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2011年2月28日 (月)

宅内情報収集システムとライフログ

 宅内情報収集システムとは、家電製品とホームサーバーを無線でつなぎ、使用状況や消費電力を集めてクラウドに転送する仕組みである(下図ご参照)。これによって集まる情報を環境センサー情報や他の家庭の情報と組み合わせれば、二酸化炭素削減や、マーケティング、リコール家電製品の探索や独居老人の見守りなど、様々な使い道が考えられる。欧米では試験的運用が始まっているとも聞く。

 私は宅内情報収集システムWGに参加しているが、プライバシーとの関係がやっかいだ。

 まず、最も単純なパターンとして、独身者が持ち家に住み、すべての家電製品を所有している場合を考えてみる。

 この場合、家電製品の使用状況は当人のライフログでありプライバシー情報だが、これらの情報がホームサーバーから外に出ないなら、プライバシー侵害の問題は発生しない。これだけでも、当人として家電の使用状況が分かるというメリットはあるが、ビジネスとしては成立しにくい。

 これに対して、家電製品の使用状況がホームサーバーから外に出るなら、当人の同意が必要となる。この場合、同意の範囲と内容をどうするか、という問題が発生する。

 例えば、本人がパナソニックの社員であるにもかかわらず、ソニーのAV機器を購入したとしよう。当人としては、この情報をパナソニックだけには知られたくないとする。この場合、同意の取り方はどうしたらよいのだろう。

 次に、当人に家族がいるとするならどうなるだろう。ここで、家族間のプライバシーという最もやっかいな問題が発生する。外部から見れば、世帯主の同意があれば法的に問題なしとしたいところだが、厳密には、一個の家庭でも、複数の成人がいれば、その人毎の同意が必要になる。また、未成年者であって、世帯主の親権に服していても、無条件で世帯主の同意をもって足りるか、とは言いがたいと思われる。

 例えば、宅内情報システムが実施されれば、高校生の息子が、親の目を盗んでテレビゲームをしていた事実や、妻が夫の出張中に朝までテレビを見ていた事実がバレてしまうが、それでよいのかどうか。

 さらに、家族ではない居住者のプライバシーの問題がある。例えば賃貸住宅や社員寮、ホテル、学校や病院などの場合、同意の取り方はどうするべきか、という問題だ。

 本稿ではこれ以上立ち入らないが、間違いないのは、パターン毎に突き詰めていけば、無数の組み合わせが発生して、処理が不可能になることだ。この問題を解決するためには、誰もが同意したくなる、魅力的なビジネスモデルを提示すること、費用を本人負担としないこと、抽象的かつ明確な同意方法を編み出すこと、がポイントとなるだろう。

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2011年2月25日 (金)

宇都宮健児と長嶋茂雄

223日、東京弁護士会法友全期会シンポジウムにお誘いいただいて出席した。

法友会は、日弁連最大の東京弁護士会内最大にして最強派閥。全期会には15年目までの若手が所属する。今回のシンポの趣旨は、「若手で司法改革を総括しよう」とのこと。宇都宮健児現日弁連会長、丸島俊介日弁連前事務総長、竹之内明次期東京弁護士会長という蒼々たるゲスト故か、約100名の会場は満員だった。

丸島・竹之内弁護士は、司法改革の歴史を淀みなく話される。1990年の司法改革宣言から日弁連が一貫して取り組んだ「長く困難なたたかい」の歴史だ。さすがは日弁連の保守本流だが、この史観が日弁連全体で共有されていれば、昨年の日弁連会長選挙で、法友会の推す候補が勝っていたはずだ。そこに派閥としての悩みがあり、シンポを開く動機がある。

私にとっても、とても刺激的な会だったが、若手にとって最もショックだったのは、宇都宮会長との意識の差だったと思う。サラ金被害者等の貧困対策の運動論に終始し、「弁護士の貧困問題」を顧みない発言には、密かに失望した若手も多かったと思う。

「私は二度事務所をクビになった。仕事にあぶれて始めたのがサラ金事件だ。若手も新しい業域開拓にがんばれ」と言われても、若手としては困ってしまうのだ。確かに宇都宮健児は弁護士の理想であり誇りだが、多くの弁護士は、宇都宮健児になれない。長嶋茂雄に指導を受けても、長嶋茂雄になれないのだ。

「名選手必ずしも名監督にあらず」という。名選手である宇都宮弁護士は、果たして名監督として歴史に名を残すだろうか。

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2011年2月22日 (火)

