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2011年3月31日 (木)

原子炉事故用ロボットはベクレル羊の夢を見るのか?

「東日本大震災の発生後、人が入れない高濃度被曝(ひばく)エリアで放射線測定を行うロボットをはじめ、日本の最先端技術を駆使した『レスキューロボット』が現地に送り込まれた。しかし、現場の混乱や受け入れ態勢の不備などの要因で活躍の場が与えられず、いまだにスタンバイ状態が続いている」(319日産経新聞)

日本のレスキューロボットは、阪神大震災から16年経ったにもかかわらず、全く役に立たなかった。次世代ロボットに関わる者としては悔しいけれど、この事実は銘記しなければならない。地震から20日経つのに、国際レスキュースステム研究機構(IRS)のホームペーには何の記事もない。これもひどい話だ。

「受け入れ体制の不備」と記事は言うが、間違っている。災害現場は混乱しているのが常であり、受け入れ体制など存在しないことをロボット開発の前提とすべきだからだ。だから正確には、どんな現場でも活用できる運用体制の不備、いいかえれば、貧困な運用体制でも活用できる技術の不備が原因だと思う。つまり、レスキューロボットはシンプルでなければならない。スタッフ抜きで、ロボット本体とキットさえ送りつければ現地の初心者でも操作・修理できるものであることが理想だ。高度で繊細な技術は不要どころか、有害である。

阪神大震災から16年目にしてこの低レベルであることの大きな原因は、災害がそう頻繁に起きるものでない以上、実証実験の機会が限られる、ということだろう。本気でレスキューロボットを実用化するためには、災害発生後48時間以内に世界中にレスキューロボットを派遣する体制を常備する必要がある。外為法による輸出管理も、運用上の手当が必要だ。

「(フランスの)アレバ社は28日、原発事故用にフランスで開発された作業用ロボットの提供を申し出たところ、東京電力が断ったと明らかにした」(329日読売新聞)

東電が拒否した理由は分からない。単なる意地かもしれないし、そのロボットが役に立つ状況でないのかもしれないし、フランス人スタッフ用ワインが放射能に汚染されてしまったのかもしれない。

ただ、この世界有数の原子炉メーカーは、放射能で人間が作業できない環境を想定して、すなわち、原子炉格納容器が損壊する事態を想定してロボットを開発していたこと、そして、外国で作業させても恥をかかない(とフランス政府が判断する)程度にそのロボットを成熟させていたことは、日本人としてとても悔しいけれど、銘記しておかなければならない。だって我らが東電は、「そんな事故は起きるはずがない」という前提で、万一起きた場合の対策など、何も考えていなかったのだから。

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2011年3月28日 (月)

『パッセンジャーズ』(ネタバレ)と大震災

Passengers 

 美人セラピストのクレア(アン・ハサウェイ)は、飛行機事故から生き残った乗客5人のセラピーを任される。しかし、証券マンのエリック(パトリック・ウィルソン)は、異常にハイテンションで、クレアを口説きだす始末。他の生存者の証言も食い違い、一人、また一人と失踪していく。真相を求めるクレアは、最後に、自分も飛行機の乗客であったことを知る。機内でエリックに出会ったクレアは互いに一目惚れ。しかし、恋の予感にときめくクレアの前で、エンジンが火を噴いた…。

前田有一氏は、なぜだろうか、見終わったあとに、せつない幸福感を与えられる評した

これは死者を悼むお話ではない。遺された者を癒やすお話だ。

 人が死者を悼むのは、正確には、死者のためではない。死に傷ついた心を癒やし、自分を取り戻すためには、死後の幸福を祈り信じるための儀式が必要なのだ。

 飛行機の残骸から、二人の遺体が発見された。何の接点もないはずの若い男女は、しかし、しっかりと手を握りあっていた。遺された者は、二人の恋が天国で成就することを祈る。そう祈ることができなければ、遺された者の心は、永遠に苛まれるだろう。

 いま日本では、膨大な死が、悼まれずに処理されている。一つの死は数百分の一、数千分の一として扱われ、遺体の多くは見つからず、見つかっても花で飾られることなく埋められている。死者を悼むことができなかった喪失感は、多くの人々の心を深く傷つけ、自殺や社会不安の増加をもたらすだろう。昔の人は、これを祟りと呼んだ。

