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2011年7月12日 (火)

アルフレッド・C・オプラーと内藤頼博と裁判所法

Alfred Christian Oppler(以下オプラー)は、1893(明治26)、ドイツ人裁判官の子として、当時ドイツ領だったアルザス・ロレーヌ地方で生まれ育ったが、第一次世界大戦後、同地がフランス領になったため、ベルリンに移住して判事になった。38歳でドイツ最高行政裁判所陪席判事、翌年にはドイツ最高懲戒裁判所副長官という「まれに見る経歴」で出世するものの、祖父母がユダヤ人であったことから迫害され、1939(昭和14)、命からがらアメリカに移住し、一事は庭師として職探しをするほど困窮したが、ハーバード大学で教職を得、1945(昭和20)に米国市民権を得た。1946年(昭和21年)223日、米国防省の要請に応じて占領統治下の東京に着任し、民政局に配属される。当時はGHQ草案が日本国政府に提示された直後である。このようなタイミングから、オプラーは日本国憲法の制定にはほとんど関与せず、日本国憲法に基づく各種の法制度(憲法附属法)の制定に取り組むことになった。特に、裁判所法は、憲法の公布(194753日)から施行までの半年の間に、オプラーとその部下たち、及び日本側スタッフの手により法典化されたものである。このとき、日本司法省側の担当者として活躍した裁判官の内藤頼博は、信州高遠藩主の嫡流である。

1947(昭和22)312日、枢密院の御前会議で裁判所法案が議決されたとき、オプラーは内藤頼博の手を握って「あなたと私の間にいい子どもが生まれた。きっと立派に育つだろう」と述べたという。オプラー55歳、内藤39歳であった。

オプラーは、「占領法制改革に臨むにあたって、かなり早い段階で『日本の法体系がコモン・ローではなく大陸法に基づいている』という認識を示し、『アングロ・サクソンの法体系が大陸法のものよりも優れていると考えがちな傾向を』戒め」たという(出口雄一「『亡命ドイツ法律家』アルフレッド・C・オプラー」法学研究821)

独仏国境紛争地帯に生まれ育ち、ドイツ裁判官として栄達を極め、ユダヤ人の血統故に迫害された後米国民として占領軍に参加したオプラーの経歴は、裁判所法をはじめとする「憲法附属法」に込められた思いを忖度する際、欠かすことはできない。

オプラーは、1955(昭和30)に日本を去った後、1976(昭和51)”Legal reform in occupied Japan”を著し、同書は1990年、日本評論社より、『日本占領と法制改革―GHQ担当者の回顧』として翻訳され出版された。同書の監訳をつとめたのは内藤頼博である。

1976(昭和51)、オプラーは夫人を喪い、1980年、ニュージャージー州の老人ホームに転居した。内藤頼博によれば、1981(昭和56)に再会した際、88歳となっていたオプラーは「日本の人たちは、今は私を忘れてしまった。しかし、私は彼らを忘れていない」と紙片に書き、内藤を悲しませた。実際のところ、憲法調査会(1956年~1965年)の会長を務めた高柳賢三東京大学名誉教授は、「占領軍の法律家の中には大陸法系の知識と理解を持った人は誰もいなかった」と発言し、オプラーを驚愕させたという。このときすでに、オプラーは忘れられていたのだ。

1982(昭和57)428日、オプラーは89歳の生涯を閉じた。内藤頼博は、1973(昭和48)に退官した後弁護士になり、多摩美術大学学長、学習院院長を務めた後、2000(平成12)125日に92歳で死去した。裁判所法の制定過程に関して『日本立法資料全集』という大部の書籍を遺しているが、古書でなんと50万円以上するので、とても手が出ない。どなたか、貸して下さい。

日本におけるオプラーの業績の研究は、驚いたことに、始まったばかりである。

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