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2011年11月30日 (水)

福島県産米問題がもたらしたモラルハザード

1113日、福島県は、県内48市町村1174カ所の米を調査した結果、全て国の暫定基準値(500ベクレル/キロ)を下回ったとして「安全宣言」を行った。16日の産経新聞は、「(福島米を)みんなで食べて支えよう」との社説を掲載し、25日の読売新聞は、安全宣言を聞いて福島県産新米を購入した浜松市の主婦、村上けい子氏の投書を掲載した。

だが私は、このニュースを信じられなかった。基準値超えが多少出たというなら、かえって信用したかもしれない。しかし、1174地点も調べて基準値超えが全く無いなんて、うさんくさすぎる。

私は放射線の専門家ではないし、証明できないことをネットに書く趣味もない。だから私は、自分と家族のためだけに行動した。ネットで10年米を購入しようとしたのだ。だが、すでに多くの10年度米は売り切れていた。多くの人が、同じことを考えていた。

17日、福島県大波地区の農家が自主的に検査を依頼した米から、基準値を超えるセシウムが検出された。この報道から読み取るべきは第一に、農家自身、県の安全宣言を信用していなかったということだ。

そして28日、福島県伊達市で収穫された米から、基準値を超えるセシウムが検出されたという。福島県の安全宣言は、もはや信用を失った。

1174カ所も調べた人たちは、故意に基準値超えの事実を隠したわけではないと思う。調査に携わったあらゆる人たちが、「基準値を超えてほしくない」と思って行動した結果、自然と、そのような結果が出たのだろう。人間には、見たくないものは見えないのだ。

「全地点異常値なし」の検査結果に、県と政府は飛びついた。「まさかそんなことはないだろう」と心で思っても、誰も再検査を指示しなかった。マスコミも、検査結果には一切疑問を差し挟まなかった。国民一般もそうだ。知っても不幸になるだけの事実は知りたくない。誰もが、心の中では別のことを考えながら、国全体を覆う一つの空気に荷担した。そして、自分のためだけに行動したのだ。

米の流通については、事故米問題に関連して、少し勉強したことがある。そこで分かったことは、生鮮食品全体についていえることだが、米の流通には特に、古い業界体質が残っている、ということだった。新米と古米を混ぜる、8割の他品種を混ぜて魚沼産コシヒカリとして売る、などというのは日常茶飯で、伝統的にアウトローの関与も多かった。福島県11年産米は、風評被害と今回の報道によって、表向き、ほとんど流通していないはずだが、実際には、相当の量が、他府県産米や古米と混ぜられて流通するだろう(と書きながら夕刊を見たら早速、仙台市の米穀卸大手『協同組合ケンペイミヤギ』が福島県産米を宮城県産と偽装して販売していたと報じられている)。いまさら10年産米を買っても遅い。先月売り切れていた10年産米が今買えることの不自然さに気づかないといけない。もちろん、健康被害は発生しない。だが問題は、健康被害ではない。

この騒動は、食の安全に関するわが国のモラルと信用を、大きく毀損した。数年前の偽装多発を受けて実施された国ぐるみの取り組みの成果は、灰燼に帰したといって過言ではない。

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2011年11月29日 (火)

次世代ロボットの判断ミスと販売・製造者の法的責任

日本精工株式会社(NSKは「2011国際ロボット展(iREX2011)」で、人を先導して移動できる盲導犬型ロボットを出展した。動画を見るとまだぎこちないが、段差などを検知して人を先導する様子が分かる。

環境をセンシングして安全・危険を判断する能力の獲得は、次世代ロボットにとって大きな進歩だ。だが、その判断が人間の安全に直結する場合、「判断ミス」による被害が発生した場合の法的責任はどうなるだろう。

たとえば、盲導犬ロボットが、信号付き横断歩道を勘違いして先導したため、ユーザーが交通事故に遭ったとする。赤を青と間違えることはないとしても、変形交差点、街路樹や通行人やトラックが信号を遮ったための判断ミスはありうるだろう。あるいは、段差をユーザーに伝えなかったため転倒事故が起きたとする。この場合、ロボットの製造・販売業者は、製造物責任や不法行為責任を問われる可能性がある。最悪の場合、業務上過失致死傷罪に問われる可能性も否定できない。

同じ判断ミスが、生身の盲導犬に起きたらどうか。盲導犬の育成者が法的責任を問われることがあるだろうか。適性試験をパスした盲導犬である以上、直感的には、法的責任を問われることは無いように思われる。そうだとすれば、違いはどこにあるのだろう。

実は、犬には、信号の色を識別する能力がないといわれている。見分けくらいはつくという説もあるが、そうだとしても「青は進め」「赤は止まれ」という理解まではできないらしい。つまり、横断歩道を渡ってよいか否かの判断は飼主が行っている。このように、判断の主体が専ら飼主にあることは、盲導犬の育成者が法的責任を問われない、一つの理由になるかもしれない。

このことは、次世代ロボットを開発する場面において、一つのヒントになりうると思う。つまり、人の安全に関わる場合、判断するのはあくまで人間であり、ロボットは判断材料の提供に徹するという考え方だ。盲導犬ロボットが高度なセンサーを備えた白杖である限り、判断ミスによる法的責任を問われることはない、といえる。

