« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月31日 (水)

統一修習と給費制のあけぼの(9)

ところで、敗戦後の日本司法界において、法曹一元論が急に盛り上がったのは、GHQが法曹一元の導入準備を日本政府に指示したからだ。それならば、GHQは、どれほど本気で法曹一元を導入しようとしたのだろう。

確かに、前エントリで指摘したとおり、敗戦のわずか3ヶ月後には、GHQから日本政府に対し、法曹一元の導入準備が指示されている。また、現在に残る文書としては、昭和21年(1946年)3月、GHQ民間情報部保安課法律班のマニスカルコ大尉から司法省に示された試案にも、法曹一元の採用が明記されている。

これらを見ると、GHQはかなり本気で、日本に法曹一元を導入しようとしていたようにも見える。

しかし他方、昭和21213日に日本政府に公布されたGHQの憲法草案、いわゆるマッカーサー草案には、法曹一元は定められていない。下級裁判所裁判官の任命方法については、「下級裁判所ノ判事ハ各欠員ニ付最高法院ノ指名スル少クトモ二人以上ノ候補者ノ氏名ヲ包含スル表ノ中ヨリ内閣之ヲ任命スヘシ」(72条)とあり、憲法801項とほぼ同内容であるが、文言上、判事は「最高裁判所の作成した名簿に基づき」「内閣が任命する」となっており、「最高裁判所の作成した名簿」に載せる候補者を主として弁護士に限る(=法曹一元)とは、どこにも書いていない。法曹一元を導入するか否かは、裁判所法に委ねられていた。これらの事実は、GHQ自身、法曹一元導入の意欲は持っていても、わが国の実情にてらし適切かという判断については、慎重だったことを窺わせる。

A.C.オプラー著『日本占領と法制改革』にも興味深い記述がある。オプラーが日本に着任した昭和21年(1946年)2月の後、「憲法草案の変更がまだ可能だった頃」に、GHQ民政局次長のケーディスは、裁判官選挙制の導入を考えていたという。その被選挙資格は不明だが、実際問題として弁護士や法学者に限定されるだろうから、この裁判官選挙制は、法曹一元を意味する。

これに対して、ドイツ裁判官の経歴を持つオプラーは、「断固としてそれに反対した」という。それは、「政党の未熟なこの国で司法を政党政治の騒動に巻き込むことは悲惨な結果をもたらすと確信していた」からだ。この問題を重視したGHQのホイットニー准将は、民政局全体にこの議題を諮り、オプラーは反対の意見を述べたものの、オプラー以外の全員が、裁判官選挙制の導入に賛成票を投じたという。しかし、それにもかかわらず、裁判官選挙制度は、GHQの憲法草案に記載されなかった。

オプラーはこの逸話を、自分がいかにケーディスに信頼されていたかを示すものとして語っているが、GHQがオプラーの見解だけで裁判官選挙制度の導入を断念したとは思われない。GHQとしては、米国の制度を理想としつつも、日本の法制史や民主主義の成熟度をかなり正確に分析し、異質な法制度の押しつけにならないよう、かなり気を配ったと思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月30日 (火)

いまそこにある過疎

通勤途中、住宅街の一角に、さら地を見つけた。「売地」の看板が立っている。「ここ、前に何があったっけ?」と考えても思い出せない。すこし感傷をともなうが、ここまでは、土地の代替わりとして、よくある風景だ。

ところが、「売地」の看板をよく見ると、3区画に分割されている。思いだしてみると、この種の分割は多い。100坪が50坪に、60坪が30坪に。50坪が3分割、というのもある。

少子化によって、日本の人口は減り続けている。普通に考えれば、住宅地は需要が減って、次第に広く、安くなるはずだ。それなのに、なぜ細分化されるのだろう?しかも、なぜ相変わらず高いのだろう?住宅購入世代に限って言えばまだ多い、ということもあろうが、一つの理由として考えられるのが、「住宅街の過疎化」だ。

昭和40年代から50年代にかけて開発された住宅地では、人口減少が進んでいる。マイホームを買った世代から子どもが独立し、配偶者が亡くなっていくからだ。古い住宅街の周りには、病院が集まってくるから分かる。どこも、朝から点滴を受ける老人で繁盛している。夕方のスーパーでは、小さなお弁当を一つだけ、買い求める老婦人が目立つようになる。こうして、昭和40年前後に建った住宅に、一人住まいの老人が増えていく。ファミリー世帯の住むマンションの人口密度に比べれば、一軒あたり老人一人しかいない住宅街は、立派な過疎地と言ってよい。老人ホームに入っても、子どもらは、親の存命中に実家を処分しないから、空き家として何年も放置される。こうして、一等地の住宅地が、どんどん過疎化していく。

老婦人たちは、駅近くの100坪の土地に立つ一戸建てで、一人お弁当を食べる。駅からバス10分の場所にある20坪のマンションでは,4人家族が夕餉を囲む。妻は、駆け回る子どもを叱りながら、「そろそろ一戸建てに住みたいわ」と愚痴を言うが、「うーん、先立つものがなあ」と夫は煮え切らない。

何のことはない。老人が広い一等地を一人(または無人)で占拠しているから、土地がなかなか空かず、空いても分割され、しかも高いままなのだ。

100坪の土地に一人で住む老人がいる一方で、20坪のマンションに4人で住む40歳台がいる。老人は、家と近所の病院とスーパーをまわるだけの生活なのに、40歳台のお父さんは、バス10分、電車1時間かけて通勤だ。そのうえ妻はパートに出ている。それでも蓄えでは、老人の住む土地の半分を買うのがやっと。しかも、老人の年金と医療費を、実質的に負担させられているのだ。

どう考えても、これは理不尽だ。親世代と同じく働いても、親世代と同じ資産と老後は絶対に手に入らない。日本を支える働き盛りで、住宅購入世代のお父さんとお母さんは、もっと怒るべきだと思う。怒らなければ、老人世代に搾取されるだけの人生で終わるだろう。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2011年8月29日 (月)

統一修習と給費制のあけぼの(8)

判事検事と同じ国家試験に合格し、同じ修習を受ける。これを「統一修習」という。同じ試験に合格し同じ研修を受ける以上、弁護士と判事検事の地位は平等だ。統一修習実現にむけた弁護士会の夢は、昭和21年(1946年)87日、事実上成就した。これは、統一修習を足がかりに法曹一元を実現したい弁護士会と、司法省から人事権を独立させるため、弁護士会の力(票)を借りたい裁判所の思惑が一致したからだ、と私は推測する。

それはそれとして、弁護士会の夢であった法曹一元の方は、どうなったのだろう。

敗戦のわずか2ヶ月半後、GHQから日本政府にはすでに、「司法制度の改革」として、①大審院に法令審査権を付与すべきこと、②行政裁判所の廃止と司法権の独占、③検事局の裁判所からの分離、と並んで、④いわゆる法曹一元を実行するための準備をすること、との方針が伝えられていた。これを受けて、昭和201211日に開催された司法制度改革審議会第一諮問事項関係小委員会の第二回会合では、美濃部達吉を委員長として、法曹一元の採否について意見交換が行われた。

出席者のうち、豊原清作第一東京弁護士会会長と高橋義次東京弁護士会会長は法曹一元論者である。高柳賢三東京帝大教授や大森洪太東京控訴院長、黒川渉東京控訴院検事長は、理想としての法曹一元論には賛同する立場をとった。だが、坂野千里司法省次官、奥野健一司法省民事局長、萩野益三郎司法省調査官、井上登大審院民事部長は、法曹一元論は非現実的だとする立場である。

すなわち豊原弁護士らは、従来判事の物の見方、事実認定の仕方について社会の実情に疎いと非難し、社会の裏表に通じた優秀な弁護士が判事になる法曹一元の方が適切に事件を処理できると主張したが、坂野司法省次官、井上大審院判事らは、日本では母体となる弁護士数が少なすぎる、実際問題として優秀な弁護士が判事にならない、英国並みに判事の数を絞るには、日本の弁護士のレベルは低すぎて、「英国の弁護士は良い証人尋問をするが日本の弁護士は殆ど尋問ができない」(大森判事)、「優秀な弁護士を全部判事に採用しても数が足りない」(井上判事)と散々な反論をうけた。

