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2011年5月31日 (火)

理念を語れ

531日の朝日新聞『争論』は、法科大学院制度の要否を巡り、もと法科大学院協会理事長の奥島孝康氏と、中央大法科大学院の安念潤司教授の議論を掲載した。

それぞれの主張を一言でまとめると、奥島氏は司法試験合格者数を年5000人程度まで増やして合格率を上げ、法科大学院の存在価値を高めるべきだと主張し、安念教授は、法科大学院制度など無くても良いと言う。

ネットの世界では、奥島氏の分が悪いようだ。

だが私は、安念教授も、退屈さでは同類だと思う。20年前から全く進化しない議論をして、双方学者として恥ずかしくないのか。

どちらも弁護士増員論者だから支持しない、という狭い了見ではない。増員で結構。大事なのは、弁護士を増やしてどんな司法制度を目指すかだ。奥島氏は、田舎に弁護士を増やすことが目的だと言う。くだらないとは思うが、目的すら語らない安念教授よりマシだ。教授は、増えた弁護士は自由競争にさらせば良いという。しかし自由競争は目的でも理念でもない。語るべきは、自由競争の果てに何を求めるかだ。

日本の司法制度はどうあるべきか。学者なら理念を簡明かつ的確に語れ。それができないなら、憲法の意思を語れ。それすらできないなら、法学者を名乗るな。汝ら最初に淘汰されるべき者なれば也。

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「法の支配か 法を支配か」

529日の日本経済新聞朝刊「風見鶏」に、伊奈久喜特別編集委員が、標記タイトルの論考を載せている。

主旨としては、東電管理スキームで銀行に債権放棄を求める枝野官房長官の発言は「法の支配」に反する、とうことのようだ。しかしすでに指摘したとおり、法律もないのに債権放棄を求める枝野発言は確かに「例外」だが、その前提である東電救済スキームが「破綻処理という原則」の「例外」なので、「例外」の「例外」は「原則通り」なのだ。

日経らしいポジショントークはさておくとして、ご紹介したいのは、この論考のネタ元である「世界司法プロジェクト」の掲げる「法の支配」の基本要件である。

  The government and its officials and agents are accountable under the law;

  The laws are clear, publicized, stable and fair, and protect fundamental rights, including the security of persons and property;

  The process by which the laws are enacted, administered and enforced is accessible, fair and efficient;

  Access to justice is provided by competent, independent, and ethical adjudicators, attorneys or representatives, and judicial officers who are of sufficient number, have adequate resources, and reflect the makeup of the communities they serve.

①について、記事によると濱田邦夫弁護士は「政府とその職員及び代理人は、法律に従って責任を問われる。」と翻訳したらしい。だが、「法律に従って責任を問われる」って、どういう意味だろう?この文は直訳では、「政府…の行為は、法律によってのみ説明可能である」、やや意訳すれば、「政府…は、法律に従う義務を負う」とするべきだと思う。

②は「法律が明確で、公表され、安定的、公平であり、人と財産の安全を含む基本的人権を保障していること」である。

③は「法律の制定、施行、適用課程が公開され、公正で効率的であること」である。伊奈編集員は、特に③を論じた。

だが私が注目したいのは、最も長文の④である。直訳すると、「司法へのAccessが、十分な数の、資質に恵まれた、彼らの属する共同体の構成を反映した、資格のある、独立し倫理的な審判者、弁護士、代表者及び司法官によってprovideされること」となる。修飾語を取り払って主語述語だけにすると、”Access to justice is provided”となる。

濱田弁護士は、この部分を「司法制度の利用が担保されていること」と翻訳したが、accessを「利用」と翻訳したことは良いと思う。日本で「司法アクセス」というと、なぜか距離の問題に収斂し、僻地の問題ばかりになってしまうからだ。Accessとは要するに「利用しやすいこと」を意味する。

他方、provideを「担保」と訳したのはいただけない。何より一般市民に分かりにくい。「提供」とか「用意」とか「保障」という言葉を用い、「司法制度の利用が保障されていること」などと訳すべきだと思う。