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2011年11月28日 (月)

現代日本の三権分立と司法について論じなさい

模範答案

三権分立とは、国家権力について、これを3つに分割し、相互依存および相互対立の関係を組み込んだ体制をいう。一般には「立法」「行政」「司法」に分割されるが、実態は、その国の実情に応じて様々となる。現代日本の場合、所在地に従い、「永田町」「霞ヶ関」、そして、「桜田門」と呼ばれる。

日本の司法を三権の一に分類する見解もある。しかし、「ダウニング街10番地」「エリゼ宮」「ホワイトハウス」の例が示すとおり、地名や建物名などの符丁で語られることは、国家権力の要件である。「永田町が動いた」と書けば新聞記事の見出しになるが、「三宅坂が動いた」と書いても意味不明である。このように、日本の司法は三権に属さない。

司法は、狭義には裁判所を指すが、広義には弁護士会、検察庁を含む概念である。すなわち司法内にも三権分立類似の関係が存在する。しかし、相互依存はなく相互対立しかないので、厳密には三権分立ではない。特に、裁判所と弁護士会は1960年代以降、対立のみを繰り返し、親の敵のように憎み合っているため、全体として司法の地位を押し下げ、日本の司法が三権の一と呼ばれない原因の一つとなっている。

さらに、弁護士会の内部にも三権分立類似の関係が見られ、一般には「企業法務」「原理左翼」、そして「貧乏暇無」に分類される。しかし、ここにも相互依存はなく、相互対立のみが存在し、全体としては弁護士会の地位低下をもたらしているだけなので、これも三権分立ではない。現在は、バブル期前の夢を追う「企業法務」と、路線対立と細分化を繰り返す「原理左翼」が対立するなか、多数となった「貧乏暇無」の浮動票が全体意思を左右するため、行為に一貫性がなく、組織としての信用を失いつつある。

講 評

端的にまとまったよい答案です。特に、日本の司法を三権に分類しないという最新の学説をよくフォローしています。あえて難点を指摘するなら、「貧乏暇無」の増加が司法、ひいては日本の三権分立に与えうる影響について言及すればよかったと思います。

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2011年11月25日 (金)

民主制と独裁制

中央大学の大杉謙一教授が、1125日の日本経済新聞朝刊・経済教室に「問われる企業統治 トップの後継指名 透明に」と題する論考を掲載された。

論旨はとても明快。大王製紙(注;「王子製紙」と誤って標記しました。お詫びして訂正します)とオリンパスの事件を概観した上で、二つの提言をされている。一つは監督制度の充実であり、もう一つは後継者指名の透明化だ。いろいろなことを考えさせる、よいテキストだと思う。

株式会社は、薄く広くかつ大量の資本を集めるための、法律的な仕組みである。外部から資本を出して貰う以上、会社経営の内情は可能な限り公開され、判断材料が提供されなければならない。また、経営の素人に安心して金を出して貰うためには、監査役などの専門家が常に、経営の有様をチェックしなければならない。会社経営が透明で、監督制度が充実していることと、薄く広く大量に資本を集めることは、表裏一体の関係にある。株式会社において、企業統治の透明化が叫ばれるゆえんだ。

しかし他方、何のために投資するかといえば、端的に「儲ける」ためだ。だから、「会社経営が透明化されているが、株価の上がらない(配当の少ない)会社」と、「会社経営が不透明だが、株価の上がる(配当の多い)会社」のどちらに投資するかと聞かれれば、後者を選ぶ投資家は多いはずだ。「透明・不透明」「配当が多い・少ない」の組み合わせは4つあり、「透明で配当が多い」のが一番よいに決まっているが、世の中、なかなかそうは行かない。

同じことを社長の側から見れば、経営の透明化は株主に対する社長の責任だが、透明化すれば良い、というものではない。同じ日経の「私の履歴書」にあるとおり、名社長は常に孤独であり、その最大の仕事は後継者指名だ。投資家の利益を無視しているのではない。最大限に考えるからこそ、名社長は孤独になり、秘密裏に後継者を指名せざるを得ないのである。もちろん、逆必ずしも真ならず。秘密裏に後継者を指名する社長が名社長とは限らない。

会社におけるガバナンスの透明性と利益の問題は、民主制と独裁制の問題に似ている。国民利益追求には、優れた独裁者こそ適任だが、独裁制は、いつか国民を不幸にする。チャーチルの至言に倣い、我々は、ガバナンスの透明性を基本に据えつつ、利益追求との両立という困難な問題に取り組み続けなければならないのだろう。

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2011年11月22日 (火)

行政不服審査法の見直しについて

民主党政権下の行政救済制度検討チームが、行政不服審査法の見直しを行っている。同チームは本年8月、「行政の無謬性から訣別し、柔軟で実効性のある救済を可能とするため」、第三者性の高い審理官制度の導入を柱とする論点整理(第版)を公表した。

