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2011年6月30日 (木)

法テラス利用者減少へ?

「法テラスの利用者数に変化がある」。ある財務官僚からこう聞いたので、調べてみた。

「日経テレコン21」で検索可能な全国紙と地方紙の本年の記事を対象に、「法テラス&件数」で検索しヒットした記事から、2009年度と2010年度の件数比が記載されたものをすべて抜き出し地域的重複を排除すると12記事。このうち7件が「減少」を示唆していた。

見出しでは、「法テラス香川 10年度相談件数設立5年目で初のマイナス 多重債務問題の沈静化一因」(516日四国新聞)「法テラス島根:10年度問い合わせ1311件 前年度より減少」(67日毎日新聞)があり、記事内容としては、「10412月の9カ月間に寄せられた相談・問い合わせ件数が3512件(月平均390件)に上り、09年に比べて、月平均の相談件数が約50件少なくなった」(125日毎日新聞 栃木版)「相談件数は4217件で、2006年の設立以降、初めて前年度より減少」(414日高知新聞)「10年度の情報提供件数は2088件。前年度に比べると271件の減少」(北海道新聞 旭川)「問い合わせ、相談、援助いずれも減った」(419日 福井新聞)「法テラス鳥取(日本司法支援センター)の利用者数が頭打ちになっている。」(424日毎日新聞)である。

もちろん、法テラス利用者減少と即断するには、記事数が少なすぎる。その内容も「減少」というより「頭打ち」に近い。また、相談援助2割増の宮崎(416日朝日新聞)を始め、埼玉(116日読売)、新潟(413日新潟日報)、山口(415日中国新聞)、愛知(613日日経)の5記事は増加を報じている。

だが、昨年は法テラス利用者数の減少や頭打ちを報じた新聞はなかった。また、記事はおしなべて、グレーゾーン撤廃や総量規制による多重債務相談の明らかな減少を指摘している。法テラスも制度開始5年を過ぎ、一定の浸透は果たしたと言えるだろう。だから、控えめに見て、法テラスの利用者数が今後減少に転じる可能性がある、少なくとも多重債務事件は減少に転じた、とはいえるだろう。

各弁護士会の法律相談センターではここ数年、相談件数が右肩下がりに減少しており、その原因を法テラスの「健闘」に求めてきた。だが、もし法テラスの利用者数が今後頭打ちないし減少していくとするなら、どう考えたらよいのだろうか。

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2011年6月29日 (水)

司法にハンディキャップをつけた人たち(5)

「司法権の独立」が実際に問題になった例としては、明治憲法下だが「大津事件」がある。1891年(明治24年)、ロシア皇太子に切りつけた巡査に対し、死刑しか選択刑のない皇族に対する罪の適用を要求した政府に対し、大審院は、この罪は条文上日本の皇族にしか適用がないとして、一般の殺人未遂罪を適用して無期懲役と判決した。結果として巡査の命は助かったわけだが、当時の児島惟謙大審院長の意見書を見ても、巡査の人権に配慮した形跡は一切見られない。また、鎌倉利行弁護士によれば、巡査は心神耗弱として罪一等を減じられるべきであった可能性があるという。そうだとすれば、大審院は重大な誤判を犯したことになる。おそらく、大審院長が死守したのは、巡査の人権ではなく、罪刑法定主義であり、これをおろそかにすれば、日本は国際的に軽蔑されるという政治的確信だった。

戦後に「司法権の独立」が問題になった例としては、「長沼ナイキ訴訟」がある。1969年(昭和44年)、北海道夕張郡長沼町に自衛隊のナイキ地対空ミサイル基地が建築されることになり、現地の保安林指定が解除されたところ、これに反対する住民が、自衛隊は憲法違反だから保安林解除も違法だとして起こした行政訴訟だ(『こん日』36頁ご参照)。

この事件を担当した福島重雄裁判官が、左翼系といわれる団体「青年法律家協会」に所属していたことから、「偏向裁判」との批判が起き、国会は福島裁判官を弾劾するかどうかの検討に入る。また、同裁判官の上司が、判決の内容に干渉するとも取れる文書(平賀書簡)を福島裁判官に渡したことも問題となった。これらの出来事は、いずれも「裁判所の独立」と「裁判官の独立」を脅かすものであり、現行憲法上容認しがたいことは疑いない。

だが、この事件が、本稿で問題にしている疑問、すなわち「司法の独立の目的は少数者の人権保護にあるか?」という疑問についてはどうだろう。この裁判は保安林指定解除に関する行政訴訟であり、形式的には、少数者どころか、誰の人権の問題でもない。実質的にみても、この訴訟の争点は自衛隊(法)が憲法違反であるか否か、という点であって、それ自体が、少数者の人権にかかわるわけでもない。

「自衛隊が憲法違反か否かは、日本の安全保障、ひいては国民の生命という究極の人権にかかわる問題だ!」と思ったあなた、語るに落ちています。その立場に立つなら、この訴訟は国民「全員」の生命にかかわる問題であって、「少数者の人権」の問題ではない。

結局のところ、長沼ナイキ事件で実質的に争点となったのは、原告の主張する、自衛隊(法)は憲法違反であるという「議会少数派」の憲法解釈を取るのか、それとも、被告の主張する自衛隊(法)は合憲であるという「議会多数派の憲法解釈」を取るのか、あるいは「どちらでもない解釈を取るのか」という問題であって、少数者の人権を守るかどうか、という問題ではなかった、というべきだろう。

このように見てくると、「司法権の独立」の目的とするところは、少数者の人権保護ではない、ということが分かる。「司法権の独立」の目的は、何よりまず、憲法と法律を解釈し、具体的な事件に適用する最終的な権限を、裁判所(官)が独占することにある。

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2011年6月28日 (火)

司法にハンディキャップをつけた人たち(4)

司法権の独立は、国民主権とある意味で対立し矛盾する原理である。そのため、国民の選任していない裁判官の判断を権威づける仕組みが必要になる。そこで現行憲法とその下の法制度は、国民から信用されるに足る優れた人材を、裁判官として登用する仕組みを整えようとした。身分保障や好待遇、過酷な選抜試験制度は、そのあらわれである。

さて、ここで疑問は最初に戻っていく。

憲法はなぜ、ここまで苦労を重ねて、国民主権と矛盾する原理を司法に持ち込んだのだろう。「司法の独立」それ自体が憲法の目的ではない以上、憲法は、この原理を採用することによって、何を目指したのだろう。

「少数者の人権救済!」

という声が聞こえる。よくできました。確かにそう書いた教科書もあるし、私の時代の受験参考書には判で押したようにそう書いてあった。民主主義は多数派の横暴によって少数者の人権を侵害することがあるから、議会から独立した裁判所が少数者の人権を守る砦となるというわけだ。

だが本当にそうだろうか。いまの私には、少し乱暴な議論に思える。裁判所の独立を保障すれば、なぜ少数派の人権が守られるのだろう。確かに、守られる場合もあるだろう。だが担当裁判官だって、多数派に属する確率が高いはずだ。それに、民主主義が普通に機能している限り、「少数派の人権を違法に侵害する」法律はそう簡単にできるものではない。せいぜい、「少数派に不利な」法律ができる程度だ。その是正は民主主義手続で行うべきであって、裁判所の仕事ではない。また、行政府による人権侵害は、その被害者が少数派だから起きるというわけではない。行政府が誰かの人権を侵害するのは、経験則に照らすと、端的に、その人独特の事情を考慮することが面倒くさいからだ。