これに対して豊原弁護士は、「従来弁護士より判事検事になる場合には、弁護士中でも収入少なく、しかも優秀でない者がなっていた」とあっさり認めたうえで、弁護士に対する教育(=統一修習)の必要性と、指名された弁護士には強制的に任官させる制度の導入が必要と反論したが、「判事になりたくない者を無理にならせるのでは困る」(大森判事)と一蹴されている。

この議論の結果として、小委員会としては、法曹一元を理想としてその準備を進めることとしつつも、当面法曹一元を採用しないと決議することになった。

『こん日』の読者には、ものすごく既視感があると思う。平成10年(1998年)に日弁連内で盛り上がった法曹一元論に対する非現実論と、まるで同じことをいわれているからだ。中坊公平もと弁護士は、司法制度改革審議会の席上、豊原弁護士と全く同じことを主張し、60年前と同じように論破された。つまり弁護士会は、60年前の弱点を全く補強することなく、平成12年(2000年)の法曹一元論に臨んで破れたことになる。戦後の混乱期のことを思えば、現代の弁護士の方が「馬鹿度」は上、ということになる。

歴史を学ばない愚かさというのは、こういうことなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月26日 (金)

統一修習と給費制のあけぼの(7)

法曹一元に戻ろう。

法曹一元は、弁護士から判事を任命する制度だ。だから、法曹一元を導入するには、裁判所法を改正して、最高裁判所の作成する名簿の候補者を弁護士に限定する必要がある。実は、これだけなら、裁判所には、あまり抵抗はない。現職判事の身分をどうするか、という経過措置の問題さえ解決すれば、新人判事を弁護士から選んでも差し支えない。弁護士の能力不足の問題もあったが、名簿作成権を最高裁が握っている限り、デキの悪い弁護士は名簿に登載しなければ良いのだから、不都合はない。しかも、後述するとおり、法曹一元は、裁判官に夢のような好待遇をもたらす可能性があった。だから、終戦直後の裁判所にとって、法曹一元は、全面排除の対象ではなかったのだ。実際、一部の「リベラル派」裁判官は、法曹一元導入への布石を打とうとしたと見受けられるが、この点については追って述べたい。

しかし、『こん日』にも記した平成12年(2000年)当時、弁護士会主張していた法曹一元論は、判事候補者名簿搭載者を、弁護士会が選任することとワンセットだった。つまり、最高裁判所の判事候補者名簿作成権は形式上のものとなり、実質的な判事先任権は弁護士会が持つ、すなわち、判事の採用人事権を最高裁判所から奪う、ということだ。司法権の独立を悲願とし、終戦とともにこれを勝ち取った裁判所にとって、採用人事権を弁護士会に奪われることは、絶対に容認できない。だから、このときの裁判所は、弁護士会の主張する法曹一元論に反発し、必死で抵抗したのだ。

さらに進んで考えると、最高裁判所長官退官後に法曹一元を主張し、日弁連をたきつけた矢口洪一は、この問題を、どう解決する考えだったのだろう。これは想像だが、最終的には憲法801項をもちだして、法曹一元を採用しつつ、弁護士会の名簿作成権は否定するつもりだったのではないだろうか。法曹一元のもたらす裁判官の社会的地位と好待遇を獲得しつつ、採用人事権は守る。戦後司法界の傑出した「政治家」である矢口洪一なら、このくらいのことは、当然考えたと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月24日 (水)

統一修習と給費制のあけぼの(6)

戦後法曹養成制度が統一修習を採用したのは、弁護士会と司法省の妥協の産物ではなく、裁判所と弁護士会が共闘して司法官僚と闘った結果である。

だが、裁判所はなぜ、法曹一元につながりうる統一修習制度の採用をOKしたのか。裁判所にとって、法曹一元は絶対に受け入れられなかったと『こん日』にも書いてあるではないか、と思った読者もおられよう。

この点については、少し解説が必要かもしれない。

法曹一元は、判事の任命方法に関する制度だ。判事の任命方法に関して、憲法801項は、最高裁判所の作成した名簿の中から、内閣が任命すると定めた。すなわち、判事を新たに任命するためには、最高裁判所が候補者名簿を内閣に提出し、内閣がその中から選ぶ。候補者以外の判事は選べないし、名簿が気に入らないと突き返すこともできない。文言上は、最高裁判所は定員ぴったりの名簿を作成すれば、内閣の任命権を事実上剥奪することだってできる。実際には、定員プラス1名の名簿が作成されており、しかもその1名には鉛筆で印が付けてあって、内閣はその1名以外を任命する慣例になっているそうだが。

つまり、憲法上、判事の最終的な任命権者は内閣だが、内閣の任命権は、最高裁判所の作成した名簿の範囲に限られている。これが、わが憲法の三権分立におけるバランスの取り方だ。

言い換えるとこうである。憲法は、組織としての司法権の独立を、強く保障した。組織の独立とは、組織内規則制定権、予算編成権、所属建物の独立であり、そして、人事権の独立である。この人事権は当然に採用人事を含む。そして憲法は、判事の採用人事権を、形式的には内閣に与えつつ、実質的には最高裁判所に賦与したのだ。つまり、判事候補者の名簿作成権は、憲法が保障する司法権の独立の一内容、ということになる。

このことは、われわれ法律家が持つ憲法学の常識にてらすと、ちょっと面白い論点を提起する。それは、名簿作成権が憲法上保障された最高裁判所の権利であるとするなら、法律によってそれを制限できるのか?という論点だ。実際のところ、裁判所法40条から43条は、名簿の作成について定めているから、最高裁判所はこの定めに反する者を判事候補者に指名することができない。これは、最高裁判所の権限を立法によって制限することだから、司法権の独立を侵し、憲法違反となるのだろうか?

もちろん、憲法違反ではない。その理由は、実も蓋もないが、「最高裁判所が納得しているから」という点に求めるほかない。逆に言えば、最高裁判所が反対しているのに、裁判所法を改正して、判事候補者名簿搭載者の資格を制限することは、司法権の独立を侵し、憲法違反になる可能性がある。

GHQが憲法施行日と同時に施行するよう、裁判所法の制定を急いだ理由もここにある。憲法が施行されてしまえば、いかにGHQといえども、国会の決定に逆らえない。GHQは、国会の「反動勢力」によって裁判所法が制定され、憲法の定める司法権の独立が骨抜きにされることをおそれたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月22日 (月)

ススキノ・中州とイギリスの暴動と街頭防犯カメラ

8月20日の毎日新聞は、警察庁が歓楽街の犯罪抑止効果検証を目的に、札幌市のススキノと福岡市の中州に防犯カメラを約40台ずつ設置すると報じた。カメラによる犯罪抑止効果を検証し、今後の設置・運用の参考にするという。記事は、歓迎する商店主らと戸惑う観光客、反対する武藤糾明弁護士のコメントをそれぞれ載せている。

街頭防犯カメラの犯罪抑止効果については以前検討したことがあるが、そう単純な問題でないことだけは間違いない。歓楽街の犯罪というと、スリや置き引き、酔っ払いの喧嘩などが思い浮かぶが、こういった犯罪への抑止効果は無いし、あってもすぐ、元に戻る。他方、侵入盗(空き巣)への抑止効果はある。ただこれは、カメラ自体の抑止効果というより、「カメラを設置した」というニュースが、プロの泥棒に「シマを変える」効果をもたらすから、と考えられるし、しばらくすると効果がなくなる。また、違法な客引きや違法風俗店を排除する効果は、新宿歌舞伎町の街頭防犯カメラの効果としても報告されている。これは、違法滞在の外国人がカメラに写るのを嫌ったためと推測される。新参者に縄張りを脅かされる既存商店主が繁華街の街頭防犯カメラを歓迎するのは、当然なのだ。