公認会計士 就職浪人4割

222日の日本経済新聞によると、金融庁は公認会計士試験に合格しながら就職できない「就職浪人」の割合が2010年に4割に上ったという調査結果を公表した。

この記事について小倉秀夫弁護士は、無職となるリスクを高めるためにわざわざ会計士を目指す人は少なくなるだろうから、過剰な合格者の増加は人材の質を低下させ、ひいてはサービスの低下をもたらすと指摘する。一方落合洋司弁護士は、就職できない人が多いから合格者を減らすのは本末転倒と述べている。

もちろん両者とも司法試験を念頭に発言しているのだが、私としてはまず、弁護士は今までなんと恵まれていたことかという感慨を禁じえない。司法試験に合格したら、就職できて当たり前、高収入で当たり前。今になって、合格者の「たった1割」が就職できないといってショックを受けている我々弁護士は、実はとても優遇されていたのだ。

ならば問題は、今まで弁護士が優遇されていたことは間違いだったのか、ということだ。間違いだったのなら、過去にさかのぼって清算を行うべきだ。間違いでなかったというなら、その根拠を示すべきである。その上で、その根拠が現在消滅しているなら、弁護士を特別扱いする理由はない。他方、その根拠がいまも存在するなら、弁護士を特別扱いする理由がある。

私は最後の見解を取りたいと思っているが、果たして説得的に論証できるかどうか。

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軍用機用プロペラでも武器ではない、という不思議

221日の各紙によると、アフガニスタン空軍機として米軍から供与されるC27輸送機のプロペラとして、海自機US1A用のプロペラを輸出することになったそうだ。当然武器輸出三原則との関係が問題となるが、報道によれば、経産省は「YS11など民間機でも使われていることから」「軍専用の設計になっていない」として、武器輸出三原則にいう武器にあたらないと判断した。

このUS1救難飛行艇は、それ自体は戦闘行為を予定していないため、武器輸出三原則にいう武器にあたらない、という議論が過去にあったが、結局輸出が断念された経緯がある。今回の報道も、飛行艇本体は「武器」にあたるという前提なのだろう。しかし、武器の部品であっても、軍専用の設計になっていなければ、武器ではなく、輸出も許可する、と経産省が判断したことになる。

これは変ではないだろうか?

「武器の部品や附属品であって、武器の一部として使用される予定の物で、しかも最終需要者がアフガニスタン軍であっても、軍専用の設計になっていないなら武器にあたらず、輸出が認められる」一方で、「軍専用の設計になっていない民生品であっても、軍事転用の可能性があるだけで、輸出が認められない」場合がある。たとえば、トレーラーの荷台や牽引機は、ミサイル運搬に転用される「可能性」があるとして、キャッチオール規制により、輸出できない場合がある。貨物の性質という観点から見る限り、これは明らかに不均衡だと思う。

キャッチオール規制という制度がある以上当然、といわれればそれまでだが、それならば、キャッチオール規制それ自体の問題点を、法律家ならば指摘するべきであろう。また、このような不均衡が輸出経済に与える萎縮効果はとても大きいと思う。

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2011年2月21日 (月)

「法の支配」ってなんだ?(2)

「法の支配」を実現するためには、「法」があるだけではダメで、権威ある裁判所の存在が不可欠だ。そして、この「法」は、議会制定法だけでなく、憲法や、正義の法(common law)も含む。それゆえ、「法の支配」を実現する裁判所は、法の解釈と適用において、あらゆる国家機関に優位する至高の存在とされる。古くは王より上に立ち、その後行政府より、さらに議会の上に立つ。優位に立つことは、他の国家機関に干渉されないことだから、「法の支配」と「司法の独立」は同義だ。佐藤幸司『憲法』には、「『法の支配』にあっては裁判所が格別の役割を担って」いるとある。佐藤幸司先生も、たまにはいいことを言う。

弁護士は、自分の頭がいいから、司法試験に受かったから、人は自分の言うことを聞く、と自惚れているが違う。人々が弁護士の言うことを聞くのは、「裁判をすれば弁護士の言ったとおりになる」と思うからだ。弁護士は、訴訟業務を独占しているので、「至高の存在」である裁判所の意向を知るには、弁護士にお伺いを立てるしかない。ここに弁護士の権威の源泉がある。たとえるなら、弁護士は裁判所の預言者であり、虎ならぬ「裁判所の威を借る狐」だ。

もっとも、ここにいう裁判所は、大阪地裁民事13部のような現実の裁判所ではない。現実の裁判所の平均値と、理想の裁判所の間にある、とでもいうべき、観念的な意味の裁判所である。

以上から導かれる結論はこうだ。

まず、弁護士の権威は、司法の独立という憲法原理に由来する。だからこそ弁護士は、行政に対して法に従えと要求することもあるし、法律の方が間違いだと主張することさえある。この点が弁護士と、他の法律実務家との違いだ。

また、裁判所の権威の及ばないところに「法の支配」はない。弁護士が増えても、裁判所の権威が及ばない場所には、「法の支配」は広がらない。

だから、「弁護士は増えれば法の支配が及ぶ」という考えは間違いだ。「法の支配」を及ぼすためには、裁判所の権威が及ぶためにはどうしたらよいか、考えなければならない。

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2011年2月18日 (金)

「法の支配」ってなんだ?

