の延長を提案し、国家はこれを実行してきた。政権政党が替わっても、この傾向は変わらない。なぜだろう。

 法科大学院問題は、法曹人口あるいは司法制度の問題だと思われている。しかし、こうして見ると、もっと大きな視点で捉える必要がある。大学業界や、文部科学省の利益に限った問題ではないような気がしてくる。

 「ちきりん」さん風に解説すると、こうなる。
 少子高齢社会の日本には、大量の老人を養う余裕がない。いずれ年金も払えなくなるから、働いてもらうしかない。しかし少子化と不況とグローバル化のあおりで国内労働市場は縮小の一途だから、老人に働いてもらう以上、割を食って職に就けないのは若者だ。だが、多数の(特に知識階級の)無職の若者を放り出すことは、社会不安や
国家転覆の原因になる。だから彼らを、大学院という名の象牙の塔に押し込めておこう。学費は、就業年齢が延びた親に負担してもらえばよい。何?大学院を出たけど仕事がないって?甘えるな。それはその専門職コースを選んだキミの責任だ。国家に文句を言われても困る。そんじゃーね。

 これが「老人国家ニッポン」の国家意思であり、この意思を受けて、大学院(大学)隆盛の時代がやってきたのだ。その先鞭をつけたのが法科大学院であるなら、法科大学院制度と戦うことは、「老人国家ニッポン」そのものと戦うことになる。

 こう考えてくると、例えば質の議論がすれ違う理由も分かってくる。大学院制度にとって質の維持向上は二の次で、重要なのは、教育期間を延ばすこと、そのものだからだ。

 それから念のため言っておくけど、この「国家意思」は支配者とか支配階級とか、まして個人の意思ではない。そんな階級闘争史観や陰謀史観を、私は取らない。

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2011年1月13日 (木)

「弁護士なし訴訟」増加 高額費用で敬遠?

 112日読売新聞夕刊は、表題の見出しで「10年前に比べて弁護士の数が約1.8倍に増加したにもかかわらず、当事者本人が弁護士をつけない『本人訴訟』が地裁の民事裁判に占める割合が14ポイントも増え、73%に上っていること」が明らかになったと報じた。
 記事は、増加分は過払い金返還請求訴訟分だが、他の約6割は10年間で全く減っていない、と指摘した上で、「(弁護士増で)競争が生まれることで弁護士費用が下がり、依頼がしやすくなる」筈だったのに、「弁護士が報酬の低い仕事を避けている」(「裁判所幹部」)、「(過当競争により)採算の合わない仕事を引き受ける余裕がない」(「37歳の弁護士」)ために、依頼しやすくなっていないと示唆し、四宮啓弁護士の次のコメントで締めくくっている。
 「弁護士が支援すべきケース(であるのに断られた場合)がまだまだあるはずだ。弁護士は、社会や市民に奉仕することが大きな使命。本人訴訟がなぜ増えているのか、弁護士会としても調査すべきだ」
 全体として、弁護士(会)が国民に対し、敷居を下げる努力をしていないというニュアンスの記事だ。

この記事に対しては、「『競争が生まれることで弁護士費用が下がり、依頼がしやすくなると予想されていた。』って発想がおかしい」というShulze BLOG氏の発言、「弁護士を激増しさえすれば競争の激化によって需要を掘り起こせるという論理が実態に即していない」というさんけんブログ氏の発言などの反応が見られる。
 しかし私は、まずもってこの記事の「数字が胡散臭い」と思う。この10年、当事者の半分以上が弁護士を依頼していないなんて、現場感覚からかけ離れている。

平成21年度の資料は見つからなかったが、この10年間差異はないそうだ。そこで平成10年の統計を見てみると、当事者双方が弁護士を選任した場合が40.9%とあり、平成16年(と思われる)統計によれば、40.1%とある。
 記者はここから引き算をして「本人訴訟の割合は約6割」としたようだ。
 しかしこれらの統計によれば、「原告被告両方が弁護士を依頼しなかった場合」は20.8%(平成10年)ないし19.7%(平成16年)に過ぎず、残りは原告または被告が弁護士を依頼している場合である。ここから計算すると、弁護士を依頼していない訴訟当事者の割合は全体の4割(平成10年・平成16年とも)となる。
 以上により、「本人訴訟の割合は約6割」というのは誤りであるうえ、この記者は、民事訴訟には原告と被告がいる、ということさえ理解していないことが分かる。