憲法762項は、「行政機関は、終審として裁判を行ふことができない」と定める。だから、行政処分が適法か否かを最終的に決める権限は、裁判所にある。だが憲法は同時に、終審でなければ、行政機関が裁判をしてもよい、と認めている。これは、行政の専門性や迅速性の要求に配慮したものだ。しかしその結果、行政処分に対する不服申立手続は、行政機関の手により、起こしにくく、勝ちにくく作られてしまった。行政に対する司法審査は、「法の支配」の要諦であるにもかかわらず、日本の行政訴訟は地裁レベルで年間1300件前後であるのに対して、ドイツでは22万件、フランスでは12万件という(平成12年(2000年)のデータだが)。彼我の差は、行政訴訟前の手続である不服審査に国民が深く満足している結果では、まさかあるまい。

今回の見直しは、昭和37年(1962年)以来、初めてである。

審理官制度は、当該行政組織から独立しつつも、行政に関する高度の専門知識と十分な経験を有する専門職制度であり、その職権行使の独立と身分保障をどう確保するかが課題のようだ。平たく言えば、公平性を確保するためには、法曹出身者を審判官に据えるべきだが、専門性に懸念が生じる。他方、専門性を要するからといって、当該省庁出身者に審判官をさせたのでは、公平性が保たれない。このバランスをどう取るか、という問題だ。だが最大の課題は、官庁と申立人の双方を納得させる識見を持つ人材をどうやって確保するか、だと思う。

もう一つ重要な課題は、代理人制度である。審判官制度を採用して対審構造を取る以上、官庁側の知識と論理に対抗しうる代理人が立てなければ、どんな立派な制度を作っても、申立人に勝ち目はない。この点日弁連は、弁護士法72条を盾に、弁護士以外への代理人拡張に原則反対する立場だ。それも結構だが、肝心なのは、担当官庁と対等に渡り合える実力を持つ弁護士を養成することであり、これを怠るならば、いかに建前論を振りかざしても、弁護士法72条は死文化するだろう。論点整理においても、「弁護士法72条自体の合理性が問われるものであり、最低ラインをクリアした一定の資格を有していれば代理権を認めても良い」という冷たい意見があったと明記されている。

日弁連がこの制度に今ひとつ熱心でないように見えることも気になるところだ。現時点で、検討チームの弁護士は、小町谷育子弁護士お一人である。同弁護士には、「法の支配」実現のため奮闘を期待したい。

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2011年11月21日 (月)

本能寺が変

「蘭丸どうした。血相を変えて」

「殿、敵の軍勢に囲まれております」

「何だと。敵の旗印は」

「桐のご紋。明智光秀殿の謀反にございますっ」

「違うぞ蘭丸。明智の旗印は桔梗じゃ。桐は法務省。隣の羅針盤の旗印は文科省だ。役人どもめ、裏切ったな。」

「では、あの切支丹の十字架のような旗印は」

「秋霜烈日。検察官の紋じゃ」

「その隣に見えますは、お皿に『裁』の字」

「お皿ではないぞ。あれは『八咫鏡(やたのかがみ)』と言って三種の神器の一つじゃ。裁判所も敵に回ったか」

「割れた朝日」

「仲間割れした朝日ともいう。民主党の旗印だ」

「緑と青色の宇宙人」

「自民党も敵方か。陳情は徒労であった。なぜ泣く」

「行政も司法も立法も、全部敵とは」

「片腹痛いわ。全部が敵でも、正義は我らにあるのじゃ」

「遠く彼方には、大軍勢が見えまする。旗印は、紅白の縞模様に星空」

「あれはめりけん国じゃ。『てーぴーぴー』という妖術を使って、我らを葬る気だ。羽柴秀吉と柴田勝家はどうした」

「羽柴様は、西で山岸殿と、柴田様は、東で尾碕殿と合戦の真っ最中かと」

「援軍がなければ、二人で戦うしかない。絶体絶命だが、ついてくるか」

「殿とは一蓮托生。死装束にと、これを着て参りました」

「おお、水色のTシャツか」

「今生のお別れでございます」

「いや、貸与金の返還が始まる五年後までに生き返って、再び戦うのだ。斬り込むぞ蘭丸!」

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2011年11月17日 (木)

株主は、もっと怒るべきだ

株式会社は、資本を最も安全かつ多額に集める仕組みであり、資本主義国家の経済的核心だ。株主は、出した金を失う以上のリスクを負わないから、安心して出資できる。企業からみると、借り入れと違い、返さなくてよい資金が手に入る。まして、上場すれば、市場を通じて効率的に資金を調達できる。日本経済が再浮上するためには、株式市場を通じ外資を日本の株式会社に流入させることが、どうしても必要だ。だから、日本の株式市場は、以前に増して、国内外の投資家にとって魅力的なものにならなければいけない。