 社会には、問題を解決する様々な方法―暴力、金、仁義、慣習、伝統、宗教など―がある。「法の支配」とは、他の方法より、法という規範(ルール)を優先して問題を解決することがよい、という価値観のことだ。

 ではなぜ、法が、他の方法より優先され得るのだろう。

 自分は長男だから、親の全財産を相続して当たり前だと主張する人がいる。この考えは、65年前までは確かに正義だった。しかし現代の民法には、全血の兄弟は平等と書いてある。民法がどうした、俺はそんなものに従わなねえ、と啖呵を切っても無駄だ。なぜなら判決が出れば、民法に従った相続しか実現できないからである。これが、「法の支配」の具体例だ。

 ある政党の実力者が、検察審査会の議決に基づき強制起訴されたことをうけ、その政党では、この実力者の党員資格を停止すると決めた。これに対して、「推定無罪」の法理からすれば、起訴されただけでの不利益処分は間違っている、という批判がある。この批判も、「法の支配」の一つのあらわれだ。

 しかし、この批判は、上記の相続の例に比べると、今ひとつ迫力に欠ける。なぜなら、同じ「法の支配」から真逆の結論を導くこともできるからだ。それは、「憲法の定める三権分立や、民主主義の考え方からすれば、政党内の自治的決定は尊重されるべし」という考え方である。

 同じ「法の支配」から、異なる結論を導き出すことが可能なとき、どちらかを勝たせるのは裁判所の仕事だ。このとき裁判所は、刑事訴訟法上の原則か、政党の自治権か、という政策上の優先順位を決定する役割を担う。

 ただ、裁判所の決定も、これに従わせる権威が足りなければ、絵に描いた餅になる。かつて、判決に対して「そんなの関係ねえ」とうそぶいた軍人がいた。また、仮処分命令を無視した著名ホテルもあった。

 以上からいえることは、こういうことである。「法の支配」を実現するためには、法律があるだけでは不十分だ。裁判所という「法を司る」(=司法)機関が不可欠であり、かつ、裁判所に権威が認められている必要がある。

 「当たり前じゃないか」と思われるかもしれない。だが、「法の支配を社会の隅々に」と言う連中の中にさえ、この当然のことを理解していない者がいるように思われる。

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2011年2月17日 (木)

ドイツにおける法曹制度(2)

ドイツの法曹制度は、司法試験に沢山合格させるけれども、日本でいう法曹になるのは少数(1500人?/80009000人)で、残りは民間企業などに就職する。

これに対して日本は、ドイツに比べれば、司法試験に少なく合格させる代わりに、原則全員が法曹になる(1900人?/2000人)、という「運用」をしている。

この「運用」に対して、久保利英明弁護士や、青山善充教授などは、異議を述べている。久保利弁護士は、「法廷弁護士だけが弁護士ではない。企業、公務員、議員や首長、教育者、研究者その他に進出すべきである。弁護士間の競争は激しくなるべきだし、希望する職に就けない弁護士が出てもやむを得ない」旨述べる(The Lawyers 20111月号)。これらの意見は、日本かドイツかといえば、ドイツの法曹制度を指向している。

日本とドイツと、どちらが良いと、一概には言えない。もちろん、日本の弁護士増抑制論者からは、ドイツの制度など論外だろう。しかし、ドイツの司法が破綻しているかというと、そうではあるまい。ドイツ国民が日本に比べ、人権侵害に喘いでいるという話も聞かない。何となく、ドイツの方が「法の支配」が進んでいるような気さえする。

そうだとすれば、日本方式も、ドイツ方式も、政策としては、どちらかが絶対的に優れている、ということはない。だからこの問題は、どちらがわが国にふさわしいか、という視点を持たない限り、答えが出ない。

例えば、こういう視点を持つことはどうか。

戦後日本では、弁護士が裁判官・検察官と同列に引き上げられ、平等に実務研修を受けることになった。弁護士は、民間事業者であるのに、その志望者は公務員として給与を受けるという「特典」を授けられた。司法試験は最難関試験の一つとされ、合格者数も志願者に比べきわめて少数に抑えられたため、司法試験に合格すれば必ず職に就けた。弁護士は、法律事務独占を保障され、その利益を享受してきた。弁護士会は、世界屈指と言われる自治権と、強制加入団体性を保障されている。