次に統計を見てみると、本人訴訟の中で最も多いのは、被告が弁護士を依頼していない場合(平成10年統計で55.5%、平成16年統計で55.3%)だ。この人たちは、弁護士に依頼したかったのに、費用が高額で、依頼できなかったのだろうか。
 しかし、この中には欠席判決(平成16年統計で18%)や、期日が1回も開かれなかった場合(平成16年統計で8.6%)が含まれている可能性がある。さらに、1期日ないし2期日で終了した裁判(平成16年統計で43.6%)の大半は、請求認諾の事案と思われる。さらに、4期日までで終了した12.9%の大半は、事実に争いがなく、和解に至った事案だろう。
 これらは何を意味するかというと、被告が弁護士を依頼しなかった約55%のうち、おそらく大部分は、被告に全く言い分のない訴訟なのだ。平たくいうと、「原告の主張はすべてごもっともだが、お金がない」という類の訴訟、言い換えると、「弁護士を頼んでも費用だけムダ」という訴訟だ。この種の訴訟は、家賃不払による建物明渡請求や、貸金返還請求によくみられる。
 われわれ弁護士は、この種の事件の被告から相談を受けたとき、「弁護士を依頼してもお役に立てないし、弁護士費用をどんなに安くしても明らかに費用倒れだから、ご自分で裁判所に行かれたらどうですか」とアドバイスすることが多い。場合により、和解で粘るポイントや落としどころを、法律相談料の範囲内でアドバイスすることもある。そして、このようなアドバイスをしても、誰も困らない。読売新聞に批判されるいわれはない。

統計上、あえて気にするなら、「被告は弁護士を依頼しているのに、原告が弁護士を依頼していない」場合(平成10年統計で3.6%、平成16年統計で4.5%)だろう。「被告が弁護士を立てて防御しているのに、なぜ原告は弁護士を依頼せず徒手空拳なのか?」と思われがちだからだ。しかし、この中には、会社(サラ金が多い)が弁護士を依頼せず、その支配人が出廷する場合が相当数含まれている。残りの大半は、原告がはじめから弁護士に依頼する考えのない「信念の人」である場合か、弁護士から見ておよそ勝ち目のない場合、あるいはごく僅かな弁護士費用でさえ、明らかに費用倒れとなる場合だ。
 これらを除いた僅かな残りの中に、「弁護士が受任するべきなのに、金銭的な理由で嫌がった場合」が含まれることは否定しない。ただ、その割合は、統計上とても少なく、1パーセントに満たないと予想する。

まとめるとこうなる。統計上、訴訟当事者のうち、弁護士を依頼しなかった人の割合は6割ではなく4割で、その多くは被告である。そして、弁護士を依頼しなかった人の大半は、全く言い分がないか、どんなに弁護士費用を安くしても、明らかに費用倒れとなる場合であって、記事が批判するような「弁護士が報酬の低い仕事を避け」た場合は、あったとしても、ほんの僅かでしかない。
 そうだとするなら、弁護士増にも関わらず依頼率が上がらない理由も明らかとなる。もともとそんな余地がないからだ。

 以上から言えることは、この読売新聞の記事はウソだ、とはいわないまでも、かなりいい加減だ、ということだ。少なくとも、数字が正しいことを前提とする論評には、およそ値しない記事である。そうだとすれば、四宮弁護士のコメントに対する評価も、自ずから決まってこよう。
 それにしても、このいい加減な数字を記者に吹き込み、ミスリードのきっかけを与えた「裁判所幹部」なるお方は、一体どういう意図だったのだろう。うすうす想像はつくけど。

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2011年1月12日 (水)

先生!それは疑似著作権とは違うと思います。

「疑似著作権」とは、福井健策弁護士の造語であり、「理論的には著作権はないのだけれど、事実上著作権に近いような扱いを受けている(あるいは受けかねない)ケース」「法的根拠はまったくないか、せいぜいが非常に怪しいものなのに、まるで法的権利があるように関係者が振る舞っている場面」と定義される。

このコラムでは、その一例として、著作権はとっくに切れたはずの「ピーターラビットの絵」を挙げる。これには全く異存ない。問題だと思うのは、産経新聞のこの記事(「疑似著作権」広がり懸念 福井健策弁護士に聞く)だ。