ところが、会社法が改正されてから、上場を廃止し、一般株主を追い出す株式会社が跡を絶たない。会社法の改正により、株式公開買付(TOB)を使い、「手切れ金」を渡して強制的に株を取り上げる「マネジメント・バイアウト=MBO」が容易になったためだ。金融ジャーナリストの伊藤歩氏によると、会社法が施行された200651日以降、MBOにより上場を廃止した会社は178社。追い出された株主は延べ110万人に及ぶ。178社の多くは、上場会社の中でも「勝ち組」に属する優良企業だ。しかも、「手切れ金」が多くの場合、不当に安く算定されている上、これを裁判で争うことが極めて困難ときている。小泉首相時代、「貯蓄から投資へ」のかけ声の下に株を買った一般投資家の資金は、MBOの結果、半分戻ってこないことも珍しくない。国際的に見ても、会社法施行後の日本は、ヨーロッパほど株主保護制度が手厚くなく、米国ほど訴訟による救済が容易でなく、結果として世界一、株主に厳しくなっている。こうして、国内外の投資家から見て、わが国の株式市場は、どんどん魅力を失っている。

こんなことが許されてよいのだろうか。わが国の市場経済は、延べ4400万人の一般投資家によって支えられているのだ。株主は、もっと誇りを持ち、もっと怒るべきだと思う。

上場を廃止して一般株主を追い出す企業は、効率的な企業運営や再編のためには、「物言う株主」は邪魔だと考えている。だが、MBOにより一般株主に対して支払われる金の原資は多くの場合、借入金だ。だから、上場を廃止する企業にとって、口うるさいだけの素人株主を追い出すことは、入れ替わりに、容赦なく高配当を求めるプロの投資家・金融業者を呼び込むことである。つまりMBOをしたからといって、企業は自由になれない。銀行と証券会社、そしてMBO専門弁護士が儲かるだけだ。ところが現在、この問題を正面から指摘し、法廷闘争を挑んでいるのは予備校講師の山口くらいであり、追い出される投資家はもちろん、上場を廃止する企業側も、MBOの欺瞞性に気づいていないという。

伊藤歩著『TOB阻止完全対策マニュアル』(財界展望社)は、現在日本の株式市場が抱える重大な制度的欠陥を暴き、TOBを阻止する具体的方法を指南する、おそらく唯一の書だ。200頁を超えるが、とても読みやすい。会社法の問題点を知るばかりでなく、わが国の市場経済の将来を占う上でも、必読の文献だと思う。

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2011年11月15日 (火)

ある時代劇

「越後屋、よく参った。知恵を貸してくれ」

「尾崎殿、元気がありませんな」

「お主も一昨年のお家騒動は存じておろう」

「はい。中坊家の跡目相続で揉めましたな」

「結局、嫡流では駄目と、外様の宇都宮殿が摂政になってしまった」

「尾崎殿も兵をお出しになった」

「うむ。あのときは『次はお前だ』と言われて矛(ほこ)を収めたのだが」

「それなのに、山岸殿が挙兵されたので困っておられるのですか」

「山岸殿は江戸の大店(おおだな)連中に顔が利くから強敵じゃ。だが困っている理由は違う。宇都宮殿が摂政を続けると言い出したのだ」

「まさか本当とは。噂は聞いていましたが」

「前代未聞のことだが、摂政は庶民に人気があるから、さらに強敵じゃ。これに勝つには…」

「山岸殿と手を組むしかない、というわけですか」

「山岸殿から先ほど密使があり、助太刀を頼むと言ってきた。助太刀すれば、次は必ずだそうな。だが、その保証はない。『次だ次だ』といわれて幾星霜。密使は待たせているが、どう返事をするか」

「…」

「どうした越後屋」

「尾崎様、山岸殿の密使に、すぐ返事をするのです。『助太刀の件、承知仕った』と。越後屋は直ちに、摂政家に参りますゆえ」

「何を申す」

「考えてもご覧なさい。尾崎様はもともと庶民のお味方。中坊家の血を一番濃く引くお方です。大店との商売に熱心な山岸殿と、庶民に人気のある宇都宮殿と、近いのはどちらですか」

「それは宇都宮殿だが」

「それなら表向き、山岸殿と手を結び、裏で宇都宮殿と取引するのです。助太刀する代わり、次は必ず尾崎殿と。どうせ次なら、その方が間違いないかと」

「ふはははは。越後屋、お主もワルよのう」

「これぞ平成の薩長連合じゃ。中坊家の夜明けは近いぜよ」

「なぜ突然土佐弁を話す。まさかお前は…?」

夜陰に紛れ摂政の屋敷に向かう越後屋。これを新撰組の白装束が追う。
一方天井裏では風車の矢七。一部始終を見届けた後、主君に急を告げた。「ご苦労。これをご公儀に届けてくれ」と水戸光圀は、書簡をしたためて矢七に渡す。その書簡には、「中坊家にお家騒動の兆しあり。次第によってはお取り潰しも已むなき哉」とあった。
背後の屏風では、虎が書簡を睨みつけていた。

注;この記事はフィクションであり、実在の個人又は団体と一切関係ありません。

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2011年11月14日 (月)

弁護士のTPPと2012年問題

弁護士ドラマに興味のある人なら、「イソ弁」「ボス弁」という言葉を聞いたことがあると思う。「イソ弁」とは「居候弁護士」の略であり、「ボス弁」の法律事務所に居候をしながら、仕事を覚える見習い弁護士のことだ。給料をもらうにもかかわらず、「イソ弁」という用語が使われてきたのは、旧来の徒弟制度を色濃く承継していたからだろう。実際のところ、「イソ弁」の起案した書面は、ボス弁によって完膚なきまで朱を入れられ、何度でも書き直しをさせられたものだ。