さて、それで結局④は何を意味しているのかというと、要は、①、②、③に対する司法のチェックがしっかりしていることである。いいかえれば、政府の行為が不正だと思ったら、直ちに司法に訴えて、正してもらえる、ということである。それが”Access to justice is provided”の意味であり、「法の支配」を支える制度そのものである。④が機能しなければ、①も②も③も画に描いた餅だ。つまり④は、4つの中で最も重要である。

枝野発言が法の支配に反するというならそれで結構。銀行は直ちに裁判所に訴えて、その違法であることを確認してもらったらよろしい。それができない国は、法の支配が行き渡っていない、ということになる。伊奈編集員が論じるべきは③でなく④だったのだ。

ちなみに、世界司法プロジェクト加盟国のランキングを見ると、”Access to Civil Justice”10位で、全9要素の中では最下位だ。それほど日本では、司法アクセスが保障されていない、ということになる。

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2011年5月30日 (月)

視野の狭い日本人の織りなす悲劇? 『沈まぬ太陽』(DVD) ネタバレあり

象徴的なのは、龍崎一清(モデルは瀬島龍三)が日航会長を靖国神社に呼び出し、更迭を告げる場面だ。

「お国のため」に辞めろと迫る龍崎に対し、会長は「御巣鷹山の犠牲者のため留まる」と反論する。超巨大企業のトップの発言としては、いかにも視野が狭い。これでは再建を任せられないと判断されてもやむを得ない。

他方、「お国とは誰か」と反論された龍崎にも答えがない。靖国に祀られた250万柱だというなら、御巣鷹山と死者数が違うだけだと思う。

出世の次の階段しか見えない行天(三浦友和)、利権や既得権のことしか考えない日航取締役や政治家・官僚は言うに及ばず、彼らが引き立てるはずの、渡辺謙演じる主人公も同類だ。東大法学部卒のエリートとして、労働組合委員長、海外僻地担当、事故遺族への対応係と、任務に全力を尽くし、成果を出して人望を集めるが、所詮、目の前の仕事しか見えない。こうしてすべての登場人物が、それぞれの狭い視界の中で全力を尽くしつつ、全体としては悲劇―例えば日航の倒産―に向かっていく、そういう話に、私は思えた。

原作未読だし、ひねくれた見方をしているかもしれない。映画製作後の日航の倒産が、製作意図と別の解釈を呼ぶのかもしれない。だが、題名となった「沈まぬ太陽」、すなわちアフリカの悠久の大地に輝く不動の夕日に憧れ、自らの無力を諦める主人公の独白は、私の解釈を裏付けているし、そうでなければ、「なぜ主人公はナイロビに左遷されて安息を得るのか?」というラストへの疑問を説明できないと思う。

ところで、数日前お目にかかった日航もとCAによれば、一昨年までの日航は『沈まぬ太陽』を社員必読書と推薦していたそうだ。『こん日』を会員必読書と推薦しない誰かさんに比べると、倒産した日航の方が、度量が広いなあ。

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2011年5月24日 (火)

大津事件とフクシマと鎌倉利行先生

明治24年(1891511日、大津市を遊覧中のロシア皇太子が、警護の津田三蔵巡査に切りつけられ負傷した。いわゆる大津事件である。当時ロシアといえば世界最大の陸軍国であり、一方日本は国際社会にデビューしたばかりのひよっこだ。警備の不備どころではない大失態に対し、明治天皇も、伊藤博文以下政府要人も、旧刑法116条(皇室に対する罪)を適用して巡査を死刑に処し、ロシア皇帝の怒りを和らげようとしたが、大審院長児島惟謙や当時の大審院判事は、罪刑法定主義と司法権の独立を死守し、一般の殺人未遂罪を適用して無期懲役の判決を言い渡した。

旧刑法116条は「2編 公益に関する重罪軽罪」の「1章 皇室に対する罪」の最初の条文であり、「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定める。つまり既遂未遂を問わず、死刑しかない。しかし児島惟謙は、この条文は文言上明らかに日本国の天皇と皇族に対する罪であり、ロシア皇太子には適用がない、と主張したのだ。