要するに、戦後日本の弁護士は、ドイツに比べ、とても優遇されてきた。なぜ優遇されてきたのか、その根拠は何だろうか。もし、その根拠が失われたのであれば、優遇されなくて当然である。ドイツの法曹制度の方がふさわしいかもしれない。

逆に、現在もその根拠が失われていないとすれば、優遇されるべき政策的理由が存在することになる。

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ドイツにおける法曹制度

日弁連委員会ニュース2月号に掲載された標記調査報告が興味深かったので、かいつまんでご紹介する。

ドイツには201011日現在、約153000人の弁護士がいるという。単純比較で日本の5倍以上だ。ドイツの人口は約8200万人だから、人口比で調整すれば、日本の7倍以上となる。司法試験の1次試験に合格した後、修習を受けて、2次試験に合格することで法曹資格を得られる。毎年80009000人で合格率は10%台半ば。合格者数も単純比較で日本の4倍以上だが、この後の競争が厳しい。

司法試験の成績トップは公証人になり、その他は裁判官、検察官、大企業・国・州の幹部や法律事務所に勤務するが、成績が悪ければ就職できず、毎年6000人程度が失業手当を受給し、その中でも1000人以上が1年以上就職先未定という。司法試験12次試験の成績が進路に大きく影響することから、この間、予備校に通うことが珍しくないそうだ。

まず89万人という、べらぼうな受験者数に驚く。私が司法試験を受けた20年前、受験生は約25000人だった。それが89万人、人口比で修正すれば12万人以上が司法試験を受験するということであれば、日本の法学部卒業生全員が司法試験を受験しても、おつりが来るだろう。

このうち80009000人が法曹資格を得るとのことだが、この受験者数と就業状況をみると、これらの「法曹資格」をわが国の「弁護士」と同視してよいとは思われない。出身大学に加え、「司法試験1次試験合格」「2次試験合格」で階層化され、「2次試験合格」組の中でさらに成績によって階層化され進路が決まる様子を見ると、ドイツにおける司法試験は、TOEIC等と同様、法学部等の出身者が就職に箔をつけるための資格に過ぎないというべきだろう。要は何点取ったかが重要、ということだ。

この記事で残念なのは、この8000人~9000人中、結局何人が、日本でいう弁護士として働くのか、よく分からないことだ。記事を素直に読む限り、このうち20003000人が、裁判官や検察官、大企業や国・州の幹部職員、そして法律事務所に就職するように読める。このうち「国・州の幹部職員」というのは、日本でいう国家公務員上級職に匹敵するのだろうから、この幹部職員を除いた残りが、日本で言う法曹にあたることになる。仮に、「国・州の幹部職員」が全体の半分と見るなら、法曹の数は毎年1000人~1500人となり、人口比を考慮しても、現在のわが国よりやや多い程度だ。残りが一般企業に就職するということなら、これらの者たちはドイツの「法曹資格」を有するにせよ、学歴的には日本の「著名大学法学部卒業生」と同レベルということになる。

いずれにせよ、「ドイツの弁護士数は日本の5倍以上」と単純に比較できる話でないことは確かなようだ。

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2011年2月16日 (水)

国境のトンネルは、どれだけ長ければよいのか?

「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」は著作物か?という問題があるそうだ。福井健策弁護士は、「短すぎて独創的な表現とはいえない気がする」から、「おそらく著作物ではありません。」と述べている(『著作権とは何か』集英社新書)。

そうかなあ?少なくとも、短すぎるというのは、理由にならないんじゃないのかしら。俳句は全部、著作物ではないのだろうか。

誰の評論か忘れたが、「『国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。』までは、大したことはない。だが、これに続く『夜の底が白くなった。』はすごい。超一流の作家しか書けない」という趣旨の文章を読んだ記憶がある。この評論に従えば、二文目まで入れたら、著作物になるようだ。それなら、福井弁護士に従った場合、一文目までは短すぎるが、二文目まで入れたら、著作物と認められる程度に長いのだろうか。それならば、著作物と認められる文の長さは、何字なのだろうか?

「吾輩は猫である。」は著作物だろうか。野口祐子弁護士は、「創作性」がないから、「おそらく違う」と述べている(『デジタル時代の著作権』ちくま新書)。

そうかなあ?どうも、著作権の専門家と、私の感覚は違うらしい。福井弁護士の基準によれば、「短すぎて」当然に著作物ではないことになる。

「吾輩は猫である。」「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」「メロスは激怒した。」「山椒魚は悲しんだ。」「春は曙。」古今東西数多の文章の中で、冒頭の一文が著名なものは少ない。全体として名作だからといって、冒頭の一文が有名とは限らない。そうだとすれば、上記の冒頭文は、独創的で印象深いから、人口に膾炙するのだ。「創作性」が無いという理由づけには、やはり賛成できない。