不法滞在外国人が減れば、その地域では彼らによる犯罪は減るだろうから、犯罪抑止効果はあるといえる。だが、彼らも仕事のために日本にいるのだから、カメラのない場所で商売を続けるだろうし、ある種の「犯罪母集団」を狙い撃ちして街頭監視カメラを設置する政策は、とてもセンシティブな問題をはらむ。

また、歓楽街は怖すぎても困るが、ある程度の猥雑さや危険な匂いも必要だと思うし、「理想的な歓楽街」を街頭防犯カメラによって維持することの是非は、論じられてしかるべきだと思う。

ところで、街頭防犯カメラ大国といえばイギリスだ。そのイギリスでは8月初旬、全国で暴動が発生した。鈴木一人北海道教授の分析によれば、暴動の主体は、低階級で社会的に排除され、地元のギャングや愚連隊との接触が多い10代の若者―要するにゴロツキとかチンピラとかいうたぐい―である。彼らは街中に街頭防犯カメラがあることを百も承知で、堂々と店舗を襲い、自動車に火をつけ、一般市民に暴力を振るった。つまり街頭防犯カメラには、暴動を抑止する効果が全く無かったことになる。また、暴徒がSNSを使って暴動場所に集合したため警察の対応が後手に回ったとも報じられたが、見方を変えれば、ロンドンだけで数百万台とも言われる街頭防犯カメラでは、暴徒の動向を把握できなかったことを意味する。

ではイギリスで街頭防犯カメラが無用の長物だったかといえば、そんなことはない。イギリス政府はカメラに録画された画像をもとに暴徒を検挙し、820日までに3300人以上が逮捕されたという。また、街頭防犯カメラとは直接関係ないが、Facebookで暴動をあおったとして、20歳と22歳の男性に4年の実刑判決が下されたと報じられている。一体どういう裁判制度がこんな短期の判決を可能にしたのか、弁護人が活動できたのか、興味は尽きないが、その是非は別として、防犯カメラの画像をもとに検挙された多数の若者に迅速に重罰が科されれば、再度の暴動発生に対し、それなりの抑止効果をもたらすだろう。ただ、今後暴動多発地域(おそらくイコール低所得者街)の街頭防犯カメラ設置台数が飛躍的に増えたとき、もともと階層社会と言われる英国社会にどのような影響を及ぼすかは懸念される。

イギリスの例からいえることは、街頭防犯カメラは、その運用方法と一体となって、初めて犯罪抑止効果をもたらしうる、ということだ。いいかえれば、設置するだけで、犯罪を抑止するほど甘くない、ということでもある。広大なススキノにたった40台程度の設置では、何とでも解釈できるデータが出てくるだけだろう。検討すべきことは、街頭防犯カメラと刑事司法運用との関係をどうするか、という方策であり、わが国にその必要があるのか、という価値判断だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月19日 (金)

天竜川事故と規制国家ニッポン

817日、天竜川で観光船が転覆し、2人死亡3人不明(18日午後7時現在)という痛ましい事故が起きた。

日本経済新聞は、救命胴衣を大人の多くが着用していなかったことについて、「乗客に着用させるのが運行会社として当然の責任だ」という田川俊一弁護士の談話を掲載した。この事故を受け、国交省の担当者は、「(乗客)全員への着用義務づけも含めて検討する」と話したという。

こういう事故が起きると必ず出てくるのが規制強化論だが、やめた方がよいと思う。

乗客の救命胴衣着用を義務化するとなれば、義務を負うのは乗客ではない。規制の効果を上げるため、「着用させる義務」を船頭が負うことになる。自動車内では運転手がシートベルトを「装着させる義務」を負う(道路交通法71条の32項)のと同じことだ。その結果、事故が起きて救命胴衣未着用の乗客が死亡した場合、「着用させる義務」を履行しなかった船頭(とその雇い主)が、法的責任の少なくとも一部を問われることになる。

すなわち、事故自体は船頭の不可抗力であったとしても(たとえば、乗客が酔って突然川に落ちて死亡した場合でも)、救命胴衣を着用していれば助かった可能性がある限り、船頭(とその雇い主)は義務違反による法的責任を免れない、ということだ。もちろん、今回の事故のことではない。

他方、船頭の指示に従わず救命胴衣を着用しなかった乗客も、一定の責任を免れない。その結果、たとえば賠償金額の何割かがカットされることになる(これを過失相殺という)。

すなわち、乗客から見た場合、事故自体は100%船頭の過失であったとしても、救命胴衣を着用していれば助かった可能性がある限り、賠償金の一部が過失相殺される、ということだ。

誰がそんなこと言うのかって?弁護士が言う。私だって船頭側の依頼を受ければ必ず言う。法律がある以上、主張するのは弁護士の仕事だ。弁護士は、田川俊一弁護士のような、乗客の味方ばかりではない。

つまるところ、救命胴衣着用の義務化は、船頭側にも、乗客側にも、一定のリスクをもたらす。本当にそこまでする必要があるのか、よく考えた方がよい。ラフティングならいざ知らず、本件程度の川下りで、そんなリスクを負わせてまで、義務化する必要があるのか。船頭の小唄を聴き、酒を飲みながら景色を愛でる川下りに、暑苦しくて重たくて、下品なオレンジ色は似合わない。

国交省のお役人には、「救命胴衣着用義務化を検討しないのですか?」と記者に聞かれても、毅然として、「それは国が規制すべき問題ではありません」と答えてほしい。事件→マスコミ→役人→規制強化というループは、ホントにどこかで断ち切らないと、この国はどんどんおかしな方に行ってしまう。

| | コメント (20) | トラックバック (0)

2011年8月18日 (木)

法科大学院問題に関する二弁提言について

前回のエントリのついでに、標記提言について、もう少し詳しくご紹介する。なお、全体の流れの中での二弁提言の位置づけについては、拙著『こんな日弁連に誰がした?』をご参照されたい(以下、太字は筆者)。

さて、この提言は、1999年(平成11年)1021日付、「第二東京弁護士会」名義でなされた提言であり、「当会の多数意見を集約し」たものであるという。

提言の内容は多岐にわたるが、骨子としては、「日本の司法を真に国民主権に根ざした市民の司法に転換し『法の支配』が貫徹する社会を実現するために、現在の法曹養成制度は抜本的改正を必要とする」として、「法曹一元制を実現するためには、法曹の…量の拡大が必要であるし、法曹養成制度の運営主体が司法官僚であってはならない」からとして、法科大学院制度の設立と、司法修習制度の廃止を提言している。法科大学院制度については、修学年限23年、法学部は存置、定員は当面2000人、合格率目標80%を想定している。一方司法研修所については、「最高裁判所が…その理想とする法曹像の再生産を行う場」であって、「弁護士さえも、その未だに未熟な出発点において裁判所組織の中に組み込んで、要件事実に従った判決書の作成など現在の裁判所実務の判断枠組みを教え込み、それに同化させる制度として機能してしまった」と総括し、官僚による法曹養成は法曹一元と矛盾するものであって、「法曹一元の下では、弁護士会による弁護士養成を唯一のシステムとするべきである」という。また、この場合の問題点として、「法科大学院と法曹一元がワンセットで実現しなかった場合、裁判官は最高裁判所の用意する枠の中で純粋培養される危険が残る」ので、「法曹一元制を法科大学院構想の前提として条件付けることで対応するべきである」と結んでいる。勿体ぶった表現だが、要は、「法曹一元制にするのでなければ、法科大学院は設立すべきでない」という意味だと思う。

