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2011年8月 9日 (火)

司法は「市民の砦」ではない

88日付東京新聞社説は、「司法は『市民の砦』か」という標題で、「脱原発訴訟」への期待を表明している。だが、弁護士として司法の端っこにいる私は、そんな期待をしていただいても困るなあ、と思う。

そもそも、「市民」の意味が分からない。「司法は市民の砦」という言葉は、この国には「市民」と「市民の敵」がいて、司法は「市民」の守護者である、との考えに基づいているが、寡聞にして、この国の国民が「市民」と「市民の敵」に分かれているとは知らなかった。正確にいうと、そういうものの見方は、ベルリンの壁とともに消滅したと思っていた。もっと正確にいうと、弁護士会内に生き残っていることを恥じていたが、東京新聞の社説氏がご同類とは思わなかった。

志賀原発差止判決の裁判長だったという井戸もと判事の「正義はあっても力を持たない人間が、立法や行政に頼れないとき、救済できるのは司法だけ」との言葉が紹介されているが、これも誤解を招く表現だと思う。国家機関は「頼る」ものではないし、司法は水戸黄門ではない。少なくとも憲法にはそう書いていない。

司法は「市民」の味方でもなければ「弱者」の味方でもない。司法は「法を司る」だけである。法を司った結果、市民や弱者を助けることもあるし、助けないこともある。それ以上でもそれ以下でもない。

「脱原発」だろうが「減原発」だろうが、原発をどうするかは、わが国の政策だ。その主役は「国権の最高機関」国会であり、ひいては国民だ。司法は脇役でしかない。もちろん、反原発派勝訴の判決も出るだろう。だがそれは、原発設置に関する法と基準を解釈し、当てはめる証拠(断層や地震史や設計図書など)を評価した結果でしかない。3.11は、担当裁判官の心証形成に大きな影響を与えるだろが、それでも、司法が原発の建設と存在を前提とする法制度そのものを覆すことはないし、あってはならない。それは、民主主義の否定だから。

司法は、「左翼的司法観」とも、「水戸黄門的司法観」とも違うところにある。東京新聞社説氏が、社会の木鐸を自認するなら、その程度の理解はしてほしい。ありがちだけれども、司法に対するこの種の誤解は、司法制度改革論議の混乱にも通底するところがあると思う。

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コメント

おっしゃるとおりです。
裁判所が法律の解釈を曲げて弱者の味方をするなんて、あっちゃならないことだとおもいます。

投稿: | 2013年3月 4日 (月) 20時03分

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