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2012年4月18日 (水)

法曹は聖職か、竹光を差した偽武士か?

「法学セミナー」5月号は、平野哲郎龍谷大学法科大学院教授(もと裁判官で現弁護士)による、『法曹は聖職か、サラリーマン・ビジネスマンか―司法修習生の修習資金貸与制に寄せて』という論考を掲載した。

ごく大雑把に要約すると、「法曹はかつて聖職であったが、その権威は失墜しつつあった。今般の司法制度改革は、その理念とは裏腹に、法曹の非聖職化を推し進め、貸与制への移行によって、その方向性は決定的になった」というもの。だが筆者は、若い法曹や法曹を目指す若者に対して、「正しい聖職意識」、―たとえば、傷ついた当事者の心に寄り添う想像力―を持つべきだと説く。

「法曹の非聖職化への方向は決定的になった」と述べつつ「正しい聖職意識を持て」と説く論述は、一見、矛盾しているようにも見える。しかし、矛盾するように見えるからこそ、そこには、激動する時代の中で、「法曹であること」とは何かを模索するという、筆者の真摯な迷いが顕れていると思う。

話は飛ぶが、この論考を読んで、私は『切腹』という映画を思い出した(昭和37年小林正樹監督。昨年市川海老蔵主演『一命』でリメイクされた)。

この映画のテーマは、一言で言うと、時代の変化に翻弄される武士の悲劇である。困窮し傘貼り内職で糊口をしのぎつつ武道の鍛錬を忘れない主人公も、武士の体面だけ保ち官僚化する敵役も、ともに、太平の世における「武士であること」とは何かを模索しつつ、避けられない破滅に向け突き進んでいく。結局のところ、戦国時代が終わった以上、武士は用なしなのであり、どうあがいても、職業としての「武士」は成立しないのである。

日弁連会長選挙の混迷に象徴される弁護士界の末期症状に辟易し、悲観的な未来図しか描けない私にとって、「聖職とは何か」を模索する法曹の姿は、「武士の魂とは何か」を模索する武士の姿と重なって見える。

ちなみに、『切腹』で最も悲惨な最期を遂げたのは、主人公の娘婿であった。病弱の妻子を抱えた彼は、生活費を強請(ゆす)るため、大小を売り竹光を差した身でありながら家老宅での切腹を申し出たところ、「あっぱれ武士の鑑」と逆手にとられ、切腹を強制された。もちろん竹光だから腹は切れない。追い詰められた娘婿は、竹光の上に身を投げ出して腹を刺し、舌をかみ切って悶絶した。

このエピソードは、聖職でない(=刀を持っていない)にも関わらず、聖職者ぶる(=武士らしく腹を切りたいと啖呵を切る)者には、最も悲惨な最期が訪れるぞ、という警告のように、私には思われる。

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