記事によれば、「建築物の写真」「撮影禁止の寺社」「ペット・菓子・料理の写真」について、「疑似著作権」が主張される場合があるという。

そうだろうか。

建築物の写真について考えてみたい。確かに、敷地内での撮影が禁止されている建築物は多い。これは撮影を禁止する権利がないのに禁止しているのだろうか。そうではない。建物の所有者は、所有権の一内容である施設管理権の効果として、入場者の写真撮影を禁止することができる。レストランで料理の撮影を禁止できるのも、貸店舗内で菓子の撮影を禁止できるのも、施設管理権の効果だ。もちろん、禁止に反して撮影した画像の公開を差し止めることもできるだろう。これらは立派な法的根拠があるから、疑似著作権ではない。権利者が間違って著作権と主張する場合もあるだろう。だが権利は確かにあるのだから、目くじらを立てるほどのことではない。

もちろん、撮影者が敷地に入らなければ、敷地管理権に従う義務はないし、その写真を公開することは、著作権法に違反しない。著作権法46条は、建物の写真を公開することは著作権の侵害にならないことを裏から認めている。菓子はもともと著作物でない(それ自体美術品と評価できるような菓子は除く)から、持って帰った菓子の撮影画像を公開しても著作権法に違反しない。

しかし、著作権が及ばないからといって、他の権利がないとはいえない。例えば、東京都には、東京都庁舎の写真を石原慎太郎知事の自宅と紹介されたら、その訂正を求める法律上の権利がある。パティシエが考え出した新作菓子の画像を、その発売前に無断で公開することも違法だろう。これらは著作権ではないが、著作者人格権に類似する私法上の権利の効果と考えられる。

また、個人の住居を敷地外から撮影し、これを公開することには、法的問題があろう。住人には、おそらくプライバシー権の一内容として、自宅の外観の撮影画像をみだりに公開されない権利を有する。ペットの飼い主は、おそらく所有権の一内容として、ペットをみだりに撮影されない権利を有する。

確かに30年前は、「ペットをみだりに撮影されない権利」は無かったかもしれない。しかし、一般市民が撮影画像を容易に公開することが可能になった現在、自宅やペットをみだりに撮影させないことは、個人の法的権利として認められるべきだろう。もちろん、権利として認めるからといって、神聖不可侵という訳ではない。他の権利や公共の利益との適切な調整が必要だ。

著作権がなくても、他の権利がある(こともある)。だから著作権がないからと、安易に「疑似著作権」のレッテルを貼るのは禁物だと思う。もっともこの記事は、福井弁護士の問題ではなく、記者の問題であろうが。

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著作者人格権の歴史的背景について(3)

このような歴史的経緯によって成立した「譲渡できない」著作者人格権だが、権利を強く保護しすぎた結果、現代社会においては、面倒な問題が発生している。例えば、有名人が自伝をゴーストライターに書かせたいとき、ゴーストライターが後で「作者は私だ」と名乗りでないようにするためには、どうしたらよいのか。あるいは、キャラクターの著作権を譲り受けた者が、そのキャラクターに名前をつけたり、性格付けをしたりすることは、著作者人格権の侵害に当たるのか。事前にどのような予防措置を講じればよいのか。そもそも、予防措置を講じることができるのか、といった問題である。

そこで、現代社会において、実務上は「著作者人格権不行使特約」という条項が用いられている。たとえば、2004年(平成16年)、ライブドアブログの規約が次のように変更されたことが話題になった。

(変更前)

本サービスにて作成されている全てのウェブログについて、当サイトの宣伝を目的として利用者への通知なしに自由に利用することができるものとします。

(変更後)

本サービスにて作成されている全てのコメントおよびトラックバックを含むウェブログについて、弊社は、利用者への通知なしに無償で利用することができるものとし、利用者は、弊社及び弊社の指定する者に対し、著作権等(著作者人格権の行使も含む)を行使しないものとします

ライブドア側としては、ブログの内容を転載する際、内容の要約や多少の改変は不可欠なのに、いちいちブログ主の承諾を取っていたのではやってられない、という事情があるのだろう。しかし、だからといって、法律上「譲渡できない」と明記してあるのに、「放棄」なら許されるという理屈は成り立つのだろうか。