これに対する司法研修所民事弁護教官12名連名による111日付の意見書も多岐にわたるが、まとめると、弁護士会が関与して過去半世紀にわたって行ってきた司法修習の成果や統一修習の意義を全面的に否定して「かかるドラスティックな提言をするについては、果たして従来の制度を十分に調査・研究し、正しくこれを分析・評価しているかどうかが厳しく問われなければならない。」「また、(弁護士会)自らがいわば運営主体としてかかわることが想定されているその代替的な法曹養成制度の提案が、真に実現可能なものかどうか、またそのために解決すべき様々な問題点がどのようなところにあるのかという制度的基盤を考える前提作業」が不可欠であるにもかかわらず、「『二弁提言』は、司法制度改革審議会などでの議論に乗り遅れまいとするあまり、この点の十分な検証を欠き、司法研修所でこれまで行われてきた実務教育の意義や役割を、極めて不十分な論拠で否定し去ろうとするものであり、将来の法曹養成制度をどのようなものとして構築するかを今後議論するにあたって、その障害となりかねない」と危惧を表明している。その後、司法研修所で行われている実務教育の長所について個別に主張した後、「私たちは、現在の司法研修所における実務教育を最善のものとして墨守しようとするものではない。…しかし、(将来司法研修制度を大幅に変更する)場合でも、これまでの法曹養成制度について、積極消極双方の評価分析を冷静に行ったうえで、司法研修所の担ってきた積極的な役割・機能をどこにどのように承継させていくのか、また、仮に『法科大学院』といったものを構想するとしても、…必要な人的・物的・財政的基盤を具体的にどのように確保して、法曹に基本的に要求される質を落とさない形で、多様な法的ニーズに対応し得る法律実務家をいかにして養成していくのか、といった様々な課題について、現実的視点に立って、英知を集めて検討していく必要がある」とまとめ、最後に、「私たちは、残念ながら、『二弁提言』における司法研修所廃止論とその論拠は、現在の司法研修所における実務教育の実情を正しく理解・評価せず、その積極的意義を無視した、あまりに独善的で偏狭な議論であると考えるものであり、これが現在の司法修習制度の一端を担っている弁護士会の公式意見として発表されたことの重大性に照らすと」看過できない、という激烈な文言で終わっている。

これに対して、二弁の山岸良太副会長(当時)が「二弁提言の根底にあるもの―民弁教官の意見書を読んで―」という意見書を寄せ、「司法研修所が果たしてきた歴史的意義や現在における役割については十分承知しており、かつ、訴訟実務教育が法曹養成に不可欠であることは十分認識している」としつつ、「統一修習の名のもと官による国費の養成制度に安住し、弁護士側の負担としては、民弁教官や刑弁教官の献身的な自己犠牲に依存するばかりという状況を是認し続けるのでは、法曹一元を真に目指す方向性と言うことは出来ない」「この意味からも、弁護士側からの決意表明として、司法研修所(を廃止して、これ)にかわり研修弁護士制度を提言せざるを得ない」とし、上記提言の後である1999123日に開催された法曹養成シンポジウムでも、太田誠一議員、宮沢節生・新堂幸司・長谷部恭男各教授らによる賛同の意見があったと結んでいる。

以上が、いわゆる「二弁提言」と、これに対する司法研修所民弁教官の反論、二弁副会長の再反論の要約である。客観的記述を旨としたが、興味がある方は是非原典に当たってほしい。ジュリスト1172号に掲載されている。

私の知る限り、二弁はこの提言を公式には撤回していないはずである。したがって、法科大学院制度の支持はもちろん、司法研修所廃止も二弁の公式見解となるし、スジとしては給費制廃止になる筈だ。

民弁教官の意見書ではないが、上記のごとき提言をした以上、二弁は最低でも、次の疑問に答える責任がある。第一に、「法曹一元制を法科大学院構想の前提として条件付けることで対応」できなかった結果、法曹一元は実現せずに法科大学院制度が実現してしまったことをどう考えるのか。

第二に、「法科大学院制度が真に実現可能か」、「必要な人的・物的・財政的基盤を具体的にどのように確保」するのか。裁判官や検察官の教員を迎え、しかしその大半が学者であり、その経営を国費補助に頼る法科大学院の現状が、「弁護士会による法曹養成」といえるのか。大宮法科大学院大学の末路を踏まえ、その見解を明らかにする責任があろう。

また、二弁の会員弁護士に申し上げたい。もちろん、個人の見解と会の見解は別でもよい。しかし、二弁の看板を事実上背負って発言するなら(例えば、「自由と正義」の特集記事になぜか二弁の弁護士だけが論考を載せるような場合には)、会としての公式見解との関係を明らかにして貰わないと、話が混乱する。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年8月16日 (火)

「自由と正義」のヘンテコ特集について

お盆はブログを休むつもりだったが、8月号の「自由と正義」の特集「司法制度改革をめぐる今日的課題」が余りにヘンテコなので、書くことにした。

特集は、「日弁連が行った司法改革提言と今日の課題」(河津博史弁護士)、「ロマンとしての法曹一元論」(飯考行弘前大学人文学部准教授)、「裁判員制度と刑事司法改革課題の現状」(宮村啓太弁護士)、「民事法律扶助と司法アクセス」(打越さく良弁護士)という4本の記事からなる。

全体として、1999年(平成11年)に日弁連が公表した司法制度改革の基本方針である「司法改革ビジョン」と「司法改革実現に向けての基本的提言」に基づき、これらの到達点を考察するものであり、大ざっぱにまとめれば、「理念礼賛、成果賞賛、課題もあるよ」という、ある意味、当たり障りのない内容だ。

しかし、これは相当ヘンテコな企画である。

なぜなら第一に、1999年から11年目とは区切りが悪すぎる。10年目や15年目なら分かるが、なぜ11年目なのか。

第二に、執筆した弁護士が全員、第二東京弁護士会員だ。日弁連が公表した見解に関する特集なのに、なぜ、執筆者が一つの弁護士会に偏っているのだ。

第三に、執筆者が若い。最も古株の河津弁護士さえ1999年(平成11年)登録であり、他の二名は上記ビジョン以降の弁護士登録だ。当時を知る者は多いのに、なぜ、若手だけが、理念礼賛の提灯記事を書くのか。

第三に、執筆弁護士が全員二弁なのに、大宮法科大学院大学への言及が全く無い。また、司法修習制度や給費制をめぐる問題については、ひと言も触れていない。

第四に、なぜいま法曹一元なのか。飯准教授は、法曹一元論の歴史を概観した上で、1990年代に日弁連が唱えた法曹一元論には現実性が乏しく、2000年(平成12年)の司法制度改革においても挫折したが、その理念の高尚さを高く評価し、「裁判員制度、日本司法支援センター、法曹人口増員や裁判迅速化などの実現に寄与し」、その原動力になった点で「壮大なロマンとしての意義」があったと結んでいる。ちなみに、飯准教授は、2000年(平成12年)の日弁連司法改革実現本部室嘱託を努めた。

ここで1999年(平成11年)を簡単に復習しておこう。それ以前、弁護士人口増員の「抵抗勢力」であった日弁連は、既得権擁護の業界エゴと世論の総スカンを食い、組織存亡の危機に瀕していた。ところが、1997年末、矢口洪一もと最高裁判所長官が法曹一元論を提唱するとこれに飛びつき、手のひらを返したように、法曹人口の飛躍的増加等、大胆な改革を主張し始める。1999年は、その姿勢を内外に宣言した年だった。そして、いわゆる司法改革路線の最右翼として最も過激だったのが二弁である。

1999年(平成11年)1021日(12日の間違いとの指摘もある)、第二東京弁護士会は、法科大学院制度の導入と司法研修所の廃止等を特徴とする「法科大学院(ロースクール)問題に関する提言」を行った。この意見書は会長名で発表されているが、その内容から推して、法曹養成二弁センター(委員長飯田隆、副委員長遠藤直哉各弁護士)が中心になって作成したものと思われる。

この意見書に対しては、その直後、当時の司法研修所民事弁護教官、刑事弁護教官全員が連名で意見書ないし申入書を発表した。特に民事弁護教官による意見書は、「『二弁提言』における司法研修所廃止論とその論拠は、…余りに独善的で偏狭な議論である」という激烈な批判であった。これに対しては山岸良太第二東京弁護士会副会長(当時)から、「法曹一元を真に目指す方向性…からも、弁護士側からの決意表明として、司法研修所廃止を提言せざるを得ない」とする再反論がなされた。

二弁は、この提言を撤回していないはずだ。

ネタばらしには遅すぎるだろうが、二弁は来年の日弁連会長選挙に向けて、候補者擁立を企図している。今回の特集は、選挙目的の持込企画と見て間違いない。持ち込んだのは、執筆した若手でなく、もっとエライ先輩弁護士である。10年目程度の弁護士は、忙しくて「自由と正義」の記事など書きたくないし、自分で持ち込んだ企画なら、もっとトンがった文章を書く。もちろん、二弁も一枚岩ではないから予断を許さないが、今回の特集が二弁候補の基本的スタンスになる可能性は高いと思われる。

