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2011年4月27日 (水)

「武器輸出三原則は、憲法違反である」との見解について論じなさい。

武器輸出三原則とは、大要、武器については紛争地域等への輸出を認めず、他地域への輸出を「慎む」ことを主たる内容とする、日本政府の見解である。

これが憲法に違反するという議論が成立するためには、まず、憲法上武器輸出の自由が保障されていることが前提となる。この点については、「武器」と「武器以外」の工業製品との峻別が現実に困難である点はさておくとしても、工業製品を輸出する自由が憲法22条により保障されていると解する以上、工業製品の一種である武器を例外とする憲法上の根拠は見いだしがたい。すなわち、武器輸出の自由は憲法上保障されており、これに対する規制は必要最小限のものしか許されない。もっとも、我が憲法が平和主義(前文、9条等)を宣言していることから、武器について、他の工業製品より厳しい輸出規制制度を設けることは許されうるのであって、この区別が合理的かつ必要最小限のものである限り、平等原則(14条)違反の問題は生じないと考える。

ところで、工業製品の輸出規制は外為法に基づいて実施されており、武器輸出三原則は外為法適用にあたっての基準として運用されている。しかし、武器輸出三原則は、政府見解に過ぎず、法律でないにもかかわらず、輸出品目が武器であることをもって、一般工業製品より厳しい輸出規制を課している。法律の根拠を欠く基本的人権の制限は許されない、という立憲主義及び「法律による行政」の原理に照らせば、政府見解のみをもって他の工業製品より厳しい制限を課すことは、憲法41条に違反すると考える。

さらに、憲法上の人権保障は、適切な司法救済が可能でなければ画餅に帰す(憲法31条)ところ、武器輸出三原則は、武器認定や適用基準すら法定されていないから、国民に対する不意打ちとなる危険が高く、不当な制限に対する司法救済も困難なので、憲法31条にも違反すると考える。

以上に述べた意味において、設問の見解は妥当と考える。これに対する反論としては、「武器輸出三原則は平和憲法に由来する国是である」というものもあるが、国際政治の現状に照らせば、武器輸出は平和主義と両立しうる政策であるし、憲法原理であるとしても直ちに国民を直接拘束するものではないから、この反論に与することはできない。

―とまあ、最後の段落以外は司法試験の答案風に書いてみたが、100点満点でせいぜい70点というところか。それから、憲法の答案では軽々に「違憲判決」を書かない方が良いというのが基本なので、受験生は留意されたい。

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2011年4月25日 (月)

小嶋和司先生のこと

 佐藤幸司「日本国憲法論」を買いに行ったら売り切れだった。だが、平積みされていた小嶋和司先生の憲法概観の前で、私は立ちすくんだ。この本を手に取るのは、東北大学の学生だったとき以来、ほぼ25年ぶりである。

 小嶋和司先生は、片足が不自由で、顔色が悪かった。体を大きく揺らしながら席に着き、マイクを持って、低いがよく通る声で淡々と講義をされた。ノートを取るには少し早いという絶妙のスピードなので、学生は一言一句をノートに書き留めるのに必死だった。ときどき、さりげなくジョークを言って、口の端だけでにやりと笑い、講義を続けた。地方自治や財政という地味な分野を専門とされたため、学会では目立たない存在だったと思うが、すばらしい知性の持ち主であることは、学生の分際ながら、よく分かった。

 「憲法概観」の「序」にはこうある。「筆者は、憲法学を法学として構築すること、国際的に通用する学問水準に立って日本憲法を剖解すること、日本の現在にしか通用しないような論議をしないことを、学問上の念願としている」。この念願が確かなものであったからこそ、「憲法概観」は四半世紀を経た今でも、大阪の書店に平積みされるのだろう。

 小嶋和司先生は、この序文を書いた翌年の325日、63歳で亡くなられた。東北大学の卒業式、定年を迎える日だった。先生らしい死に方だ、と当時の学生は語り合った。

 「日本の現在にしか通用しないような論議をしない」という言葉を胸に刻もうと思う。

 本日売り切れだった本は、25年後に残っているだろうか。

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2011年4月22日 (金)

『iPhone』や3G対応の『iPad』は、過去10ヵ月にわたるユーザーの居場所を密かにすべて記録している。

 4月21日のWIREDVISIONは、標記のように報じた。この記録は、iOS内の暗号化されていないファイルとして保存されるため、ハッカーならリモートで進入してデータを盗めるという。

 記事は、「モバイル機器によって常に接続されている社会は、この種のプライバシー懸念が常に生じる社会でもある」とまとめている。

だが私は、「プライバシー」の問題と、「セキュリティ」の問題を分けて考えるべきだと思うし、本件はプライバシーの問題というより、まずセキュリティの問題だと思う。

 携帯電話使用者の位置情報は、いうまでもなくプライバシー情報であり、本人の承諾がない限り、他人が勝手に取得できない。しかし、携帯電話はその機能上当然に、最寄りの基地局を通じて位置情報を電話会社に通知しているのだから、携帯電話使用者の位置情報というプライバシー情報は、その承諾のもと、電話会社に取得されているといえる。また、これらの位置情報がログとして保存されることも、一定の合理性がある限り、同意の範囲内といえる。また、電話会社に送信されず、電話機本体内に保存されたログについては、使用者によるアクセスが可能である限り、まだ使用者側に存在する情報であるから、そもそもプライバシー侵害の問題が発生しない。だから、「密かに」という標記標題は、いささかミスリードだと思う。