この問題については、もう少し考えてみる必要があると思う。

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2011年6月27日 (月)

責任と救済、技術と司法

624日、ヒューマンエラー研究の第一人者である立教大学芳賀繁教授のご講演「ヒューマンエラーと弁護士業務~組織事故は防げるか~」を受講した。この中で芳賀教授は、ミスをした当人の(刑事)責任を追及する社会や司法のあり方を、厳しく批判された。

ヒューマンエラーは事故の原因ではなく、より深い事故原因のあらわれだから、ヒューマンエラーを端緒に事故原因を究明し、再発を防止することが求められるにもかかわらず、個人に対して責任を追及する社会と司法のあり方は、当事者の口をつぐませ、専門家による調査を困難にするうえ、再発防止の役に立たない、というご趣旨だったと思う。この文脈から、芳賀教授は、「事故で被害が発生すると誰かの責任を問わなければ気が済まないというのは結果責任主義という(日本)文化の問題なのかもしれない」と、司法との「断絶」に対する絶望感と思える心情をも吐露されていた。

ミスした当人に刑事免責をという主張などは、日本でさえ柳田邦男が20年前から紹介しており、新味はないが、いいかえれば、これほど長い間、日本では、技術と司法の歩み寄りが遅々として進まなかった、ということだろう。

私も、次世代ロボットの研究者と安全の問題を話す機会が多く、その中で芳賀教授と同様の問題意識を持つことが多い。教授のいう結果責任主義や、刑事責任を問わずには気の済まない空気は、事故再発防止のみならず、新技術の開発に対しても、大きな障害になっていると思う。

ただ、だからといって司法は引っ込め、事故原因究明は技術者に任せろという方向に話が行くなら、司法との歩み寄りは永久に不可能だろう。司法には司法の目的と存在意義があるからだ。

私は、司法と事故との関わりは「責任」の問題ではなく、「救済」の問題ととらえるべきだと考える。

「責任」の問題ととらえる限り、「事故を起こした会社の担当者や社長を呼び出して土下座させ、刑事処罰したって何にもならない。それより再発防止が優先する」という技術者の主張が優勢になる。しかも、このような「責任」の取らせ方は、少なくとも先進国では日本独特のものだ。だが、「事故の被害者は救済されなければならない」という考えならば、人類普遍の原理だと思うし、救済より再発防止が必ず優先するわけでもない。なぜなら、将来の被害の予防(=再発防止)は、過去の被害の救済と等価だからだ。

だから、「責任の取らせ方」ではなく「救済のあり方」が問題と考え、救済の中身を議論するなら、再発防止を最優先する技術者との歩み寄りは可能だと思う。

もちろん世の中には(特に日本人には)、「事故を起こした社長が逮捕されなきゃ、死んだ息子は成仏できねえ」という類の主張が多い。だがこれは、救済のあり方としては不適当と考えるべきだ。また、わが国では民事救済の仕組みがとえても不十分であり、それが、行きすぎた刑事責任追及の一因になっているとも言える。このほか、民事でも刑事でもない救済も、大いに検討に値する。芳賀教授も指摘していたが、「加害者と被害者が共同して再発を防止する」取り組みや、「被害者が最も恐れるのは、事件が風化すること」という事実は、第三の救済策を考える上で、大いに参考になると思う。

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2011年6月25日 (土)

何度でも、何度でも

6月24日のAPによると、満を持して福島第一原発の2号機に投入された千葉工業大学のロボットQuinceが、最初のアタックに失敗したらしい。

報道によれば、Quinceは「階段の踊り場に立ち往生して階下に行けず、水位計を地下に投げ落とすためのケーブルも誤動作を起こした」とのこと。

The machine got stuck at a staircase landing and failed to go downstairs, TEPCO spokesman Junichi Matsumoto said. A cable that was supposed to drop a gauge into the basement also malfunctioned.

「ロボットは作業員が回収し、再挑戦に向けて調整していたと松本報道官は言ったが、詳しい言及を避けた。」

The workers retrieved the robot and were going to make adjustments before sending it back in for another try, Matsumoto said. He did not elaborate.

どうも生身の人間が回収したようだが、そこは生身の人間が行ってよい場所だったのか?という素朴な疑問もわく。

APの報道は24日午後8時ころだが、21時間後の25日午後5時時点でこれを報道する日本のメディアはないようだ。なぜだろう。

いずれにせよ、Quinceにはこれからも様々な誤作動や失敗が立ちふさがるだろう。そもそも実験機なのだから仕方ないことだ。Quinceのスタッフには、1万回の挑戦を期待したい。

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2011年6月24日 (金)

司法の危機

政府は622日、東電事故の賠償を巡る交渉でトラブルが生じた場合、裁判外紛争解決手続(ADR)で対応する方針を固めた、と各紙が報じた。これについて、裁判所や弁護士など、司法関係者から反対の声は聞かれない。

確かに、東電事故の賠償巡る交渉が当事者間で決着しなかった場合、いちいち裁判を起こしていたのでは、東京地裁の庁舎をもう一つ作っても追いつかないほど、多量の事件が発生するだろう。その意味で、ADRは現実的な解決策と言うほかはない。しかしこれは、戦後―というより多分、裁判制度開始以来―最大規模の法的紛争が起きるというのに、裁判所が頼りにならない、という認識が確定したに等しい。この事実に、司法に携わる人間は戦慄しなければならない。これは司法の危機だ。この危機を避ける唯一の方法は、日弁連が音頭を取り、裁判所と協力し合って、予想される訴訟をあらかじめ数十個の類型に分類し、人的経済的資源を集中投与する一方、裁判所の容量不足を補うことだった。だが、私が1ヶ月以上前にこの提案をしたにもかかわらず、日弁連中枢にあっさり無視されたことはすでに述べた。宇都宮会長に代わってからの日弁連と裁判所間の冷戦状態が、本件にマイナスに働いていなければ良いのだが。

弁護士の多数は、なぜこれが司法の危機か、理解できないのだろう。

私は今、「司法にハンディキャップをつけた人たち」という連載で、司法には行政と異なる独自性があると論じている。しかし他方、裁判所が現実に処理する事件の中には、裁判所が後見的にかかわる家事事件や、判例が確立した分野など、行政作用に分類して差し支えない事件類型が多く含まれていることも事実だ。これらの事件類型は、ADRによる簡易迅速な処理になじみやすい。すでに、交通事故の損害賠償請求については、ADRである「交通事故紛争解決センター」の方が、裁判所よりずっと多くの事件を処理している。

だが、簡易迅速な処理が可能であるからといって、本来裁判所で処理されていた次の類型が、続々ADRに移ったら、裁判所はどうなるだろう。

過払い請求ADR
債務整理・個人再生ADR
賃貸借紛争処理センター
債権回収機構
境界確定ADR
建築紛争ADR
ネット紛争解決センター
医療過誤ADR
学校事故ADR
婚姻費用・養育費確定ADR

裁判所に提訴される訴訟件数は、ただでさえ減少傾向にあるのに、一気に三分の一以下になるだろう。続いて裁判官のリストラがはじまる。これは、統治機構における裁判所の地位低下をもたらす。規模の低下は、理屈抜きで、地位の低下に直結することがある。