当時児島惟謙が天皇や審理にあたった大審院判事に送った意見書が残っている。これを大幅に要約して現代語訳してみた。

******************以下訳文*********************

 古今東西、軽微な事件と思って対処したら重大な損失を被った例は多い。その原因は、当初対処するにあたり姑息な手段をとって一時の安心を求めたことにある。今回の犯罪に刑法116条を適用することは、国家百年の大計を誤る。

そもそも刑法第2編にある「公益」とは日本国の公益を指すのだから、第2編に天皇・皇室とあるは日本の天皇・皇室を指す。この条文は起草時「日本天皇」とされ立法時「日本」が削除されたが、これは記載しなくても当然と考えられたからである。また、他国の法律にも、他国皇族に対する犯罪を自国皇族に対する犯罪と同程度に罰しているものはない。刑法116条を適用しなくても、軽すぎるとはいえない。

それにもかかわらず刑法116条を本件に適用することは、刑法2条(法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス)に反するばかりか、憲法23条(日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ)や57条(司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ)にも反する。そうなれば、法は信用を失い、司法権の尊厳と信用は失墜する。

立憲主義の遵守は「天地の正理」であり「万国の通義」だから、わが国もこれを貫徹すべきである。ロシアも野蛮な国ではないし、わが国が立憲主義を貫徹する限り、横暴な要求をして国際非難を招くことは敢えてしないだろう。

最も注意すべきことは、今回の事件に慌てふためいて、わが国が自ら法を曲げれば、先進諸国の嘲笑を招くことである。わが国がかつて外交を誤り、30年経った今でも不平等条約に甘んじているのは、法治国家で無かったからだ。いま、現行法が頼りにならないことを認め、進んで法律を曲げるなら、国家の威信は失墜し、列強はますます「軽蔑侮慢の念を増長」するだろう。

政治的に考えても以上の通り、今回の事件で法を曲げることは許されないし、まして司法官たる者、権限もなく「法の明文を伸縮」することは国家天皇に対する不忠義に他ならない。

******************訳文ここまで*********************

何故大津事件をご紹介するかというと、23日、もと大阪弁護士会会長鎌倉利行弁護士の葬儀に参列してきたからである。同弁護士は2003年、御年71歳の時に大阪大学法学部大学院の学士論文「大津事件考」を著し、同書中、児島惟謙の意見書を引用されたのだ。長いこと読めずにいたが、これもご縁と思い、焼香の順番待ち(何しろ参列者多数なので)の間に読んだ。

格調は、私の下手くそな訳文によって相当失われてしまったが、それでも、この文章が、危機において国家の取るべき方途を示すものとして、現代日本にも十分通用するものであることは、ご理解いただけると思う。とても卑近な例でいうと、原発事故が起きてから大慌てで法体系をいじくり回すのは、事故以前の法制度を自ら否定することに他ならないから、諸外国の日本に対する「軽蔑侮慢の念を増長」するだろう。

 大津事件についてはいろいろ考えたいことがあるし、鎌倉先生の論文は大津事件に新たな視点を示して大変面白いのだが、それはまた後日ご紹介するとして、いまは鎌倉博士の業績を讃え、ご冥福をお祈りすることにしたい。

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2011年5月23日 (月)

『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』(草思社)

「最悪の事故のなかには、欠陥のある技術が、予想もつかないほど大きな自然の力と出会った事例が見られる」

これを読んで、フクシマを想起しない日本人はいないだろう。

スリーマイル、チェルノブイリ、コンコルド、チャレンジャー。本書は、巨大技術システムが、とても些細な偶然の積み重ねによって、いとも簡単に崩壊する有様を淡々と綴る。危機に遭遇した人々は文字通り死力を尽くすが、その多くは失敗する。他方、修羅場に遅刻してきた人、死に直面してあえて10分間の息抜きをした人が破局を救う。