その「イソ弁」「ボス弁」という言葉も最近は廃れ、「アソシエイト」「パートナー」という米国風に変わっている。「アソシエイト」も給料をもらうが、弟子というより助手に近い。「パートナー」も、師匠というより共同経営者だ。必然的に、「アソシエイト」と「パートナー」の関係は、師弟関係ではなく、ドライな契約関係になる。依頼者との受け答えから書面の書き方、証人尋問のやり方までボスに教えてもらう、ある意味幸福な「アソシエイト」は、とても少なくなった。

聞くところによると、最近の中規模以上の事務所では、アソシエイトとの契約期間は3年前後だ。3年間は給料が出るが、4年目の保障はない。能力を認められればパートナーになれるが、そうでなければ事務所を出て独立するか、他の事務所に雇ってもらうしかない。パートナーといえば出世のようだが、要は給料が出ないうえ、事務所の運営経費を負担させられるということだ。それまで勉強一筋だった323歳の弁護士に、最低年23000万円売り上げないとね、と言われて実行できる者もいるだろうが、出来ない弁護士も少なくない(私には無理だ)。経済的に見ると、弁護士は、とても効率の悪い頭脳労働者にすぎない。売上が少ないと、パートナーとは名ばかりで、飼い殺しである。独立すればやはりパートナーだが(考えてみると誤用だが、一人でもパートナーという)、貧乏にあえぐ点では同じである。

尊敬するあるジャーナリストは、「弁護士の就職難が始まってから6年目以降が危ない」と予測する。同氏によると、「就職難だと、評判の悪い事務所にも就職するでしょう。そこでろくでもない仕事の仕方を覚えて、独立したりパートナーになったりするけど、その後3年くらいすると、食い詰めて、自分も悪いことをするようになる」と言う。

仮にこの予測が正しければ、就職難が始まったのは2006年ころだから、2012年ころ以降、若い弁護士の不祥事が増えることになるが、どうであろうか。これが、弁護士の2012年問題である。

TPPはどこに行ったのかって?だから、貧乏すぎるパートナー(Too Poor Partners)問題でした。

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2011年11月10日 (木)

馬鹿は死んでも治らない

115日の日本経済新聞「大機小機」は、「失われた市場規律」と題するコラムを掲載した。

曰く、ギリシャのように債務弁済に問題がある国には「市場規律」が働いて、国債金利が上昇するなどの警戒信号が発せられるはずなのに、それがなかった。原因の一つが情報隠蔽にあるとしても、世界中の金融のプロがそろいもそろってこれに気づかず、危険な融資を続けたのはなぜか。米国の大手金融MFグローバル・ホールディングスは、自己資本の30倍以上というレバレッジを効かせて貸し込み、連邦破産法11条の適用を申請して倒産した。これは、サブプライムローンと全く同じ構図だとして、失われた市場規律を憂い、その回復を訴えている。

私は経済には素人だが、この「大機小機」が間違っていることくらいは分かる。

市場規律は失われたのではない。初めから無いのだ。それが言い過ぎなら、およそ信頼できないほど致命的な限界があるのだ。「たまたまうまく行った」ことを「神の見えざる手」と賛美していただけなのだ。世界のトップエリートが揃いもそろって、リーマンショックの傷も癒えないうちに、同じ馬鹿をやらかすのは、我々人間には本質的に、この種の危機を回避する能力が無いからである。

その原因の一つには、人間は、悲劇を予知する程度には賢いが、その悲劇がいつ起きるかを予知するほど賢くない、という点がある。いわゆる中国リスクはその典型だろう。これと利己心とが組み合わさるとき、壮大なババ抜きが始まる。

しかも人間は皆、数百万年前、山の彼方の空遠くに楽園があると、何の根拠もなく信じて旅立ち、生き残った理由を「運がよかっただけ」とは考えず、自らの信仰や技能に求めてきた、オメデタイ先祖の子孫である(これは『ブラック・スワン』の受け売り)。我々は本質的に、「自分にだけは不幸は訪れない」と信じるように出来ているのであり、同時に、この確信が、人間を地上の王者に押し上げてきたのだ。つまりこの性向は人間の本質であり、努力や教育では矯正できない。つける薬はないし、死んでも治らないのだ。

もちろん、自らの無能や限界を弁え、これを改善しようと努力することは、とても重要だ。だが同時に、いくら努力しても絶対に治らないほど我々は愚かである、と認識し続けることも重要だと思う。そうだとすれば、「市場規律が働かない」ときに、どうすれば規律が働くかを考えることも重要だが、市場以外に規律の源泉を求めることも、同様に重要だということになる。

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2011年11月 9日 (水)

新憲法の賞味期限

大阪弁護士会の司法制度改革検証推進本部・法曹人口部会というところで、戦後司法修習制度の成り立ちについてお話しする機会をいただいた。30分と短時間だったので概要だけだが、そのときお話ししたことの要点は次のとおりである。