著作権法の専門家が著作物性を否定するのは、実は、他の政策的な理由がある。これらの一文を著作物と認めてしまうと、同じ表現をしたら著作権侵害になってしまうからだ。著作権料の問題もあるし、それ以前に、著作権者を捜し出すのが一苦労だ。それは創作活動を萎縮させてしまう。そこで、著作権法の専門家は、「創作性」という言葉の意味を、「著作者に独占させることが、政策的に許容される記述」と読み替えているのだ。だがこれをストレートに使ったのでは、「著作権者に独占させるべきではないから、著作物ではない」と言っていることになり、同義反復でしかない。だから、「短い」とか「創作性」などという、分かったような言葉を使ってごまかしているのだと思う。

このあたりも、著作権法が分かりにくい、といわれる原因の一つではないか。

ちなみに、野口祐子弁護士の『デジタル時代の著作権』は、すばらしい著作だと思う。なにより、従前の概説書の枠組みを踏み越えたところがよい。できれば、上記の件についても、フェアユースの考え方などで解決できないか、検討して欲しかった。

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2011年2月14日 (月)

革命の舞台装置

北アフリカでは、インターネットを利用した「デジタル革命」が進行中だ。だが、革命には、時代を問わず必要不可欠な舞台装置がある。

それは広場だ。

チュニジアは詳細が報じられていないのでよく分からないが、エジプトでは、タハリール広場に集結した民衆が、革命の原動力になった。

1980年代末の東欧では、衛星テレビで知識を得た民衆が政庁前広場に集まり、共産主義政権を打倒した。1986年、フィリピンの民衆はマラカニアン宮殿周辺の広場に集結し、マルコス夫妻を追放した。1989年には、中国政府の民主化を求め、10万人を超える民衆が、天安門広場に集結した。

西欧の古い町には、かならず政庁前広場がある。バチカン宮殿も、見方を変えれば、広場こそ中心で、その周りを建物が取り囲んでいる。広場は、指導者が民衆の前に立ち、歓呼の声に応えるための舞台装置なのだ。しかし、悪政への不満が頂点に達すると、革命の起点に転換する。民主政体であるか否かを問わず、西欧では、首長の正統性が広場によって裏付けられている。

翻ってわが国はどうか。まず想起されるのは日比谷焼討事件(1905年)だ。このとき日比谷公園には数万人が集結したらしい。今の日比谷公園は、高い木々が生い茂っていて、集会ができるスペースは全体の半分もない。ここに数万人が集まることが可能か疑問だし、木立に遮られて外から見づらいというのは、革命には都合が悪い。

次に想起されるのは、安保闘争だろう。1960615日、国会議事堂前に集結したデモ隊は、少なく見ても10万人を超えたという。しかし、今の国会議事堂前を見ると、かつて広場だったと思われる場所には木が生い茂っていて、10万人以上が集結できる場所には思われない。

もしかしたら、日本には、革命の起点となり得る広場は現存しないのかもしれない。物理的に候補になり得るのは皇居前広場だろうが、皇居前広場から革命が起きるというのは、ちょっと想像できない。

このことは、同時に、首長の正統性を裏付ける広場も、日本には存在しないということである。

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2011年2月 7日 (月)

「会費半減」を公約に 日弁連会長選立候補へ

 弁護士でもあるハシモト知事が、任期満了後に日弁連会長選挙に出馬すると表明した。「僕は政治家である前に法律家。法律の力で日本を変えたい」と抱負を語った。

 公約は年50万円~100万円といわれる弁護士会費半減。「狭い日本に53個も弁護士会があるなんて異常。しかも全部独立した、バラバラの団体。少ない会員で豪華な会館を建て多数の職員を雇って、会費が高いと文句を言っているが、バカじゃないか。北海道から九州まで8弁護士会に統合して、日弁連が統括すれば、弁護士会費を半分にしてもおつりが来る」と息巻いた。悲願の道州制を、弁護士会から実現する考えだ。

 日弁連では現会長が再出馬を表明しているが、最大公約だった司法試験合格者数問題に全く進展がなかったことから、再選は微妙な情勢だ。

 ある日弁連幹部は、「(弁護士会統合は)弁護士法を改正しない限り不可能。ただ、司法試験合格者数が急激に増えた結果、経験10年以内の弁護士だけで全体の過半数いる。若手が支持すれば、知事の当選は確実」と、苦々しげに語った。

 日弁連会長選挙の投票は来年2月。

注;このエントリは2万パーセントフィクションです。実在の個人や組織には一切関係ありません。

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2011年2月 3日 (木)