この問題については、いろいろな意見が出た(町村教授の見解と、小倉弁護士の見解を紹介しておく)。私としては、いかに存在意義が薄れたとはいえ、譲渡を禁止している条文が存在している以上、これに真っ向から反するような契約をすることは許されないと思う。「著作者人格権を行使しない」と一言書けば、いかなる場合でも著作者人格権の行使ができないというのは、条文解釈の限界を超えている。たとえば、「著作者人格権の放棄」はできないが、「同一性保持権」の放棄だけなら可能、というなら、ずるいようだが、まだ法解釈の限界内といえるのではないだろうか。

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2011年1月11日 (火)

著作者人格権の歴史的背景について(2)

この問題を考えるには、歴史を数百年ほど遡らなければならない。

もともと、著作権の概念は15世紀、活版印刷技術の普及を契機に誕生した。肝心なのは、このとき権利を主張していたのは、印刷事業者であって、小説家などの創作者ではない、という点だ。このことは、この権利が”Copy Right”と呼ばれていて、これを日本に紹介した福沢諭吉が「版権」と翻訳したことからも窺うことができる。

ところが、1709年に英国で成立し、最初の近代的著作権法と呼ばれた「アン法」は、著作権を印刷事業者にではなく、創作者に与えた。印刷事業者は不平たらたらだっただろう。そして、1886年(明治19年)に締結されたベルヌ条約も、著作権は創作者の者であることを明記している。さらに、1928年(昭和3年)、ベルヌ条約がローマにおいて改訂され、著作者人格権規定が新設された(馬場口祐『同一性保持権の制限範囲の再検討』)。これが、現行著作権法の著作者人格権保護規定に反映されている。

要約するとこうなる。著作権は、もともと事業者のものだったが、その後創作者のものとされ、それでも足りず、著作者人格権という、創作者から他に移転できない権利が創設されたのだ。

このことは、裏返せば、創作者の地位が印刷事業者に食い物にされてきた、という歴史的事実があったことを示している。

すなわち、文筆業で身を立てようとする若者が貧乏なのは、古今東西を問わず同じだ。そして、競争を勝ち抜いて老境に達した文筆家が、過去の作品の印税で豊かに暮らしたいと考えるのもまた、古今東西を問わず同じだろう。ところが、若いころの貧乏がアダになって、著作権は全部出版社に安く売り渡してしまっていて、ろくな印税が入らない。それどころか出版社は、本を売るためならと、作品を勝手に要約したり脚色したり、挙げ句の果てには別の売れっ子作家の名前で販売したりしているのに、契約のせいで文句も言えない。「この状態を何とかしなければならない。」文筆業で名をなし、国会議員になった有力者たちはこう考えた。そこでアン法や、ベルヌ条約に、著作権は創作者に帰属すると定めたが、それでも作者は出版社に食い物にされている。そこでベルヌ条約を改正し、どんなに貧乏な若者でも譲渡できない、著作者人格権を定めたのだ。もちろん、その過程には、文筆業界と出版事業者団体との凄まじい政治闘争あったに違いない。

だから、歴史的背景に照らす限り、「譲渡できない」ことは、著作者人格権の本質的要素なのだ。

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著作者人格権の歴史的背景について(1)

2007年、彦根市の「ゆるキャラ」である「ひこにゃん」の作者が、彦根市を相手に、著作者人格権を主張して使用禁止を求める民事調停を起こした。いったん和解が成立したのに、20111月、「市がひこにゃんの立体物を使用したり業者に使用を許可するのは07年に両者が交わした調停に違反すると、大阪地裁が認定していた」と報じられた。

この「著作者人格権」というのは何だろう。著作権を取得していたはずの彦根市は、なぜ、ひこにゃんのキャラクターを自由に扱うことができないのだろう。こんな訴訟リスクがあるなら、最初に高い金を払ってでも、キャラクターをいかようにでも使用できる権利を取得しておけばよいのに、なぜそれができないのだろうか。

著作者人格権とは、著作権ではないのに、著作権法に明記されているという不思議な権利だ。その内容は、①創作物を公表されない権利(18条)、②創作物に自分の氏名や筆名を表示する権利(19条)、③創作物を改変されない権利(20条)、の3つとされている。