 それでは、ハッカーがリモートで侵入してデータを盗める、という問題は何かというと、これはまずセキュリティの問題だ。すなわち、携帯電話会社は、使用者との契約に基づき、位置情報というプライバシー情報を取得できるけれども、この位置情報は、同じ契約上、第三者による不正取得から守られなければならない。いいかえると、携帯電話会社は、プライバシー情報のセキュリティを守る契約上の義務を負う。だから本件の場合、アップル社は、ハッカーによる位置情報の不正取得を阻止する手立てを講じなければならない。これを怠った場合には、アップル社は、自らはプライバシーを侵害していないが、セキュリティを守らなかった、ということになる。結局プライバシーが侵害されるのは一緒だが、態様が違う。

 逆に、「プライバシーは侵害するが、セキュリティは守った」という場合もある。例えば、やや漫画チックだが、ある秘密組織がプライバシー情報を不正に盗んだが、これを厳重に管理して第三者には渡さない、という場合だ。

 なんでこんなややこしいことにこだわるかというと、「プライバシー」と「セキュリティ」を分けないと、議論が混乱するからだ。「セキュリティを守れば、プライバシーが守られる」と誤解している研究者がいる。上記の例から明らかなとおり、セキュリティを守っても、プライバシーが守られるとは限らないのだ。

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2011年4月21日 (木)

日米ロボット比較

「米ソ宇宙開発競争の時代、宇宙ではインクが落ちずボールペンが使えないことが分かった。そこでNASAは、莫大な費用をかけ、無重力でも使えるボールペンを開発した。ソ連は?鉛筆を使った」

 日本のロボット研究者が地団駄踏むのを尻目に、米アイロボット社の軍用ロボットPackbotが、福島第一原発建屋内部の調査に投入された。対する日本はQuinceがまだ試作段階で、2001年の同時多発テロでも活躍したというPackbotに比べると10年以上水をあけられている。

 Packbot本体の見かけは、「事務机の引出の両側にキャタピラが付いた」というものだ。両キャタピラの前駆動輪にはもう一組、三角形のキャタピラが付いていて、階段や悪路の走行を可能にしている。そして「引出」と表現したのは、文字通り中が空っぽだからであり、この空間にセンサーやマジックハンドなど、様々なユニットを搭載できる。たとえるなら、「地上走行する小型のサンダーバード2号」だ。もっとも、ユニットを置いて帰ることができるかどうかは知らない。

 800メートル離れたところから、無線で操作できる。プレイステーションのゲームコントローラーで操縦できるというから驚きだ。

 さて問題は、なぜ日本のロボットがこの引出野郎に負けたのか、という点だ。私は実物を見たわけでも中身を見たわけでもないが、Packbotが採用する機能は、さほど高度ではなく、日本企業にも簡単に実装できるものばかりだと予想する。Packbotが優れているのは、おそらく個々の機能ゆえではない。

 すなわち、軍用ロボットであることからして、多少の攻撃では壊れない堅牢性と、モジュール化による修理の容易さ、前線兵士程度の学力レベルでも全く問題ない取り回しの良さや、インターフェースの作り込み、ユニット着脱の簡便さ、といったものが挙げられるだろう。おそらく、一台のPackbotの背後には、膨大な数の搭載ユニットと、モジュール化された部品と消耗品が存在するはずであり、これらは適切に整理されて、プラモデルを製作した程度の経験値があれば、容易に着脱できるよう、設計・製造されている。また、ゲームコントローラーで操縦できることは、兵士の訓練期間を大幅に短くしているだろう。

 「こんなのすぐに追いつける」と思うなかれ。日本人には、この種の設計が不得意だと思う。例えばゼロ戦は、極めて高性能だったが、高度な製造技術を要し、熟練パイロットでなければ性能を引き出せなかった。そのくせ防弾装備がお粗末だったため熟練パイロットが失われ、空襲で製造技術が低下すると粗悪品が増え、性能も落ちた。これに対して米国製戦闘機は、大量生産に耐える単純な構造で、強固な防弾装備がパイロットを守り(撃墜されてもパイロットは回収可能)、最後はゼロ戦を打ち負かした。

 この差は技術の差ではなく、たとえば思想の差だと思う。日本のロボットの将来は多難かもしれない。

 それから、このロボットはもともと軍用だが、修理や救援のため海外に持ち出すときには、武器輸出三原則に引っかかるのだろうか。

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2011年4月20日 (水)

輸出「後」規制と法治主義2

 外国企業に機械を輸出するにあたり、その機械が転売されたり当初の目的と違う用途に使用されたりしていないか、輸出後半年おきに調査して報告するよう、経産省に命じられることがある。

 これは法律の根拠なき義務づけだから法治主義に反すると、先日のエントリに記載したところ、「外為法67条に基づく条件だから法治主義には反しないのではないか」という指摘を受けた。

 外為法671項は、「(経産相は)この法律又はこの法律の規定に基づく命令の規定による許可又は承認に条件を付し、及びこれを変更することができる」と定めており、これに違反すると10万円以下の過料に処せられる(732項)。

 もちろん、671項があるからといって、何を条件にしても良い、というわけではない。万一「経産省担当官の靴をなめる」という条件が付いても無効だ。671項は本質的に、「当該輸出に関する条件」であることを前提としているから、これと無関係な条件は、そもそも671項の範囲外である。つまり、法律の根拠がない、ということになる。

 ちなみに、672項には、「(1項の条件)は、同項の許可又は承認に係る事項の確実な実施を図るため必要最小限のものでなければならない」と規定している。だから、「経産省担当官の靴をなめる」という条件は2項違反という考えもありうる。だが私は、当該貨物の輸出と無関係な条件は、そもそも2項の問題でさえないと思う。