かつて、ある国々は、一人の思想家が構想した理想国家建設に邁進し、飢えた国民には、理想は正しいがその過程にはひずみもある、と説明して不満を抑圧し、結局破綻して、指導者は投獄され、あるいは銃殺された。二弁の偉い先生方は、ブル弁が多いようだから、この国々のことを、余りご存じないかもしれない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年8月12日 (金)

統一修習と給費制のあけぼの(5)

明治憲法下、司法権の独立は、大津事件を始めとする裁判所の努力によって、それなりに守られてきた。しかし、裁判所は司法省の監督下にあり、司法行政権や裁判官の人事権、予算に関する権限は司法省が有し、司法省の幹部は検事の独壇場であった。そのため検事は、裁判所における職制上は判事の下であっても、人事権や司法行政権を通じて裁判所に影響力を行使することができた。裁判官が無罪判決を出すことは、検事の怒りを買うことでもあった。『最高裁物語』(山本祐司)には、「裁判官の地位を高めて、誰からも干渉されない『司法(裁判)の独立』の理念は、裁判官にとっては長い間の悲願だった」とある(『こん日』62頁)。

GHQ民政局のA.C.オプラーも、来日早々細野長良大審院長と会談し、「細野氏が純真で、ほとんど怒りを露わにした情熱をもって司法の行政府からの独立を主張した」と記している。

実は、昭和3年(1928年)、裁判所から検事局を分離する法改正が試みられたことがある。このときは、裁判所法案と検察庁法案が作成され枢密院諮詢の運びまで行ったが、行政庁に属する検察機関の組織を法律によって定めることは明治憲法10条の官制大権を侵害するのではないかと疑義が出て、頓挫することになった。もちろん、裁判所の独立を阻止せんとする司法省が動いたことに間違いはあるまい。

司法省からの独立を悲願とする裁判所にとって、敗戦により憲法が大改正され、司法権の独立が明記されることは、またとない好機に見えたはずである。内藤頼博『その頃―戦後司法改革当時の思い出』(自由と正義37巻8号)には、「裁判官を行政の下流に措かないためには、大審院長を天皇直属にして、全国の裁判所を監督させるほかないという考えは、従来から大審院を中心に日本の裁判官の中にもあった。憲法改正草案要綱が裁判所関係の方面で歓迎されたことはいうまでもない」とある。果たして昭和20年(194511月に設置された司法制度改革審議会では、「裁判所と検事局の分離及び司法省の廃止」が、第一の議題とされた。

一方司法省としては、組織存亡の危機だ。司法権の独立は、法制度上、①人事権の独立、②予算編成権の独立、③司法行政権(規則制定権を含む)の独立を意味するが、司法省は、あらゆる点で抵抗した。予算については、日本側の協議では最終的に司法省の管轄とすることに成功するが、昭和21年(1946年)12月、GHQの指示により逆転し、裁判所予算の分離が決まった。

人事は当然、採用人事と新人教育を含む。裁判所は司法官試補の採用と修習は最高裁判所の管轄であるべきと主張し、司法省は徹底して反対した。もともと司法省の所管とされていた司法官試補の修習及び考試は、「第三次裁判所法改正案要綱」において最高裁判所の管轄と提案されたが、昭和21年(1946年)88日の司法法制審議会第12回第一小委員会において、108の多数決により司法大臣の所管と修正された。しかし、昭和21年(1946年)814日の司法法制審議会第6回総会では、41人中21人の賛成により、最高裁判所の所管にすると再修正される。その後、昭和21年(1946年)1023日の臨時法制調査会第3回総会の第2日において、司法省の意を体した原夫次郎古島義英衆議院議員らが、司法大臣の所管とする修正案を提案し強硬に意見を述べたが否決され、最高裁判所の所管とすることで確定した。

以上から確実にいえることは、試補の研修を司法省の管轄とするか、最高裁判所の管轄とするかは、司法法制審議会おいて1票を争う、勢力拮抗した争点だった、ということだ。そうだとするなら、試補研修の管轄を是非とも獲得したい裁判所としては、統一修習制度を採用することにより、弁護士委員の賛成票を得ようとした、との推論は、十分成り立つと思う。一方、法曹一元を悲願とする弁護士会としては、統一修習は当然の前提である。また、司法省からの独立を最大目標の一つとしていた弁護士会の立場からすれば、統一修習を足がかりに独立を勝ち取りたい。

すなわち、統一修習制度の採用は、これを法曹一元の前提とする弁護士会と、人事権の独立を勝ち取りたい裁判所の思惑が一致し、「打倒司法省」で共闘した結果ではないか、というのが、私の推測である。根拠資料が乏しいので推測と断らざるを得ないが、たぶん間違いない。

余談になるが、以上の経緯で策定された裁判所法の第一次案では、修習生の採用試験(司法試験)も最高裁判所の管轄になっているが、第二次案では、「高等文官司法科試験」に戻り、第四次案では、「政令に定める試験」と修正され、最終的には「司法試験」となり、この司法試験は、司法省が廃止された後に設立された法務省の管轄となった。つまり敗戦と新憲法成立を背景に、裁判所が「試補の考試と修習」の管轄を司法省から奪い、このうち「考試」だけを法務省が奪い返したのである。記憶をたどれば、われわれは確かに、司法修習生の採用通知は、最高裁判所からもらったが、司法試験の願書は、法務省宛に郵送した。その背景に、こんな血みどろの権限争いがあったのだ。権限に対する官僚の執着恐るべし、である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月11日 (木)

大宮法科大学院消滅の次に来るもの

大宮法科大学院桐蔭横浜大学法科大学院に吸収され消滅すると報じられた。姫路獨協大学法科大学院に続く2校目の撤退であり、第二東京弁護士会の全面協力校が消滅する。もっとも、同校の成績に照らせば、廃校は時間の問題だったから、ネット上の反応も、驚きというより感慨の方が大きかったようだ。

問題は、これからどうなるか、いつ、何が起こるか、ということだ。

法科大学院 入学者選抜実施状況」という資料がある。これによれば、法科大学院の下位校は、ここ12年のうちに15校前後が廃校に追い込まれるだろう。34年までなら、さらに20校前後が廃校するだろう。その結果、法科大学院の入学者数は1学年合計3000人程度になるだろう。

『こん日』231頁に私は、「法科大学院の総定員数は、3000人程度まで削減」されると書いた。自分が書いたこととはいえ、悪寒が走る思いである。

文科省は、受験者数を合格者数で割った競争倍率2倍未満が3年続いた法科大学院に対する補助金を、平成24年度から削減する。そのため、23年度の入試で下位校の多くは合格者数を絞り、2倍以上を確保した。例えば大阪学院大学法科大学院は昨年の競争倍率1.54に対し、本年度は2.09だが、合格者数はたった11人。しかも、実際の入学者数は4人だ。これでは教員の方が多く、「大学院」の体をなさない。

不合格者には気の毒だが、次の選択肢を早期に探せて幸せともいえる。合格した方が悲惨かもしれない。なにより、競争倍率を操作してまで補助金を確保しようとする法科大学院は、誰のために存在しているのか。

他方、セコイ操作をせず、競争倍率2倍未満のままの法科大学院が15校ある。最低なのは関西学院大学法科大学院1.16倍だ。これらはすでに、廃校の覚悟を決めたか、政治力その他の理由で廃校にならない自信があるか、補助金を削減されても学費で経営可能か、いずれかであろう。この15校以外に、競争倍率2倍以上だが、上記同様、最低規模を維持できないものが20校程度ある。これらが、次第に潰れていく。

法科大学院の定員は、平成22年に5765人から4909人に削減されたが、入学者数は4122人だった。23年度は、上記の競争倍率操作により、入学者数が3620人になった。ここから、潰れる大学の定員を引くと、3000人程度になる。