日本における弁護士の前身は「代言人」だが、代言人制度ができたのは明治5年(1872年)、免許制・強制加入団体となったのは明治14年(1881年)である。明治23年(1890年)に明治憲法が公布され、近代国家への歩みを進める中、明治26年(1893年)には弁護士法が公布され、弁護士という資格が制度化され、全国試験による資格賦与となったが、判事検事とは別の試験であった。判事検事と同一の試験が実施されたのは大正12年(1923年)だが、判事検事は司法官試補として1年半の修習制度が設けられたのに対し、弁護士は修習制度が無かった。昭和8年(1933年)、弁護士会の強い要望により1年半の弁護士修習制度が設けられたが、司法官試補(判事検事養成課程)とは別修習であり、しかも、弁護士試補は無給であった。そのため、弁護士試補の生活は困窮し、魚の闇をやって摘発された弁護士試補もいて、昭和13年には、弁護士修習廃止の請願が衆議院になされている。ちなみに、弁護士会の自治権は、徐々にではあるが拡大し、昭和4年の弁護士法改正によって、監督機関が地方検事正から司法大臣になった(注 ご指摘により下線部分を訂正しました)

以上の通り、判事検事とは、養成制度において常に一歩遅れてきた弁護士制度であるが、終戦後の司法制度改革により、一挙に統一修習と給費制とが実施されることになった。また、弁護士自治についても、いかなる国家機関の監督も受けない、完全な自治権が保障された。

戦前に亀の歩みで進んできた司法改革が、戦後一挙に実現した原因は、かねて判事検事との平等や自治を求めてきた弁護士会の熱意もあるが、何より、GHQと、新憲法の理念を制度的に実現しようとした当時の日本人法曹の努力にある。その理念を一言で言えば、民主主義をわが国に実現し、根付かせることに他ならない。統一修習も給費制も、わが国の司法を強化し民主制度を根付かせるための、壮大な計画の部品であった。

しかし今、給費制は風前の灯火である。給費制が廃止されれば、司法修習制度、少なくとも弁護士修習制度廃止の圧力が高まるだろう。司法試験は一緒でも、判事検事と弁護士は、初めから進路が違うことになろう(もうなっている、ともいえる)。弁護士の数が爆発的に増大し、しかも、個々の弁護士が経済的に困窮して会費を負担できなくなれば、弁護士自治も失われよう。

何のことはない、司法制度が現在直面している状況は、明治以降の司法制度改革史を、きれいに逆にたどっているだけなのだ。

これが司法制度だけのことなら、まだ問題は小さいのかもしれない。だが私には、同じ現象は統治機構の全ての面に現れているように見える。新憲法が賞味期限を過ぎ、その民主主義的統治機構が骨抜きになり、官僚機構と、その頂点にある巨大な空虚(明治憲法時代には天皇と呼ばれたもの)が、わが国を支配しつつある。要は、敗戦によっても、日本人の国民性は、変わらなかったということだ。

新憲法が空洞化することによって国力が増し、国民が幸せになるなら、それもよいかもしれない。そのほうがよいなら、憲法を改正すればよい。だが、明治から昭和にかけて確立され、敗戦にもかかわらず維持されたわが国の官僚機構の賞味期限も、おそらく、とっくに過ぎている。9条も結構だが、我々はほかにも、守るべき憲法の条文があったのではなかろうか。

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2011年11月 8日 (火)

弁護士の就職支援企業が発足

117日付けの日本経済新聞によると、国内初となる民間の弁護士就職支援企業「日本司法サービスセンターJSC)」(東京・千代田)が111日に営業を開始した。弁護士が増えすぎて経験を積む場の得られない新人弁護士に、有料で実務指導を行うという。

弁護士「次の方、どうぞ」

客  「あの、自己破産の申立書を作りたいのですが、書類の書き方が分からなくて」

弁護士「あなた、借金はどの位あるの?」

客  「僕ですか?」

弁護士「そう、君だよ」

客  「総額で1000万円くらいかな」

弁護士「収入や資産は?」

客  「収入は、今のところゼロです。資産もありません」

弁護士「仕事はないの?」

客  「全然無いです」

弁護士「それなら、自己破産はやむを得ませんね」

客  「それは分かっています」

弁護士「当センターで弁護士をご紹介できますが」

客  「いえ、書類の書き方を教えてもらえれば、自分でやります」

弁護士「自分でやらなくてもいいでしょう」

客  「なぜですか?」

弁護士「弁護士にまかせれば、破産申立書なんて、すぐ作ってくれますよ」

客  「僕、弁護士ですけど」

弁護士「ええっ?」

客  「即独の宅弁で、弁護士会から破産事件を紹介してもらったけど、申立書の書き方が分からないので、来たんです。『日本司法サービスセンター』に行って教わってきなさい、って言われて。」

弁護士「だってここは『日本司法支援センター』ですよ。通称法テラス」

客  「ええっ?『日本司法サービスセンター』じゃないの?道理で話がちぐはぐだと思った」

弁護士「じゃあ、さっきの『借金1000万円』というのは誰の借金なの?」

客  「僕の借金です。ローの奨学金と修習生の貸与金合計で。ちなみに破産する人の借金は300万円くらいかな」

弁護士「…」

客  「だから教えて下さいよ。破産申立書の書き方」

弁護士「それくらい、自分で調べたら?」

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2011年11月 7日 (月)