 冒頭の「輸出『後』規制」はどうだろうか。どこからが輸出「後」か、という実務上微妙な問題はあるが、少なくとも、誰が見ても輸出が終わった後、つまり、引き渡しも設置も検収も代金支払いも試運転も済んだ後は、もう「輸出」は完遂されて無くなっているのであり、その後にまで輸出企業に調査報告義務を課すのは、そもそも671項が予定していない範囲だと考える。「それはExport Controlではない。Post-Export Controlだ。わが国ではPost-Export Controlは行っていない」というドイツ人の感覚が正しい。だから、「輸出『後』規制」は、法律の根拠がない規制であって、法治主義に反し、違法だと考える。「法律の根拠があるけど裁量の範囲を超えて違法」ではないのだ。

 輸出した機械が兵器製造に転用されたらどうするのだ、という反論があろう。だが、国際平和の維持は政府が政府の費用を使って行うべきものであって、民間企業に義務づけて行うことは許されない。外為法は、国際平和維持活動を民間企業に義務づける法律ではないはずだ。

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2011年4月19日 (火)

池田教授VS町村教授

 町村泰貴教授が「原発が事故ったからってがたがた言うなという人たち」の中で池田信夫教授を批判したところ、池田教授から誤解との反論があった。町村教授は批判の一部を撤回して謝罪したが、本質的なところは誤解していないと再反論している。ネット論壇を代表するビッグネームお二人には、高度で建設的な議論を期待したい。

 とはいえ、なんか違うなと思うところが双方にあるので、書いておく。

 まず池田教授は、「地震と津波は天災」と述べる。設計上14メートルの津波を「想定しろというのが酷」だからという。

 これはちょっと違うのではないか。地震や津波が想定外か否かではない。本件を「想定外か否かという議論」にもって行くことに、違和感がある。

もし、原子炉圧力容器が粉砕されたなら、地震や津波が想定外だったか否かという議論は成立するだろう。だが現実には、圧力容器はほぼ無事だった。それにもかかわらず、報道によれば、非常用ディーゼル発電機が稼働せず、非常用炉心冷却装置(ECCS)を作動できなかったことが、事故を招いた。このことは、東京電力には、圧力容器を超巨大地震や津波から守る能力があったし、実際に守ったこと、しかしその能力を、非常用発電機に施さなかったことを意味する。つまり東京電力は、非常用発電機を地震や津波から守ることができたのにしなかった3月18日のエントリに記載したとおり、これこそ、本件事故に関して第一に論じるべき点であり、福島第一原発の設計上の問題だと思う。

 原発でさえ絶対安全はないし、安全とコストはトレードオフだと池田教授はいう。だが、全体としてその通りだとしても、子細に見れば、条件付ながら、絶対が求められることもあると思う。例えば自然災害で炉心が停止した際の冷却は、圧力容器が冷却可能である限り、絶対に確保されなければならないし、コストとトレードオフにしてはならないと考える。その限りにおいて、想定外という弁解は許されないのではないか。

 一方町村教授は、「(原発の)リスクは限り無くゼロに近づけて欲しいし、ゼロになり得ない以上は万一の事故に備えた費用を引き当てておくべきだ」という。だが、「リスクを限り無くゼロに近づける」といっても努力目標以上のものにはならないし、事故に備えた費用全額を引き当てさせることは、現実問題として算定も積立も不可能だし、幾ら努力しても引当額が減らないのでは、リスク低減努力を損なうことになると思う。

 ただ、私が忖度するところ町村教授は、少なくとも原発において「安全とコストはトレードオフ」だと簡単に言ってしまうことに、いいかえれば、安全が問題になったときにコストを免罪符にすることに疑義を呈しているのであって、この点については私自身、理由はよく分からないが、共感を覚える。

 池田教授はこの点についてどうお考えになるのか、期待して待ちたい。

(表題の順番は五十音順です)

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2011年4月15日 (金)

日弁連は東電集団訴訟の管理体制づくりに着手すべきだ

 4月15日の朝日新聞によると、福島県双葉町の会社社長が東京電力を相手取り、避難指示により事業休止に追い込まれたとして、損害賠償金4400万円の仮払いを求める仮処分を東京地裁に申し立てた。

 町村教授のブログによると、東京電力は大要、「個々の請求に個別対応していたら補償実務が混乱する」として却下を求める答弁書を出したという。

 町村教授は「倒産会社のようだ」と揶揄しているが、東電の立場からは当然だと思う。賠償義務は当然としても、一個一個訴訟を起こされたら、社員全員でも対応できない。

東電に対する損害賠償請求には、一定の秩序が必要だ。なぜなら、先日のエントリにも書いたが、東電に対する訴訟は、その金額だけでなく、当事者数において数百万人(社)を超え、1千万人(社)になろうかという、前代未聞、史上空前の規模になる可能性がある。当事者の地域的分散はもちろん、その請求内容も、原発事故による直接の損害賠償請求から、間接的な風評被害の賠償請求、停電による契約責任の追及まで、様々なものになる。このうち、政府が直ちに動いてくれそうなものは、それを待っても良い(水俣病や原爆症訴訟のように、政府の救済から外れた者、足りない額の司法救済を、後に考えれば良い)が、そうでないものは、司法が動くしかない。そうなると、これだけの数の当事者がバラバラに動いたのでは、東京地裁庁舎をもう一つ建てても追いつかないし、バラバラに申立をしたのでは、バラバラの判決が出るだけで、最高裁で統一されるまで最低10年かかってしまう。

