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2011年9月 1日 (木)

『自由人 近藤綸二』 内藤頼博・川島武宜編著(日本評論社)

近藤綸二は、明治32年(1899年)医師一家の次男として生まれた。父近藤は、信州松本藩旗本鶴見次喬の次男で、駿河台病院設立者である。東京帝国大学法学部を卒業後、大正13年(1924年)に弁護士登録して(当時は東京帝国大学法学部卒業生は無条件で弁護士資格を取得できたらしい)、第一東京弁護士会の創立者の一人でもある嘉道法律事務所に入所し、約2年間、フランスに遊学して研鑽を積んだ。帰国後、有馬忠三郎法律事務所を経て独立したのち、帝人事件の弁護人団を努めた。原嘉道はのちの司法大臣であり、大臣当時、裁判所を司法省から独立する法改正を試みた人物である。有馬忠三郎は後の日弁連会長であり、帝人事件は戦前の疑獄事件であるが、被告人は全員無罪となった。左陪席を努めた石田(後の最高裁長官)は、起案した判決中、検察のストーリーを「水中に月影を掬するが如し」との名文句で切り捨て、後の司法省と裁判所の確執の伏線になったとも言われている。

戦後の昭和22年(1947年)、第一東京弁護士会の副会長に選任され、GHQのリーガル・セクションと交渉を重ね、司法修習制度と弁護士法制定に尽力する中、アルフレッドオプラーや、内藤頼博らと親交をもった。

東西冷戦が始まり、いわゆる「逆コース」の中、近藤綸二らは、自由人権協会の創立に奔走し、松川事件の弁護も手がけるが、田中太郎最高裁長官の強い勧めにより、設立されたばかりの東京家庭裁判所の所長に就任する。自由人権協会や松川事件にかかわった弁護士が任官する、そのうえ、「右」に分類される田中耕太郎最高裁長官が勧誘して裁判所所長に就任するなど、現在の法曹界の常識では考えられない。近藤が抜擢された背景として、「法曹一元制の実現が早急には困難であるとしても、しかるべきポストに弁護士出身者を配置することにより、多少の新風を司法部に吹き入れようとのオプラーらGHQの示唆、関与があったのではないかと推定される」とあるが、田中長官が「イヤイヤ」勧誘したのでない証拠には、当時妻と別居中で、妻がカトリックであるため離婚に応じないとして、「家裁だけは勘弁してくれ」と嘆く近藤を説得するため、同じくカトリックである田中長官自身が妻の説得に動いたと記されている。

6年半ののち、広島高裁長官に転出、原水禁世界大会に出席した後、名古屋高裁長官を経て定年退官した。高裁長官が原水禁大会に出席するなど、やはり現在の法曹界の常識からは考えられない。

昭和38年(1963年)、近藤は最高裁判所裁判官就任と報じられたが実現せず、代わって謹吾が任命された。その背後には、近藤を「リベラルに過ぎる」「左傾的である」として、「第一東京弁護士会の二、三の有力者からの任命阻止工作があった」ともいわれている。

綸二は、退官後古巣の第一東京弁護士会ではなく、東京弁護士会に登録して晩年を過ごした。昭和40年(1965年)の少年法改正問題と、昭和44年(1969年)にはじまる「司法の危機」問題に関しては精力的に執筆活動を行い、青年法律家協会の有力判事と対談する等したが、全般には、弁護活動や会務活動から遠のき、「うるさ型」の老法曹として畏れられていた風情が垣間見える。

昭和44年(1969年)、古希を迎えた近藤に勲一等叙勲の内示が伝えられたが、これを辞退する。「だいたい人間に勝手な等級をつけるなんて愉快じゃないよ。僕の趣味にあわないよ」と語ったと記されている。

昭和57年(1982年)412日、「法曹一元は近藤綸二をもってはじまり、近藤綸二をもって終わった」ともいわれたリベラリスト、近藤綸二は82歳の生涯を閉じた。

内藤頼博は、「真のリベラリストの軌跡を残したいという念願から」本書をまとめたとして、昭和61年(1986年)、「はしがき」にこう記している。

「(いまが幸せだ、このままが一番いい。できれば、大学を卒業したくないという大学生を見て)私は、驚くというより、恐ろしくなった。理想に燃える、若い人たちの魂は、どこに消えてしまったのだろう。ワクの中で育てられて、やりたいこともワクの中だけ。自分を閉ぢ込めているワクの存在さえ意識しなくなっている。若者らしく生きる場を失った彼ら、後は無気力と陰湿しかない。」

昭和61年当時の大学生というのは、私です。すいません。

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