馬鹿な弁護士たちは、ADRの方が、弁護士費用を早期に回収できるから良いと考えているのだろう。だが、ADRの普及は長い目で見れば、間違いなく、弁護士費用の低廉化と弁護士の地位低下をもたらす。なぜなら弁護士の地位は、司法の権威に直結しているからだ。

 国民にとっても人ごとではない。多くの人は、司法の権威が低下しようがどうなろうが、簡易迅速に救済が受けられれば良いと考えているのだろう。だが、目先の利益追求がもたらす司法の権威の低下は、立憲主義の崩壊を意味する。立憲主義が崩壊したところに、国民の幸福はない。ウソだと思うならルソーとかロックとかに聞いてご覧。

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2011年6月23日 (木)

強く、強く念じるんだ。「土曜日の、実験室!」

620日、内閣府の社会還元加速プロジェクト「高齢者・有病者・障害者への先進的な在宅医療・介護の実現」に出席してきた。

毎回、冒頭で紹介されるのがBMIである。ブレイン・マシン・インターフェースの略で、要するに考えただけでコンピューターを動かす技術だ。

とはいえ、標題の文章を念じただけで「ドヨウビノ、ジッケンシツ」と画面表示されるというSF的世界にはほど遠い。まず「ド」を打ちたいと思ったら、利用者はヘッドギアを装着してモニタを凝視しつつ、頭の中で「ド」と念じ続ける。画面に文字が次々と表示され、「ド」が表示されたとき、「これだ!」と思うことによって、強い脳波が出るから、これをヘッドギアで受信して、コンピューターが「ド」を記録するという仕組みである。「ド」が終われば、次は「ヨ」で同じ作業を繰り返す。原始的といえば原始的だが、それでも、ヘッドギアの電極やソフトの開発、実証事件にかなり手間がかかるらしい。

中島八十一氏ら開発者は、実用化への目処がほぼついたとし、どのような人や場面で利用してもらえるかを今後の検討課題としていたが、法律家の目からは、遺言に使えるか否かは重要な問題になると思う。BMIを必要とする人の、少なくとも一部は、遺言をしたいというニーズを持っていると思われるからだ。

遺言には様々な形式があるが、自書(署)を必要としない遺言としては、「公正証書遺言」と「危急時遺言」とがある。しかしいずれも、原則として遺言者が口授することを前提としているので、BMIを使用しなければならない人(=話すことも筆記もできない人)には適用されない。唯一、危急時遺言で遺言者の「口がきけない」とき「通訳人」の通訳が認められているから、問題はBMIをもってこの「通訳人」に替えることができるか否か、ということになる。

他に方法がない以上、BMIを通訳人と認めるべきだ、という意見はあってしかるべきだが、文言上「通訳」が機械を含むか、という問題、「通訳」の法的正確性を、BMIによってどうやって担保するのか、という問題、そもそも、全身不随だが当面命に別状ない人が「疾病その他の事由によって死亡の危急に迫った者」(民法9761項)にあたるかという問題があり、考えてみると、なかなか難しい。いずれにしろ、遺言した本人にはやり直しのきかない問題なので、事前に手当をすることが望ましいだろう。

なお冒頭の台詞は、実写版「時をかける少女」(原田知世主演)である。私はこの映画を邦画ベスト2と確信している。ベスト1は何だって?それはもちろん、「時をかける少女」のアニメ版です。

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2011年6月22日 (水)

司法にハンディキャップをつけた人たち(3)

「裁判官は法律に従って司法権を行使しているのだから、司法権の独立と国民主権は矛盾しない」という教科書の説明は、現行憲法制度の設計者たちの理解と異なる。彼らにとって、司法権の独立は、国民主権原理とある部分で対立し、矛盾するものだった。

だが、それなら、別の疑問がわく。司法権の独立が国民主権原理と対立し矛盾するなら、司法の権威の源泉はどこにあるのだろうか。平たく言い換えると、国民はなぜ、裁判官の判断を尊重し従うのだろうか。

民主主義国家において、国民が法律に従うのは、国民が選挙で立法者を選んだからだ。また、国民が行政府に従うのは、立法府が行政府を監督しているからだ。だが、国民は裁判官を選挙で選んでおらず、しかも、立法府や行政府の監督を受けずに、強大な国家権力を行使する。どれほど強大かというと、裁判官は国民の財産や、命を奪うことができるのだ。もちろん裁判官は法律に従っている、という建前を取っている。だがその法解釈が不当でないという保障はないし、事実認定に至っては、採証ルールさえ守れば、裁判官の胸三寸だ。

民主的な基盤を持たないのに、かなり自由に、これほど強大な権力を行使する裁判官に、国民はなぜ従うのだろうか。

判決に満足しているからか?そんなことはない。少なくとも、民事事件の判決を受けた者の半分は、満足していない。両方とも不満、という訴訟だって多い。それにもかかわらず、国民の多くは、不満を持ちながらも、自主的に判決に従う。なぜだろうか。

いうまでもないことだが、裁判官の決定は、法律と、法律に基づく実力によって、実効力を裏付けられている。つまりは強制執行であり、これに立ち向かえば公務執行妨害罪で処罰される。では、国民が裁判官の判断を尊重し従うのは、国家による実力行使を恐怖してのことだろうか。それも違う。もちろん、そのような国家が存在していることは事実だが、それは民主国家ではないし、早晩瓦解する運命にあることは、歴史が証明している。現憲法が、恐怖国家を設計したはずがない。

結局、こう考えるほかないと思う。民主主義国家において、国民が裁判官の決定を尊重し従うのは、その判断が法律に従ってなされたと信用しているからだ。言い換えると、内容には不満足でも、法律に従ったものである以上、その法律を作った国民としては、従わざるを得ないのだ。

ではなぜ、国民は、裁判官が法律に従っていると信用できるのだろうか。すなわち、制度上、立法府の指図を受けないにもかかわらず、裁判官が法律に従っていると確信できる理由は何だろうか。

それは、裁判官個人の能力と人格を信用しているからである。

裁判官個人が、優れた事実認定能力と法解釈能力を有しており、この訴訟に関してどちらの当事者もエコひいきせず、公平無私な立場で行った判断である、という認識自体はゆるがせにできないのである。だからこそ、「裁判官がそう判断したなら、まあ仕方ないか」と思うのである。当人はあくまで不満でも、周りの人がそう言って当人をなだめてくれるのである。

さらに進んで考えてみよう。国民が裁判官個人の能力と人格を信用する根拠は、どこにあるのだろう。国民が裁判官を選挙で選ぶ国では、答えは簡単だ。だがわが国では、裁判官は、国民が選挙で選んだ国会が信任する内閣が選任(80条)するとされており、民意の反映はとても間接的になっている。しかも、内閣は、最高裁判所が作成した名簿の中からしか、裁判官を選べない(801項)。つまり、国民が裁判官個人の能力と人格を信用する根拠は、「最高裁判所が推薦した」という一点に存在する。「裁判官の品質」を保証しているのは、最高裁判所なのである。

このことは、次のことを意味している。すなわち、日本国民が自発的に判決に従う国家を維持するには、その能力と人格を信頼されるに足る人材が裁判官に選任されなければならない。その人材を獲得する責任は、第一次的には最高裁判所にある。その責任は重大だ。何しろ、裁判官には10年間の身分保障がある(801項)ため、一度カスを採用してしまったら大変なことなる。そして、国家には、最高裁判所による人材獲得を支援する責任がある。

裁判官には、憲法上強い身分保障と好待遇(減給禁止)が、法制度上も高給が保障され、かつ、裁判官の採用にあたり、司法試験という超難関の選抜試験が設けられたのは、いずれも、国民の信頼を得るに足る能力と人格を持つ人材を、最高裁判所が獲得するためなのだ。

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2011年6月21日 (火)

村上春樹と凡庸さについて

「女の子には、いくつも小さな引き出しがあって、あまり意味のないがらくたがたくさん入っている。そのがらくたを一つ一つ取り出して、ほこりを払い、きれいに拭いて、引き出しに戻してあげる。女の子にもてるというのは、要するにこういうことだと思う」

記憶を優先するためあえて原典にあたらないが(原典はたぶん自宅の本棚にある)、たぶん「鼠」がこう言っていた。当時大学生の私はいたく感銘を受け、これを座右の銘にしようと心に誓った。

村上春樹論を展開する能力も実績もない(『ノルウェイの森』上下巻を出版当日に購入し読了して以来、彼の小説を読んでいない)が、私にとって村上春樹は、凡庸さを拒絶する作家だった。少なくとも、凡庸な人間に寄り添いつつ、自らは非凡であり続けようとする作家だった。あるいは、凡庸なことを、非凡な言葉で語る作家だった。これ以上ないほど凡庸なくせに、非凡な人間になりたいと願う、生意気盛りの大学生だった私が、「もてたい」というとても凡庸な動機にせよ、村上春樹をむさぼり読んだ理由だった。

壁より卵を支持するというスピーチは、凡庸な思想を凡庸な言葉で語るものだった。ただ、壁の前で卵を支持した点で、多少の救いがあった。だが、カタルーニャ国際賞受賞式では、津波にせよ日本人論にせよ原発にせよ、凡庸な思想を凡庸な言葉で語っただけで、それ以上のものは何もなかった。念のため言うと、反原発だから凡庸だというのではない。親原発でも凡庸だったと思う。私が今、村上春樹から聞きたいのは、もっと非凡な話だった。

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2011年6月20日 (月)

司法にハンディキャップをつけた人たち(2)

私より、法学部生やLS生、司法試験受験生が適任の問題だから、考えてほしい。

司法権はすべて、裁判所に帰属する(憲法761項)。そして裁判所と裁判官は、他の国家権力からの独立が保障されている(763項など)。しかし、裁判官は選挙で選ばれないのに、強力な国家権力を行使する。では、「司法権の独立」は、国民主権と矛盾しないのだろうか。

長谷部泰男東大教授はこう説明する。司法権とは、「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する作用」だ。たとえば、「遺産は全部、長男の俺のもの」という主張を退け、民法の相続規定を適用して兄弟姉妹均等の遺産分割を行わせるのが司法の役割である。これは、「法の誠実な執行という点では行政作用と異なることはなく、ただ紛争の解決作用であるという点で区別される」にすぎない。つまり、「裁判官は、議会の制定法を忠実に執行する代わりにその身分を保障され」るのであり、司法の独立と国民主権とは整合的に理解される(「司法権を巡る論点」より)。

この「司法=行政」説ほどあからさまではないが、佐藤幸治京大名誉教授も、「裁判所が解釈・適用する法は国民代表機関によって定立されるものであることから、国民主権原理と矛盾しない」と述べている(『憲法』208頁)。

そうだろうか。

司法試験受験以来、憲法を離れて20年経つが、いまこの記述を読み返すと、二つの疑問がわいてくる。理論的な疑問と、生々しい疑問だ。

まず、理論的な疑問は、「裁判官が法律に従っていることを保障する制度がない」という点だ。憲法上、裁判官が法律に従うことは、その裁判官の「良心」によってしか、保障されない(763項)。だが、権力者が良心に誓えばその権力行使が常に適法になるなら、憲法はいらない。権力行使を国民がコントロールしてこそ、国民主権である。

また、「裁判官は、議会の制定法を忠実に執行する代わりにその身分を保障される」、と長谷部教授はいうが、上級審から違法を理由に判決を破棄された裁判官は数知れないのに、それを理由に身分を剥奪された者は、かつていないはずだ。

次に、生々しい疑問とは、給料の問題である。長谷部教授のように、司法権と行政権が同じだというなら、なぜ、裁判官の給料は、国家公務員の給料にくらべて、ずいぶん高いのだろう。「法の執行という点で(司法は)行政と異なることはない」というなら、身分も給料も同じでしかるべきだ。しかし憲法上、裁判官は手厚い身分保障を受けているが(78条、80条など)、行政官僚の身分保障規定はないし、同キャリアなら裁判官の給与の方がずっと高い。同種の仕事というなら、なぜ、同じ国家公務員なのに、給与水準が不平等なのだろう。

こうやって見てくると、現行憲法制度を構築した人たちは、長谷部教授のようには、司法権の独立と国民主権との関係を理解していなかった、と考えて良いと思う。

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2011年6月17日 (金)

グラン・トリノは清志郎の魂を乗せて雨上がりの夜空を走る

 グラン・トリノは、フォードのヴィンテージ・カー。朝鮮戦争に従軍し、フォード社の組立工として働いたコワルスキー(C.イーストウッド)は、長年連れ添った妻を亡くした後、磨き上げた72年製グラン・トリノを眺めてビールを飲むことを無上の楽しみとする、頑固で口が悪くてすぐ銃に手を伸ばす偏屈老人だが、ひょんなことから、10代のアジア系移民姉弟を家族のように見守ることになる。彼らを仲間に引き入れようとする街のチンピラが、弟に暴力を振るい、姉をレイプしたとき、コワルスキーは、C.イーストウッドがそれまで演じてきたキャラクターからは想像もつかない方法で、姉弟を守る行動に出た…。

感動した。他人に勧めて回る映画というのは滅多にないが、絶対見て損はない。

何より、C.イーストウッドが格好良い。旧友と悪態をつき合い、亡き妻を世界最高の女性と公言し、72年製フォードとビールと、50年かけて集めた工具をこよなく愛し、罪から逃げず、子どもに人生を教え、死に臨んで服を新調する。まるで「雨ニモ負ケス」のようだが、こういう男に、私もなりたい。

ラストに流れる歌が泣かせる。訳してみると、「雨上がりの夜空に」(忌野清志郎)と同じ歌と分かる。クルマに対するオトコの愛着は、古今東西不変なのだ。英語の歌詞を和訳するなど、まるで中学生だが、お許しいただきたい。歌詞と和訳についてはこちらのサイトを参考にさせていただいた。ちなみに、ものすごく意訳している。

Grand Torino

君の過去も未来も、すべてが愛おしい
君は素顔のままで、とても素敵だ
優しい風が君の中を通り過ぎ、旧い歌をささやく
エンジンをかければ、思いがあふれ出す
その思いは、グラン・トリノとともにある

満天に再び星が輝き、行方を照らす
僕はビールを飲み、戦争の傷や、きしむベッドを思い出す
旧い通りが木々の梢越しにきらきら光るのは、君との思い出があるから
君との小さな思い出の一つ一つが、世界のすべてだ

勇気を出して言おう、僕は君のそばにいたい
きらきら光る君の手で、僕に触れてほしい
君との小さな思い出の一つ一つが、世界のすべてだ
君の鼓動を抱いて、僕は一晩中走り続ける

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2011年6月16日 (木)

ガンダムの「ハロ」と『攻殻機動隊』を地でいくお話(2)

防衛省が開発中の「球形飛行体」が完成したとき、これを外国に輸出するには、どのような法律上の問題があるだろう。

「球形飛行体」は「航空機」にあたる。外為法をみると、航空機に対する輸出規制は、次のとおりだ。

1.   「軍用航空機」に対する輸出規制(輸出貿易管理令別表第11の(9))

2.   「軍用航空機」でない「無人航空機」に対する輸出規制(上記別表第14の(12))

3.   2の「無人航空機」でない「無人航空機」に対する輸出規制(上記別表第113の(4))

4.   以上のいずれでもない「航空機」に対する輸出規制(上記別表第116

見ただけでウンザリだが、気を取り直して順番に見ていこう。

1の規制は、武器輸出規制だ。この条項に該当する場合、「武器輸出三原則」の適用を受ける可能性が出てくる。そうなると、輸出が許可される見込みはほぼない。

そこで問題は、「球形飛行体」が「軍用航空機」に当たるかである。カメラだけを積んだ偵察用、つまり、攻撃用兵器でないものも、「軍用」に当たるのだろうか。

法律上、「軍用」の定義規定はないようだ。だが、防衛省が開発し、自衛隊が偵察用に使用する用途であれば、「軍用」に該当するとみて間違いないだろう。自衛隊は憲法解釈上『軍』ではないから本件飛行体は『自衛隊用』ではあっても『軍用』ではないというアホな解釈論はこの際無視する。

攻撃用ではない、ということは、「軍用」を否定する理由にはならないのだ。

かつて、PKOのため国外に持ち出す対人地雷除去機に武器輸出三原則が適用されるか議論されたことがあった。このときは官房長官談話で、同原則が適用されないこととなった(この経緯は武器輸出三原則森本に詳しい)。

その結果、現在の経産省の「解釈」では、輸出貿易管理令別表第11の(9)の「軍用車両」から、「対人地雷除去機を除く」とされている。

この経産省の「解釈」によれば、それ自体は防御専用品である対人地雷除去機でさえ、「軍用車両」にあたることを前提とし、政治的配慮に基づき、同条項の適用対象から「除く」ことになる。

「攻殻機動隊」つながりで話は飛ぶが、「公安9課」は内務省直属の諜報組織であって「軍」ではない。では「公安9課」が使用する武器は「軍用」でないかと言えば、そうではなかろう。おそらく、「軍用」か否かは、「攻撃用・非攻撃用を問わず、その客観的性能または使用目的に照らし、主として現代における組織的戦闘の用に供されるか否か」といった基準で分別されるのではないだろうか。

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2011年6月15日 (水)

司法の本質は市民サービスではない。

614日の朝日新聞社説「司法改革10年」は、法曹養成問題が厚い壁に直面しているとして、政府検討会による見直しを期待し、「その際、何より大切なのは市民・利用者の視点」と述べた。社説のトイ面では、過疎地で働いた法テラススタッフの太田晃弘弁護士、ダニエル・フット東大教授、宇都宮健児日弁連会長3者の談話を掲載した。社説も各談話も、法曹人口増加を支持する内容だ。

まずは素直に、他紙が何ら関心を示さない今、司法改革10年目の検証に紙面をさいた朝日新聞に敬意を表したい。

だが、朝日新聞の視点は、根本的なところで誤っていると思う。それは、「何より大切なのは市民・利用者の視点」という社説に端的に表れている。朝日新聞は、司法の本質は市民に対するサービスだと考えているのではないか。そうだとしたら、間違いだ。市民派を標榜する宇都宮会長も、法テラススタッフの太田弁護士も、同じ意味で間違っていると思う。

市民に対するサービスが重要であることは当然だ。民主国家においては、どれほど権力的な公務(たとえば警察や軍隊)であっても、市民サービス抜きには成立しない。だが、だからといって、市民サービスが司法の本質(=何より大切な視点)と考えるのは間違っている。なぜなら、司法の本質であり、司法のあり方を論じる上で何より大切なのは、司法が「統治機構」であることであり、その視点だからだ。

これは私の単独少数説ではない。ウソだと思うなら、憲法の教科書を見てほしい。大概の教科書には、「司法」が「統治機構」の章で記述されている。

実は、ダニエル・フット教授は、とても慎重な言い回しながら、「司法=市民サービス」論に立たないことを示唆している。米国における司法サービス分野の拡大は、統治機構としての司法が日本より遙かに確立した上でのことだ。司法の本丸が極めて脆弱なわが国において、無理にサービスを広げようとすると、天守閣が崩れかねない、と私は危惧する。

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2011年6月13日 (月)

ガンダムの「ハロ」と『攻殻機動隊』を地でいくお話

防衛省技術研究本部開発中の球形飛行体が、話題だ。

見かけは直径42センチメートルの球体で、内部にプロペラがある。扇風機から回転翼とカバーを切り離して、膨らませたような案配だ。これがラジコン操作で、縦横無尽に飛び回る。飛ぶ有様は機動戦士ガンダムマスコットキャラクターハロに近い。解説によると、球体内の8枚の羽で、姿勢を制御しているとのこと。しかも、廊下や階段など、建物の内部をぶつかりもせず飛行する。外縁でレーザーがチカチカ光っているので、距離センサがあるのだろう。これは立派なロボットだ。

驚きは、部品はほとんどが秋葉原で買い集められた市販品で、制作費が11万円とのこと。

外為法(武器輸出規制)の観点で言うと、値段から推して、部品一つ一つは輸出規制には引っかからないだろう。だが完成品は、防衛省が開発した偵察用飛行ロボットである以上、まず間違いなく輸出を規制されるだろう。

市販品の技術がこのレベルに達している現在、本気で武器輸出規制を徹底しようと思ったら、部品一個一個に輸出規制をかけるしかない。それが現実的でないなら、開発者(ビデオでラジコンを操作しているお兄ちゃん)の頭脳を日本に縛り付けておくしかない。それも現実的でないなら、攻撃用兵器以外の輸出規制は、もうあまり意味が無い、ということになるかもしれない。

映画『攻殻機動隊』の冒頭で、政府認定プログラマの出国は外為法に違反するとのやりとりがあったが、このシークエンスをSFと笑えない時代が、もうすぐそこまで来ている。

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2011年6月10日 (金)

司法にハンディキャップをつけた人たち

たとえば、こういう仮説を立ててみる。

新憲法下で三権分立制度を設計した人たちは、「司法」にハンディキャップをつけた、という仮説だ。詳しくは、こういうことになる。

明治憲法制定時の統治機構は、ごく単純に言って、①天皇②行政③立法④司法の順にエラかった。

その後、大正デモクラシーなどを背景に、立法・司法の地位は多少上がったが、軍部の台頭により、順位は、①天皇②軍部③行政④立法⑤司法となってしまった。つまり司法は最下位であり、無罪の判決を出すことは検察官(行政)の怒りを買うことだった。弁護士は三百代言とさげすまれ、軍人から「正業に就け」と説教された。

敗戦後、GHQは②軍部を解体した。新憲法は、①天皇を象徴と定め、③④⑤に相互抑制の権限を与えた。

つまり、日本の三権は、①行政②立法③司法の縦並びから、横並びで対等の関係に変わったのである。

しかしと、設計者は考えた憲法上対等と規定しても、実質が伴わなければ、三権分立は画餅に帰する。占領軍の間接統治の結果、日本の統治機構は軍を除いてその大半が温存されたため、新憲法下の統治機構は、戦前からの「行政優位」統治機構の「改革」という形を取らざるを得ない。加えて行政官僚は、統治の中心は自分らであり、立法・司法は全然ダメと考えている。このままでは、独立回復を機に、行政官僚は戦前の序列を取り戻そうとするだろう。そうさせないためには、「司法」にハンデをつけ、下駄を履かせて力をつけてやる必要がある。

組織に力をつけるため肝要なのは、①人材②権限③予算である。そこで新憲法は、①人材について、裁判官に手厚い身分保障を与えた。飢餓と公職追放の嵐が吹き荒れ、公務員さえ身分給与を保障されなかった戦後の混乱期に、10年の身分と減給禁止とを憲法明文で保障したのだ。これを見て、行政官僚から裁判官に志望を変更した東大法学部生も多かろう。現金なもので、エリートほど、自分より成績の良かった学友が相手組織にいると、一目置くのだ。

②の権限も、違憲立法審査権や、行政訴訟を含む司法の独占が憲法上保障された。ただ、憲法裁判所を新設しなかったことについては、議論があったと思う。

一方③の予算については、憲法上の保障が与えられず、財政法上の保障にとどまった。大蔵省が抵抗したからと推測する。これは戦後の司法の独立に、影を落とすことになった(『こん日』37頁以下ご参照)。

無事新憲法が成立し、司法制度の法整備に重心が移る。一つ問題になったのは、弁護士の取り扱いだ。当時国会議員になっていた弁護士も多く、彼らは裁判官・検察官との平等処遇と法曹一元を強く求めていた。占領軍の米国人顧問にしても、法曹一元は自国の制度だし、憲法裁判所が設置されない以上、司法が立法、行政と対等に渡り合うためには、優秀な弁護士の確保が不可欠と考えた。そのような思惑の一致から、戦後の司法制度は、判・検・弁が同列のものとして設計された。弁護士は、建前上民間の事業者だが、司法制度の中では、統治機構の一員と位置づけられるのである。

弁護士を国家資格としたことや、統一修習や給費制、弁護士自治の付与なども、「司法」に下駄を履かせてハンディキャップをつける、という国家的要請の文脈において、理解できる。

繰り返すが、これは仮説だ。これでは『こん日』の続編は書けない。私はこの仮説を検証してみたい。資料文献があれば、ご教示いただきたい。文献がなければ、憲法学者には是非、このあたりの経緯を研究してほしい。9条や人権も結構だが、統治機構まわり、わけても財政の研究は、一見地味だけど、とても重要だと思う。

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2011年6月 9日 (木)

佐藤幸治教授に足りないもの

67日朝日新聞の特集「身近な司法へ模索続く」は、司法制度改革審議委員会もと座長である佐藤幸治京都大学名誉教授(73)にインタビューを行い、大要、次の談話を掲載した。

「司法を身近で頼りがいのあるものに変えるという司法制度改革の理念は正しく、その成果も一部出てきているが、目玉である法曹人口増員と法科大学院制度の苦戦は残念。多様な人材に適切な教育を施して法曹の質を確保する法科大学院制度の理念は間違っていないから、司法試験合格者数年3000人の当初目標は維持すべき。法曹資格は収入を保障するゴールではないから、弁護士が増えすぎて食えないという増員抑制論は間違い。」

佐藤教授は学者らしく理念を語っているから、軽薄な処方箋談義に終始する安念・奥島教授よりマシだと思う。だが問題は、新制度がなぜ理念を実現しないのか、だ。その原因を突き詰めなければ、制度設計者として無責任のそしりを免れない。弁護士会など他人に責任転嫁しているうちは、「世間知らずが祭り上げられて浮かれたあげく、晩節を汚した」との評価を受け続けるだろう。こう書くとまた変な誤解をする人がいるが、私は弁護士会が悪くないなんて一言も言ってない。弁護士会は悪い。悪くて愚かだ。ただ、その話はこんな日弁連に誰がした?に書いたので、ここでは触れない。

教授に言いたいことは多いが、一つだけにしておきたい。

あなたは憲法の勉強が足りないのではないか。

司法が憲法上の制度である以上、司法制度の設計は、憲法に対する深い理解無くしては成しえない。もしこれに失敗したのなら、憲法の勉強が足りないとの批判は免れまい。そして失敗の原因は、現行憲法を立案し、これに基づく司法制度を構築した先人の思想と努力を学び検証する過程を、佐藤幸治教授らが怠ったことにもあるのではないか。同教授には、この批判に答える責任がある。

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2011年6月 8日 (水)

アンドロイドが電気羊を壊したら処罰されるか?

ドイツの大学の先生が、ロボットの法律問題について話を聞きたいと言ってやってきた。そんな物好きはどこのドイツだ、というおやぢギャグはさておき、会ってみると、理工系ではなく社会学系の先生だったためか、SFのような話になった。

ヒューマノイド(人型ロボット)の性能が劇的に向上したとき、どのような法律が必要になるか、と問われたので、大要、次のように答えた。

ヒューマノイドが市販されるようになったとき、性的愛玩用ヒューマノイド(セクサロイド)を法的に規制するか否かは、必ず議論されるだろう。インターネットやビデオデッキがそうであったように、エッチパワーが商品やサービスの爆発的普及に貢献することは事実だ。他方、男性用・女性用セクサロイドが普通に普及した社会における男女関係は,それまでの社会倫理を破壊するかもしれない。直感的には、セクサロイドの法的規制は欧米(オランダを除く)では厳格になるが、日本では野放しになると思うし、皮膚の再現技術などでは日本は世界トップクラスだから、日本製セクサロイドが欧米の闇市場において、超高値で流通するようになるだろう。

また、ヒューマノイドは物理的にはただの機械だから、所有者が壊そうが捨てようが自由、というのが原則だ。だが、もしヒューマノイドが「燃えないゴミ」として普通に捨てられるようになったら、相当好ましくない社会的影響があるだろう。また、少数ながら、ヒューマノイドを切り刻んだり拷問にかけたりして喜ぶ輩が必ず発生する。このような行為を放置すると、彼らの欲望は生身の人間に向かうことになる。そこで、いわゆる動物愛護法と同様、社会的法益を保護法益とし、ヒューマノイドをみだりに改造・破壊・廃棄することを禁止する「ヒューマノイド保護法」を制定する必要が出てくるだろう。但し、これは「ロボットに人権を認める」という話とは別だ。

ちなみに、私の目の黒いうちにロボットに人権を認める日が来るとは思わないが(来ればいいなあ)、ロボットに人権を認めるのは、ロボット自身が独立した人格を有すると認められることが前提となる。このときには、ロボットが法的責任主体になるかもしれない。

なお、件のドイツの大学の先生によれば、ドイツには、現時点でロボットに民法上・刑法上の責任を認めるべきだとまじめに議論している法学者がいるらしい。へー。そんな物好きはどこの…(以下略)。

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2011年6月 7日 (火)

北沢・ゲーツ会談と武器輸出三原則

64日の各紙は、北沢防衛相がゲーツ米国務長官と会談し、共同開発中の次世代型迎撃ミサイルを「米国から輸出」する際、①輸出先を米同盟国に限定し、②同盟国から第三国に輸出させない厳格管理を米国が実施することを条件に、日本は輸出を容認することになったと報じた。

5日の読売新聞社説は、防衛技術国際共同開発推進の立場から、「日本は早期に武器輸出三原則の緩和に踏み出すべきだ」と支持した。一方しんぶん赤旗は、「武器輸出三原則のいっそうの形がい化を進める動き」と批判した。

どちらも間違いである。これは、武器輸出三原則の問題ではない。

単純な三段論法だ。

① 武器輸出三原則は、外為法の運用基準である。
② 外為法は、「日本から外国への輸出」を規制する法律である。
③ 「日本からの輸出」でないことには、外為法の適用がないから、武器輸出三原則の適用もない。

平たくいうと、武器「輸出」三原則は、日本からの武器「輸出」に関する原則だから、米国からの輸出に適用されるワケがない。

この問題の必読文献である『武器輸出三原則』(森本正崇著 信山社)61頁以下によれば、政府は、本件が武器輸出三原則の問題でないことを、四半世紀前から繰り返し表明している。政権党が交代したとはいえ、政府の理解に変更があったとは聞いていない。赤旗(共産党)は、知って惚けたフリをしているのかもしれないが、読売は無理解をさらけ出してしまったことになる。

武器技術国際共同開発の是非や内容については、大いに議論したらよい。だが、無理解に基づく議論は、何も生まない。しかも、外為法という「法律の運用方針」にすぎず、明文の根拠もない武器輸出三原則を、あたかも国際的な行動規範のように論じることは、法的理解の浅薄さというだけでなく、法治国家のあり方としても大問題だ。

お前はどう評価するかって?

米国製の武器を米国が輸出することは、米国の安全保障問題であり、米国の自由である。開発に日本が協力したとしても、それは同じだ。ところが今回、米国は共同開発したミサイルについて、日本の承諾が輸出の条件と約束した。これは、米国の安全保障に日本が積極的に関与することを意味する。日本の国益にどのような影響を及ぼすかはさておき、米国は、よく応諾したと思う。

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2011年6月 6日 (月)

ミラーマンが電車に乗れなくなる日

529日の毎日新聞によると、「丸善書店は、丸の内本店(東京都千代田区)で、ICタグの実証実験を始めた。タグと監視カメラの顔認識装置を連動させることで、万引した人物を特定、再来店時に店員に通報することも可能」とのことだ。

「顔認識装置を連動させることで、万引した人物を特定」とある意味はおわかりだろうか。要は、本を持って店を出る客の顔をすべて撮影しておく、ということだ。この画像データには、持っていた本のICタグナンバーも記録されている。棚卸しをしたとき、「レジを通っていないのに、無くなった本」―つまり万引きされた本―のICタグナンバーから検索すれば、その本を持って店を出た人の顔画像がヒットする。そこでこの画像を来店者用カメラの顔認識装置に登録しておけば、犯人が再来店したとき、警報が鳴る仕組みだ。記事は「店員に通報する」とマイルドに書いているが、もちろん、通報先は店員だけではない。

法律上問題は無いのだろうか。言うまでもなく、店舗にカメラを設置して客を撮影することには、プライバシー権ないし肖像権侵害の疑いがある。しかし、店舗は経営者の排他的施設管理権が及ぶ場所であり、目的が正当である以上、当該防犯カメラシステムに関する適切な警告表示がなされている限りは、適法と考える。

それでも残る問題としては、画像データの保存や第三者譲渡が、どの程度許されるかだろう。この画像はプライバシー情報であり、個人情報でもあるわけだが、同一主体であれば、別店舗に譲渡しても違法ではない。では、経営者が別ならば、許されないのだろうか。例えば銀行強盗なら、仮に刑を勤めた後であっても、銀行同士で画像データを共有することも許されてよいような気がする。ホテルが放火犯の画像データを共有することや、保育園や幼稚園が児童ポルノに関する犯罪者の画像データを共有することも、許される余地がある。少なくとも、許されてよい、という考えの人は、決して少なくないはずだ。

ミラーマンと呼ばれた経済評論家がいた。無実を主張したが収監され、刑期を終え出所した彼の画像を、鉄道各線が共有することは許されるのだろうか。そうなれば、彼が車中で再び事件を起こせば、「ミラーマンであることを知って乗せた」鉄道会社側の法的責任が問われることになるから、鉄道は、ミラーマンの乗車を拒否するだろう。つまりミラーマンはもう二度と、電車に乗れない。

講演でこの話題を持ち出すと、女性の多くは「当然の報いよ!」という顔をする。だが続けて、「百貨店の下着売場にこのシステムを導入することについてどう思いますか?」と聞くと、多くの女性が目を伏せる(ような気がする)。

犯罪者だけにこのシステムが使われるとは限らない。銀座ユ○クロの前で10年ぶりに旧友に出会い、「私ユ○クロなんて初めてなんだけど」と言い訳しながら一緒に入ったとたん、「いつもご利用いただきありがとうございます○○様。先週巣鴨店でお買い求めになった補整下着、お加減はいかがでしょうか?」と案内ロボットに話しかけられる日は近い。

この問題については、様々な意見があってよいと思う。だが、これは自分と関わりない特殊な問題ではない、という点は忘れないでほしい。

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2011年6月 3日 (金)

チキンゲームに負けた小沢一郎

所詮床屋談義だが、今回の騒動は、小沢一郎がチキンゲームを挑み、負けたと読む。

内閣不信任案に小沢派が同調の動きを見せたのは、この非常時に解散する選択肢はない以上、首相退陣と予想したからだ。しかし、不信任を突きつけることは、憲法上、総辞職か解散かという選択を強制することだから、解散を選択されても、これを批判する資格はない。解散になれば、小沢派の多くを占める一年生議員の再選はないから、小沢一郎には民主党を巻き込んで自爆した、という結果だけが残る。足下を見た官邸は解散色を強め(天皇の日程調整に着手したのでは?)、勝機無しと考えた小沢一郎が、退却を指示したのだ。

この読みに基づいていくつかの疑問を解いてみると、こうなる。

鳩山・菅の「確認書」は小沢一郎の顔を立てる演出だ(鳩山本人がピエロかどうかは分からないが)。小沢としては、退却の口実として、菅首相が退陣に言及したという「戦果」がほしい。確認書に「退陣」の二文字がない理由はこういうことだ。あとで早期退陣を否定されても、「騙された」と言えばよいし、反攻の手がかりにはなる。

勝機の薄い勝負を、なぜ今挑んだのか。小沢一郎という政治家にとって、権力闘争の目的は、国家予算の配分権を牛耳ることに尽きる。第二次補正予算を含め、今後復興のため巨額の予算(再)配分が行われることが、勝負を挑んだ動機と考える。

これからどうなるか。今回はどちらかと言えば小沢の負けで、傷は深いが、官邸も大きな傷を負った。そこで首相は、早期に内閣の大幅改造を打ち上げ、求心力の回復と小沢派の切り崩し、ひいては大連立または自民党の分裂を目指すだろう。一方小沢派は、あらゆる手段で内閣支持率を低下させ、退陣を求める。つまり政治闘争は、ますますヒートアップする。

この時勢に政局三昧とは何をやっているのだ、という批判は一理ある。しかし権力闘争は政治の本質であり政治家の本能だ。ねじれ国会をはじめとする現政治情勢にあって権力闘争をするなというのは、複数の闘犬をひとつの檻に入れて喧嘩をするな、というに等しい。よい政治とは、権力闘争自体が国益を生む仕組みをいうと考える。

問題の本質は、権力闘争にではなく、権力闘争が何の益も生まない仕組みにこそある。日本人は、この発想がとても不得意だと思う。

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御社がモビルスーツを工場に導入する際の法的注意事項(2)

労働安全衛生法上、もう一つ問題になるのは、パワードスーツが産業用ロボットにあたるか、という点だ。労働安全衛生規則36条31昭和58年労働省告示第51は、産業用ロボットを次のように定義している。

  マニプレータ及び記憶装置(可変シーケンス制御装置及び固定シーケンス制御装置を含む)を有し

  記憶装置の情報に基づきマニプレータの伸縮、屈伸、上下移動、左右移動若しくは旋回の動作又はこれらの複合動作(単純な繰り返し動作を除く)を自動的に行うことができる機械で、

  80Wを超える定格出力の駆動用原動機を一つ以上持つもの

この規定は、自動車などを自動で製作する上腕型の産業用ロボットを念頭に置いている。しかし、パワードスーツがこれに該当するときには「さく又は囲いを設ける」などして、人間と産業用ロボットを物理的に隔離する必要が発生することがある。そうなると、身体に装着することはできないのだろうか。

③の要件を満たす前提で、①②を考えると、いくつか問題を指摘できるだろう。

たとえば、パワードスーツの場合、そもそも「記憶装置」を有しているのか、有しているとしても、装着する人の動作に「追随」して動作するため、「記憶装置の情報に基づき…動作を自動的に行う」といえるのか、が問題となろう。

マニプレータの定義規定は法令上存在しない。「ビジネス用語辞典」によると、「人間の手や上肢と同等の機能を持たせ、人間の作業を代替させる機械やロボットのこと」とある。パワードスーツの場合、ハードディスクがなければ記憶装置は存在しないし、装着者の動作に追随して動作するだけだから、プログラム通りに動作するわけでもなく、その機能においてマジックハンドにすぎないから、マニプレータにあたらないという意見もあろう。しかし、パワードスーツの動作は、人間の動作を単純に追随するわけではなく、筋電センサ等を通じて人間の動作を先取りし、プログラムに基づいて人間の動作をアシストするものであるし、プログラムに基づく様々な自律制御を行うのだから、その記憶装置は存在するし、その情報に基づく動作を行うし、それは一種の自動制御といえるだろう。また、法令はマジックハンドをマニプレータと区別して定義していない。ちなみに、足に装着するものもマニプレータに該当するというべきだろう。要するに、あらかじめプログラムされ予測される動作を行う典型的な産業用ロボットに比べ、予測できない複雑な動作を行うパワードスーツは、人体に接触する可能性が高く、出力如何によっては危険である以上、労働安全衛生法の目的に照らし、産業用ロボットに該当するというべきである。

パワードスーツが労働安全衛生規則の定義する産業用ロボットに該当する場合、同規則150条の4は、「事業者は、産業用ロボットを運転する場合…において、当該産業用ロボットに接触することにより労働者に危険が生ずるおそれのあるときは、さく又は囲いを設ける等当該危険を防止するために必要な措置を講じなければならない」と定めている。それでは、労働者がパワードスーツを装着することは許されないのだろうか。

この点については、パワードスーツの可動部分が物理的に装着者に接触しないように設計すれば、この規則は関係ない、とも考え得る。確かに、そのような設計は可能だろう。しかし、パワードスーツの潜在的危険は、可動部分の物理的接触だけではない。最もリスクが高いのは転倒だ。パワードスーツが転倒すると、装着者は手をつくなど適切な防護動作ができず、顔面を強打するなどして負傷する危険がある。したがって、パワードスーツが転倒した場合でも装着者が怪我をしないよう、安全ベルトやキャノピー等の措置が必要と考える。もちろん、リスクが低い場合にはヘルメットで足りる場合もあろう。

労働安全衛生規則150条の4に関して、もう一点考慮しなければならないのは、装着者以外の労働者である。『エイリアン2』には、パワーローダーを後進させるときに「Clear behind!(後ろに立つなよ!)」と操縦者が叫ぶ場面があるが、もしこんなヤツに足を踏まれたら、「いたたたた」と片足で跳ね回るだけでは済まない。幸いなことに当該条文は、「労働者に危険が生ずる恐れのあるとき」とあるから、恐れがない場合にまで隔離措置を要請していない。だから当該パワードスーツの重量や、四肢の動作速度等に応じ、接触により怪我をさせる危険がある場合に限り、生身の労働者を同じスペースで働かせることは許されないことになる。

パワードスーツについては、他にも法律問題がある。読者が御社の工場にモビルスーツやレイバーを導入する際は、是非事前に相談されたい。

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2011年6月 2日 (木)

御社がモビルスーツを工場に導入する際の法的注意事項(1)

人体に装着して身体機能を強化する機械を、パワードスーツという。

『宇宙の戦士』(ロバート・A・ハインライン)に始まり、アイアンマン、AMPスーツ(アバター)、パワーローダー(エイリアン2)、エクソスーツ(第9地区)等、SF映画の常連であるほか、日本のアニメでも、ランドメイト(アップルシード)やアーマードトルーパー(装甲騎兵ボトムズ)があるし、大型のものまで入れればモビルスーツ(ガンダムシリーズ)、マジンガーZやレイバー(機動警察パトレイバー)も含まれる。なおエヴァンゲリオンはたぶん機械ではないので、パワードスーツに分類してよいのか、よく分からない。

さて、パワードスーツを軍事用にではなく、民生用に用いるとしたら、工場や工事現場での使用が考えられる。この場合、法律上どのような問題があるだろうか。

モビルスーツやレイバーのような大型機械で、吊り上げ荷重が5トン以上なら、労働安全衛生法上、クレーン免許が必要だろう(法611項、労働安全衛生法施行令206項)。吊り下げ荷重がそれ以下であっても、法の定める技能講習や特別教育が必要だ。モビルスーツがクレーンか?という疑問は当然だが、「労働安全」衛生法の目的に照らし、形状より機能を優先して考えるべきだと思う。ただ、このように考えると、モビルスーツの用途はクレーンだけではなく、フォークリフトやシャベルカー、デリックや巻き上げ機等、多種多様だから、該当する全ての免許や資格が必要になってしまう。そこで、立法論としては、人型重機に特化した免許や資格を設けることが必要となろう。中型のパワードスーツも同様に、その機能や出力に応じた免許や資格が必要と考える。『エイリアン2』の主人公リプリーは、パワーローダーの2級免許を持っている。

なお、モビルスーツは熱核融合炉を動力とするので、これを御社の工場に導入する場合には、原子力に関する諸法規を遵守する必要があるほか、労働安全衛生法上、「放射線…による健康被害」を防止するため必要な措置を講じる義務が発生する(22条)。

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