 だから、司法救済申立の前に、被害者の立場を整理・分類して秩序立てる取り組みが必要だ。そして、これを行うべき立場にあるのは日弁連だと思う。当事者となり得る国民を、居住地や法律構成等によってあらかじめ分類し、適切な管理を行う仕組みは、今から作っておかないと間に合わない。その費用など、いくらでも集まる。これも先日のエントリで書いたとおりだ。

 このような問題意識から、実は先日、日弁連の業務改革委員会のMLに、「東京の弁護士(会)は東電に対する契約責任追及の準備をすべきだ」と投稿したら、無視された。異論反論を含め、様々な反応があって当然だと思っていたが、たった一通の返事もなかった。まさか無視されるとは思っていなかったのでびっくりした。正確に言うと、大手渉外事務所の弁護士から「東京電力に対する契約責任の追及は、国民の支持が得られない」というDMをいただいたが、ML上は完全無視だった。なぜかは分からない。単にその余裕がないのかもしれない。DMの意味も分からない。私の理解によれば、「国民の支持」は訴訟提起の要件ではない。

日弁連が「法の支配」の負託に応え、社会的役割を果たす絶好の機会なのに、実にもったいないと思う。東京の弁護士たちは上記のとおりのていたらくなので、他の方のご意見を求めます。

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グーグルストリートビューの判決2例

 317日の毎日新聞朝刊によると、福岡市の20代の女性がグーグル社を相手取り、ベランダに干していた下着の画像を公開されたとして60万円の慰謝料を求めた裁判で、福岡地方裁判所(松永栄治裁判官)は16日、女性の請求を棄却したとのこと。

 「判決は、『ベランダに洗濯物らしきものがかけてあることは判別できるが、それが何かまでは判別できない』と指摘し、『当時は公道の通行者が見ることができた。ネットへの掲載は、原告にとって受忍すべき限度の範囲内』と判断した」とある。

 「受忍限度」とはやや聞き慣れない言葉だが、要するに、社会生活上お互い様と我慢すべき範囲、という意味である。なお、川村哲治弁護士のブログに、より詳細な引用がある。

 46日付けのswissinfo.chによると、スイス行政裁判所は4日、連邦情報保護・透明性維持担当課のハンスペーター・デュール氏が要求していた個人情報保護対策の大部分を認めた。これによりグーグル社は、人の顔や車両のナンバーを完全に認識できないようにするための手作業修正を行う義務を負った(もっともこの記事時点でグーグル社は上訴を検討しており、上級裁判所で覆る可能性もある)。現在自動的にぼかしが入っている顔は全体の98%とのことである。

 二つの判決は事案が違うから、内容の当否を直ちに比較することはできない。比較できる違いは第一に、スイスには行政裁判所があり、日本にはない、ということである。第二に、日本では、20代の女性が自ら原告となって自分の権利を主張したのに対して、スイスでは行政官が原告となって民間企業を提訴した、という点である。もちろん日本女性は弁護士費用を含め全部自費で訴訟を提起しているのに対し、スイスの行政官は公費で訴訟を提起したのだ。

 これらの違いは、国民の権利を守る仕組みの違いだ。もちろん、この判決だけでは、どちらの仕組みが優れているとは言えない。ただ、三権分立と司法の役割という視点で見る限り、スイスの制度の方が優れているように思われる。

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2011年4月14日 (木)

『武器輸出三原則』(2011年 信山社 森本正崇著)

 

 

武器輸出三原則関する驚くべき体系書41kagvdttl__sl500_aa300_

 第一に、本書は、45年間、日本政治の重要問題であり続けた「武器輸出三原則」を体系的に論じた、なんと最初の書物である。
 第二に、著者は、東大法学部出身のキャリア官僚として、かつて防衛庁と経済産業省に在籍した身でありながら、武器輸出三原則に関する国会議員の質問や政府答弁を、歯に衣着せず批判する。
 第三に、400頁を超えるハードカバーの大著でありながら、とても読みやすい。本書を読まずに武器輸出三原則を論じることは、今後許されないだろう。

 武器輸出三原則という「王様は裸」ではないのか。と著者は問う。武器輸出三原則は、ときに「国是」とも、「平和憲法上当然」とも言われてきた。しかしその実体は、外為法による輸出管理の運用方針に過ぎない。武器だろうが何だろうが、日本国民は憲法上の基本的人権として輸出の自由を有するし、武器に関連する研究も学問の自由として憲法上保障されているから、武器輸出三原則も、法律に基づく、必要最小限度の規制であることを免れない。ところが、人権人権と言いつのる歴代の国会議員も、法学者も、時として政府さえ、武器輸出三原則を不磨の大典のように扱ってその根拠内容を批判的に検討しない。そこには「武器輸出をしないことは『いいこと』だという暗黙の前提があり、そのために健全な知的思考が停止しているのではないか」と著者は批判する。仮にも人権を標榜する弁護士の一員として、恥ずかしい限りである。

 裸にされた武器輸出三原則を批判的に検討することは、外為法の抱える様々な法的問題点をあぶり出すことになろう。それは、日本が戦前以来温存してきた統治機構の問題点をえぐり出すことにつながると、私は思う。「武器や武器輸出と言うだけで冷静な議論ができなくなってしまうような状態からは脱却し、冷静な議論を育める社会に日本も成熟」していることを、著者とともに望みたい。

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2011年4月13日 (水)

日弁連会長声明が原発の廃止に言及

 大阪地検特捜部の元検事が証拠を改ざんしたとして実刑判決がなされたことを受け、日弁連は次のとおり会長声明を行った。なお、原発事故に関する日弁連会長声明が同時に行われたため、両声明が多少混じっている可能性がある。