法科大学院の定員総数が3000人になれば、司法試験合格者数年2000人なら、合格率は約7割だ。もちろん、OBも受験するから直ちにそうはならないが、7割に向けて収斂していくことになる計算だ。こうして、合格率7割という法科大学院制度創設当時の制度設計は、合格者数2000人を前提とするとはいえ、一応の達成を見ることになる。

めでたし、めでたし。(たぶん続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月10日 (水)

統一修習と給費制のあけぼの(4)

戦前、弁護士の地位は判事検事に比べ一段低いものとされた。そこで、弁護士会の努力により、弁護士修習制度が設けられたものの、判事検事とは別コースであり、給費も出なかった。要は格下、ということである。しかし、統一修習に対する弁護士会の夢は、戦後一年を経ずしてあっさり達成される。その背景に、何があったのか。私は、法曹一元があったと考える。

『終戦後の司法制度改革の経過』(内藤頼博)によれば、昭和20年(1945年)126日、美濃部達吉を委員長とする司法制度改正審議会第一諮問事項関係小委員会が開催され、法曹一元について議論がなされている。ここでは、法曹一元を直ちに採用することは、56で否決されたものの、「近き将来に於いて法曹一元の制度を実現する為之が準備を為す」旨の附帯決議が、全員一致で可決された。

法曹一元は、主として弁護士の中から判事や検事を採用する制度だから、判事検事志望者と弁護士志望者とをはじめから別に研修させる分離修習制度は、法曹一元実現の障害になる。これを解消するために、統一修習制度が採用されることとなったのである。

もちろん、その背景は単純ではない。

一般には、統一修習制度は、法曹一元を求める弁護士会と、阻止しようとする司法省との妥協の産物、いいかえると、法曹一元を導入しないのと引換に採用されたと理解されている。しかし、上述の通り、この理解は間違いだ。統一修習制度は、法曹一元導入の準備行為であって、法曹一元と引換に諦める、という関係にはない。

しかも、このとき司法制度改革審議会を二分していたのは、「弁護士会vs司法省」という対立ではない。対立は、司法省の内部にあった。それは「裁判所vs司法官僚」である。

私は、「裁判所vs司法官僚」の対立にこそ、統一修習制度採用の原因があると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 9日 (火)

司法は「市民の砦」ではない

88日付東京新聞社説は、「司法は『市民の砦』か」という標題で、「脱原発訴訟」への期待を表明している。だが、弁護士として司法の端っこにいる私は、そんな期待をしていただいても困るなあ、と思う。

そもそも、「市民」の意味が分からない。「司法は市民の砦」という言葉は、この国には「市民」と「市民の敵」がいて、司法は「市民」の守護者である、との考えに基づいているが、寡聞にして、この国の国民が「市民」と「市民の敵」に分かれているとは知らなかった。正確にいうと、そういうものの見方は、ベルリンの壁とともに消滅したと思っていた。もっと正確にいうと、弁護士会内に生き残っていることを恥じていたが、東京新聞の社説氏がご同類とは思わなかった。

志賀原発差止判決の裁判長だったという井戸もと判事の「正義はあっても力を持たない人間が、立法や行政に頼れないとき、救済できるのは司法だけ」との言葉が紹介されているが、これも誤解を招く表現だと思う。国家機関は「頼る」ものではないし、司法は水戸黄門ではない。少なくとも憲法にはそう書いていない。

司法は「市民」の味方でもなければ「弱者」の味方でもない。司法は「法を司る」だけである。法を司った結果、市民や弱者を助けることもあるし、助けないこともある。それ以上でもそれ以下でもない。

「脱原発」だろうが「減原発」だろうが、原発をどうするかは、わが国の政策だ。その主役は「国権の最高機関」国会であり、ひいては国民だ。司法は脇役でしかない。もちろん、反原発派勝訴の判決も出るだろう。だがそれは、原発設置に関する法と基準を解釈し、当てはめる証拠(断層や地震史や設計図書など)を評価した結果でしかない。3.11は、担当裁判官の心証形成に大きな影響を与えるだろが、それでも、司法が原発の建設と存在を前提とする法制度そのものを覆すことはないし、あってはならない。それは、民主主義の否定だから。

司法は、「左翼的司法観」とも、「水戸黄門的司法観」とも違うところにある。東京新聞社説氏が、社会の木鐸を自認するなら、その程度の理解はしてほしい。ありがちだけれども、司法に対するこの種の誤解は、司法制度改革論議の混乱にも通底するところがあると思う。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年8月 8日 (月)

統一修習と給費制のあけぼの(3)

司法修習制度を定める裁判所法は、昭和22年(1947年)53日に施行された。日本国憲法の施行日である。416日公布後2週間というスピード施行は、言うまでもなく、日本国憲法と同時であることに意味があったからだ。

GHQ民政局として法改正に携わったA.C.オプラーによれば、新憲法に適合しない他の法律は応急処置としての臨時法案で対処できるとしても、「司法組織に関する憲法条項の実行には、明らかに有効ではなかった」から、裁判所法案については、憲法公布から施行までの半年間に可決されなければならなかったし、実際に可決された。「これは、私たちが日本人を加えた公式会議の方法に訴えた最初の法典化作業であった」という(『日本占領と法制改革66頁)。

GHQ民政局にとって、裁判所法はそれ自体が「憲法条項の実行」つまり憲法の附属法であって憲法理念の実現であり、つまるところ憲法の一部なのだから、憲法と同時に施行されなければならなかったのだ。

法律案を策定するには、まず「法案要綱」を作成して改正のポイントを押さえ、要綱の確定を経て法律案を練る。裁判所法案は「第7次法案要綱」と「第11次法案」まで作成され、GHQの了承と国会審議を経て成立した。

終戦後の司法制度改革の経過』(内藤頼博)によれば、司法修習に関する定めは、昭和21年(1946年)87日の司法制度審議会第11回第一小委員会に提出された、「裁判所法改正第三次要綱案」が初出である。そこには、「試補の制度」として、

(イ)司法官試補及び弁護士試補の別を廃して、司法修習生(仮称)とする。

(ロ)試補の実務の修習及び考試は最高裁判所の長官の定めるところによるものとすること。

とある。給費に関する条項はない。

 これが、統一修習制度に関する最初の記録である。そして、多少の修正を経つつも、統一修習制度自体は維持され、成案に至った。議事録を見ても、統一修習の是非それ自体に関する議論は、一切ない。これは、弁護士会にとって統一修習が悲願であり、戦前に実現しようとしてできなかったことからすれば、驚くべき変化である。

統一修習は、なぜ、一切の異論なく採用されたのだろうか。

続きを読む "統一修習と給費制のあけぼの(3)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 7日 (日)

日本は「老楽国家」を目指せるのか?

吉本隆明氏(85歳)は、85日の日経インタビュー記事でこう述べた。「(戦中の)東京は、人々も町中の印象も、どこか明るくて単純だった。…空襲で町がやられた後でも、皆が慌ただしく動き回っていた。今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没してなくなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人が黙々と歩いている感じです。」

6日付日経寄稿記事で、野坂昭如氏(79歳)はこう述べた。「(戦後、空襲の焼跡で)人々はある意味、晴れやかな表情で、てきぱき過ごしていたように思う。…いっそあっけらかんと明るい印象だった。この度は違う。先が見えず、立ち尽くすしかない。」

戦争の焼け跡を実体験した二人の知の巨人が、奇しくも、全く同じ言葉で現在との対比を語った。

佐野眞一氏(62歳)は、『津波と原発』の末尾にこう記している。「私たち日本人があの焦土から立ち直れたのは、そして原子力を経済発展のダイナモとして多くの人びとが迎え入れることができたのは、まだ日本が若かったからである。」

今回の大震災や原発事故が「第二の敗戦」といわれて久しいが、決定的な違いは、「第一の敗戦のときほど、日本は若くない」ということらしい。少なくとも確かなことは、その認識が日本中で共有されつつあることだ。

ではどうすれば良いのか。『日本経済が何をやってもダメな本当の理由』(櫨浩一氏 54歳)によれば、20年も続いた「低迷」を「低迷」とは言わないのであり、低迷前の物差しや計算で解決策を導いてはいけない、とのことだそうだ(87日付け日経書評より)。