巨大技術が人間の営みであるのと同様、巨大事故もまた、人間そのものなのだ。

このご時世、本書を読んで原発廃止の意を強くした人も多いだろう。だが私は、むしろ逆の感想を持った。

サイコロ大の鉱物から、町を一個破壊するほどのエネルギーを取り出せるとき、人間はその魅力を忘れられないだろうし、巨大システムの構築と維持に挑戦し続けるだろう。これは原子力に限った話ではない。人類が技術を手にした太古より続いてきた営為だ。もちろん、巨大飛行船、コンコルドや高速増殖炉など、人類が放棄した技術は数知れないが、その魅力に見合う技術が開発されれば、人間は再び巨大エネルギーの制御に挑戦するだろう。そのいくつかは失敗し、深刻な悲劇をもたらすだろうが、それでも挑戦は止まないだろう。

 危険と隣り合わせにある技術を、著者は「マシンフロンティア」と呼ぶ。アフリカの大地溝帯を出てヨーロッパとアジアに進出し、当時最先端技術の鉄器と丸木舟で森林と太平洋を渡り、多くの犠牲を払いながら地理的フロンティアを開拓し続けた人間にとって、マシンフロンティアの開拓は、その本能であり「業」なのだ、と思う。

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2011年5月20日 (金)

人の値段とロボットの値段

介護ロボットの開発に関わっている人が、「売り込んでも、どんなメリットがあるのか、いくら節約できるのか、証拠を示せ、ばかりで買ってくれない」とぼやいていた。福祉大国デンマークをはじめ、アメリカでも、介護ロボットがどんどん開発されているというのに、なぜ日本ではダメなのか、というわけである。

これから開発しようというロボットのメリットや経済効果を証明するのは無理というものだろう。だが、証明が困難な点は、デンマークや米国でも同じはずだ。ではなぜ、他国では介護ロボットの導入が進み、日本では進まないのか。

想像だが、他国と日本は発想が逆だと思う。ロボット導入にメリットがあるのではない。人間が高く付きすぎるのだ。

介護に腰痛は不可避である。腰痛になったからと仕事を休まれれば、直ちに事業に支障を来す。まして腰痛が慢性になって仕事ができなくなれば、多額の補償金が発生する。下手したら裁判沙汰だ。こういう社会では、人間がとても高く付く。一切文句を言わず生活保障も要求しない、壊れたら修理がきくロボットに食指が動く。

ところが日本では、介護職員は「腰痛くらいで」仕事を休まない。休めば他の介護職員の迷惑になる、と考えるからだ。信じがたいほど安い給料で、文句も言わず働く(まるでロボットのように)。腰痛はいずれ持病になり、介護を続けられなくなっても、労災補償は(たぶん)でない。日本の介護分野では人間のコストがとても安いから、ロボットに代替させる経済的動機が発生しない。

米軍が高価なロボット兵器を多数導入しているのは、兵士の命の値段が無視しがたいほど高くなったからと言われている。同じことが、介護の現場で起きているのかもしれない。

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2011年5月19日 (木)

枝野氏はおばかな確信犯か(2)

前のエントリで、枝野官房長官が金融機関に債権放棄を求めたのは、貸し手責任については倒産処理の原則に帰るという趣旨だと述べたが、19日付ブルームバーグ紙がこれを裏付ける記事を報じているのでご紹介したい。

同紙は、枝野氏の発言として、「当事者である東電が貸し手に限らず株主も含めてさまざまなステークホルダーの皆さんに政府からの支援がない場合の財務状況を前提にして、さまざまなご協力をお願いしていく」と報じている。これは要するに、「政府の支援がなければ、東電は倒産する。支援は、貸し手や株主を守るためではないのだから、貸し手と株主は、倒産した場合と同程度にしか保護しない」と言っているのだ。

至極真っ当な筋論である。ちなみに、記事の見出しは「東電は『普通の民間とは違う』」だが、記者が枝野氏の発言を正確に理解したかは疑問だ。正確には、「東電は『倒産会社と同じ』」とすべきだった。

もちろん、債権放棄を強要すれば日本や世界の金融秩序が害される、等の理由で枝野発言に反対することは十分できる。でもそう言うなら、なぜそうなるのか説明する責任がある。なすべき説明をなさず、屁理屈をこねる人たちは、決して頭は悪くないのだから、何か別の意図があると考えた方が良い。

