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2011年7月19日 (火)

『昭和天皇とワシントンを結んだ男』(青木冨貴子 新潮社)

1945927日、昭和天皇ダグラスマッカーサーGHQ最高司令官と初めて会談した。『マッカーサー回想録』によれば、天皇は「私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるために来たのです」と語り、マッカーサーをいたく感銘させた。

マッカーサーとの会見は全11回に及んだが、当時40歳代後半であった昭和天皇は、60歳代半ばを超えた「時代がかった将軍の巨大な自己顕示欲に内心、辟易としたばかりか、(トルーマン大統領とそりが合わず、後に解任されることになる)元帥とワシントンとの関係もかなり見抜いていたに違いない」と著者はいう。

一方、日本の吉田首相も、講和条約の締結や再軍備、米軍在留等の重要問題について、のらりくらりと言質を与えず、ワシントンを苛立たせる。天皇は、東西冷戦と朝鮮半島有事を予感しており、日本が共産主義勢力に支配された場合天皇家の存続が危うくなることをおそれ、首相官邸を通さず独自外交を展開する。このとき天皇とワシントンを結んだのは、天皇側近の松平康昌が手配した、同じく宮内省の吉川重国邸に下宿していたニューズウィーク誌の東京支局長、コンプトン・パケナムだった。

パケナムは、吉田の次の首相は山一郎と見極め、後の米国務長官ジョンダレスとの極秘会談をセッティングして、当時公職を追放されていた鳩山に政界復帰の道筋をつける。しかし、首相となった鳩山は米国の期待に反し、ソ連との国交回復に踏み切った。ソ連は包括的な講和条約の一部として、北方4島のうち歯舞と色丹を返還すると申し出、鳩山はこの案に賛成していたが、これを聞いたダレスは、日本が二島返還案を呑むなら、琉球諸島についてもソ連と同じ条件を求めると、圧力をかけてきたという。

期待はずれに終わった鳩山の「次」は誰か。パケナムは、信介であるという長文のレポートをワシントンに送付する一方、極めて親密な信頼関係を岸と築く。1955831日、パケナムはワシントンで岸をダレスに次期首相と紹介した。岸が首相になったのはその1年半後のことであり、1957624日号のニューズウィーク誌は岸信介の写真で表紙を飾り、岸の英語教師としてパケナムの名前を挙げたという。

同年8月、パケナムは脳梗塞で倒れ、18日死去した。「昭和天皇とワシントンを結んだ男」パケナムと行動を共にしたハリー・カーン記者はその後、ニューズウィーク誌を離れ、1979年のダグラス・グラマン事件の黒幕として再登場するまで、日米関係の黒子として活躍した。このことは、パケナムとCIAの間にも密接なパイプがあったことを窺わせるが、パケナムは終生記者であり、豊富な人脈と飾らない人柄で、周囲を魅了し続けたようである。

昭和天皇がワシントンと独自外交を繰り広げた、という部分は著者の仮説だが、米国の対日政策が東西冷戦の中、いわゆる「逆コース」に向けて大きく舵を切る中で活躍した多数の著名人が、パケナムというほぼ無名の記者を通じてつながりあっていたとは、大変興味深い。そして、松平康昌がパケナムを信頼したのは、英国の「観戦武官」として日本戦艦に乗り込んだクリストファーパケナムの息子であるとの経歴によるところが大きかったが、実はこの経歴はパケナム自身によるねつ造であることや、GHQから昭和天皇に対してフリーメーソン入会の誘いがあったことなど、第一級のエピソードが続き、飽きさせない。

ちなみに、私がこの本を読んだ動機は戦後司法改革の位置づけを知るためだが、GHQ側で司法改革を主導したアルフレッド・Cプラーが所属していた民政局は、「左翼勢力を支配し、経済界の大々的な追放を推し進めるのがコートニー・ホイットニー准将率いる民政局(GS)」であると紹介されている。また、松平康昌とともに宮内庁スタッフとして行動した職員名の中に「内藤」なる名字が見られた〈104頁〉が、これと内藤頼博とは関係あるのか、気になるところである。

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