 おそらく宮室は、被災地行幸のスケジュール調整と体調管理を始めているだろうが、現地はまだ危険で、範囲が広すぎる。願わくば、『パッセンジャーズ』のような物語が、死者を悼み、ご遺族の心の傷を癒やさんことを。

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2011年3月26日 (土)

健児に願いを

 325日、静岡県弁護士会杉田直樹副会長の主催する私的な勉強会に招かれ、「こん日」と法曹人口問題、これからの弁護士と弁護士会について、質疑応答を交えて二時間ほど話をした。

 来場者の大半は60期前後。「中坊公平」という名前さえ知らない世代に、どう話をしたら良いのか、迷いながらでもたついてしまったが、弁護士という職業の存在意義は何かを考え、弁護士としての誇りをもってほしいという思いが、少しでも伝わってくれればと願う。

 懇親会では手厚くもてなしていただき、記念に特製のマトリョーシカを頂いた。左から小林(手に持っているのは花水木)、矢口洪一(天秤)、土屋公献(ソ連旗)、中坊公平(ミルク)、宇都宮健児(?)である。小林人形が最大な点はさておき、順番にも辛口のスパイスが効いていて申し分ない。年甲斐もなく感激した。杉田先生と幹事を務めた宇佐美達也、牧田晃子両先生には心からお礼を申し上げたい。

 同封されていた解説によると、マトリョーシカは、一番小さい人形に願い事をして蓋をとじると、どんな願いでも叶うという。

 さて、健児人形に何を願おうか。

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2011年3月22日 (火)

東京電力は電気供給契約違反による損害賠償責任を負うか?

 東京電力と、首都圏住民・事業者との間には、継続的な電気供給契約が存在する。
 東京電力は、電気供給事業を独占することの結果として、契約上、継続的な電気供給債務を負うと解される。
 ところが、今般の「計画停電」によって、東京電力はその債務の一部について履行を拒絶した。
 東京電力は、契約違反による損害賠償責任を負うのだろうか。

 と思っていたら、すでに東京電力の「電気供給約款」を分析し、責任を負うと結論づけている企業法務マンがいらした。

 今回の供給停止は、「電気供給約款」40条(1)のニに規定する「非常変災」を理由とするものだ。これにより受給者が被った損害に関して42条は、「当社の責めとならない理由によるものであるときには、当社は、お客さまの受けた損害について賠償の責めを負いません。」と規定している。これは、民法の一般的な債務不履行責任とほぼ同じだが、文言上、「当社の責め」の立証責任が、受給者側ではなく、東京電力側にあると解される。これは受給者側に有利だ。いずれにせよ、東京電力が損害賠償責任を負うには、単に債務不履行があるだけでは足りず、東京電力の「責め」によることが必要だ。

 ところで、今般の計画停電は、福島第一原発の継続的な操業不能によるものだろう。そうだとすると、東京電力に電気供給債務履行不能の「責め」があるか否かは、福島第一原発の継続的な操業不能の「責め」が東京電力にあるか否かにかかっている。そしてこの「責め」の有無は、原発の基本設計図書から今回の「暴走」への対応までの、あらゆる証拠を見なければ、判断できない。つまり、東京電力が適正な賠償金の支払いを拒否し、これら資料の開示を拒否した場合には、訴訟で解決するしかない。
 ちなみに「適正な賠償金」額は、契約者数が仮に1千万人・社いると仮定すると、停電で好きなテレビ番組が見られなかった慰謝料から、停電による売上低下まで、平均一人または一社10万円とすれば、総額一兆円になる。貼用印紙額も10億円を超える。

 この訴訟は、原告数においても、かつてない規模に達する。私がかつて、会員3万人のゴルフ場の倒産事件に関わったときは、当時最高性能の市販のパソコンで対応できたが、今回はそうはいかない。東京の弁護士は、未曾有の原告数を念頭に置いた訴訟準備を始める必要がある。

 誰からも依頼はないって?それを「灯台もと暗し」という。本件では、首都圏に住む弁護士の大半に当事者適格がある。弁護士が本人訴訟を起こせば、数百万人の首都圏住民がその後に続くだろう。そうなれば、弁護士費用は一人千円で足りる。