新63期進路未定者214名

 昨年1216日の一括登録日現在、司法研修所を卒業したにもかかわらず、裁判官、検察官、弁護士のいずれにもならなかった「進路未定者」が214名であったことが、日弁連の資料で明らかとなった。

 この数字は、二回試験合格者(再受験組を含む)1735人中、1割を超えて8人に1人が「進路未定者」だったことを意味する。

 もっとも、16日までには23人が弁護士登録を行ったそうだし、残りの中には、公務員になったり、民間企業に就職したり、結婚して配偶者の留学先に転居したりした人も含まれよう。しかし、多少の修正を施したところで、この数字は大きい。これらの進路未定者の多くは、次年度新人のライバルにもなるから、翌年以降、進路未定者数は累積的に増えていく。大量の「高学歴・高資格ニート」が出現する、その始まりとなるかもしれない。あ、司法試験は「高資格」じゃないって?それは失礼しました。

 新62期に比べて即独者数は半減したそうだが、これは就職事情が好転したというより、どうせ食っていけないのだから、弁護士登録そのものをやめた方が良いとの認識が広まった故だろう。

 日弁連は進路未定者の調査や支援を行うのだろうか。弁護士(即独等)と修習生(給費制)を支援するのだから、その間に挟まれた進路未定者は、当然支援するのだろうなあ。でもどうやって?

 ちなみに久保利英明弁護士によれば、この200名前後の「進路未定者」は、「憲法の定める職業選択の自由」を行使した結果として「当のご本人が決め」たことなのだそうだ。しかもこれらの「進路未定者」は、「多数の弁護士候補者・予備軍」の一員として、わが国「司法の国際競争力」を支える力になるのだそうだ。

 なるほど。それはめでたい。是非、彼らの前でそう言ってほしい。必ず、彼らの拳が届く場所でお願いします。

訂正; 本エントリ中、「二回試験合格者1735名」とあるのは、「1949名」の誤りです。Shulzeさんのブログでご指摘され気づきました。お詫びして訂正いたします。

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2011年2月 2日 (水)

歴史をねじ曲げようとする人たち

 司法試験合格者数年3000人という増員が国レベルで決定されたきっかけは、1994年(平成6年)1221日の日弁連臨時総会でなされた、「司法試験合格者数を今後5年間年800人とする」という決議だ。この決議は、当時「1500人か、1000人か」という議論をしていた法曹養成制度等改革協議会からみれば、まるで問題外だった。日弁連は、「ギルド社会の既得権益擁護」という、世論の猛反発を呼び、法曹人口問題の決定権者たる地位を失うことになった。
 ところで、日弁連の未来を決定したこの決議は、執行部案でも、反執行部案でもない。総会の後半に会場から発議され、実質的議論が全く無いまま採決された「関連決議」である。とても不思議なことには、この日、執行部案・反執行部案を巡って真っ二つに割れていたにもかかわらず、この関連決議案は圧倒的多数で可決された。なぜこのような不思議なことになったかといえば、ある種の「陰謀」があったからだ。これが、「こん日」94頁以下に記した私の見解である。

 これに対して、例えば福岡弁護士会元会長の永尾廣久弁護士は、「陰謀論には与しない」という立場だ。

 陰謀はあったのか、無かったのか。この問題に関して、稲田寛日弁連事務総長(当時)が、回顧録『一見落着、再び』(中央大学出版部。以下稲田書という)を著した。

 ところが、稲田書の該当部分には、看過できない誤謬がある。それは、議事の順番だ。

 稲田書216頁には、総会当日、執行部案・反執行部案について採決があり、64で執行部案が可決された「その後、(中略)双方の立場を調整する案(注;上記関連決議案のこと)が辻誠元日弁連会長により発議され、圧倒的多数の賛成により可決された」とある。

 しかしこれは、議事録に反している。

 すなわち、議事録によれば、議事の実際の順番は、①関連決議案発議→②執行部・反執行部案採決→③関連決議案採決、である。これを稲田書は、②執行部・反執行部案採決→①関連決議案発議→③関連決議案採決、と入れ替えているのだ。
 些細と思うかもしれない。しかしこの違いは重要だ。なぜなら、議事録の場合、「陰謀」の成立する余地がある。これに対して稲田書の場合、この「陰謀」を否定することになるからだ。

 やや詳細に説明しよう。「こん日」で描いた「陰謀」のシナリオはこうだ。
 総会直前、辻弁護士側から土屋公献執行部に対して、「執行部側が関連決議案に賛成するなら、数百票が執行部案を支持する」との提案がなされ、執行部側がこれを了承する、という「密約」が交わされた。とはいえ、辻弁護士側からみれば、執行部側が関連決議案に賛成する保証がないのに、執行部案に投票することはできない。すなわち、関連決議案発議の前に、執行部・反執行部案の採決をしてもらっては困るのだ。だから、関連決議案を執行部・反執行部案より先に採決してもらうのが一番だが、関連決議案を本案より先に採決するわけにも行かない。そこで、執行部・反執行部案の採決より前に関連決議案を発議した上、関連決議案を支持するとの言質を、土屋公献会長から取り付けておく必要がある。

