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2011年2月16日 (水)

国境のトンネルは、どれだけ長ければよいのか?

「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」は著作物か?という問題があるそうだ。福井健策弁護士は、「短すぎて独創的な表現とはいえない気がする」から、「おそらく著作物ではありません。」と述べている(『著作権とは何か』集英社新書)。

そうかなあ?少なくとも、短すぎるというのは、理由にならないんじゃないのかしら。俳句は全部、著作物ではないのだろうか。

誰の評論か忘れたが、「『国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。』までは、大したことはない。だが、これに続く『夜の底が白くなった。』はすごい。超一流の作家しか書けない」という趣旨の文章を読んだ記憶がある。この評論に従えば、二文目まで入れたら、著作物になるようだ。それなら、福井弁護士に従った場合、一文目までは短すぎるが、二文目まで入れたら、著作物と認められる程度に長いのだろうか。それならば、著作物と認められる文の長さは、何字なのだろうか?

「吾輩は猫である。」は著作物だろうか。野口祐子弁護士は、「創作性」がないから、「おそらく違う」と述べている(『デジタル時代の著作権』ちくま新書)。

そうかなあ?どうも、著作権の専門家と、私の感覚は違うらしい。福井弁護士の基準によれば、「短すぎて」当然に著作物ではないことになる。

「吾輩は猫である。」「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」「メロスは激怒した。」「山椒魚は悲しんだ。」「春は曙。」古今東西数多の文章の中で、冒頭の一文が著名なものは少ない。全体として名作だからといって、冒頭の一文が有名とは限らない。そうだとすれば、上記の冒頭文は、独創的で印象深いから、人口に膾炙するのだ。「創作性」が無いという理由づけには、やはり賛成できない。

著作権法の専門家が著作物性を否定するのは、実は、他の政策的な理由がある。これらの一文を著作物と認めてしまうと、同じ表現をしたら著作権侵害になってしまうからだ。著作権料の問題もあるし、それ以前に、著作権者を捜し出すのが一苦労だ。それは創作活動を萎縮させてしまう。そこで、著作権法の専門家は、「創作性」という言葉の意味を、「著作者に独占させることが、政策的に許容される記述」と読み替えているのだ。だがこれをストレートに使ったのでは、「著作権者に独占させるべきではないから、著作物ではない」と言っていることになり、同義反復でしかない。だから、「短い」とか「創作性」などという、分かったような言葉を使ってごまかしているのだと思う。

このあたりも、著作権法が分かりにくい、といわれる原因の一つではないか。

ちなみに、野口祐子弁護士の『デジタル時代の著作権』は、すばらしい著作だと思う。なにより、従前の概説書の枠組みを踏み越えたところがよい。できれば、上記の件についても、フェアユースの考え方などで解決できないか、検討して欲しかった。

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コメント

冒頭の一文だけでは、確かに「著作物」ではないと思います。
『雪国』『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『走れメロス』『山椒魚』『枕草子』というまとまりとなって、初めて著作物といえるのではないでしょうか。

投稿: | 2011年3月26日 (土) 16時01分

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