 東京電力側は、お見舞い金の支払いで訴訟を回避しようとするだろう。しかし弁護士は、これに応じてはいけない。大規模停電の責任の有無と程度を、法律に従って解決することこそ、「法の支配」であり、国家が弁護士に付託したことに他ならないのだ。

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2011年3月18日 (金)

走り出したら、だれにも止められない(by 風の谷のナウシカ)

 東京電力福島第一原子力発電所の暴走を止めるべく、東電社員、警察や消防、自衛隊員らが決死の作業を続けている。幸運と成功を祈りたい。

 しかし、原子炉が暴走を阻止するため何重もの安全装置を設けているのは、暴走したら最後、だれにも止められないからだ。地震の翌日、先端高度精密機械である原子炉に海水をぶちこむという、とても乱暴な選択をした時点で、現場の技術者には、待ち受ける運命が見えていたのだと思う。

 原子炉が暴走した原因は、制御用の電源が失われたからだ。これをステーションブラックアウトというらしい。もちろん、原発は設計上、制御用電源を確保するため何重もの機構を用意している。しかしその最後の頼みの綱である自家発電装置が、地震または津波によって故障した。だがなぜだろう。想定外の揺れや津波だったからか?そうではない。なぜなら、原子炉本体はほぼ無傷だったからだ。本当に想定外なら、原子炉本体も、致命的な損傷を受けたはずだ。

 2007716日、新潟県中越沖地震の直撃を受けた東京電力柏崎刈羽原子力発電所では、3号発電機横の変圧器から火災が発生した。設計基準加速度を上回る揺れだったからとも報じられているが、そうではない。原子炉本体がほぼ無傷だったからだ。すなわち、巨大地震に対して、原子炉本体はほぼ無傷だったにもかかわらず、周辺施設が致命的損傷を受けた点で、二つの原発事故は、一致している。

 この奇妙な符合は、素人の私に、ある疑念を抱かさずにはいない。それは、原発本体と周辺施設は、もともと、異なる耐震基準に基づいて設計されているのではないか?という疑念だ。そんなことはない、という反論に備えてもう少し厳密に言い直すと、設計時に想定する震度等は同一でも、これに対する余裕の持たせ方(いわゆる「のりしろ」)が、原子炉本体と周辺施設では異なるのではないか、という疑念だ。

 非常用自家発電装置は、原子炉本体以上の耐震性が要求されるにもかかわらず、実際は低く設計されているという事態は、安全工学的にはあってはならないが、組織的お役所的には、ありがちなことのようにも思える。

 もし万一、この懸念があたっているならば、それは、日本中の原子力発電所が、同じ設計思想に基づいて建設されていることを強く推定させることになる。私はどちらかと言えば原発推進派だし、今回の原発事故の被害は限定的と予測しているが、そうであるからこそ、この懸念を早期に確認する必要があると思う。

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2011年3月 9日 (水)

ワタシはすでに死んでいる

 

 非難ごうごうとなっている日弁連の「法曹養成制度の改善に関する緊急提言(案)」を入手して読んでみた。この時期に提言を行うのは、海渡事務総長(伝聞)によれば、「法務省が設置し3月中にも開催される法曹養成制度検討フォーラムに臨む際に丸腰で出て行ったのでは相手にされない。内容も大方の賛同を得られるものにしてある。どうかご承認を」ということだそうだ。

読んでみて、起案者の悲しみが伝わってくる文章だと思った。

 提言は表向き、評判芳しくない法科大学院制度の防衛に主眼を置いている。だからごうごうの非難も、法科大学院制度に集中している。だが、法科大学院は、日弁連が総会決議で明確に支持し推進してきた制度だから、理事会決議しか経ない今回の提言が、総会決議の枠を出られないのは、会内民主主義のルール上当然だ。もし日弁連として法科大学院制度を否定するなら、総会で決議しないとダメである。

 しかし、この提言を起案者が本心から書いたかというと、そうは思われない。起案者は、とても悲しかったと思う。

 例えば提言は、法科大学院定員の大幅削減を主張している。その理由は、「定員削減は、密度の濃い、きめ細かな授業を可能にし、教育の質を維持・向上することに資する」からとある。ゆとり学級じゃあるまいし。それに、全国レベルの定員削減と、クラス人数の削減は別問題だ。「入学定員が縮小され、司法試験合格率が上がれば、多様で優秀な法曹志望者の入学を促進」するとの理由に至っては、何でそうなるのか、さっぱり分からない。

 法科大学院の定員数は2005年の5825名から、2011年の4571名にまで削減される見通しだ。しかし、提言が明記するとおり、2010年の入学者は4122人で、翌年の定員数を450名も下回っている。つまり実際の志願者減が定員削減の遙かに先を行っている。この全入状態で、「4000人からさらなる削減をした」ところで、多様性はともかく、優秀さがどうやって確保されるのだ?

