« 何度でも、何度でも | トップページ | 司法にハンディキャップをつけた人たち(4) »

2011年6月27日 (月)

責任と救済、技術と司法

624日、ヒューマンエラー研究の第一人者である立教大学芳賀繁教授のご講演「ヒューマンエラーと弁護士業務~組織事故は防げるか~」を受講した。この中で芳賀教授は、ミスをした当人の(刑事)責任を追及する社会や司法のあり方を、厳しく批判された。

ヒューマンエラーは事故の原因ではなく、より深い事故原因のあらわれだから、ヒューマンエラーを端緒に事故原因を究明し、再発を防止することが求められるにもかかわらず、個人に対して責任を追及する社会と司法のあり方は、当事者の口をつぐませ、専門家による調査を困難にするうえ、再発防止の役に立たない、というご趣旨だったと思う。この文脈から、芳賀教授は、「事故で被害が発生すると誰かの責任を問わなければ気が済まないというのは結果責任主義という(日本)文化の問題なのかもしれない」と、司法との「断絶」に対する絶望感と思える心情をも吐露されていた。

ミスした当人に刑事免責をという主張などは、日本でさえ柳田邦男が20年前から紹介しており、新味はないが、いいかえれば、これほど長い間、日本では、技術と司法の歩み寄りが遅々として進まなかった、ということだろう。

私も、次世代ロボットの研究者と安全の問題を話す機会が多く、その中で芳賀教授と同様の問題意識を持つことが多い。教授のいう結果責任主義や、刑事責任を問わずには気の済まない空気は、事故再発防止のみならず、新技術の開発に対しても、大きな障害になっていると思う。

ただ、だからといって司法は引っ込め、事故原因究明は技術者に任せろという方向に話が行くなら、司法との歩み寄りは永久に不可能だろう。司法には司法の目的と存在意義があるからだ。

私は、司法と事故との関わりは「責任」の問題ではなく、「救済」の問題ととらえるべきだと考える。

「責任」の問題ととらえる限り、「事故を起こした会社の担当者や社長を呼び出して土下座させ、刑事処罰したって何にもならない。それより再発防止が優先する」という技術者の主張が優勢になる。しかも、このような「責任」の取らせ方は、少なくとも先進国では日本独特のものだ。だが、「事故の被害者は救済されなければならない」という考えならば、人類普遍の原理だと思うし、救済より再発防止が必ず優先するわけでもない。なぜなら、将来の被害の予防(=再発防止)は、過去の被害の救済と等価だからだ。

だから、「責任の取らせ方」ではなく「救済のあり方」が問題と考え、救済の中身を議論するなら、再発防止を最優先する技術者との歩み寄りは可能だと思う。

もちろん世の中には(特に日本人には)、「事故を起こした社長が逮捕されなきゃ、死んだ息子は成仏できねえ」という類の主張が多い。だがこれは、救済のあり方としては不適当と考えるべきだ。また、わが国では民事救済の仕組みがとえても不十分であり、それが、行きすぎた刑事責任追及の一因になっているとも言える。このほか、民事でも刑事でもない救済も、大いに検討に値する。芳賀教授も指摘していたが、「加害者と被害者が共同して再発を防止する」取り組みや、「被害者が最も恐れるのは、事件が風化すること」という事実は、第三の救済策を考える上で、大いに参考になると思う。

|

« 何度でも、何度でも | トップページ | 司法にハンディキャップをつけた人たち(4) »

コメント

100%同意します。

投稿: 大杉謙一 | 2011年6月27日 (月) 15時30分

大杉先生、いつもありがとうございます。オーストリアやスイスの観光列車転覆事故やトンネル火災事故が、日本から見るとなぜあんなに簡単に再開できるのか、トップメーカーのシンドラー社がなぜ日本で失敗したのか、このあたりの研究は非常に重要だと思います。どなたかやっていただけないでしょうか。

投稿: 小林正啓 | 2011年6月27日 (月) 19時38分

事故後の再開が遅れるのは、ひとえに役所の問題です。
役所がOKを出さないと再開はできません。
サービス自体が許認可等と関係なくとも、周辺業務では許認可関連にヒットすることはあります。
本来は安全性の問題でなかったとしても、地域感情や被害者感情といったものを背景に、合理性があるとして許認可を下さないことが往々にしてあります。

許認可等に関係ない場合であっても、たとえば、今回の原発事故ののちの各地の原発運転について、知事やら市町村長やらの了解は、そもそも法令上の条件ではないはずですが、当然のように地元理解が組み込まれています。
もちろん、性質が異なるというのは理解していますが、こういったものの矮小化されたものが、各種事故の現場では起きているわけです。
原発はあれだけのモノなので、地元感情を踏まえるべきとしても、では、どのレベルのモノは地元感情を踏まえるべきか?
その線引きがないので、物言う遺族のいる事故、ニュース性のある事故では再開が遅れるといった流れに、事実上なっています。

もはや法律論ではなく、事実論の世界ですが。

投稿: 場末の手習い | 2011年7月 4日 (月) 01時04分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/52038512

この記事へのトラックバック一覧です: 責任と救済、技術と司法:

« 何度でも、何度でも | トップページ | 司法にハンディキャップをつけた人たち(4) »