1.   このたびの証拠改ざん事件は、わが国の刑事司法に対する国際的な信用を失墜させたばかりか、大阪地検周辺30キロ圏内のほうれん草農家に多大な風評被害を与えた。当連合会は、いわれなき罪を問われた被告人と農家に、心からお見舞いを申し上げる。

2.   当連合会は、従前より、密室での取り調べと自白偏重捜査の危険性を指摘してきたが、レベル7と認定された今回の事態は、検事一人による想定外の暴走と言い逃れられる筈もなく、絶対有罪を標榜する検察庁全体の官僚主義と隠蔽体質の問題である。

3.   よって、当連合会は、早急に以下の措置を講じるよう強く求める。

(1)   検察庁は、証拠改ざんの実態及び組織的関与の内容を明らかにするとともに、入院している検事総長による謝罪と被災者への見舞いを行うこと。

(2)   国及び検察庁は、証拠改ざんにより被害を受けた被告人及び周辺農家に対し、十分な支援及び被害補償を行うこと。

(3)   国は、二度とこのようなえん罪事件を繰り返さないために、検事の新規採用を停止し、既存の検察官については、取り調べの厳しい検事から段階的に退官させること。

(4)なお、この声明は当連合会会員の総意であり、会長、まして事務総長個人の見解でないことを、あえて付言する。

注;本エントリはフィクションであり、実在の団体や個人と一切関係ありません。ちなみにネタ元はこちらです。

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「余震」か「予震」か

忘れられているようだが、大震災の前日10日と前々日9日、三陸沖で2回の地震があった。どちらも宮城県で震度5弱を記録している。

結果論だが、11日の大地震は、9日と10日の地震の「余震」ではなかった。9日と10日の地震こそ、11日の地震の「予震」だったのだ。

ところで、ここ数日、長野県北部と、茨城県・千葉県沖とで、震度5前後の地震が頻発している。

冒頭の事例に照らした場合、これは、11日の大震災の「余震」と見なして良いのだろうか。

別の大地震の「予震」である可能性を排除してしまって良いのだろうか。

私は、いたずらに不安をあおるつもりはない。個人として、あるいは企業として、11日より大きな地震は当分こない、という前提で行動して良いのか否か、あるべきリスク管理のあり方を問うてみたい。

アマチュアが何を言っているかって?では伺いますが、3910日の地震の時点で、これが「予震」である可能性、すなわちこの日の地震を遙かに上回る超巨大地震が近日中に起きる可能性を示唆したプロが、一人でもいただろうか。

結果論は、誰でもできる。だが、事前のリスク管理とは、とても難しい。

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2011年4月12日 (火)

葬られた原子力災害ロボット

先日のエントリ「原子炉事故用ロボットはベクレル羊の夢を見るか?」と大分重複するが、411日の日本経済新聞が標記の見出しで取り上げたので、再度書いておきたい。

記事によると、原子力災害用ロボットは放射線から誤作動を守る特殊なLSIが必要なため高コストになるところ、2000年に経済産業省が30億円を投じて災害対応ロボットを試作させたが、「原子力災害ロボットが必要になる事態は日本では起きないから必要ない」との理由で打ち切りになった。他方、核戦争に備える欧米では耐放射線機能を備えた軍事用ロボットが数多く作られており、フランスには耐放射線用LSI専用工場まであるという。

2点指摘しておきたい。

1点目は、「原子力災害ロボットが必要になる事態は日本では起きない」という認識の馬鹿さ加減はさておくとして、仮にそうだとしても、火事・地震や水害の際の遠隔操作ロボット開発の必要性は誰も否定できなかったはずであり、それさえロクになされていなかった事実は、原発災害に対する想像力の欠如というより、「国プロ」と「国家政策」が全く連動していないという制度上の問題があること、いいかえれば、科学振興予算がもっぱら、余った金を科学者の趣味に消費するために使われてきたことを推測させる、ということだ。

2点目は、(原発)災害用ロボットは軍事用ロボットと極めて親和性が高い、ということだ。だから、今のような厳しい軍事技術の交流規制を敷いたままでは、日本の災害用ロボット開発は、永久に先進国に追いつけないから、はじめから諦めて輸入した方が、国家財政的には合理的だ、ということになる。マスコミは今回の地震で全く役に立たなかった日本のロボット科学者を批判するけれども、おそらく世界でも最高レベルに厳しい軍事技術の輸出規制に縛られている日本の科学者に、有用な災害用ロボットを開発しろと要求するのは、手足を縛って泳げと言うことに等しいと認識すべきだろう。

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2011年4月11日 (月)

主婦の休業損害?

 専業主婦が交通事故に遭って、1日入院して、完治するまで1ヶ月間通院した場合、休業損害を請求できるだろうか。これが典型的な「主婦の休業損害」の問題だ。

 いうまでもなく、専業主婦は給与所得者ではない。だから、休業損害など請求できるわけがない。こういう考え方も成り立つ。実際、昭和49年(1974年)までは、そういう裁判例も普通にあった。

 だが、専業主婦は、ちゃんと働いている。家事炊事育児に親の介護。夫より働いている専業主婦だって少なくなかろう。交通事故で、これらの家事がこなせなかった損害は、本人や家族に発生しているはずだ。専業主婦が給料をもらっていないからといって、休業損害は請求できない、と考えてよいものだろうか。

 というわけで、現在の裁判実務は、専業主婦にも休業損害の請求ができる、という取り扱いをしている。

 そうなると問題となるのは、じゃあ幾ら請求できるのか?ということだ。会社員なら、事故前の給与と事故後の後給与を比較すれば、休業損害を割り出すことができる。だが、専業主婦は給与をもらっていないので、計算できない。