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2011年5月18日 (水)

枝野氏はおばかな確信犯か

東電に対する金融債権放棄を示唆した枝野官房長官に対し、経済界からの批判が強い。18日の日経朝刊によれば、斉藤惇東京証券取引所社長は、「東電は政府の会社ではない。(債権放棄を求めるなら)法律などに基づいて介入すべき」と発言したそうだ。アンダーソン・毛利・友常法律事務所の池永朝昭弁護士は、「おばかな官房長官」「(確信犯的に)法的に筋が通らないことをいっている」と批判した

私は、法律という視点を取る以上は、法律上の原則と例外を弁えるべきだと思う。

すでに債務超過・弁済不能が明らかな東電には、倒産処理(産業再生機構法の適用を含む)が、法律上の原則である。救済は例外だ。もし、債務超過でも弁済不能でもないというなら、国が救済すること自体間違いである。(519日追記:稲森日本航空社長は『東電は健全な会社』と指摘して枝野発言を批判したと報じられた。健全な会社なら、国の救済を断るのが筋だ。何考えてるんだ。)

倒産処理という原則にもかかわらず、東電を特別扱いする理由は、倒産処理では、原発事故の被害者を救済できないからである。この目的のために、原則を曲げたのだから、他の利益調整は、可能な限り倒産処理の原則に戻るというのが、法律家の思考過程だ。大幅減資は免れず、従業員給与退職金や年金、そして社債権は、法律の範囲でしか保護されない。

枝野官房長官は、社債権者に対して、倒産処理以上の利益を求めるなと言っているのだと思う。その限りにおいて、枝野発言は原則に忠実であり、法的に筋が通っている。少なくとも「おばか」呼ばわりされる筋合いはない。

枝野発言と異なる立場を取るなら、分岐点は、例外を設けた目的だ。この目的を、原発被害者救済ではなく、あるいは、原発被害者救済と同等に、株主や社債権者の救済だというなら、枝野発言と異なる結論に至る。ただし、この結論を取るなら、他の破綻企業と異なる取扱を正当化する理屈、すなわち東電に限って、社債権者や株主を優遇する理屈を見つける必要がある。

余談だが、私が東電に対する契約責任の追及を提案したところ、「国民の理解を得られない」と忠告してきたのは、森・濱田松本法律事務所の弁護士だった。池永弁護士といい、大手渉外事務所の弁護士の法律感覚は、私と違うらしい。

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2011年5月17日 (火)

識別情報が仮名でも、本人を探し出すことができる話

516日、情報法の権威である鈴木正朝新潟大学法科大学院教授の講演を聞く。特に刺激を受けたのは次の点。

ライフログの結合は、個人識別情報を媒介して行われるのが普通だ。太郎君、花子さんといった個人識別情報がライフログに付いていることによって、太郎君のライフログ同士、花子さんのライフログ同士の結合が可能になる。しかしこれを本人の同意無くやると、プライバシー侵害の問題が生じるので、個人識別情報を付けたライフログを第三者に譲渡することは違法と考えられている。ならば、個人識別情報を仮名化して、太郎→A、花子→Bとすればどうだろう。この場合はプライバシー侵害の問題は発生しないと考えられてきた。このライフログは、Aのライフログ、Bのライフログとして結合することが可能だが、いくら結合してもABが誰かは分からない。

ところが最近、外国の企業が仮名化したライフログを買い集めて結合させているという。結合した結果、例えば「B40歳代の専業主婦。子ども2名。韓流ドラマが好きで、韓国渡航歴4回」というプロフィールができあがる。Bが誰かは分からない。しかし、このプロフィールの持ち主の携帯電話に、例えば「抽選で100名様がヨン様に会える!」という行動ターゲティング広告を打つ。花子さんは、喜んで住所氏名を入力して応募するだろう。広告主が、花子さんの年齢職業家庭環境等をすべて把握しているとも知らずに。こうして、Bさんが花子さんであることが、把握されてしまう。件の外国企業は、これが目的で、仮名化したライフログを買い集めているというのだ。