 果たして、議事録によれば、総会はこのシナリオ通り進行した。これに対して稲田書の順番なら、このシナリオは成立しない。いいかえれば、稲田書は、「こん日」の陰謀論を否定するために、議事録に記載された議事の順番を故意に入れ替えた疑いがある。

 永尾廣久弁護士は、稲田書を紹介して、「この本を読んでも、この総会で陰謀があったなどとはとても思えません。(中略)陰謀論は単なるタメにする議論にすぎず、根拠はない」と述べる。しかし、その前提となる稲田書が事実と異なるなら、永尾弁護士の主張も砂上の楼閣だ。

 なぜこの人たちは、こうしてまで、歴史をねじ曲げようとするのだろう。確実に言えることは、彼らには、歴史をねじ曲げてでも守りたい、何か大切なものがある、ということだ。

 ご参考までに、議事録に記録された議事の順番を、議事録該当ページととともに記しておく。

1.執行部案朗読(5
2.
反執行部案朗読(6
3.
質疑・意見(666
4.
関連決議案発議(66
5.
討論終局(82
6.
土屋会長の意見(82
7.
執行部案採決(83
8.
反執行部案採決(84
9.
関連決議案採決(89

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2011年2月 1日 (火)

企業内弁護士は増えるのか?

「『企業内弁護士』企業二の足」という見出しで、企業内弁護士に対するニーズは低調と報じた日経新聞に対して、元「法律新聞」編集長氏が、「今後、大量増員時代の弁護士が、報酬(中略)のハードルをぐっと下げてくれば」増えるのではないか、と予測しておられる。

そうかなあ。この前提に無理があるような気がする。今後、企業内弁護士の報酬のハードルはぐっと下がるだろうか。

弁護士が組織に雇用される場合の報酬をシミュレートするため、4大卒新人と比較してみよう。法曹養成制度の現状を前提にする限り、新人弁護士は22歳の大卒より平均7歳年長である。法科大学院の学費として平均約400万円を投じている。司法修習が貸与制になれば、300万円の借金が加わる。そして、年50万円~100万円の弁護士会費を支払う義務がある(もっとも、新人弁護士の場合は、当初23年は半額程度に減額される場合もある)。

これらの相違点を考えた場合、新人弁護士が、企業に就職するとき、同期入社の4大卒新人と比べ、年収でどの程度の待遇差を設けたら公平だろうか。

投下資本を10年で回収し、会費を企業側が負担すると仮定しただけで、月収(手取)で10万円の差となる。また、7歳の年齢差を勘案すると、60歳定年と仮定した場合、企業内弁護士の給与を1.23倍しないと、生涯給与が釣り合わない。すなわち、4大卒新人(22歳)の月給を30万円とすると、同期入社の弁護士(29歳)の月給は4730×1.2310)万円必要という計算になる。

弁護士に言わせれば、この待遇でも不満だ。なぜなら、彼らは司法試験というリスクを取ってきたわけだし、終身雇用が保障されないなら、投下資本を早期に回収する必要があるからだ。

一方、企業内弁護士を採用する側からみればどうなるか。司法研修所を卒業したばかりの平均29歳の弁護士に、4大卒新人の1.5倍を超える47万円の月給を支払う価値があるだろうか。あるいは、入社7年目の中堅社員を上回る給料を支払う価値があるだろうか。普通に考えて、ないだろう。

つまり、現行の法科大学院制度、司法研修制度、そして高額の弁護士会費を前提にする限り、企業内弁護士に関する弁護士と企業の要求は大きく解離している。

もちろん、以上は抽象的な一般論であり、現実はもっと複雑だ。弁護士側には、当面の待遇は4大卒新人同期以下でも構わない、入社後に実力を発揮してキャリアアップすればよい、と考える野心家もいるだろうし、企業側から見て、はじめは分不相応の高給でも、数年育てれば採算が合う人材がいるだろうし、はじめから採算が十分取れるほど、ニーズの高い企業もあるだろう。現に近年の企業内弁護士数の伸び率は著しいし、優秀な企業内弁護士がたくさんおられる。

だが、大所高所から見た場合、弁護士と企業との経済的なミスマッチは、いかんともしがたい。上記の前提条件が維持される限り、企業内弁護士数は、おそらく数年で飽和するだろう。いいかえれば、法科大学院と、司法研修所と、高額の弁護士会費をそろって廃止すれば、企業内弁護士は大きく普及することになろう。