 そこで、裁判実務では基本的に、「賃金センサス」という厚生労働省の統計資料を参考に、休業損害を算定している。この統計は、男女別、産業別、学歴別という詳細な分類になっているのだが、専業主婦の休業損害を計算するときは、産業や学歴を無視して、女性労働者の平均値を取る。ちなみに平成21年は年収3489000円だ。産業や学歴を無視するのは、専業主婦という労働の内容や巧拙が、産業や学歴によって左右されるものではない、という考えなのだろう。正直なところ、専業主婦に休業損害を認めるという裁判実務は、理論的な根拠というより、政策的配慮に基づくものなので、何を基準とすべきかといわれても、よく分からないのだ。

 賃金センサスを基準とするとして、次に、完治までの1ヶ月間に相当する休業損害は、どうやって計算するべきだろうか。一つの考え方は、賃金センサスの1ヶ月分を全額請求するというものだ。しかし、最初の一日は丸一日働けなかっただろうからよしとして、ほぼ完治した一ヶ月目も、その日一日に相当する分全額請求できるのだろうか。

 実は、この問題に関する裁判実務上の基準は特に存在しない。私自身は、次の考え方で計算している。すなわち、事故当日や入院中は、家事が一切できなかっただろうから、その日数に相当する休業損害を100%請求できる。これに対して退院後は、完治した1ヶ月後に向けて徐々に家事ができるようになったはずだから、休業損害もだんだん減らしていく。どのように減らすかといえば、原則として、入院中の100%から、完治した日の0%まで、直線的に休業損害分が減っていくと見なして、休業損害を計算するのだ。つまり、事故時100%、完治時0%という右下がり直線のグラフを描き、X軸Y軸で囲まれる直角三角形の面積を求めることによって、専業主婦の休業損害を算出する。

 この計算方法を冒頭の例に適用すると、3,489,000(円)÷12÷2145,375円が、専業主婦が事故後1ヶ月で完治するまでの休業損害となる。医学的には、直線的に怪我が良くなっていくことなどあり得ないのだろうが、法律実務的には、そこまで斟酌できない。

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言霊

「私にも、H系の迷惑メールが来るようになったの」と妻。

「寂しい主婦と体だけの友達になりませんか?だって。」

「主婦?」と私。「『主婦』と書いてあったか?『人妻』じゃないのか?」

「そうだったかもしれない。どっちでも同じじゃない」

「全然違う!」と私。

「主婦か人妻かは、男にとって、まるで違うのだ。人妻、という言葉の持つ限りなきロマンがわからないのか?」なぜか涙目で力説する私。

「はいはい、分かりました。」と妻。

しかし翌日、妻は「サントリーの『きんばく』ありますか?」と聞いて、スーパーのお兄ちゃんを赤面させたのであった。

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2011年4月 8日 (金)

「虐殺器官」伊藤計劃(2007年 ハヤカワ文庫)

911後、世界中の危険人物を暗殺する特殊任務を遂行していた米軍大尉グラヴィス・シェパードは、途上国での内戦や大量虐殺の際必ず暗躍する謎の人物ジョン・ポールの暗殺を命じられた。バイオテクノロジーの発達により、少年兵を躊躇なく殺戮できる薬品を打ち、手足をもがれても痛みを感じず戦闘を継続する兵士と、人類が持つ自らを虐殺に駆り立てる脳内組織「虐殺器官」を発見した言語学者の間に、奇妙な友情が芽生える。2006年小松左京賞最終候補。「ベストSF2007」国内篇第1位。「ゼロ世代ベストSF1位。

2009年に34歳で夭折した作者は、全身に転移するガンと闘い、次々と臓器を失っていく自らの肉体を「逆どろろ状態」と嗤いながら、「死に意味はあるのか」「肉体は滅びても、残るものはあるのか」を問い続け、読者を釘付けにする。

昨年11月、倒れて数日の間、私は「臨死」にはほど遠いものの、死にかなり近いところにいた。このとき私にとって、死とは娘に再会できないことと完全に同義であり(妻には再会できていた)、それ以上の意味はなかった。私の意識は、記憶のアーカイブから娘の画像を勝手に拾い集め始めていたが、私自身は、「これが走馬燈ってやつかなあ」と思いながら、この画像収集作業を意識のごく一部に封じ込めることに、おおむね成功していた。この数日間、専ら考えていたのは、事件延期の段取りであり、キャンセルする講演主催者への詫び方であり、締め切りを10日後に控えた雑誌(エコノミスト臨時増刊『弁護士・会計士の憂鬱』)原稿の構想だった。つまるところ、私には死の意味を問う能力も余裕もなかったのであり、これはある意味でとても幸せなことだった。

 グロテスクな死体描写や殺戮描写が繰り返されるが、耐性のある人には一読に値すると思う。解説の引用する著者の母親の言葉が胸を打つ。彼女は、息子の魂が肉体を離れて存在することを、何の疑いも迷いもなく確信している。

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2011年4月 7日 (木)

「また一つ村が死んだ」(by風の谷のナウシカ)

 言っている人に悪意がないのは承知しているけれど、「被災地の再興」とか聞くと、少し「いらっ」とする。分かっている人は分かっているのだろうが、今回の震災の被災地―津波で大打撃を受けた漁業・農業を主要産業とする地域―は復興しない。だから、元通りに港や道路や市場を再建することが復興だというなら、それは間違いだと思う

