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2012年1月30日 (月)

教育とeducateの差

以前のブログで、「法科大学院の本質は教育ではない、選抜だ」と書いたら、「法科大学院は(法学)未修者の教育が前提となっている」との反論コメントをいただいた。

このコメントは、とても大きな、そして、結構流布している誤解に基づいている。それは、高等(専門)教育の本質に関する誤解だ。コメントに即していいかえると、「大学法学部の卒業生でなくても、法科大学院で『教育』を施せば、法曹としての専門知識や技術が身につく」という誤解である。もちろん、例外的に「身につく人」もいる。だが原則は、「身につか」ないし、「身につくわけが」ない。驚くべきことに、法科大学院すら、この誤解に基づいて制度設計されている。この誤解の責任は、「教育」という言葉にあるように思われる。

「教育」すなわち「教え育む」とは、改めて眺めると、ずいぶん上から目線の言葉だと思う。『大辞林』には、「他人に対して、意図的に働きかけることによって、その人間を望ましい方向へ変化させること」とある。中身にかかわらず、教育を施せば、「望ましい方向へ変化させること」ができると、の自信が窺える。

だが、こういう意味の「教育」が可能なのは、せいぜい初等・中等教育までだ。人間の能力は両親のDNAと幼少年期の環境に大きく依存し、どんな分野の才能でも20歳ころまでに出尽くしている。才能のない人間に、どれほど教育を施したところで、「望ましい方向へ変化させる」ことなどできない。だから、高等(専門)教育機関の本質的な役割は、試験によって、才能を選抜することだ。法科大学院も、司法研修所も、例外ではない。法律実務家などというニッチな才能がなくても、劣っていることでも何でもない。他の才能を生かせる世界は、いくらでもある。罪なのは、才能がない人に、教育で何とかなると誤信させ、他の才能を生かすチャンスを奪うことだ。

法科大学院制度は、大学法学部出身者のための2年の「(法学)既習コース」のほかに、3年の「未修コース」をもうけている。これは、大学で法学を学ばなくても、1年間余計に「教育」すれば、既習者と同程度の司法試験受験レベルに「変化させることができる」ことを前提にしている。だが、もともと法律学を修める才能がなく、あるいは、まだ頭が柔らかい20歳前後に法律学の基本を学んでいない者が、1年やそこらで、法学既習者と同レベルに達するのは、とても難しい。未修者より既習者の司法試験合格率が高いのは、当たり前のことであり、教育でその差を埋めることなど、できない。

このことを、一番よく分かっているのは、現場の教員であり、文科省だ。それにもかかわらず彼らは、才能も経験もない人間から数百万円の学費を取り、数年間拘束して、他の才能を生かすチャンスを奪う仕組みを作り上げた。そこに、現行法科大学院制度の罪深さがある。そして、この罪深さは、源流を辿れば、「教育」という言葉の持つ、間違った認識にある。

調べてみると、educateという英語は、「導者」を意味するラテン語duceに、outを意味する接頭語eと、動詞化する接尾語ateを加えたe+duce+ateからなり、語源的には、「優れた何かを導き出す」という意味だ。だからeducateは、持たざる者から引き出すことはできない、という諦観に基づいている。

高等(専門)教育の本質には、日本語より、英語の方がふさわしいと思う。

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コメント

いつも楽しく拝見しております。
1年の差を埋められる勉強方法についてのノウハウをほとんど持っておらず試験対策という点で素人同然なのに、ロースクールに行って勉強すれば試験に受かって法曹になれると吹聴することが、ロースクールの教員や文科省の役人の罪深さだと言う方が正確ではないでしょうか。
差が埋まらないのはやり方がまずいか本人が勉強に費やす時間が足りないからであって、努力で補うことが不可能なほどの貴重な才能が無ければどうにもならないという試験ではないと思います。

投稿: | 2012年2月 1日 (水) 13時20分

コメントありがとうございます。「努力で補うことが不可能なほどの貴重な才能が無ければどうにもならないという試験ではない」とのご指摘は同感です。ただ、法科大学院の制度設計は、「1年余計に勉強すれば既習者と同様7~8割合格する」となっているはずであり、この程度の努力で差を埋めることは容易でないことから、本文のような書きぶりとなったものです。
コメントの前段については、異論ありません。

投稿: 小林正啓 | 2012年2月 1日 (水) 14時04分

コメントを失礼します。

ここで書くべき内容なのかどうか分かりませんが、以前の記事と合わせて読ませていただいた感想を書かせていただきますね。

記事本文自体には同感です。制度設計自体が疑問です。

以前の話題であった「教育」か「選抜」かということは表現の違いのような気はします。
ですが、いずれにせよ、未修者を前提に置いた制度であることには変わりはありませんし、未修者の合格率と既修者の合格率が上位校においても差が歴然としているということは事実です。

未修者も法科大学院の修了者であることを考えると、選抜機関だとしてもやはり法科大学院の「選抜」機能には問題があるように思います。
それでも、法科大学院の内容には問題がないと言えるのか、私には疑問です。

投稿: ぴくみ | 2012年2月21日 (火) 14時25分

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