 法科大学院制度は、少なくとも日弁連が想定した意味においては、すでに死んでいる。この提案の起案者は、そのことを、よく分かっている。分かっているが、立場上、そう書けない。だから、こんな馬鹿げた理由しか挙げないのだと思う。

 先日のNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」は、対米開戦決断の経緯をこう総括していた。日本のトップリーダーは、東条英機など軍人を含め、誰もが、勝ち目がないと分かっていた。分かっていながら、立場上、言い出せなかった。「猫鈴」のあげく、会議は常に最大公約数的結論で問題の先送り。対米開戦の決断すら、石油が底をつくまでの間に解決の糸口が見つかるかもしれないという、問題の先送りに他ならなかった…。

 バブル崩壊後、リーダー不在のまま迷走する日本が第二の敗戦と言われて久しい。日弁連もまた、「大方の賛同が得られる」最大公約数的な文章を書きながら、何度目かの敗戦に向かおうとしている。

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2011年3月 7日 (月)

フラガール(ご要望により再掲)

 福島県弁護士会常磐支部を舞台にした実話、感動の映画化。

 主人公は、かつて凄腕の人権派弁護士と呼ばれたが、国の政策が180度変わり、弁護士業はいまや斜陽産業だ。彼は国選弁護事件で細々と食いつなぐ貧乏弁護士となっていた。弁護士会は、時代に応じ変化して生き延びようとする勢力と、旧来の弁護士像を守り抜こうとする勢力とに分裂し、内部抗争のあげく疲弊していく。

 そんな中、弁護士会館の地下から湧いた温泉を利用して保養施設を建設し、若手女性弁護士がフラダンスを踊るという、仰天の構想が浮上する。兄を慕って弁護士となった妹も、仕事がないため、家族に隠れてフラダンスの練習に励むが、親バレしてしまう。「腰振ったり愛想笑いをさせたりするために高い金出して法科大学院に行かせたんでねえ!」と激高する母親に娘は言い返す。「腰振ったって、馬鹿みたいに愛想笑いしたって、それでお客さんが喜んでくれるなら、そういう弁護士もあっていいんでねえのけ?」

 娘の熱意に母親も折れ、フラダンスショーの運営に協力する。娘がソロで踊るラストは圧巻だ。

 そして兄は、新たな弁護士像を切り開く妹を温かく見守りつつ、国選弁護事件を探しに弁護士会館へ向かうのだった。

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2011年3月 4日 (金)

蓮舫と司法

蓮舫議員は、司法を忘れていないだろうか。

政府の行政刷新会議32日、いわゆる規制仕分けの対象12項目を決定した。規制緩和の趣旨には賛成だが、死に体と化した民主党政権は、官僚機構の敵ではないだろう。

忘れられているようだが、規制緩和は、本来、司法の仕事だ。国民の代表たる立法府は、必要があれば国民自身の自由を規制する法律を作り、これを行政府が執行する。だが、その執行には間違いもあれば、行き過ぎもあるし、時代に合わなくなることもある。不服な国民は、司法府に訴える。司法府は、行政執行の誤りを正し、場合により、法律の不備を指摘する。立法府はそれを参考に、法律の改訂を行う。立法→執行→是正→立法というループ構造が、憲法の想定する民主主義と三権分立のあり方だ。

ところが現実には、司法府の役割は忘れ去られている。規制立法を作るのは、事実上行政府だ。執行を受ける国民の不服は、議員に向かう。行政府と議員の間に持ちつ持たれつの関係が発生し、利権の温床になる。この関係を通じて行政府は、立法府をコントロールできるから、民主党が「政治主導」の旗を振っても涼しい顔だ。

一方、憲法の定める三権分立方式の良いところは、行政府が司法府をコントロールできないよう制度設計されていることだ。それにもかかわらずこの方式が機能していない最大の理由は、行政訴訟制度の不備にある。だから、立法府が本来なすべきことは、行政訴訟制度を改革して、司法の力を強くすることなのだ。