 「阪神大震災より被害が大きいけれど、日本が団結すれば、神戸のように復興するよ」と言うかもしれない。だが、人的被害に限ってみれば、被害は大きくないのだ。考えてほしい。今回津波被害を受けた土地の面積は、阪神大震災の被災地面積の数十倍に達するだろう。だが死者数は数倍だ。なぜ数倍で済んだかというと、おそらく最大の理由は、人口密度が全然違うからだ。比較的都会と思われる石巻市は、神戸市と面積がほぼ同じ(約555平方キロ)だが、人口は約10分の1(約16万人)しかいない。このことは、生き残った被災者たちは、神戸の10分の1の人数で、神戸と同じ広さの土地の復興を背負うことを意味する。 

 その少ない人口密度の年齢分布が次の問題だ。図の紫は陸前高田市の年齢別人口統計(Wikipediaより)だが、全国(緑)のそれと比べて、顕著な違いが二点ある(ちなみに、この違いは岩手・宮城沿岸部市町村に共通だ)。一点目は、75歳前後に年齢層の山があることだ。この統計は2005年だから、今年81歳になっている。要するに、老人がとても多い。震災前から、商店街はシャッター通りと化していただろう。つまりこの町は、津波に襲われる前から、黄昏を迎えていたのだ。この町の老人たちは、もはや、流された家を再建したり、漁船を購入したり、田から塩を抜くために何年もかけて土壌改良をしたりはしない。漁業が再興しなければ、造船所や市場も再興しない。都会に暮らす子どもを頼って出て行く者も多かろう。より若い中高年の多くも、仕事を探して町を出るだろう。

 陸前高田市の人口統計が全国のそれと比べて顕著に違う第二点は、20歳前後が極端に少なくなっていることだ。これはおそらく、高校を卒業した若者の多くが、地元を離れることを意味している。統計上、その後数年すると緩やかな回復を見せている(たぶん一部が都会からお嫁さんを連れて戻ってくるのだろう)が、問題は、この震災のあと、若者は地元に戻ってこない、ということだ。仕事がないからだ。

 戦後日本は見事に復興したという人がいる。しかし戦後の復興を最初に支えたのは、当時20歳代だった若者と、彼らの子どもたちだ。陸前高田市にはその両方が欠けている。つまり震災の後、陸前高田市は、地元を離れたくない(又は離れられない)老人だけの町になる。同市には申し訳ないが、この町はこれから、緩やかな死を迎えることになる。我々が考えるべきことは、地元を離れる人たちの生活の確保や、被災地に残る老人たちに穏やかな老後を過ごして貰うにはどうしたら良いかということだと思う。

 私は陸前高田市に恨みはないし、復興に尽力する若者を冷笑するつもりもないし、偽悪者ぶりをひけらかしたいわけでもない。私がこの文章で言いたいのは、人口が少なく老人の多い社会は―いいかえると年老いた社会は―打撃を受けると立ち直れない、ということだ。そして日本全体も遠からず、陸前高田市と同様の年齢別人口構成になる、ということだ。

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2011年4月 6日 (水)

電力使用制限発動へ

 海江田万里経済産業相は5日の閣議後会見で、東京電力福島第1原子力発電所事故などで夏場の電力供給不足が懸念されるため、電気事業法27条に基づいて国が東電管内企業の電力使用量を制限する必要があるとの認識を示し、使用制限を発動する方針を表明した。使用制限は経産相が発動する措置で、実施されれば、第1次石油危機時の1974年以来となる。(45日毎日新聞朝刊)

電気事業法27条 経済産業大臣は、電気の需給の調整を行わなければ電気の供給の不足が国民経済及び国民生活に悪影響を及ぼし、公共の利益を阻害するおそれがあると認められるときは、その事態を克服するため必要な限度において、政令で定めるところにより、使用電力量の限度、使用最大電力の限度、用途若しくは使用を停止すべき日時を定めて、一般電気事業者、特定電気事業者若しくは特定規模電気事業者の供給する電気の使用を制限し、又は受電電力の容量の限度を定めて、一般電気事業者、特定電気事業者若しくは特定規模電気事業者からの受電を制限することができる。

 先日のエントリ「東京電力は電気供給契約違反による損害賠償責任を負うか?」では、東電の電力供給義務不履行に対する損害賠償請求の可能性について触れたが、電気事業法27条が発動されれば、国民や事業者が東電に対して電気を供給せよと請求する権利が消滅するので、東電の債務不履行は発生せず、その賠償責任も負わない、という理屈になりそうだ。その意味では、首都圏住民による東電に対する1兆円の請求訴訟は夢と消えたことになる。

 そうは言っても、私は東京電力に対する損害賠償責任追及(原発被害は別として)を諦めたわけではない。報道によると、電気事業法27条の発動対象は東電管内企業に限定され、一般市民は除外されるようだ。また、1974年の石油ショック以来とのことだが、中東産油国のワガママで電気が供給できなくなった場合とは、明らかに責任の所在が異なるし、電気事業法27条は電気供給について定めただけで、法的責任は別問題、という解釈が成り立つかもしれないし、そもそも、明白な自由経済統制法規である電気事業法27条の合憲性、という問題だってあるかもしれない。

 たとえば、電気事業法27条の発動によって、鉄道が間引き運転された結果、3倍の通勤時間を費やすことになる会社員の損害はどうなるのだろう。また、電気供給がなくなった結果事業が休止された場合、休業手当が出ないなら、それも会社員の損害だし、休業手当が出るなら、その分は事業者の損害となる。これらの損害は東電に請求できないのか、検討する余地は十分にある。

 特に首都圏の市民や事業者の方は、天災と諦めず、法律的解決が可能かどうか、弁護士に相談してほしいと思う。弁護士は、こういった損害に法的救済の余地がないか、検討を急ぐべきである。そして弁護士会は、数ヶ月後に予想される大量の法的請求の合理的管理方法の開発に、今から取り組むべきである。