それならば、新しい物差しは何だろう。浜矩子氏(57歳)は、日本は老いたことを認めるべきであり、インドや中国といった「若い国」と競争しても無駄で、これからは、イギリスやイタリアを見習って「老楽(おいらく)国家を目指せばいいと思う」と説く(87日毎日新聞)。

この提案をどう思われるだろうか。

私には、異論がある。「目指す」のは結構だが、「目指せる」こととは別問題だ。イギリスやイタリアが老楽国家であるとすれば、それは莫大な資産に恵まれているからであり、いざとなれば自給自足が可能だからだ。わが国にそれほどの国富や資源があるのか。なければ、老国ニッポンに待っているのは、「老楽」ではなく、少ない貯金を奪い合い、体力を失ってのたれ死ぬ未来だ。もちろん、病んで倒れた老人を介護するほど国際社会は甘くない。

浜矩子氏の意見にはもう一つ異論がある。インドや中国を「若い国」と言い切っている点だ。言うまでもなく、二国の歴史は、日本より遙かに長い。そして100年ほど前、老いたこの2国は、体力の有り余っていた西欧諸国に蹂躙され、骨の髄まで略奪された。中国は最後に、当時の「青年」ニッポンにも蹂躙され、その後内戦や文化大革命という苦難を経て、経済的には生まれ変わり、赤ん坊から再出発したのだ。インドや中国が現在「若い国」であるとすれば、それはかつて、「老楽国家」になれず、のたれ死んだ過去があるからだ。

もとより、浜矩子氏ほどの知性が、私ごときの異論を考慮していないはずはない。それにもかかわらず、あっけらかんと「老楽」などと唱えるのは、もしかして、ヤケクソなのだろうか?

注;括弧内の年齢は誕生日経過後の年齢であり、現在の実年齢と異なる可能性があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 5日 (金)

統一修習と給費制のあけぼの(2)

弁護士は、法曹3者の一翼である。だが、戦前の弁護士資格と養成課程は、常に、判事検事より一歩遅れていた。弁護士は常に、格下とされていたのである。これによる劣等感は弁護士会のDNAに深く刻印され、現在に至るまで、司法改革に対する弁護士会の行動を強く規定することになった。

明治26年(1893年)、弁護士法が制定されるが、資格試験は「判事検事登用試験」とは別だった。大正12年(1923年)、高等文官司法試験が創設されて資格試験は同一になるが、判事検事はその中から優秀な者が選抜されて修習を受けることになった。そこで昭和8年(1933年)、弁護士についても修習制度が設けられたが、判事検事とは別コースだったし、給与も支給されなかった。それでも弁護士会は、弁護士修習制度を足がかりに法曹一元の実現を目指し、その法案は衆議院を通過するが貴族院で廃案になる(『こん日159頁』)。こうして、法曹一元に対する弁護士の夢は、最初の挫折を経て、戦争の時代を迎えることになった。劣等感を抱えたままの弁護士たちにとって、敗戦により、軍服を着た米国の法律家が大挙して来日し、故郷に倣って司法制度を改革することは、またとない好機に映ったことだろう。

余談になるが、敗戦当時子どもだった人の回顧録は、軍部を支持していた大人たちが、手のひらを返したように自由だ民主主義だと言い出したことを弾劾しがちである。子どもの目から見ればその通りだろうが、当時すでに、大正デモクラシーと欧米思想になじんだ知的階級の大人からみれば、軍部の台頭こそ逆コースの異常事態であって、敗戦によって歴史の歯車が正常に戻った、ということになるのだろう。実はこの認識は占領軍も共有していたところであり、ポツダム宣言が掲げた占領解除の条件に「日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活」が掲げられていることは、夙に知られているところである。

実際のところ、占領下の司法制度改正審議会その他の審議会の委員名簿を見ると、綺羅星のごとき知性が列をなしている。私の知る学者だけでも、美濃部達吉、末弘嚴太郞、高柳賢三、小野清一郎らをベテランとし、別の委員会には宮沢俊義、我妻栄、中川善之助、牧野栄一、木村亀二、尾高朝雄、兼子一、団藤重光、川島武宜、石井照久…等々の「当時の若手」が続く。当時、西欧から近代法を輸入してたった60年のわが国が、ドイツを始めとする先進国と同レベルの法体系と司法制度を作り上げ、新進気鋭の法学者が米国の法律家と対峙したのだ。それは、GHQ民政局のケーディスをして、占領開始後早々に、「欧州大陸の、できればドイツの裁判経験のある人物を東京に派遣するよう、米国政府に要求」させたほどだったのである。

かかる経緯で米国から東京に派遣されたのが、もとドイツ最高行政裁判所陪席判事、最高懲戒裁判所副長官という、ワイマール・ドイツのトップエリートであったにもかかわらず、ユダヤ人として祖国を追われたアルフレッド・C・オプラーであった。オプラーはこう記している。「占領軍の努力が比較的成功したのは、いろんな理由があるが、その主なものは、成熟した日本文化であり、私たちは、ゆっくりとではあるが似たような結果を達成したであろう既存の改革主義的、自由主義的傾向を後押ししたに過ぎないという事実であった。」

GHQ側の自画自賛だから多少割り引く必要はあるかもしれないが、少なくとも司法制度改革に関する限り、「GHQによる押しつけ論」の成立しないことは、特に留意する必要がある。裁判所法等の司法関連法制度は、日本側が自主的に策定したものであり、GHQはこれに一部介入を行ったに過ぎない。そして、「日本側」の内部には、大きく分けて「行政官僚」対「司法」の対決構造が存在した。GHQは基本的に「司法」の肩を持ったが、それでも、予算や人事の分野では、「行政官僚」が大きく押し返してもいる。また、GHQも介入しようと思えばできたのに、しなかったこともある。

歴史を学ぶときは、複眼的に見ること、思い込みを排すること、同時に、視座を保つことが大事だと思う。自らに対する戒めとして記しておきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 4日 (木)

介護支援ロボットの法的問題と需要

理化学研究所と東海ゴム工業は82日、介護ロボットRIBAの改良型として、夕香から人間を抱き上げて車いすに載せる改良型「RIBA」を開発したと発表した。動画を見ると、シロクマのような顔のロボットが、職員の補助を受けつつ、寝ている人を「お姫様だっこ」して車いすに載せたり下ろしたりする様子が分かる。ちなみに、このニュースを聞いて、和田アキ子がCMをやっている「リーブ21」のコトだと思った人がいるが、間違いだ。

この種のロボットには、法的には、患者を落っことしてしまった場合誰がどう責任を取るのか?という法的問題がつきまとう。病院側には不法行為による損害賠償責任や、場合により業務上過失致死傷罪の適用が問題になるし、製造メーカーには、PL(製造物責任)法上の責任が問われる可能性がある。

このロボットは、動画を見る限り、病院職員の補助を必須としているようだ。これは、安全を確保する手段としても、万一の場合の責任の所在を明確にするためにも、賢い選択かもしれない。完全に職員の代わりになるようなロボットを作るより、職員補助を必須として、単に、その負担を軽減すると割り切ったロボットの方が、安全面の課題を回避しやすいだろう。

このほか、法的には、このロボットは労働安全衛生法所定の「産業用ロボット」に該当するのではないか、という問題もある。詳細は「御社がモビルスーツを工場に導入する際の法的注意事項(2)」をご参照されたい。定義上は該当するように思われるが、そうすると、「さく又は囲いを設ける等当該危険を防止するために必要な措置」を設ける必要が発生するが、「さくや囲い」で人と分離したら本来の目的が達成できないので、この点をどうするか、問題が残る。