この改革は権力闘争的にも、立法府に有利である。なぜなら、いま蓮舫議員がやっているような行政府との体力を使うガチンコ勝負は司法府に譲り、高みの見物ができるからだ。そして、空いた時間と労力を使って、行政府が抱え込んでいる既得権益を取り戻せる。

これが、司法制度改革の目的だったはずだ。この目的が忘れられているなら、それこそが司法改革の失敗を意味している。

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2011年3月 3日 (木)

河童の『法曹の質低下』論

 河﨑健一郎弁護士の標記論考を読んだ。

 弁護士登録3年目にして、業界的議論の甘えを見切った堂々の論陣。見事である。

 「法曹界の内部では依然として、二回試験不合格率や『昔は良かった』式の感覚論に基づいた『法曹の質の低下』の議論が幅を利かせ、そもそも社会が法曹界に何を求めているのか、それを十分に提供できているのかどうかといった抜本的な議論からは遠ざかる一方である。『法曹の質の低下』を巡る議論の多くは、その背景に法曹人口の増員の是非を巡る大きな政治的な綱引きが横渡っており、無益なポジショントークの消耗戦を延々と続けている」とまで言われた以上、「質の低下」による減員論者の反論を期待したい。

 私は懐古趣味ではないつもりだが、ささやかな指摘をさせていただくと、減員論者を「『昔は良かった』式の感覚論」と切り捨てる手並みは見事なものの、翻って現状に対する評価はどうか。その論拠は、「新制度で法曹となった周囲を見渡せば、人格識見ともに優れ、これはと唸らされる人物の枚挙にいとまがない」だけという、それこそ「『今が良いのだ』『古いゼおっさん』式の感覚論」ではないのかどうか。

 昔がいいのか、今がいいのかという議論は、いつまでも平行線だ。昔にだって、今にだって、いいところと悪いところがある。制度というのは、そういうものだ。だからこそ、「法曹が何を求められているのかという抜本的議論が必要」という結論は、そのとおりだと思う。

問題は、この議論の際、取るべき視点である。ご指摘の「顧客満足度調査」も大事だが、それで足りるのか。

「膨張する一方の知の体系に網目を張り巡らし、必要な時に必要なリソースにアクセスして最適解を導く『コーディネーター』としての資質の必要性が一層高まっている。」というご主張は、原稿字数の関係で端折られたのかもしれないが、新入社員の覚えたての営業トークのようでもあり、心に響いてこない。

 私が考えるに、司法制度を考える視点として最も大切なものは、社会が何を要求しているか、何に満足してくれるか、ではない。自分自身さえ気づいていない(から当然要求もない)うえ、満足どころか口に苦い、しかし本当に必要な何か、それを見極めることだと思う。

 それが何か、というお話はまた今度書きます。すみません。

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2011年3月 2日 (水)

「題号」と「哀号」

「題号」とは、書物などの題名のことである。書物は一般に、著作権法上の著作物にあたるが、例えば「星の王子さま」という題号は、著作物にあたるだろうか。

「星の王子さま」の原典”Le Petit Prince”の著作権が20051月に切れたため、わが国では、岩波書店以外の出版社が続々と翻訳書を出版した。ところが、その多くが「星の王子さま」という題号を用いたため、元祖「星の王子さま」の翻訳者故内藤濯氏の遺族が、抗議したらしい(田附行政書士のブログより)。

著作権法の教科書によると、題号は通常、著作物として保護されないようだ。但しこれは法律の条文に明記されているわけではなく、そう解釈されているにすぎない。

著作権法上、著作者は原則として、自分の著作物の題号を勝手に改変されない権利を有する(同一性保持権。20条)。上記解釈に従うと、著作者は題号について、著作者人格権の一つである同一性保持権は有するが、著作権は有しないことになる。なんか変だなあ。原題”Le Petit Prince”と比較しても、「星の王子さま」は独創性のある、すてきな題名だと思う。

ところで韓国では、サン=テグジュペリ遺族財団から、その題名は商標登録されているから無断使用してはならない、との警告を受け、書店から「星の王子さま」が消えたと報じられた(2008414日朝鮮日報。ただ、韓国における題名が何かは分からない)。出版社の悲鳴が聞こえるようだ。この報道によると、韓国では、2015年まで商標登録されているという。