開業医の月収231万円 国立病院勤務医の2.3倍に

11月2日の時事通信は、標記の見出しで、厚生労働省による今年度の医療経済実態調査の結果を報じた。

このご時世に、月収231万円とは、世間の注目を集めるには十分な数字だ。

だが、弁護士たるもの、こういった報道を、眉につば付けずに聞いてはいけない。この種の報道には、必ずと言っていいほど、誰かによる何かの目的がある。以前、「登録5年目弁護士の平均年収2000万円」と報じられたとき、アンケートの回答率が低くて信用できないとか、それは所得じゃなくて収入だろうとか、平均はそうでも中央値ではないだろう、とか騒ぎ立てた弁護士が、医師の収入に関する報道を鵜呑みにしてコメントするのは、不公平に思える。

神戸のしがない開業医」さんによれば、医療経済実態調査は「医師の間では実態を表していない実態調査として有名」だそうで、原典である機能別集計等117頁以下にあたってみたところ、「国立大学勤務医」の平均月収データは直ちに発見できたが、開業医(個人経営の診療所)とあるのは、実は「医療法人の院長」の月収であり、この「医療法人」というのは、全国で約10万箇所ある診療所の約4割にあたり、その9割以上が「一人医療法人」であって、その収益は非医療法人と大差ないはずであるにもかかわらず、統計上約2倍の収益を上げているのは、ごく一部の「スーパー勝ち組」が平均収益を引き上げていると推測されるから、その「院長の平均月収が231万円」と言ったところで、実態を反映しているとはとてもいえない、とのことである。

「神戸のしがない開業医」さんの分析が当たっているのか否か、私には分からない。だが、報道が「開業医」を「個人経営の診療所」と記載したにもかかわらず、その実「医療法人の院長」であることは確からしいし、そうであるとすれば、報道の信憑性は相当疑われるべきだろう。

それでは、このニュースに現れた「誰かによる何かの目的」とは何か。112日の日本経済新聞によれば、厚労省は、2010年度の診療報酬改定で改定率を10年ぶりにプラスにして、「勤務医の待遇改善」を図ったところ、確かに勤務医の収入はアップしたが、開業医はそれ以上にアップしたため、格差が拡大したという。

この報道からすれば、厚労省の意図は明らかだ。それは、勤務医の比率を高めたいということにある。その背景には、地方の医師不足・あるいは医師偏在問題があるのだろう。医師に限ったことではないが、一度開業してしまうと、店をたたんで移動することは、困難だからだ。

勤務医の比率を高め、流動性を増して偏在を低減するという政策に、一定の合理性があることは否定できない。だが、その政策のために、痛くもない腹を探られる開業医は気の毒だし、毎度のことながら、国民の嫉妬心に訴えて政策遂行を図る政府のやり方は腹立たしい。朝霞公務員住宅問題でやられたお返しかもしれないが、そうだとすれば、レベルの低いお話である。

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2011年11月 4日 (金)

日米ロボット比較

脳表面の脳波から運動の意図を読み取り、ロボットの手や腕を動かすことに、大阪大学の吉峰俊樹教授(脳神経外科)などのチームが世界で初めて成功した113日読売新聞)。これは、「右腕を肩の高さから頭の高さまで上げる」と考えたとき、その意図を脳波から推測して腕型ロボットをその通り動かす技術。精度は不明だが、かなり高度な技術だ。

トヨタは11月1麻痺した足に装着することにより自然な膝曲げ歩行階段昇降アシストするロボットを発表した。開発を担当した、自らも足が不自由だという藤田保健衛生大学の才藤栄一教授は、やや不自然ながら、実用的なレベルでの歩行を披露した。この種のパワーアシストロボットの法的リスクは「転ぶ」ことにある。この点のケアが必要だろう。

最近の日本のロボット開発は、医療・介護分野への関心が高い。微細で正確な動きを要求される介護用ロボットは、日本人の得意分野かもしれない。見方を変えれば、わが国では今後、医療・介護分野が重点政策とされ、多額の国費が投じられるとの見通しがあるのだろう。

私が次世代ロボットに関する政府系会議に参加し始めたのは、もう5年以上前になるが、その当初から、民間からトヨタとホンダ、東京海上と損保ジャパンが参加していた。このことは、自動車メーカーと損害保険会社が、次世代ロボットの市場性に着目していたことを意味する。自動車メーカー中では、トヨタが実用性の高い製品をアピールしだしているようだ。一方ホンダは、ASIMOが進化の限界を迎えてしまったのか、今ひとつ元気がない。

一方アメリカでは、自律歩行ロボットが日本のお株を奪う進化を見せている。これらのロボットは、軍用を念頭に置いていて、悪路を走破するBIGDOGや腕立て伏せをするPETMANの動きは、開発者が兵士の代用品を考えていることを示唆している。これは、日本の厚生労働省に対し、アメリカでは軍がスポンサーになっていることを意味する。特に、PETMANの動きを見ると、TERMINATOR(シュワルツェネガーが演じている方)並の動きをするロボットの実用化は、数年後に迫っていると思われる。

