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2012年6月27日 (水)

LAST SAMURAIとFIRST JUDGE

「判事らは司法の独立を訴え、自らの良心、正義感を貫こうとしたとみられる。行政権が強く、司法権が形骸化していた明治初期に三権分立の意識が生まれていたことを示す貴重な史料だ」

625日の日本経済新聞が紹介するコメントは、早稲田大学の島善高教授(日本法制史)のもの。西南戦争のさなか、鹿児島県裁判所の判事7名が明治天皇に宛てた、停戦と裁判による解決を求める上奏文が発見されたというニュースに対するコメントだ。

報道によると、田原坂の激戦開始前日の明治10年(1877年)33日付で書かれた上奏文は、西郷隆盛が兵を率いて上京する目的は、政府密偵によるともいわれる「西郷隆盛暗殺計画」の真相を質すためであるから、停戦して裁判で真実を明らかにすべきだと、死を覚悟して訴えているという。

なるほど、貴重な歴史的資料なのだろう。だが、島教授がコメントするような、「司法の独立」や「三権分立の意識」の問題なのだろうか。

日本の近代司法制度がいつからどのように始まったのだろう。東京市の南町奉行所後に「市政裁判所」が置かれたのは1868年(明治元年)だが、鹿児島に裁判所が置かれたのはその後だろうし、司法省が設置され江藤新平が初代司法卿に就任したのは上奏文の僅か6年前、1871年(明治3年)のことだ。起案した判事の年齢は不明だが、30歳とすれば安政3年の生まれであり、士族であろうことに照らしても、こんな「江戸世代」の侍に「司法の独立」や「三権分立の意識」があったとは思われない。

一方、明治憲法の発布は1889年(明治22年)であり、司法権の独立の萌芽とも言われる裁判所構成法の交付は1890年(明治23年)だ。日本史上「司法権の独立」が明確に自覚される大津事件は1891年(明治24年)。自由民権運動は明治7年(1875年)に始まったとも言われているが、西南戦争当時、鹿児島県にその波が押し寄せていたとは思われない。要するに、明治10年という時代は、近代日本の諸制度が混乱しながら始動しだした揺籃期であり、鹿児島に、「司法の独立」だの「三権分立」だのという概念は、そもそも存在しなかったのではないか。

普通に考えて、この上奏文は、西郷軍が敗れることを恐れ、あるいは敗れなくても、九州南部が戦乱に巻き込まれ荒廃することを恐れた勢力による和平工作の一つと見るべきだろう。

映画「LAST SAMURAI」で、西郷隆盛をモデルにしたとも言われている勝元は、田原坂に似た風景の中で戦死する。この戦争の陰で、日本の判事が和平工作に命を賭けていたとすれば、それで十分、いい話だと思う。

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