なぜ同じことが日本で起きなかったのか。それは、「特許庁の実務では、単行本の題名には原則として商標登録を否定するという方針を採っている」からだ(社団法人著作権情報センターのHPより)。

だが、商標法上、商標の定義は、「業として商品を生産し、証明し、又は譲渡する者がその商品について使用をするもの」(211号)だ。本の題名が商標に該当しないとは考えられない。これも、なんだか変だと思う。

ちなみに、楽曲のタイトルは、書籍と同じく著作物ではないとされているが、書籍と異なり、商標登録は認められている。変なの。

著作権法や商標法に限ったことではないが、日本では、法律の条文と運用が違うことが多い。これも、その例であろう。

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2011年3月 1日 (火)

企業内弁護士は増えるのか?

「『企業内弁護士』企業二の足」という見出しで、企業内弁護士に対するニーズは低調と報じた日経新聞に対して、元「法律新聞」編集長氏が、「今後、大量増員時代の弁護士が、報酬(中略)のハードルをぐっと下げてくれば」増えるのではないか、と予測しておられる。

そうかなあ。この前提に無理があるような気がする。今後、企業内弁護士の報酬のハードルはぐっと下がるだろうか。

弁護士が組織に雇用される場合の報酬をシミュレートするため、4大卒新人と比較してみよう。法曹養成制度の現状を前提にして、新人弁護士は22歳の大卒より平均7歳年長とする。法科大学院の学費として平均約400万円を投じている。司法修習が貸与制になれば、300万円の借金が加わる。そして、年50万円~100万円の弁護士会費を支払う義務がある(もっとも、新人弁護士の場合は、当初23年は半額程度に減額される場合もある)。

これらの相違点を考えた場合、新人弁護士が、企業に就職するとき、同期入社の4大卒新人と比べ、年収でどの程度の待遇差を設けたら公平だろうか。

投下資本700万円を10年で回収し、会費月額約4万円を企業側が負担すると仮定しただけで、月収(手取)で10万円の差となる。また、7歳の年齢差を勘案すると、60歳定年と仮定した場合、企業内弁護士の給与を1.23倍しないと、生涯給与が釣り合わない。すなわち、4大卒新人(22歳)の月給を30万円とすると、同期入社の弁護士(29歳)の月給は4730×1.2310)万円必要という計算になる。

弁護士に言わせれば、この待遇でも不満だ。なぜなら、彼らは司法試験というリスクを取ってきたわけだし、終身雇用が保障されないなら、投下資本を早期に回収する必要があるからだ。

一方、企業内弁護士を採用する側からみればどうなるか。司法研修所を卒業したばかりの平均29歳の弁護士に、4大卒新人の1.5倍を超える47万円の月給を支払う価値があるだろうか。あるいは、入社7年目の中堅社員を上回る給料を支払う価値があるだろうか。普通に考えて、ないだろう。

つまり、現行の法科大学院制度、司法研修制度、そして高額の弁護士会費を前提にする限り、企業内弁護士に関する弁護士と企業の要求は大きく解離している。

もちろん、以上は抽象的な一般論であり、現実はもっと複雑だ。弁護士側には、当面の待遇は4大卒新人同期以下でも構わない、入社後に実力を発揮してキャリアアップすればよい、と考える野心家もいるだろうし、採算度外視で企業内弁護士を極めたいという志のある弁護士もいよう。企業側から見ても、はじめは分不相応の高給でも、数年育てれば採算が合う人材がいるだろうし、はじめから採算が十分取れるほど、ニーズの高い企業もあるだろう。現に近年の企業内弁護士数の伸び率は著しいし、優秀な企業内弁護士がたくさんおられる。

だが、大所高所から見た場合、弁護士と企業との経済的なミスマッチの大きさは、いかんともしがたい。上記の前提条件が維持される限り、企業内弁護士数は、おそらく数年で飽和するだろう。いいかえれば、法科大学院と、司法研修所と、高額の弁護士会費をそろって廃止すれば、企業内弁護士は大きく普及することになろう。

企業内弁護士を増やすには、弁護士の意識改革が必要、という主張があるが間違いだと思う。この問題は根性論では解決しない。経済的合理性の問題だからである。

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