PETMAN

BIGDOG

これはオマケ。

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2011年11月 2日 (水)

日本製検索エンジンが生まれなかったわけ

Googleのような検索エンジンが日本で生まれなかった理由は、日本の著作権法にある、という見方が一般的だ。例えば200891日の週刊東洋経済には、「検索サーバーに情報を一時蓄積することは『無断複製』にあたり、検索結果を表示することが『自動公衆送信』になるため」、日本に検索エンジン用のサーバーを置くことができないと書いてある。ちなみに2009年の著作権法改正により、検索エンジンの合法性が明文で確認されたが、その後も、日本製検索エンジンが生まれることはなかった。

この見方は、耳になじみやすい。でも、よく考えてみると、疑問である。とはいえ、米国の著作権法にはまるで無知なので、話半分以下で読んでほしい。

当時、日本には、検索エンジンを違法とする法律はなかった。だが、合法とする法律もない。そして、著作物の無断複製や、公衆送信を違法とする一般規定はあった。だから、検索エンジンは違法の疑いを免れなかった、と論者はいう。

だが、これは日本だけの現象だろうか。

検索エンジンが開発される前の米国はどうだったのだろう。まだ存在しない検索エンジンを違法とする法律は、あるはずがない。もちろん、合法とする法律も、あるはずがない。そして、著作物の無断複製や、公衆送信を違法とする法律または判例は、たぶん(上述のように米国の著作権法にまるで無知なので)存在した。なぜなら、無断複製の禁止は著作権法の基本の基本だし、巨大映画産業を擁する米国がYOUTUBEへの映画のアップロードを規制しないわけがないからだ。

そうだとするなら、日本と米国の法環境は同じである。したがって、日本製検索エンジンが生まれなかったわけを、日本の法環境に求める主張は誤りということになる。

確かに、米国著作権法にはFair Use条項があり、日本にはない。Fair Use条項とは、著作物の利用目的や利用量、権利者の損害の度合いなどを考慮して一定の場合に無断利用を認める一般条項だ。一般条項だからもちろん、検索エンジンの合法違法は直ちに判別できない。日本の著作権法にFair Use条項はなく、これを認めた判例もないが、否定した判例もないはずだし、著作権者の「権利濫用」程度の抗弁なら十分成立しうる。だから、Fair Use条項の有無は決定打にならない。

結局のところ、彼我の違いは法制度ではなく、精神構造の違いではないのだろうか。

つまり検索エンジンを違法と断ずる法律がないとき、Googleは「検索エンジンを作ってよい」と理解し、日本人は「作ってはいけない」と理解した。「規制が無い」ことを「自由」と理解するのか、「禁止」と理解するのかの違いである。もし違法となった場合のリスクを、Googleは「取り」、日本人は「避ける」。

日本製検索エンジンが生まれなかったわけが、精神構造にあるなら、著作権法を改正したところで、100万年たっても、新技術を開発することはできないだろう。

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2011年11月 1日 (火)

高速大容量通信技術と著作権法について

江戸時代後期の日蘭辞書『ドゥーフ・ハルマ』は33冊しか出版されなかった希少本だが、25歳前後だったころの勝海舟は、これを2冊写本し、一冊は自分の勉強のため、もう一冊は売って学費にしたという。『ドゥーフ・ハルマ』の写本は、適塾生にとっても、格好のアルバイトだったらしい。

今これをやれば、明らかな著作権法違反(21条、1191項)だ。だが、仮に広辞苑を写本して売る人間がいたとしても、取り締まる必要性があるとは思われない。所詮人力には限りがあるからだ。

同じことは、コピーした書籍についてもいえる。広辞苑の写しを販売するため全ページコピーした貧乏学生がいたとして、司直が取締に乗り出すとは思われない。

だが、自炊となると、話は別だ。タブレットPC用画像データとして販売する目的で、広辞苑の全ページをスキャンして電子化する行為は、直ちに取締の対象になるだろう。

法形式的には全く同じことをやっているのに、取締の必要性が全然違う理由は、専ら、技術的要因に求められる。具体的には、複写行為の容易性とスピード、複写物のデータの劣化の程度や、再複写・再譲渡の容易性等だ。これらの要因が複合的に絡み合って、その総合値がある閾値を超えると、法的取締の実質的な必要性が発生する。最近話題になった「自炊」と著作権の問題も、Scan SnapIpadの登場抜きには語れない。この現象は、著作権法に限る、とまでいえないとしても、かなり特徴的なことではないか。

複写技術の速度や正確性等、あるいは、ある種の商品の発売が、取締の必要性を左右するとするならば、法形式上は同じ複写行為であっても、これを格段に高速・大量・正確に行う革新技術が実装された場合には、取締の対象になりうる、ということを意味する。

近い将来、日本の通信インフラは、大容量・超高速通信に進化すると言われている。そうなったとき、いままで適法(とは言わないとしても事実上許されてきた)行為が、突然違法とされる可能性がある。一方でそれは、著作権法制の宿命かもしれないが、他方で、ICT技術産業に、深刻な萎縮効果をもたらす可能性がある。

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