企業内弁護士を増やすには、弁護士の意識改革が必要、という主張があるが間違いだと思う。この問題は根性論では解決しない。経済的合理性の問題だからである。

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目を覚ますと、船は漂流していた。昨夜の嵐で、舵も帆もオールも錨も失ったのだ。遠くから滝のような轟音が響いていた。

乗客は船長に尋ねた。「この船は、どこに行くのですか?」

目を開けて船長が答えた。「舵を失う前に、船を港に向けた。もう着いた頃合だ」

「どこにも陸地は見えませんが」乗客が言うと、船長は「そんな筈はない」と答えて目をつぶった。港はまぶたの裏に見える、と言いたげだった。

甲板に出ると、航海士が空を見上げていた。

「この船は、どこに行くのですか?」

航海士は答えた。「前は滝だ。嵐でパニックになった船長が、滝に向けて舵を切った。この船は滝に呑まれるだろう」

「大変だ。なぜ船を止めないのですか?」

上を見たまま航海士は答えた。「私は風を読むのに忙しい」

船底では、操舵士が壁を押していた。

「何をしているのですか?」

操舵士は答えた。「船尾に向かって壁を押して、船を止めるのです」

あきれた乗客は再び甲板に出た。甲板では、一つしかない救命ボートに乗客が殺到していた。

バランスを失って、船は転覆した。

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企業内弁護士は増えるのか?

「『企業内弁護士』企業二の足」という見出しで、企業内弁護士に対するニーズは低調と報じた日経新聞に対して、元「法律新聞」編集長氏が、「今後、大量増員時代の弁護士が、報酬(中略)のハードルをぐっと下げてくれば」増えるのではないか、と予測しておられる。

そうかなあ。この前提に無理があるような気がする。今後、企業内弁護士の報酬のハードルはぐっと下がるだろうか。

弁護士が組織に雇用される場合の報酬をシミュレートするため、4大卒新人と比較してみよう。法曹養成制度の現状を前提にする限り、新人弁護士は22歳の大卒より平均7歳年長である。法科大学院の学費として平均約400万円を投じている。司法修習が貸与制になれば、300万円の借金が加わる。そして、年50万円~100万円の弁護士会費を支払う義務がある(もっとも、新人弁護士の場合は、当初23年は半額程度に減額される場合もある)。

これらの相違点を考えた場合、新人弁護士が、企業に就職するとき、同期入社の4大卒新人と比べ、年収でどの程度の待遇差を設けたら公平だろうか。

投下資本を10年で回収し、会費を企業側が負担すると仮定しただけで、月収(手取)で10万円の差となる。また、7歳の年齢差を勘案すると、60歳定年と仮定した場合、企業内弁護士の給与を1.23倍しないと、生涯給与が釣り合わない。すなわち、4大卒新人(22歳)の月給を30万円とすると、同期入社の弁護士(29歳)の月給は4730×1.2310)万円必要という計算になる。

弁護士に言わせれば、この待遇でも不満だ。なぜなら、彼らは司法試験というリスクを取ってきたわけだし、終身雇用が保障されないなら、投下資本を早期に回収する必要があるからだ。

一方、企業内弁護士を採用する側からみればどうなるか。司法研修所を卒業したばかりの平均29歳の弁護士に、4大卒新人の1.5倍を超える47万円の月給を支払う価値があるだろうか。あるいは、入社7年目の中堅社員を上回る給料を支払う価値があるだろうか。普通に考えて、ないだろう。

つまり、現行の法科大学院制度、司法研修制度、そして高額の弁護士会費を前提にする限り、企業内弁護士に関する弁護士と企業の要求は大きく解離している。

もちろん、以上は抽象的な一般論であり、現実はもっと複雑だ。弁護士側には、当面の待遇は4大卒新人同期以下でも構わない、入社後に実力を発揮してキャリアアップすればよい、と考える野心家もいるだろうし、企業側から見て、はじめは分不相応の高給でも、数年育てれば採算が合う人材がいるだろうし、はじめから採算が十分取れるほど、ニーズの高い企業もあるだろう。現に近年の企業内弁護士数の伸び率は著しいし、優秀な企業内弁護士がたくさんおられる。

だが、大所高所から見た場合、弁護士と企業との経済的なミスマッチは、いかんともしがたい。上記の前提条件が維持される限り、企業内弁護士数は、おそらく数年で飽和するだろう。いいかえれば、法科大学院と、司法研修所と、高額の弁護士会費をそろって廃止すれば、企業内弁護士は大きく普及することになろう。

企業内弁護士を増やすには、弁護士の意識改革が必要、という主張があるが間違いだと思う。この問題は根性論では解決しない。経済的合理性の問題だからである。

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