鈴木教授にこの情報のご注進に及んだのは、国内企業の会社員だという。「なぜ教えてくれるのだ?総務省が規制を始めたら、君たちも商売がやりにくくなるだろうに」という質問に対して、会社員はこう答えたそうだ。「外国人は、法規制がなければ自由だと考えて、どんどん地歩を固めている。日本企業は、法規制がなければ禁止と考えて、その間においしいところを外国人に取られてしまう。だから、法規制を作って、ここまでは適法ですよ、と言ってもらった方が、日本企業としては動きやすい。」

前半はある意味で恐ろしく、後半はとても情けない話である。

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2011年5月16日 (月)

フクシマの被災者を応援する東京都民が、電気料金値上げに反対するワケ

Chikirinさんは、「福島の原発事故の補償費用をどこから捻出するかという議論において、『電力料金に転するのはおかしい』とか『国民負担が発生するスキームはだめ』的な意見を聞くたびに、『なんでよ?』と思います。」と発言している。東電の資産で賠償金が不足したら、当然国民が負担すべきだし、電気料金も値上げすべきだという。

他電力会社の電気料金についての議論を別にすると、Chikirinさんの意見は正論だ。ただ、この議論の本質は「国民負担の是非」や「電気料金値上げの可否」という結論ではなくて、この結論に至る過程だと思うし、一見反対している論者も、その多くは過程を問題にしているのだと思う。

たしかに、原発政策が国策である以上、その結果について、国民がその責めの一端を負うことは当然だ。「私は原発に終始反対だったから一切責任を負わない」という意見は、民主主義の否定である。

ただ、責任には大小がある。責任の重い人には、重い負担を負ってもらわないといけない。ところが、現実には、重い責任を負うべき人が、強い権力を持っているので、自分だけ知らん顔して、他人に全責任を押しつけたりする。議論もせずに、国民負担を受け入れると、彼らの思うつぼだ。義捐金やボランティアを進んで実行する東京都民が、増税の議論に抵抗する心理は、こういうことだと思う。いいかえると、「国民負担は当然」という正論だけを主張すると、結果として、誰かの責任逃れに協力することになる。

東電管内の電気料金値上げの議論にも、同様の問題がある。電力会社は独占企業だから、電気料金に市場原理は働かず、東電と行政の合意だけで決まる。そのため、東電と行政の負うべき責任が、利用者に転嫁される危険がある。しかも増税と違って、異議申立の制度がない。電気料金値上げに抵抗する理由は、この点にある。

世の中には、結論の適正さを確保することより、過程の適正さを確保することが重要な問題がある。東電問題と増税・電気料金値上げの議論は、その典型だと思う。

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2011年5月15日 (日)

岡本太郎と法の支配

Chikirinさんによれば、「ぶつかり合うことが調和だ」という岡本太郎氏の言葉があるそうだ。「ぶつかり合って調和が生まれる」のではなく、「ぶつかり合うことそのものが調和」だという。

さすがは岡本太郎である。

「こん日」の最後に、「正義とは…さまざまな考え方や、さまざまな立場が、重層的な権力闘争を繰り広げる中で生まれる、緊張に満ちたバランスそのもの」と書いた。その前提となる価値相対主義については広くご賛同をいただいたが、私が本当に訴えたかったのは、「ぶつかり合うことそのものが正義」いうことだった。

学生の時にとても感銘を受けた詩がある。

青空を仰いでごらん
青が争っている
あのひしめきが 静かさというもの

うろ覚えだが、吉野弘という詩人の作品だそうだ。

最近、法の支配についてよく考える。

法の支配というのは、特定の価値観ではない。価値観と価値観のぶつかり合い、あるいは、正義と正義の闘争そのものが、法の支配なのだ。

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2011年5月13日 (金)