 一般人が天災と諦める事態であっても、法的救済が可能であると示すこと。それこそ法の支配であり、弁護士と弁護士会の責任である。

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2011年4月 4日 (月)

輸出「後」規制と法治主義

 日本の「輸出」規制には、「輸出」が済んでも終わらないものがある。工作機械などについては、転売されたり、別の目的に転用されたりしないかを、半年ないし1年に一度、当の輸出企業が海外で調査して報告しなければならない。輸出先から誓約書を提出させることはもちろん、同一工場内でも別のラインに移設されないよう、調査のたびに写真を撮る。工場の入り口から設置場所まで一続きになるように、数十枚以上の写真を、アルバムよろしく報告書に貼り付けて経産省に提出するのだ。写真の端と端がつながらなかったりすると撮り直し。渡航費も調査費も全部、輸出企業持ちである。こういった調査に要する費用は最終的にはすべて製品価格に転嫁され、その分、日本製工業製品の国際競争力を低下させている。

信じがたいことには、輸出後の調査・報告義務は、何ら法律の根拠なく、輸出企業に課されている。すなわち、「法律の根拠なく国民に義務を課してはならない」という、法治主義の基本中の基本にもかかわらず、「輸出後規制」には法律の根拠がない。「輸出後規制」は明白な違法行為ということになる。

さらに信じがたいことには、経産省の官僚にも、義務を課される民間企業にも、「輸出後規制」が違法行為だという認識がないらしい。財団法人安全保障貿易情報センター(CISTEC)の平成23年の報告書には、わざわざドイツに行って、「輸出後規制」の実情を報告した顛末が記載されている(全558ページ中384ページ)。法治主義に違反しているという自覚があるなら、こんなことは恥ずかしくてできない。

報告書によると、「ドイツでは反応は非常に単純明快で『それはExport Controlではない。Post-Export Controlだ。ドイツではPost-Export Controlは行っていない。』とのことであった」とある。「車が来ていても信号が青なら渡る」と言われるほど順法精神に富むドイツ人にしてみれば、「法律がない以上規制はできない」という「単純明快」な認識を示したに過ぎないのだろうが、法律なき規制に慣れきっている日本の官僚と民間企業担当者には、理解できなかったようだ。ちなみに日本人は、「信号が赤でも皆が渡れば渡る」。

極めつきは、この報告書の提言である。「Post-Export Controlを国際標準とするよう、(日独企業の)負担の格差の縮小につき検討してもらいたい」としているのだ。違法規制を日本において運用するだけでは足りず、他国にも勧めようとしているのだから恐れ入る。「そうおっしゃっても、わが国にはPost-Export Controlの根拠法がありません。日本にはあるのですか?」と先進諸国の担当者に問われたら、どう答えるつもりなのだろうか。なぜ、自国の規制をやめることによって負担の格差を縮小する、という発想が持てないのだろう。

 優秀な官僚と、一流企業の輸出担当者が揃いもそろって、「法治主義」の基礎知識に対してこれほど無知であることは、弁護士として、とても恥ずかしいことだと思う。日本が近代法治国家となって100年以上経つのに、国民の法的リテラシーが極めて低級であることの責任は、言うまでもなく、弁護士もその一端を負っている。

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2011年4月 1日 (金)

原発、予断を許さず

 枝野官房長官は定例記者会見で、福島第一原子力発電所から検出された放射能は、自衛隊員の決死の作業により、予測値の3000ベンゴシーベルトを下回り、2000ベンゴシーベルト余りに抑えられた、と述べ、この放射線量は直ちに健康に害を与えるものではないが、さらなる減少を目指すと付け加えた。また、「各地の原発から半径20キロメートル以内の住民はなるべく屋内で生活し、屋外に出てもベンゴシーベルトと目を合わせず、言いがかりをつけられないように」と注意を喚起した。さらに、事態は沈静化しつつあるとの東電会長の楽観論に対しては、「今なお、対応を一歩間違えれば再臨界に達し、大量のベンゴシーベルトが国土を汚染する危険がある」と苦言を呈し、最終的な沈静化のためには捕鯨の全面禁止が必要との認識を示した。

 原子力発電所は、「電気の光を社会の隅々に」のスローガンのもと、電力の8割を原子力発電所で賄う「フランス並み」を目指して全国に建設されたが、今回の事故は、急激な原発増加のひずみを象徴するものとして、政府与党内でも議論を呼んでいる。

 ある与党幹部は、「粗製濫造された原発の淘汰は避けられない」と語る。だが与党内には、地方原発の廃止に反対する勢力もあり、先行きは混沌としている。

 首相はもともと1500ベンゴシーベルトの達成をマニュフェストに掲げて現与党を勝利に導いたが、その直後から「原発政策には関心がなく、当選目当ての方便」と公言し、ぶら下がり取材も拒否して「ひきこもり」と批判されている。側近によれば、首相は原発ジプシーを日比谷公園に集めて「被爆村」を作り、村長になりたいと漏らしているという。

 与党内部の分裂は被災地にも暗い影を落としている。被災した動物園から逃げた「虎が福島第一原発の壊れた格納容器からプルトニウムを盗み出した」という噂が被災地に流布している。ある被災者は、「虎は原爆を作り、政府を脅迫してローリングストーンズを日本に呼ぶつもりだ」と語り、他の被災者は、「虎は原爆で原発を爆破するつもりだ」と語った。原爆で原発を爆破すれば、かえって莫大な量のベンゴシーベルトが日本中にまき散らされる危険があるため、捜査当局は血なまこで虎の行方を追っている。

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