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2012年7月 9日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(1)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

信州高遠藩内藤家について

内藤頼博は、明治41年(1908年)312日、東京市四谷区内藤町(今の新宿区内藤町)で出生した[1]

内藤が「内藤町」で生まれたのは偶然ではない。内藤頼博は、信州高遠藩内藤家の16代当主であり、戦前は子爵[2]だった。内藤町は、内藤家の氏を冠した町名である。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けたのが、甲州街道の江戸側の起点一帯の広大な土地だった。内藤町にある多武峯内藤神社境内には、家康に「馬で一息に廻れた土地をつかわそう」と言ったため、清成が白馬にまたがり、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保と駆け抜けて戻ると、馬は泡を吹いて息絶えた、という伝説と、駿馬塚とが残る。新宿御苑はもともと内藤家の江戸屋敷であり、明治政府に上納されたものだ。

内藤新宿が甲州街道の東の起点なら、西の終点は長野県諏訪郡下諏訪町である。甲州街道は下諏訪で中山道と合流し、妻籠・馬籠や関ヶ原を経て京都に向かう。1691年(元禄4年)に内藤清枚(きよかず)が封ぜられ、現代は桜の名所として知られる信州高遠城は、下諏訪の南に位置し、甲州街道と中山道の両方を睨む戦略上の要衝であって、山本勘助も改築に関わったとされる名城だ。つまり、内藤氏は甲州街道の起点と終点の防衛を任せられたのである。

内藤氏は清枚以後8代にわたり高遠藩主を務めるが、系図[3]を見ると養子が多い。直近では、第11内藤頼以(よりもち)は陸奥福島藩主、板倉勝矩の五男である。板倉家の宗家は、歴史上の名裁判官である板倉勝重だが、この血縁を内藤頼博が知っていたかどうかは分からない。

内藤頼博は、この血統と、身長170センチという、当時としては大柄な体格、貴族的な風貌と温厚な性格から、裁判官仲間からも「殿様」と呼ばれて親しまれていた[4]

後に登場し、戦前・戦中における日本政界のフィクサーと呼ばれた伊沢多喜男は、明治2年(1869年)1124日、信州高遠藩士の子として生まれた。つまり内藤頼博とは「殿様」と「家来」の関係になる。


[1] 大日本法曹大観

[2] 法学セミナー19768月号「内藤頼博氏に聞く」(野村二郎)

[3] 長谷川正次著『高遠藩』(現代書館)

[4] 法学セミナー19768月号「内藤頼博氏に聞く」(野村二郎)

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コメント

非常に懐かしいお名前を小林先生のブログで拝見いたしました。
野村二郎さん。

とっても懐かしいお名前です。
きちんとした司法記者であった方でした。

それにしても小林先生。
内藤頼博判事という名前を初めて知りました。

今度、図書館に行って、そのころの法セミを読んでみたいと思います。
いつもいつも、貴重な情報を開示してくださって、ありがとうございます。

投稿: 高嶋孝三 | 2012年7月12日 (木) 22時53分

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