竹中平蔵氏の数学のセンスとリスク管理

 菅首相によると、今後30年間に浜岡原発周辺でM8以上の地震が起きる確率は87%なのだそうだ。では、今後1年間にM8以上の地震が起きる確率は何%か。

 そう思ってFACEBOOK上で議論していたら、竹中平蔵氏がTWITTERに「あえて単純計算すると、この1年で起こる確率は2.9」と書いた。

 これはかなり恥ずかしい間違いだろう。竹中氏は87%÷30という計算をしているが、「あえて単純計算をした」と弁解できるレベルの間違いではない。こんな計算をしては一橋大学どころか、県立高校にも入れない。日本を代表する高名な経済学者がこの程度の数学センスというのは、ちょっとがっかりである。弁護士は数学を知らなくてもつとまるが、経済学者は数学ができないとマズイんじゃないのだろうか。

 同様の感想を持った方はネット上多かったと見えて、例えば多田光弘氏は「(1-P)^30=13となるPの値を求めるのが正解」(”^”の記号は累乗)と言っている。これは、例えば、「いびつなサイコロを30回振って、一度でも1の目が出る確率が87 %の場合、1回振った時に1の目が出る確率Pは何%か」という問題の解き方だ。この問題の場合、30回振って一度も1の目がでない確率が13%だから、1回振って1の目がでない確率P30乗が13%になる、と考える。このやり方で解くと、1年にM8以上の地震が起きる確率は、約6.6%になる。

 一見正解のようだが、考えてみると、これも間違いではないか。11回の目の出方が独立していて、前後に影響を与えないサイコロモデルと、地震のモデルは、何かが根本的に違うような気がする。

FACEBOOKで議論につきあってくれた、ある優秀な弁護士は、「1年目に地震が起きて2年目~30年目に地震が起きない確率」「2年目に地震が起きて3年目~30年目に地震が起きない確率」…「30年目に初めて地震が起きる確率」を全て計算して総和が90%である場合、1年目に地震が起きる確率は約7.1%と主張している。こうなると私の頭では追いつけないが、やはり、なんとなく違う気がする。地殻にたまったエネルギーが放出されるという地震の性質上、一度地震が起きたらこの計算は当面(ほぼ100年間は)おしまいになるので、「地震が起きた後の確率」を計算に入れ込む必要は無いと思う。

 長さ30メートルの丸太の一本橋がある。この橋のどこかが1箇所だけ腐っており、上を通ると崩れ落ちる確率が87%とする。では、この橋の端から1メートル渡ったとき、橋が崩れる確率は何%か。地震モデルに近いのは、この「丸太橋モデル」ではないだろうか。で、どう計算するんだ?と聞かれても分からないが。

 リスク管理の問題として考えてみたらどうだろう。この丸太橋の下には、ネットが張ってあって、「安全対策は万全です」との看板がある。だが、同じ看板が立ててあった隣の橋のネットは弱すぎて破れ、谷底に落ちた人が大けがしてしまった。このときあなたは、87%で崩れる30メートルの橋の、最初の1メートルを渡るだろうか。

 竹中平蔵氏はきっと渡るのだろう。私は渡らない。どちらが愚かな人間だろうか。

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原発ロボットに必要なもの

 512日の毎日新聞朝刊『木語(もくご)』は、「(原発の)運転再開が前提なら原子炉事故のためのロボット舞台を電力会社も、消防も、自衛隊も整備すべきだ。(日本は)原発ロボット大国を目指すべきだ」とする金子秀敏専門編集委員の論説『原発ロボットなかった』を掲載した。

 底の浅い見解だと思う。

 「原発事故は起きないから事故発生後のロボットは必要ない」という安全神話が原発ロボット開発を妨げたことは事実だ。だがその信者は滅亡した(現時点では)。今更大新聞に指摘されるほどのことではない。

