« 弁護士の就職支援企業が発足 | トップページ | 馬鹿は死んでも治らない »

2011年11月 9日 (水)

新憲法の賞味期限

大阪弁護士会の司法制度改革検証推進本部・法曹人口部会というところで、戦後司法修習制度の成り立ちについてお話しする機会をいただいた。30分と短時間だったので概要だけだが、そのときお話ししたことの要点は次のとおりである。

日本における弁護士の前身は「代言人」だが、代言人制度ができたのは明治5年(1872年)、免許制・強制加入団体となったのは明治14年(1881年)である。明治23年(1890年)に明治憲法が公布され、近代国家への歩みを進める中、明治26年(1893年)には弁護士法が公布され、弁護士という資格が制度化され、全国試験による資格賦与となったが、判事検事とは別の試験であった。判事検事と同一の試験が実施されたのは大正12年(1923年)だが、判事検事は司法官試補として1年半の修習制度が設けられたのに対し、弁護士は修習制度が無かった。昭和8年(1933年)、弁護士会の強い要望により1年半の弁護士修習制度が設けられたが、司法官試補(判事検事養成課程)とは別修習であり、しかも、弁護士試補は無給であった。そのため、弁護士試補の生活は困窮し、魚の闇をやって摘発された弁護士試補もいて、昭和13年には、弁護士修習廃止の請願が衆議院になされている。ちなみに、弁護士会の自治権は、徐々にではあるが拡大し、昭和4年の弁護士法改正によって、監督機関が地方検事正から司法大臣になった(注 ご指摘により下線部分を訂正しました)

以上の通り、判事検事とは、養成制度において常に一歩遅れてきた弁護士制度であるが、終戦後の司法制度改革により、一挙に統一修習と給費制とが実施されることになった。また、弁護士自治についても、いかなる国家機関の監督も受けない、完全な自治権が保障された。

戦前に亀の歩みで進んできた司法改革が、戦後一挙に実現した原因は、かねて判事検事との平等や自治を求めてきた弁護士会の熱意もあるが、何より、GHQと、新憲法の理念を制度的に実現しようとした当時の日本人法曹の努力にある。その理念を一言で言えば、民主主義をわが国に実現し、根付かせることに他ならない。統一修習も給費制も、わが国の司法を強化し民主制度を根付かせるための、壮大な計画の部品であった。

しかし今、給費制は風前の灯火である。給費制が廃止されれば、司法修習制度、少なくとも弁護士修習制度廃止の圧力が高まるだろう。司法試験は一緒でも、判事検事と弁護士は、初めから進路が違うことになろう(もうなっている、ともいえる)。弁護士の数が爆発的に増大し、しかも、個々の弁護士が経済的に困窮して会費を負担できなくなれば、弁護士自治も失われよう。

何のことはない、司法制度が現在直面している状況は、明治以降の司法制度改革史を、きれいに逆にたどっているだけなのだ。

これが司法制度だけのことなら、まだ問題は小さいのかもしれない。だが私には、同じ現象は統治機構の全ての面に現れているように見える。新憲法が賞味期限を過ぎ、その民主主義的統治機構が骨抜きになり、官僚機構と、その頂点にある巨大な空虚(明治憲法時代には天皇と呼ばれたもの)が、わが国を支配しつつある。要は、敗戦によっても、日本人の国民性は、変わらなかったということだ。

新憲法が空洞化することによって国力が増し、国民が幸せになるなら、それもよいかもしれない。そのほうがよいなら、憲法を改正すればよい。だが、明治から昭和にかけて確立され、敗戦にもかかわらず維持されたわが国の官僚機構の賞味期限も、おそらく、とっくに過ぎている。9条も結構だが、我々はほかにも、守るべき憲法の条文があったのではなかろうか。

|

« 弁護士の就職支援企業が発足 | トップページ | 馬鹿は死んでも治らない »

コメント

 「判事検事と同位置の試験が実施されたのは、昭和4年81929年)とあります。
 しかし、弁護士試験と判事検事登用試験が統一されたのは、大正12年3月の高等試験令からではないのでしょうか?

投稿: 増田修(広島弁護士会) | 2011年11月10日 (木) 09時48分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/53180994

この記事へのトラックバック一覧です: 新憲法の賞味期限:

« 弁護士の就職支援企業が発足 | トップページ | 馬鹿は死んでも治らない »