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2011年7月 6日 (水)

司法にハンディキャップをつけた人たち(6)

「司法権の独立」とは、憲法を含む法律を解釈し適用する最終的な権限を、裁判所(官)が独占することを意味する。言い換えると、具体的な事件や紛争が起きたときに、その解決にふさわしい法律がどれであり、それをどのように解釈して適用するかを判断する最終的な権限を、裁判所(官)が独占する、ということだ。

その結果として当然、裁判所の法律解釈と、議会や行政府の法律解釈が異なる、という事態が発生しうるし、その事態を憲法は想定し容認していることになる。

「そんなつもりでこの法律を作ったんじゃない!」と議会が泣こうがわめこうが、「この法律はこう解釈するのが正しいのだ!」と断言する権限を、裁判所は保障されている。これが、「司法の独立」という憲法原理の意味するところだ。

国民主権と司法の独立の関係について、こういう話をしたらご理解いただけるだろうか。たとえば「神」という概念を持ち込んでみる。この「神」は日本にたくさんいる神様ではなく、キリスト教的な唯一神だ。

人間は弱く、悪く、間違いを犯す。人間が行う統治には必ず欠陥があるから、「神の統べる国」こそ、理想国家だ。だから、国家の統治者はよく、教祖や預言者の衣をまとった。しかし教祖だろうが預言者だろうが、統治を一人に任せるとすぐ、神の意思と称して私利私欲を図るので、信用できない。そこで預言者を合議制にして、集団で神の意思を忖度(そんたく=推し量ること)する機関を作り、その執行者(王=行政)と分離した。この合議体が議会である。

議会はあくまで神の意思を忖度する機関であり、議会の作った法律は神の意思を具現化するものであって、議会の意思を表示したものではない。議会が作った法律といえども、神のものだから、神の許に返還される。そして事件や紛争が起きると、裁判所は、神の許から法律を借り出して解釈し、事件や紛争に適用する。ここに解釈とは、法律を通じて神の意思を追求することであって、国民の意思や、ましてや議会の意思を追求することではない(聖職者が聖書を解釈して神の意思を追求する様を想起されたい)。裁判所はあくまで、法律を通じ、神の意思に拘束されるのであって、議会の意思には拘束されない。このように、議会がアウトプットする法律と、裁判所がインプットする法律は、同じ法律だが、間に「神」が介在することにより、いったん切り離される。だから裁判所は、議会の意思に拘束されない。

もちろん、現行憲法に「神」の文字は無い(ちなみに明治憲法にはある。これはとても示唆的なことと思う)。上のたとえ話を理解したら、「神」の代わりに「抽象的な国民」という言葉を入れてもらえばよい。この「抽象的な国民」は、現実に生活し、選挙で議員を選ぶ「具体的な国民」とは切り離された、理念的・抽象的・一般的存在だ。私に哲学の知識はないが、たぶん、J.ルソーのいう「一般意志」とほぼ同義だろう。

具体的な国民と切り離された「抽象的な国民」という概念を想定し、その「抽象的な国民」が主権者であると考えることによって、初めて、国民主権と司法権の独立は矛盾せず両立する概念となる。なぜなら、議会と裁判所は、ともに「神=抽象的な国民」に仕える機関となるからだ。

いうまでもなく、それを「神」と呼ぼうが「抽象的な国民」と呼ぼうが「一般意志」と呼ぼうが、それは擬制であり、説明の道具にすぎない。ではなぜ、そんな擬制を使って、ややこしく説明するかといえば、その説明を必要とする政治制度が、最も優れているという確信と、合意が存在するからである。とはいえ、この確信と合意は、人類が数千年の試行錯誤の末、たった数百年前にたどり着いたものに過ぎず、完成にはほど遠い。チャーチルの名言が示すとおりである。

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