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2011年5月24日 (火)

大津事件とフクシマと鎌倉利行先生

明治24年(1891511日、大津市を遊覧中のロシア皇太子が、警護の津田三蔵巡査に切りつけられ負傷した。いわゆる大津事件である。当時ロシアといえば世界最大の陸軍国であり、一方日本は国際社会にデビューしたばかりのひよっこだ。警備の不備どころではない大失態に対し、明治天皇も、伊藤博文以下政府要人も、旧刑法116条(皇室に対する罪)を適用して巡査を死刑に処し、ロシア皇帝の怒りを和らげようとしたが、大審院長児島惟謙や当時の大審院判事は、罪刑法定主義と司法権の独立を死守し、一般の殺人未遂罪を適用して無期懲役の判決を言い渡した。

旧刑法116条は「2編 公益に関する重罪軽罪」の「1章 皇室に対する罪」の最初の条文であり、「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定める。つまり既遂未遂を問わず、死刑しかない。しかし児島惟謙は、この条文は文言上明らかに日本国の天皇と皇族に対する罪であり、ロシア皇太子には適用がない、と主張したのだ。

当時児島惟謙が天皇や審理にあたった大審院判事に送った意見書が残っている。これを大幅に要約して現代語訳してみた。

******************以下訳文*********************

 古今東西、軽微な事件と思って対処したら重大な損失を被った例は多い。その原因は、当初対処するにあたり姑息な手段をとって一時の安心を求めたことにある。今回の犯罪に刑法116条を適用することは、国家百年の大計を誤る。

そもそも刑法第2編にある「公益」とは日本国の公益を指すのだから、第2編に天皇・皇室とあるは日本の天皇・皇室を指す。この条文は起草時「日本天皇」とされ立法時「日本」が削除されたが、これは記載しなくても当然と考えられたからである。また、他国の法律にも、他国皇族に対する犯罪を自国皇族に対する犯罪と同程度に罰しているものはない。刑法116条を適用しなくても、軽すぎるとはいえない。

それにもかかわらず刑法116条を本件に適用することは、刑法2条(法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス)に反するばかりか、憲法23条(日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ)や57条(司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ)にも反する。そうなれば、法は信用を失い、司法権の尊厳と信用は失墜する。

立憲主義の遵守は「天地の正理」であり「万国の通義」だから、わが国もこれを貫徹すべきである。ロシアも野蛮な国ではないし、わが国が立憲主義を貫徹する限り、横暴な要求をして国際非難を招くことは敢えてしないだろう。

最も注意すべきことは、今回の事件に慌てふためいて、わが国が自ら法を曲げれば、先進諸国の嘲笑を招くことである。わが国がかつて外交を誤り、30年経った今でも不平等条約に甘んじているのは、法治国家で無かったからだ。いま、現行法が頼りにならないことを認め、進んで法律を曲げるなら、国家の威信は失墜し、列強はますます「軽蔑侮慢の念を増長」するだろう。

政治的に考えても以上の通り、今回の事件で法を曲げることは許されないし、まして司法官たる者、権限もなく「法の明文を伸縮」することは国家天皇に対する不忠義に他ならない。

******************訳文ここまで*********************

何故大津事件をご紹介するかというと、23日、もと大阪弁護士会会長鎌倉利行弁護士の葬儀に参列してきたからである。同弁護士は2003年、御年71歳の時に大阪大学法学部大学院の学士論文「大津事件考」を著し、同書中、児島惟謙の意見書を引用されたのだ。長いこと読めずにいたが、これもご縁と思い、焼香の順番待ち(何しろ参列者多数なので)の間に読んだ。

格調は、私の下手くそな訳文によって相当失われてしまったが、それでも、この文章が、危機において国家の取るべき方途を示すものとして、現代日本にも十分通用するものであることは、ご理解いただけると思う。とても卑近な例でいうと、原発事故が起きてから大慌てで法体系をいじくり回すのは、事故以前の法制度を自ら否定することに他ならないから、諸外国の日本に対する「軽蔑侮慢の念を増長」するだろう。

 大津事件についてはいろいろ考えたいことがあるし、鎌倉先生の論文は大津事件に新たな視点を示して大変面白いのだが、それはまた後日ご紹介するとして、いまは鎌倉博士の業績を讃え、ご冥福をお祈りすることにしたい。

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コメント

鎌倉先生亡くなられたのですね。初めて知りました。
ご冥福をお祈りいたします。

投稿: 畑 知成 | 2011年5月24日 (火) 13時00分

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