著作者人格権は、著作権法の関門の一つである。多くの人は、なぜこの権利が著作権法に明記してあるのか分からず、勉強しているうちに嫌になってしまう。だが、これらの規定は、現代の私法では、当たり前のことを述べているだけだ。常識の問題としてスルーすればよい。

大事なことは、著作者人格権は、著作権法上、過剰なほどに保護されている上に、譲渡することができないと明記されている(59条、60条)ことだ。すなわち、著作者人格権は、著作者本人が望んでも、契約書に明記しても、譲渡できない。これを著作者人格権の一身専属性という。

これは一体なぜなのか。なぜ、著作権ではない権利が著作権法に規定されていて、しかもそれが譲渡不可能と明記されているのか。教科書には、大事なことが書いていない。

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2011年1月 7日 (金)

野田聖子議員の出産と高度生殖医療と法律

野田聖子衆議院議員が、他人の卵子により、ご自身のおなかで育んだ男児を出産された。お子様に幸多きことを祈りたい。

著名人が高度生殖医療により出産した事例として、野田議員はタレントの向井亜紀氏と比較されている。どちらも、夫(本稿では事実婚か法律婚かの問題は省略する)が遺伝的な父親であることは共通しているが、向井氏の事例では母親が遺伝的な母親であるのに対して、野田議員の事例ではそうではない。他方、向井氏の事例では、他人が分娩したのに対して、野田議員の事例ではご自身が分娩した。

ところで、医学的には、a)戸籍上の母親が分娩したか否か、b)戸籍上の母親の卵子に由来する子どもか否か、c)戸籍上の母親の夫の精子に由来する子どもか否か、の組み合わせで計8通りがあり得る。

 

戸籍上の母親が分娩したか

戸籍上の母親の卵子に由来する子どもか

戸籍上の母親の夫の精子に由来する子どもか

 

1

 

2

×

 

3

×

野田議員

4

×

×

 

5

×

向井氏

6

×

×

 

7

×

×

 

8

×

×

×

 

この組み合わせを法律的に見てみると、民法と戸籍法が想定しているのは、12784通りの場合だ。いいかえると、「遺伝上の母親」と「分娩した人」が一致していない場合は、想定していない。もう少し厳密に言うと、民法と戸籍法は、「分娩した人は遺伝的な母親だ」と考えていて、「分娩した人が遺伝的に母親でない」場合を想定していない。

では、戸籍実務上の取り扱いはどうなるか。

向井氏の場合には、法務省では、「分娩していない人の子は(たとえ遺伝上の実子であっても)戸籍上の実子とは認められない」という取り扱いとなった。向井氏は司法判断を求めたが、2007年(平成19年)の最高裁判決も、結論として法務省の判断を支持した。判決文は、先進生殖医療技術に対応した「立法による速やかな対応が強く望まれる」としながら、「どのような者の間に実親子関係の成立を認めるかは、その国における身分法秩序の根幹をなす基本原則ないし基本理念にかかわるものであり、実親子関係を定める基準は一義的に明確なものでなければならず、かつ、実親子関係の存否はその基準によって一律に決せられるべきものである」と述べ、現行法制度の下では、向井氏と子どもの間に実親子関係を認めることはできないと判断した。

これに対して、野田議員の場合は、「分娩した人の子は(たとえ遺伝上の実子でなくても)戸籍上の実子と認める」という取り扱いになろう。つまり、野田議員の出生届は、問題なく受理されると予想される。

出生届に関する向井氏と野田議員との取り扱いの違いをどう受け止めるかは、様々な考えがあろう。ただ、向井氏と野田議員のもう一つの違いは、向井氏は民間人であるのに対して、野田議員は立法府の構成員であることだ。しかも、野田議員は2006年(平成18年)12月、代理出産という向井氏の行動を支持し、「(向井氏に対して批判が起きる)理由は、誰が『母』か、法律に明記されていないからなんです。民法の不備です。…速やかに今の時代にあった法律をつくるべきです」と述べている。野田議員は当時から、超党派議員の勉強会を立ち上げていたが、4年後の現時点でも立法措置は執られていない。立法府には、上記最高裁判決に速やかに応える責任がある。

野田議員には、まずはゆっくり休養をしていただき、その後迅速に、実親子関係に関する身分法の検討に取り組んでいただきたいと思う。なにしろ技術的には、単性生殖(クローン)や、同性同士の子どもも視野に入ってきているのだから。

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