 問題は、安全神話が滅びれば、そして適切な開発予算が確保されれば、お説のごとく日本はロボット大国になれるのか、という点だろう。その答えはもちろん否、である。

ロボットは防波堤ではないのだ。作っただけでは足りない。常に使い続けなければ、ほどなく無用の長物と化す。だから、常時訓練は当然として、実践の場がどうしても必要だ。だが、ロボットが必須となるほどの事故災害など、そう頻繁に起きるものではない。つまり、実践の場を世界に求めなければならない。米国やフランスは実際そうしている。そのためには、事故災害発生から数日以内に、現場でロボットを稼働できる体勢を整えておかなければならない。最低でもC-130クラスの輸送機が1機、航続距離の長いヘリコプターが1機と人員が必要だし、部品の故障に備えたバックアップ体制も、もちろん必要だ。こういう兵站(ロジスティックス)の整備は、日本人が最も不得意とするところだが。

 その費用は、おそらくロボットの開発費用を上回るだろう。法制度の整備も必要だ。例えば持ち帰り予定の海外持ち出しでさえ、現行制度下では「輸出」にあたり、外為法に基づく経産省の許可を要するが、災害用ロボットがそんな悠長な事前申請をやっているわけにはいかないから、この手続を省略する制度的手当が必要になる。そこまでやって、初めて、米国やフランスのロボットに10年遅れたスタート地点に立つことができる。

 原発ロボット大国を目指すというのは、こういうことだ。そのためにどうしたらよいのか。大新聞が提言すべきなのは、この点だろう。

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2011年5月11日 (水)

中部電力役員は、株主代表訴訟に耐えられるか

菅首相による浜岡原発運転停止要請に対し、代表訴訟リスクを理由に判断を留保した中部電力役員は、最終的には「内閣総理大臣からの要請は、極めて重いと受け止め」て、停止要請に応じることとした。

各報道を前提とする限り、中部電力役員は、株主代表訴訟リスクは十分考慮したうえで、首相の要請であることは免責事由になると判断したことになる。

そうだろうか。

コンプライアンスの分野で有名なダスキン事件の大阪高裁判決がある。「ミスタードーナツ」で提供していた中国製肉まんに、無認可添加物が使用されていることを知ったダスキンは、この事実を公表するかどうかを取締役会で検討した。このとき、当時の社長や会長が「全部食べられちゃったし、健康被害が出ていないのだから、いまさら公表しなくてもいいんじゃないの?」と判断したため、他の取締役も「会長社長がそうおっしゃるなら」と、これを追認した(註;発言部分は推測)。この追認は「経営判断」であるから株主代表訴訟上の責任を負わないという主張に対し、大阪高裁は、「あいまいで、成り行き任せの方針を、手続的にも曖昧なままに…承認したのである。それは、とうてい『経営判断』というに値しない」と厳しく断罪した。

「会長社長がそうおっしゃるなら」が違法なら、いわんや「首相がそうおっしゃるなら」においてをや。ダスキン役員の、いかにも日本的な、ありがちな意思決定を断罪した大阪高裁の裁判官なら、今回の中部電力役員の判断は、当然断罪するだろう。首相といえども経営責任を負わない赤の他人にすぎない。主要施設の操業停止について、赤の他人の判断を優先させるなら、役員報酬をもらう理由はない。

中部電力の役員が代表訴訟リスクを免れるためには、こう言わなければならなかったと思う。「首相の要請を受け、独自に検討した結果、予想される地震の確率や規模に照らし、浜岡原発の安全対策は十分でないと判断した」と。この「首相の要請」のところは、別に「首相」でなくてよい。王様は裸と言った少年でもよい。大事なことは、自分の頭で考え直したということと、その結果、以前の「100%安全」との主張は撤回する、と明言することだった。

中部電力の発言は、政府に貸しを作る意図だったのかもしれないが、株主代表訴訟リスクという意味では禍根を残した、というのが私の考えである。

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2011年5月 9日 (月)

ブログのアクセス障害について

GW中、当ブログがアクセス障害を来しておりましたが本日(9日)復旧しました。ご心配をおかけした方には、お詫びを申し上げます。

とはいえ、炎上したわけでも、管理人が再び卒倒した訳でもありません。詳細は控えますが、当方の極めて初歩的な勘違いが原因です。親切にご対応いただいたココログの担当者には、大変お手数をおかけしました。

復旧したブログはぼちぼち再開いたします。今後ともよろしくお付き合い下さい。

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