法的問題より重要なのは、経済的問題である。平たく言えば、需要があるのか?という問題だ。RIBAはナースステーションに常駐し、必要があるとき病室に呼ばれるようだが、動画で見るような「ゆっくり、ゆっくり」した動作では、実用に耐えないだろう。動作が遅いのは、患者の抱き起こしについてもいえる。この種の介護支援ロボットは、看護師さんの腰痛防止等負担軽減を目的に開発されているが、実際のところ、経験を積んだ看護士さんは実に軽々と患者を移動させるのであり(私自身、入院して身動きができないとき、華奢な女性看護師さんが2名で軽々と私を移動させたので驚いた経験がある)、自分の年収の2倍もする介護ロボットが「ゆっくり、ゆっくり」仕事をするのを受け入れるかどうか。「ええい、かったるくて見てられないわ。そんなノロいなら私がやる!」ということにならないだろうか。

私は、看護師さんの肉体的負担は承知しているつもりだし、腰痛が職業病であることも知っているから、その負担を軽減することに異を唱えるともりはない。私が言いたいのは、その解決策として、「病棟1台」の人型ロボットが適切か否か、という点だ。例えばパナソニックは、抱き起こし用人型ロボットの開発を断念し、ベッドの一部が分離して車いすになる方式を提案している。「患者1台」だ。このアプローチが正しいか否かは分からないが、他方、人型にこだわりすぎるのも、いかがなものかと思う。

http://youtu.be/wyNa7b4eHRo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 3日 (水)

統一修習と給費制のあけぼの(1)

弁護士に対する修習は、昭和8年(1933年)の弁護士法改正に基づき、昭和11年(1936年)にはじまった。それまでは、高等文官司法試験(現在の司法試験)に合格すれば、すぐに弁護士になれた(判検事になる者は1年半の修習を経なければならないとされていた)が、弁護士法改正以降、弁護士試補として、司法大臣の管轄の下、1年半の修習を受けることになった。改正弁護士法2条には「左ノ条件ヲ具フル者ハ辯護士タル資格ヲ有ス」とあり、同11号には「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」、2号には「辯護士試補トシテ16月以上ノ實務修習及考試ヲ経タルコト」とある。この改正により、あわせて、①弁護士の職務範囲を拡大し、法廷外活動も認める、②女性に対しても弁護士資格を認める、③弁護士会の法人格を認め、地方裁判所検事正から司法大臣の監督下におく、ことが決まった。この改正は、大正11年(1922年)司法省内に設置された弁護士法改正委員会において78回の会議を経、昭和2年(1927年)にまとめた意見書をもとに、司法省にて議案化されたものである。

このころ、弁護士数は明治26年(1893年)の弁護士法制定当時の1600人程度から6000人程度に増えていた。改正理由について、昭和8321日付「官報号外」に記載された、小山松吉大臣の説明によれば、「申すまでもなく弁護士は司法機関の一と致しまして、司法事務の運用上重要なる地位と職責とを有する者でありますが、時運の進捗に伴いまして、司法事務は複雑を加え来たのでありますから、その職責はますます重要性を帯びるに至った」。そこで、弁護士の地位についても、「原則として判事検事と同一に致したのであります。…近時の弁護士事務はかなり複雑でありますから、唯一回の学術試験に合格いたしましたばかりでは、遺憾なくその事務を処理することははなはだ困難であります。ご承知のごとく司法事務の運用を円滑にし、処理の迅速なることを要するには、独り判事検事のみならず、これに関与する弁護士等が、諸般の法律及び手続に熟達いたして居ることを必要とするのでありますから、弁護士試補として實務を修習せしむることと致しました。」とある。

大阪弁護士会友新会によると、昭和12年当時、高等文官司法試験合格者数220230人中、判事検事になる「司法官試補」に採用されるのは、成績優秀な者のみ約半数であった。そのため判事検事が弁護士に対する優越感を持つようになったことから、これに危機感を持った「弁護士会の要求を容れる形で」、上記の弁護士修習制度が設けられることになったという。

もっとも、司法官試補の修習は有給であったのに対し、弁護士試補の修習は無給であり、多くの弁護士試補はアルバイトをしていて、魚の闇をやって摘発された者もいたという。そのため、弁護士修習制度を廃止せよという意見も強く、昭和13年(1938年)の帝国議会議事録を見ると、弁護士修習制度廃止の請願が衆議院に報告されている。

弁護士会がこのような無理を押して、弁護士の修習制度を国に求めた最大の動機は、明治31年(1898年)に生まれた法曹一元論によるものと思われる。なぜなら、弁護士修習の始まった翌々年である昭和13年(1938年)、満を持して提出された法曹一元実現のための法案が貴族院で廃案になった時期とピタリと重なるからだ(『こん日』159頁)。つまり、弁護士に対する修習は、法曹一元法案提出の足がかりであり、法曹一元法案成立の暁には判事検事修習と統一され、有給になる見通しであったのだ。

余談になるが、司法試験は資格試験なのだから、合格する学力がある限り、何人になっても(=増えても減っても)よい筈、という意見がある。しかし、昭和初期に導入された修習制度によって、司法試験(高等文官司法試験)は、単なる資格試験ではなく、研修所への入学試験になったのだから、これ以降、予算や教育施設・人員との関係により、合格人数があらかじめ決められることになった。したがって、この見解は誤りということになる。

2004年、司法修習生に対する給費制の廃止が決定され、本年11月の貸与制への移行が決まっている。日弁連は抵抗しているが成否は不明だ。しかしそもそも、統一修習と給費制はなぜ、どのような理由で開始されたのか。その歴史を紐解いてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月 1日 (月)

馬鹿息子

中学校の同級生だったO君は、ある日、終業ベルが鳴ったあとも授業を続ける教師を尻目に、教科書を鞄に詰め、机に突っ伏して寝始めた。昨晩「オールナイトニッポン」第二部の最後まで聞いたのか、と聞いたら、「ベルが鳴ったら、授業を受ける義務はない」と言い放った。義務教育は苦役らしい。親が聞いたら泣くぞ、と思った。

日弁連の川上明彦法曹養成検討会議委員は、「法曹養成フォーラム」第3回会議に、「司法修習は労働に近い」と書いたレジュメを提出し、田中康郎委員に修習は労働ではない叱ら。また、同じレジュメ中、「給費制は、修習に専念しうるための生活保障である」との下りについても、「お金をいただいているから修習専念義務を負うという関係にはございませんし、お金のいただき方によって修習専念義務が生じたり、あるいは免除されたりというものでもない」と諭されている。日弁連のパンフレットにも、「給費は司法修習生の制約の代償」とあるが、川上弁護士の意見だろう。

日弁連内部には、給費制は失われる収入の代償だという意見すらある。司法試験合格後すぐ弁護士になれば、好きな場所で働けて、年収500万円は固かったのに、修習を強制されて1年間、それを失うのだから、給費の300万円くらいは当たり前、というわけだ。こう考える弁護士にとって、司法修習は苦役なのだろう。修習で得られる知識と経験に価値はないと思っているのだろう。平たくいえば、修習は損、ということだ。

このような考えを持つ弁護士は、給費に値しないと思う。

川上弁護士は昨年、「若手弁護士貸与金の返済に追われ人権活動に支障を来す」「貧乏人が法曹になれない」と主張し、「ビギナーズネット」を使って宣伝させた。この馬鹿げた、浅はかな主張が、「若手弁護士の収入なら貸与金は返済できる」「貧乏な法曹志望者は個別に救済すればよい」との反論を呼び、法曹養成フォーラムの大勢となっている。要は身から出た錆、自業自得、ということだ。いまさら「返せる返せないの問題ではない」と言ったところで後の祭りである。

そのうえ、今年になっても、こんな馬鹿なことを言っているとは呆れ果てる。おそらく川上弁護士は、修習制度や給費制の本質を、全く理解していないのだ。戦後の焼け野原で、破綻した国家財政を割いて、給費制を導入した先輩が、どんな夢を後世のわれわれに託したか、調べたことも考えたこともないのだろう。

戦後司法修習制度の導入に携わった内藤頼博判事は当時、給費制の根拠として、「弁護士の地位は国家機関的なものであり、弁護士も国家事務を行うから」と述べた。川上弁護士には、是非、この言葉と、田中康郎委員の箴言をかみしめて欲しい。そして頼むから、次回のフォーラムには欠席して欲しい(とゆうか、なぜ続投しているのだ?)。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »