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2011年6月22日 (水)

司法にハンディキャップをつけた人たち(3)

「裁判官は法律に従って司法権を行使しているのだから、司法権の独立と国民主権は矛盾しない」という教科書の説明は、現行憲法制度の設計者たちの理解と異なる。彼らにとって、司法権の独立は、国民主権原理とある部分で対立し、矛盾するものだった。

だが、それなら、別の疑問がわく。司法権の独立が国民主権原理と対立し矛盾するなら、司法の権威の源泉はどこにあるのだろうか。平たく言い換えると、国民はなぜ、裁判官の判断を尊重し従うのだろうか。

民主主義国家において、国民が法律に従うのは、国民が選挙で立法者を選んだからだ。また、国民が行政府に従うのは、立法府が行政府を監督しているからだ。だが、国民は裁判官を選挙で選んでおらず、しかも、立法府や行政府の監督を受けずに、強大な国家権力を行使する。どれほど強大かというと、裁判官は国民の財産や、命を奪うことができるのだ。もちろん裁判官は法律に従っている、という建前を取っている。だがその法解釈が不当でないという保障はないし、事実認定に至っては、採証ルールさえ守れば、裁判官の胸三寸だ。

民主的な基盤を持たないのに、かなり自由に、これほど強大な権力を行使する裁判官に、国民はなぜ従うのだろうか。

判決に満足しているからか?そんなことはない。少なくとも、民事事件の判決を受けた者の半分は、満足していない。両方とも不満、という訴訟だって多い。それにもかかわらず、国民の多くは、不満を持ちながらも、自主的に判決に従う。なぜだろうか。

いうまでもないことだが、裁判官の決定は、法律と、法律に基づく実力によって、実効力を裏付けられている。つまりは強制執行であり、これに立ち向かえば公務執行妨害罪で処罰される。では、国民が裁判官の判断を尊重し従うのは、国家による実力行使を恐怖してのことだろうか。それも違う。もちろん、そのような国家が存在していることは事実だが、それは民主国家ではないし、早晩瓦解する運命にあることは、歴史が証明している。現憲法が、恐怖国家を設計したはずがない。

結局、こう考えるほかないと思う。民主主義国家において、国民が裁判官の決定を尊重し従うのは、その判断が法律に従ってなされたと信用しているからだ。言い換えると、内容には不満足でも、法律に従ったものである以上、その法律を作った国民としては、従わざるを得ないのだ。

ではなぜ、国民は、裁判官が法律に従っていると信用できるのだろうか。すなわち、制度上、立法府の指図を受けないにもかかわらず、裁判官が法律に従っていると確信できる理由は何だろうか。

それは、裁判官個人の能力と人格を信用しているからである。

裁判官個人が、優れた事実認定能力と法解釈能力を有しており、この訴訟に関してどちらの当事者もエコひいきせず、公平無私な立場で行った判断である、という認識自体はゆるがせにできないのである。だからこそ、「裁判官がそう判断したなら、まあ仕方ないか」と思うのである。当人はあくまで不満でも、周りの人がそう言って当人をなだめてくれるのである。

さらに進んで考えてみよう。国民が裁判官個人の能力と人格を信用する根拠は、どこにあるのだろう。国民が裁判官を選挙で選ぶ国では、答えは簡単だ。だがわが国では、裁判官は、国民が選挙で選んだ国会が信任する内閣が選任(80条)するとされており、民意の反映はとても間接的になっている。しかも、内閣は、最高裁判所が作成した名簿の中からしか、裁判官を選べない(801項)。つまり、国民が裁判官個人の能力と人格を信用する根拠は、「最高裁判所が推薦した」という一点に存在する。「裁判官の品質」を保証しているのは、最高裁判所なのである。

このことは、次のことを意味している。すなわち、日本国民が自発的に判決に従う国家を維持するには、その能力と人格を信頼されるに足る人材が裁判官に選任されなければならない。その人材を獲得する責任は、第一次的には最高裁判所にある。その責任は重大だ。何しろ、裁判官には10年間の身分保障がある(801項)ため、一度カスを採用してしまったら大変なことなる。そして、国家には、最高裁判所による人材獲得を支援する責任がある。

裁判官には、憲法上強い身分保障と好待遇(減給禁止)が、法制度上も高給が保障され、かつ、裁判官の採用にあたり、司法試験という超難関の選抜試験が設けられたのは、いずれも、国民の信頼を得るに足る能力と人格を持つ人材を、最高裁判所が獲得するためなのだ。

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コメント

途中まではうんうん、と読んでいたのですが、(2)の終盤や(3)の終盤は、我田引水の趣を感じてしまいます。
(2)においては、憲法論を論じているにもかかわらず、その根拠が憲法に比して低次元(レベルという意味ではなく、ディメンションという意味です。)の法律というのは矛盾しませんでしょうか。法律すら縛る(憲98)憲法の根拠が法律です、という点に強引さを感じてしまいます。
(3)においても同じく、高給と司法試験という点で、同じ強引さを感じてしまいます。

私は、やはり憲法論においては、同じ憲法ないしはより高次元にある指導原理にこそ論拠を求めるべきかと思っています。
その点では、高度の身分保障(憲78、80)と法令及び良心にのみ従う(憲76Ⅲ)ことで確保されている裁判所の独立に対する国民主権の発揮は、先生のご指摘の通り、最高裁判所によって担保されているのでしょう。その点は同意見であります。
ですが、国民主権の発揮を担う最高裁判所の担保については、憲法において、最高裁裁判官任命時においては先生ご指摘の通り、内閣による選任(憲79)による間接的な関与と、国民審査(憲79Ⅱ)による直接的な民意反映と、全国民の代表(憲43、42、41)によって構成された国会による弾劾(憲64)によって確保されているのであって、(少なくとも憲法論においては)給与や試験ではないと考えますが、如何でしょうか。

投稿: 場末の手習い | 2011年6月27日 (月) 17時08分

ご指摘ありがとうございます。この一連のエントリは、何の計画も構成もなく、思いつくまま書いているので、冗長で分かりづらいところが多いと思います。最高裁判所の担保については、ご指摘の通りと思います。他方、給与や試験については私自身、憲法解釈論(sollen)ではなく、当時の人はこういう政策意図だっただろう(sein)の趣旨で書いたつもりですのですが、表現に至らない点があったかもしれません。

投稿: 小林正啓 | 2011年6月27日 (月) 19時28分

コメントありがとうございます。
当方もハンドルネームのとおり、まさに「手習い」の状況ですので、引き続き精進したいと思っています。

投稿: 場末の手習い | 2011年6月30日 (木) 17時27分

連投ですみません。

>給与や試験については私自身、憲法解釈論(sollen)ではなく、当時の人はこういう政策意図だっただろう(sein)の趣旨で書いたつもり

当時の給与水準はそんなに良くなく、試験難度も高くなかったと思いますが如何でしょうか?
給与は先生のご著書でもあるとおり、そもそも引き上げなければならないとの認識を最高裁事務総局(or矢口氏個人?)が持っていたのではないかとの推論があるぐらいですので、制度上の高給保証は誤認ではないでしょうか?
試験難度についても、大学進学者の一般化による難度の高度化が進んだのであって、意図であったというのは、誤認ではないでしょうか?

以上、先生の意図を私が読み違えていなければ、疑問として湧いたものです。

投稿: 場末の手習い | 2011年6月30日 (木) 17時34分

コメントありがとうございます。
ご質問の点は、私の説明不足ですが、意図としては時制が違います。詳細はいずれ書くつもりですが、昭和21年ころ、Aという人たちがある意図を持って憲法典を作成し、その後、Bという人たちが、その憲法に込められた意図を実現するために裁判所法をはじめとする司法制度を作った、というのが、私の言いたかったことです。当初お断りした通り、これは私の仮説ですから、この意図を読み取っていただいた上であれば、別のご意見があって当然だと思います。

投稿: 小林正啓 | 2011年7月 1日 (金) 11時08分

先生、ご回答ありがとうございます。
意図については、理解いたしました。
詳細が記事になった際に、改めて自分自身の考えも含めて、咀嚼したいと思います、

投稿: 場末の手習い | 2011年7月 4日 (月) 00時45分

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